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おでん屋春子婆さんの偏屈異世界珍道中【書籍化/コミカライズ企画進行中】  作者: 紺染 幸
一章 女王エリーザベト治世下

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 【6】薬学研究者エミールの優雅な休日

 休日。


 薬学研究者エミール=シュミットは窓から差し込む日光を浴びて気分よく伸びをした。

 昨日はすっかり本を読みすぎてしまった。が、寝過ごしてはいない。今日は読みたい別の本があるのだ。なんなら昼頃昨日読んだ本に書いてあった薬草を探しに買い物に行ってみようと浮き浮きと考えていたところで


 こんこん、とノックの音がした。


「はい?」


 かちゃりとドアを開ければ


「……いい朝だなエミール=シュミット」


 元同級生の元同僚、リーンハルト=ベットリヒの幻影が見えた気がしたので扉を閉めた。


「違います」

「何がだ!」


 エミールは鼻をつまんで低い声を出す。


「シュミットさんなら3軒隣ですよ」

「嘘をつけ前に来たし今目が合っただろう! 3軒隣は扉の前で禿頭の筋肉男が上半身裸で妙な踊りを踊っていたぞ!」


 朝っぱらからうるさい。やかましい。存在がもううざったい。今日のエミールは優雅に本と買い物と決めている。


 しん、となったのでああよかったと朝食の準備をしようとしたところに


「……駒鳥亭の燻製肉があるぞ」


 扉を通す囁き声。


「!」


 エミールは勢いよく扉を振り向いた。並ばないと買えない、並んだとしてもお財布の中身を思うと買えない、超高級こだわり燻製肉である。

 もちろんエミールは快く扉を開けた。


「おはようリーンハルト。いい朝だ。寒いね早く入りたまえ、燻製肉が風邪を引いてしまう。今朝はなんという奇跡のような朝だろう、君の右手には高級燻製肉、左手にはふかふかで有名なパン、そしてここには料理の出来る僕。朝食一緒に食べるかい?」


