16皿目 トマス公
今日も今日とてがんもどきを置いている。
お皿はあれ以来ずっと月の絵柄の欠け皿である。
ふふんと笑って春子は手を合わせた。
今日も礼などしない。春子は人に頭を下げるのが嫌いなのである。
パン
パン
「どなた様ですか?」
「……おでん屋だよ!」
久々にちいっと高らかに舌を打った。
くるんくるんである。
茶色に近い金色の髪がカタツムリの殻のようにくるんくるんと渦を巻いて、黙ってぱくぱくおでんを食う男の目を隠していた。
若く見えるが30代だろう。雰囲気は柔和だが、よく見ればいい体をしている。
「実に美味です。お任せでおかわりをお願いします」
「はいよ」
たまご、がんもどき、昆布。
ぱかりとたまごを割って口に運んだ。
「しまった。……これは最後だったか」
呟く。
口に運びつうと汁を飲み、どうやら目を瞑ったらしい。見えないが。
指を髪の毛の中に入れ、そっとおそらく眉間を揉んだ。
「……やはり酒もお願いします。冷たいのを」
「はいよ」
とっとっとっとっとと一升瓶を傾ける春子を、何が面白いのか男はじっと見ている。
「なんと精緻な」
「そうかい」
ただの酒屋からのもらい物の年季の入ったコップを、男はまじまじと眺めている。
コップを回してにおいをかいでから傾けた。いちいち妙な動きをする男だ。
「芯まで澄み、実に芳醇でまろやかです」
「そうかい」
春子は汁を混ぜた。
じっと男がその様子を見ている。
静かに男は昆布を食む。がんもどきを割って口に運び汁を飲み、酒を飲む。
広いが装飾の少ない部屋の中である。空気が、春のそれだ。花の匂いがする。
しばらく来ないうちに季節も変わっちまったかと春子は思う。まあ、どうでもいい話である。
はあ、と男は深いため息を吐いた。
「……参りました。あなたがいらっしゃったか」
「こちとら来たくて来てねえよ」
ふんと春子は鼻息を吐いた。
ふっと男が笑う。
そして口元を引き締める。
「……常に穏やかで優しいと言われる人間は、本当は誰よりも冷たいとはお思いになられませんか」
「どうだろうねえ」
「きっと彼は人に何も期待していない。だから何をされても怒りも感じないし、優しくできる。人などどうなろうが、何をしようがどうだっていいからです」
「へえ」
割った残りのがんもどきを口に運び、喉仏を動かしてきれいに汁を飲み切った。
「おかわりをお願いします。お任せで。汁を多めにお願いします」
「はいよ」
牛筋、はんぺん、焼き豆腐。
「彼はいつもどこにいても冷たい傍観者です。本の整理をするように、心無く人を見、必要に応じて並べ替えている。だからいつだって冷静だ。そんな愛のない、情熱のない者が為政の長であっていいはずがない」
そっと焼き豆腐を割る。
本当にいちいちお上品である。
「だからあの情熱の塊のようなフィリッチが就くべきだと推して逃げるつもりでした。彼ならば前王のような派手で勇ましい、勢いのある政治を行うことでしょう。それを望む人々も多いはずだ。ただただ面倒で、重たい、被った瞬間に私という人間を殺される冠など戴くものかと。器ではないと逃げるつもりでした。私は私の領地でやりたいことがある。それは大変穏やかでやりがいがあり、面白いことだ」
豆腐を口に運び、汁を飲み、酒を飲む。
「何をやっても文句しか言われない、きらきらしい悲しい国民の奴隷。太い黄金の鎖で首をつながれた、いつ首が落ちてもおかしくない時代の生贄。進んでなりたいと思う方がどうかしている。はたから見て文句だけ言っている立場の、どんなに気楽で幸せなことか」
淡々と言って牛筋の串を持って口に運ぶ。
噛み、酒を飲み、ふうと息を吐く。
「だがあなたは私のもとにいらした。とても残念ですよ」
「そうかい」
「……」
はんぺんを食べ汁を飲む。
くいと男はコップを傾け空にした。
「仕方がない。私もまた大いなる流れの中ということか」
ふっと男は笑った。
「私も本当はわかっています。この状況で劣化した前王のようなあの男に手綱を握らせて、この国が明るい方に進むはずがないと。前王のときですら派手で勇ましいその輝かしさの裏でどれだけのものが傷つき、引きちぎられ涙したことか。どれほどの尊いものが失われてきたことか」
空いた食器を男はきれいに並べた。
「ご馳走様でした。冷たい男にうまく国を動かせるとお思いですか」
「いちいち大騒ぎする馬鹿よりは静かでいいよ」
「なるほど」
何かを考え、やがて楽しそうに男は笑った。
「ならば歴史書に名も残らないような、凪の王を目指しましょう。『何もない』ほど尊いことはない」
「そうかい」
男が立ち上がる。
これからいろいろと、やらねばならぬことがあるからだ。
男の後ろで、屋台はふっと消えた。
後日、王宮
美しい絨毯を正装の男が歩む。
「トマス=フォン=ザントライユ様の御成りです」
「入れ」
トマスは玉座に向けて礼をする。
「近う」
「はい」
トマスは顔を上げ微笑んだ。
本日はずいぶんと陛下の顔色がよろしい。
『女王の金秤』女王補佐官ジョーゼフ=アダムス氏も、陛下の横でどこか嬉しそうなお顔をしておられる。
子供のころから親しんだお方だ。最上級の礼節を尽くすべきとわかっているのに、トマスはつい気安くなってしまう。
「何か良いことがおありで」
「年甲斐もない。懐かしき夢を見た。美しく、幼く、あたたかい夢を」
「あたたかい夢ですか。あたたかいものならばわたくしも先日、いただきましたよ」
互いにふっと笑う。
ジョーゼフ=アダムス氏も頷く。
「受ける気になったか、トマス」
女王は穏やかな顔でいきなり核心を突いた。
もう顔色で、トマスの心などお見通しなのだろう。
「猶予を10年頂戴したい」
「長い」
「では5年」
女王は沈黙した。
「5年、か」
ふ、と彼女は遠くを見た。
トマスは畳みかける。
「ホルツ領領主を義弟に。わたくしは5年後のその日までの間、陛下の補佐官を務めさせていただきたくお願いに参りました」
「なんと」
声を上げたのはジョーゼフ氏だった。
金秤も揺れるのだなとトマスは笑った。
「今のわたくしは国政を行うにはあまりにも未熟。女王陛下のお傍につき、お支えし、5年の間にいずれ自身の補佐となる人材を見出したく存じます」
「許す」
「えっ」
きっぱりと女王が言い、また金秤が揺れた。
「ご体調が……」
「先日のあれはわずかな気の病だ。体は問題ないと医師も言っておっただろう」
「……フィリッチ公派が、5年もじっとしておりましょうか」
遠慮がちに、心配そうにジョーゼフが言う。
ふっと女王が笑った。
「髪を上げよ、トマス」
「……」
くるくるの髪を、トマスはかき上げ紐で結んだ。
意思の強そうな眉、大きな深い二重の氷のような瞳、高い鼻と神経質そうな唇。
「……」
ジョーゼフが声を失っている。
「王家に流れる血の恐ろしさよ。在りし日の父に瓜二つであろう」
「……なんと……」
トマスの祖母は前王の姉である。
祖母自身はその全ての特徴を持たなかったはずなのに、なぜか孫のトマスに色濃くその血は表れた。
「この男がこの顔で王宮で働いてみよ。一年も経てば皆が寝返ろう」
「老人は皆懐古主義のロマンティストですからね」
ふっと笑ったトマスの顔に、ジョーゼフは複雑な表情をした。
「……申し訳ございません。……複雑な心持でございます」
正直に言い頭を下げたジョーゼフに、トマスは首を振って応えた。
この忠臣は先代の王の行いが女王の治世にどのような影響を与えているか、骨身に染みて知っているのだ。
「良いのです。そう思ってくれる貴方が陛下の御傍にいらっしゃることが何より嬉しい。ですがわたくしに先代のような獅子王の働きを期待するのはやめていただきたい。わたくしは歴史に残らぬ凪の王を目指すのだから」
「そなたらしい。ひとつ尋ねる」
「は」
「何がそなたに心を決めさせた。……そなたはホルツを、離れたくはなかったはずだ」
「……もとよりそうすべきことは理解しておりました。強いて言うならば、自身のほんの手違いが、でございましょうか」
ふっとトマスは笑う。
うっかり先に割り、たちまちスープを濁らせたあのたまごの黄身。
それはそれでうまかった。が、トマスはあのぬるりとしたもの、ふわりとしたものの味を澄んだスープで純粋に味わいたかった。うまいだけに悔しかった。
「物事には為すべき順序がある。これまで陛下が積み重ねて来た、まさにこれから為されんとするものの数々を、あの能天気な男に簡単に別物にされるのが、急にひどくもったいなく思われました」
「……そうか」
女王と補佐官に、共犯者のような微笑みが浮かんだ。
そのお顔を見ながら、トマスは思っていた。
自分が人というものに失望したのは、自らに流れる血と自分の顔を嫌いになったのは、きっとこのお方をとても好きだったからだと。
このお方が必死に行うことを、表では微笑み褒めたたえながら裏で罵倒する大人たちを見て育ったからだと。
そんな報われない、悲しいものになりたくないと心底思っていた。だが
5年後。王冠を脱ぐこのお方には、笑っていていただきたい。
やるべきことをやりきったという安堵の顔で、それを渡していただきたい。
わたくしはやりきった。あとを頼む、と。
優秀な人材を集めよう。トマスは人を並べることだけは得意である。
女王が立ち上がる。
トマスは跪き礼をした。
「トマス=フォン=ザントライユ。本日をもってホルツ領領主の任を解き、わたくしの補佐官に任ずる」
「は」
「励め」
きらり
微笑む女王の王冠が輝いた。