 にこやかにエミールは元同級生を迎え入れた。







 とんでもなく旨かった。

 せっかくなのでこれでもかと分厚く切ったそれを炙れば脂と肉汁が溢れ出し自ら表面をこんがりと焼き、たまらない匂いと音でエミールを誘う。

 熱いうちに軽く焼いたパンにさくっとした葉物野菜、からしとともに乗せ挟んで味見味見と行儀悪くかぶりつけば


「ああ……」


 滴る、弾ける、香り立つ。


 肉ぅ!脂! である。


 非常に柔らかいがこの味なら顎が砕けたとしてももっと食べたい。


 暴力的に肉!脂! だ。これは肉すぎる。


「……俺の……」

「ああ失礼。今焼くよ。朝だし、あっさりと肉は薄いほうがいいよね」

「なんでだ。同じにしてくれ」

「チッ!」

「なんでだ!」


 なんでこの男は共同厨房までついてきたのだろうとエミールは思った。

 部屋で大人しく待っていてくれれば、エミールの肉の厚みはばれなかったのに。


「余った分は荷物になるから僕がもらっておこう。荷物になるから」

「……まあ、いいさ。家に持ち帰っても仕方ない」

「よし、ならサービスだ。チーズも入れてあげよう」

「単価が違う」


 ジュウジュウジュワジュワ


 こうして作った極上サンドイッチを、冷めないうちにと慌てて部屋まで持ち帰ってかぶりついている。


 旨すぎてついざくざくわしわしと口に入れすぎる。


「どうして僕は昨日のうちにピクルスを仕込んでおかなかったんだ?」

「確かに……欲しい。一度さっぱりしてからもう一口いったら、無限に食べられそうな気がする」

「そうだろう。僕は悔しい」


 ざくざくわしわしぺろりと食べ終えた。

 口の中に肉の余韻が幸せに残っている。


「ふー、幸せだった。よし、じゃあ帰っていいよリーンハルト。よい休日を」

「あんまりだ!」


 リーンハルトが叫んだ。そういやこの男は何しに来たんだ、とエミールは思った。


 先日ポッポケーロさんはマスターしたはずだ。そういえばあのときの肉もうまかったなあとエミールは思い出した。

 あのときはマッシュポテトが足りなかったのが反省点だった。食べ始めてから気づくなんてあまりにもうかつだった。


「僕に高級燻製肉を与えにきたのではないなら何なんだ? お皿を洗ってもう少しおなかがこなれたら読書時間に入るからその前までに言ってくれ」

「まったく時間がないな」

「約束もないのに休日の早朝に来るほうがどうかしている。これで今日僕が君の片思いの女性と一緒に寝てたらどうするつもりだったんだ」

「ジュディと!?」

「不要な情報をありがとう。君は彼女に嫌われてるから頑張ってくれまあ自業自得だ。さあこなれてきたぞこなれてきたぞそろそろお皿を洗いに行くぞ」

「じゃあ、はい」

「自分の皿は自分で洗うものだ。ごちそうさまでした」

「……ごちそうさまでした」



 そうしてお皿を洗いに行った。








 エミールは本を読んでいる。

 リーンハルトは体を縮めて薬草を刻んでいる。


 彼は恥知らずにもエミールの薬草用の小刀を借りるつもりで薬草以外手ぶらで来たらしく、一度器具一式を家に取りに帰させた。エミールは意地でも自分の道具を人に使わせる気はない。先輩方ならまあ我慢もするが、この男にだけは死んでも貸すつもりはない。どれもちゃんと、自分に合った絶妙な角度に毎日きれいに研いであるのだ。


 ぴよぴよぴよぴよ、と鳥の鳴き声の笛の音がした。

 あれはお祭りで買った。もう彼が口をつけてばっちいからプレゼントしようと思う。

 リーンハルトの声だと無意識に無視してしまう気がしたので渡しておいた。こちらを睨みつけている彼の顔からするに案の定無意識に無視したようなので正解だった。

 一つしかない椅子と机を優しいことに譲ってやっているので、エミールはベッドにうつぶせに寝転んでいる。

 今すごくいいところだったが、仕方なく本にしおりをはさみベッドを降りて歩み寄る。


「完璧かい」

「……」

「おお、これはひどい。君はタミエルの葉に親でも殺されたのか」

「……両親は健在だ」


 バラバラに刻まれた茶色のタミエルの葉をエミールはむしろ感心して見つめた。いったい何をどうしたらここまでできるのか一向にわからない。


 小刀に何か秘密が? とじっと見つめるが、綺麗に研いである。綺麗すぎて、研ぎをプロに任せていること、全然練習していないことまで一瞬でわかる。


 これは無理かもしれないなとエミールは思った。


『刻みの工程を入れて作る薬が、どうしても上手く行かない』


 それが本日エミールの優雅な休日をぶち壊しにした迷惑男の勝手な訪問理由だった。


 そんなものは立派な父上に言え、と言いかけてああ見限られてたんだっけと思い出し

 じゃあ友人か仲いい同僚に聞けと言いかけてああ友人も仲いい同僚もいないんだっけと思い出した。

 授業料の燻製肉はもう食べてしまったし残りは美味しすぎて返す気にもなれなかったので仕方なく相談に乗っている。


 乳鉢で素材を粉にする作業とは別の刻みの作業は水薬を作るときによく使う。刻んだどれからも同じ重さで同じ量の成分が出るよう、それは常に均一でなければならない。


 リーンハルトの手元をよく見ようなど思ったことがなかったから気づかなかったが、彼の刻みはひどすぎた。見事にバラバラ、これは『不器用』『練習不足』で済む話なのだろうか。


 練習嫌いなのはピカピカ小刀でわかったが、小さいころから英才教育を受けていてこれかと、見れば見るほど救いようのなさにエミールは何も言えなくなった。


「……そんなにか?」


 深刻な顔で押し黙ったエミールに、不安そうにリーンハルトが言う。


「……少なくとも僕は、君の作った薬を飲みたいとは思わない。大切な人に飲ませたいとも、思わない」

「……」


 嫌味でも軽口でもないことを察したのだろう。リーンハルトの顔が白くなった。

 部屋の空気が重くなる。


 とりあえず作業は終わったことだし、薬草から出た細かい粉を吸い込まないよう換気をしようと開けた窓から、ピュウと風が吹き込んだ。


「あ」


 何枚か寝る前に思いついたアイディアを書いた紙を窓辺に置いていた。

 風に巻き上げられた一枚がリーンハルトの顔めがけて飛んだ。

 ぱし、と彼はそれを左手で受け止めた。


「……」

「……」


 リーンハルトは、しまったという顔をしている。

 なあんだ、とエミールは思った。


「君は左利きか」


 10人に1人くらいの確率で、左利きは生まれる。

 そして一定以上の位のある家庭ではほぼ確実に、小さな頃に矯正される。

 年齢や階級が上がるほどそれは『みっともない』『しつけがなってない』こととされ、忌み嫌われるのだ。

 あいにくエミールは庶民の生まれなので、利き手が違って何が悪いのだ、と思っている。

 そう生まれるものがいるのだ。だからそれにはきっと意味があるはずだ。生まれ持ったものを無理に曲げようとするほうがおかしい。まあいろいろ、階級や制度のなかで生きるためには、必要なのだろうが。


「もう治った。……筆記も、食事も、右でなんでも問題ない。下手になるのはこれだけなんだ」

「『これ』が問題だから困ってるんだろう。だから君はやたらと人目を気にするのか」

「……それもあるし、昔は吃音もあった。よく笑われて、馬鹿にされた」

「アスクレーピオスも吃音で、左利きだったという説があるよ、リーンハルト」

「……そうなのか」

「うん、だから彼は最期まで人に心許せず、誰にも製薬の場を見せなかったんじゃないかって。食事もいつも一人で取ったそうだ。彼の小刀を見たことがある人の『なんだか不思議な形だった』という証言が残ってる。右と左では刃の向きが逆だからね」

「……」


 はあ、とエミールはため息を吐いた。


「今日は優雅な休日の予定だったのに、仕方がない。薬器具店に付き合ってやろう。ちょうど買いたいものもあるし。この前見たけど左利き用の小刀は置いてあった」

「俺に人前で、素材を左手で刻めと言うのか」

「他に何が出来る。こんな幼児のいたずらのような刻みを見せる方が恥ずかしい、素材に失礼だとは思わないのか」

「……」

「父上が怒るか? 人に笑われるか? 周りをよく見てみろ。皆自分のやるべきことに一生懸命で君の手元など見ていない。自分で買った愛着ある器具の手入れを自分で真剣に始めてみれば、君はウロノスの器具の手入れの丁寧さ、細やかさに気付くはずだ。もっと作業に真摯になればジュディの事前準備の念入りさ、作業の進め方の神経質なほどの慎重さにも。諸先輩方のさまざまな美点にも。君は今まで自分のことばかり考えて見ていたから気づかなかったし学べなかったんだ。だから簡単に人を怒鳴ったり馬鹿にすることが出来たんだ。いい加減そろそろ構ってくれなくなった父上の羽根の下を出て、一人前の大人になったらどうだ」

「……こないだもそうだが、どうして俺に構う」

「構いたくて構ってないよ! 構ってほしくて君が来ただけだろう。僕は読書の予定だったのに! まあ、あえて言うならば」


 エミールは笑った。

 『天神の涙』の研究はここのところ加速している。

 『できました』が来る日は遠くないと固く信じている。


「『天神の涙』が完成し、もし万が一不幸にも必要になってしまったとき、ヨイノハギ、タンラコ、ナズリを刻める専門家の手は一本でも多いほうがいいからだ。それに君は実技は今のところからきしだけど、知識の量はダントツに多い。流石筋金入りの英才教育だ。何かを持った誰かがそこにいることで、偶然に何かがうまく行くことがある。その可能性を少しでも多く残したいだけだ」

「……」

「きっと『その日』は突然に来る。夜中かなんかに叩き起こされて、腕が上がらなくなるまで所長まで含めた職員総出で素材を刻み続けることになるだろう。頼むから調合表レシピを見ただけでその通りに再現できるよう、しっかり基礎を練習して腕を上げてほしい。僕が君に期待するのはそれだけだ。外套を着てくれ。買い物に行こう」

「……」


 何も言わずに立ち上がり、リーンハルトは高そうな外套を羽織った。

 外に出る。ペラペラの外套しかないエミールはとても寒い。


「エミール=シュミット」

「なんだいリーンハルト=ベットリヒ。君はふつうに人の名前が呼べないのか」


 歩き、手袋をしながら答える。手袋だけは厚い皮のいいものを買っている。手は大事だからだ。


「どうして薬の道に進んだ」


 珍しい。

 人と見ればえらそうに怒鳴るか命令するだけだった男が、質問と来たか。

 はぐらかしてもよかったが、エミールは正直に答えた。


「僕は子供のころひどい喘息持ちだった。何度も呼吸が止まりかけたよ。夜中、咳が出るたびに死を感じた。夜が恐かった。寝たらもう二度と目覚めることが出来ないかもしれないと思って寝る前はベッドの中でいつも震えた。6歳くらいのときに隣に魔女が越してきて僕に薬を作ってくれた。発作が起きたらそれを吸えば、たちどころに咳は収まった。当時の僕には魔女に見えたけど、彼女は年を取った薬師だった。成長が遅くて同い年の友人のいない僕の遊び場は彼女の家だけだった」


 可哀そうに、と周囲には思われたかもしれない。

 少しも可哀そうじゃなかった。あれは幸せな、夢のような記憶だ。

 エミールは白い息を吐く。


「僕の遊びは薬草を上手に刻むこと、粉にすること。目の前で色が変わる水を、混ぜ合わせられる粉を見て育ったんだ。その道に憧れるなというほうが無理だろう。魔女は僕が10歳くらいのときにまた引っ越してしまってそれきりになったけど、そのころにはもう咳も出ないし体も丈夫になっていた」


 夢は終わった。

 それでもエミールに残ったものがあった。


「僕の命は母が産み、薬が、人の知恵がこの世に残してくれたものだ。僕は薬というものを愛しているし、少しでも必要とする多くの人に届いてほしいと願ってる。製薬のための精密な器機を作る人、大切な素材を集めてくれる人、薬を必要な人に運んでくれる人、真剣に研究に取り組む人を、心から尊敬している。だから正直君のような、器具や素材や人を大事にしない、全てが自分のためにそこにあって当たり前だと信じきって雑に扱う甘ったれは好きじゃない」

「……」

「きっとそうなったのは君のせいばかりでもないんだろう。それでも好きではないのは変わりないけどね。だが皆、生まれも、人生の初期に与えられるものも選べない。持っている体、手の中にあるものでうまくやるしかないんだ、君も。利き手がどうした。好きな女性に嫌われてるからなんだ。アスクレーピオスになるなよリーンハルト。君の荷物はひょっとしたら人より重いのかもしれないが、人より恵まれている点が大いにあるのだから。君はいつでも貧乏な僕にいい燻製肉を買ってくれていいんだ」

「……ピクルスも」

「ピクルスも」


 エミールは深く頷く。


「だけど早く一人くらい友人を作ってくれ。元同僚に、困るたびに頼られちゃ迷惑だ」

「えっ?」


 まじまじと見つめられてエミールは怪訝な顔をした。


「何か?」

「……一人はいるだろう?」

「へえ、いたんだ。おめでとう。できれば次からはそっちに行ってくれ」

「……」


 朝のにぎわいに満ちる街を行く。


 今欲しいもののうちどれを買おうか頭の中で楽しく悩んでいるエミールに、店につくまでリーンハルトは何もしゃべらなかった。



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― 新着の感想 ―
[一言] リーンハルトそっちの片思いは成就するの難しそうだぞ~!! 可愛い女の子に振り向いて貰うより難度高そうだぞ~ガンバレ~(  ̄- ̄)/~ と、いうかこれリーンハルトががつんと惚れた瞬間では…? …
[一言] 小説だから「リーンハルト頑張れ!」って気持ちになるけど、現実でもともとアレな奴が更生しようとしてても「まぁがんばれよ…それでもお前が過去にしでかしたことはなくならないけどな」って気持ちになる…
[一言] なんて不憫なんでしょう…(笑)
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