【4】セントノリスの新入生たち1
「準備はいいかいハリー。ネクタイはできた?」
「うーん多分大丈夫だ。一応見てくれ」
「うん大丈夫。流石だね。じゃあ行こうか」
以前よりも片付いたアントン=セレンソンの部屋
大きな荷物を持ち上げ、鏡の前のハリーを見てアントンが言う。
「……本当に制服で行くのか? 苦しくないか」
問われ、アントンは微笑む。
「もちろん、皆に挨拶が終わったら馬車の中で着替えるよ。セントノリスまで何日かかると思っているんだハリー。着くまでに大事な制服が土まみれになってしまうじゃないか」
ハリーがぽかんとしている。
「じゃあなんのために……」
「もちろんセントノリスに旅立つ男二人のかっこいい制服姿を町の人たちの目に焼き付けるためだよ。どんなに高い壁でも、人は身近な誰かが一度飛び超えたのならそれは『超えられるもの』と認識を改めるんだ。この町から今年は君と僕が超えた。一年に二人も。旅立つ姿を『かっこいい』『自分も』『うちの子も』と思わせてやろうじゃないか。この町から僕たちの後輩を生むんだ。特に君の制服姿が」
「……なんで俺?」
「君は見目がとてもいいからさ。精一杯すましたかっこいい顔で馬車から手を振ってくれ! とてもよく似合ってるよハリー」
ポンと肩を叩いて褒めたたえればまんざらでもなさそうな顔になるのがこの男のいいところである。
もちろんアントンは本気で言っている。
深緑の上質な布の制服は、整った顔立ちのハリーを、その野性味まで魅力に変え高貴な王子様のように見せている。
セントノリス中級学校に2人は受かった。
ハリーが首席、アントンなんと三位の成績だった。
『問題用紙を裏返した試験開始の瞬間に吹き出しそうになった』とはハリー談である。
はっきり言って試験内容の大方はアントンの予想通りの問題だった。
大きな一点を除き
まるまる落とした箇所を思い出してアントンはぎりりと歯噛みした。
「まさか中級学校の入試に『カルヴァスバルカンの法則』を出すなんて……」
「まだ言ってんのかよ。もういいだろ、終わったんだし」
「あそこまで行ったら読み切りたかったよ。出題者は大人げないな。君はなんで解けたんだっけ」
「前読んだ本の中にあったから。面白いな、と思って、わかるまで一週間はかかった」
「これだから天才は。うん、でもそうだ確かに終わったことだ。首席から三位までは同室だから、ひとまず次回の試験までは一緒だね。よろしく」
「あと一人同室ってことか?」
「うん、二位の男が一緒だ。役に立つ有能な人間だといいなあ」
「……視点がおかしい」
よいしょよいしょと馬車に荷物を積んでいく。
大きな馬車は、アントンの父が借りてくれたものだ。
ハリーが家に出入りすることについて父は何も言わなかった。
そのハリーが首席、自分が三位で受かったことを報告すれば
『よくがんばったなアントン』
それだけ言って肩を叩いて褒めてくれた。
父とは違う道を行こうとしている、点数で友に負けた息子にそれ以外何も言わず
ただ労い、ただ背を押してくれた。
母は微笑み、アントンを抱き締め感極まったように泣いた。
勉強が出来なくなったらもう消えるしかないだなんて、どうして思えたのだろう。アントンは愛されていた。
過去の自分の愚かさに今更ながら気付き、アントンもまた泣いた。
それぞれの家族、町長、学校へのあいさつもしっかりと済んでおり、あとは町を出るだけだ。
町の皆が二人を門のところで見送ってくれるというので、感謝を伝えるため双方の家族もそちらに行っている。
その門を抜けて、二人は今日セントノリスに向けて旅立つ。
「馬車、本当に俺も乗ってっていいのか?」
「うん。これに関して偉いのは僕ではなく父だから、もし感謝したいなら父に感謝してくれ。セントノリスは遠いよハリー。噂では到着までにお尻が4つに割れるそうだ」
「……嘘だろう?」
ハリーが手を後ろに回した。
「うん嘘だよ。皆が門のところで見送りをしてくれるらしいから、少し恥ずかしいけれど、挨拶して行こう」
「おう」
奥がいい手前がいいともめることもなく着席した。
ごとんごとんごとん
田舎町を立派な馬車が走る。
「……」
石で舗装もされていない土の道は、ごとんごとんとおなかに響く。
いつも通った道
いつも眺めた川
急な雨に雨宿りをした岩陰
泣き顔を隠すためにうつぶせで寝転んだ大木の影
どこまでも青い空、古ぼけた家々
馬車の外をいつもの見慣れたものが走り抜けていく。
町の門が近づく。
「……」
目を見開いてアントンは外を見た。
町中の人が集まっているのではないかと思った。
その手に手に紙を持っている。
『がんばれアントン=セレンソン』『がんばれハリー=ジョイス』
『がんばれトイス町の神童たち』
「「「がんばれー!」」」
皆が口々に
声を揃えて
笑って
手を振って
父がいる、母がいる。同級生が、ご近所さんが、校長が、町長が、みんなが
「「「がんばれー!」」」」
『セントノリスに旅立つ男二人のかっこいい姿を町の人たちの目に焼き付けるためさ』
アントンはそう言った。偉そうに。
どこか、一人で成し遂げたように思っていた。
本当に馬鹿だったなあ、と思う。
ずっと愛されていた。
いつも包まれ励まされていた。この町に。
自分は本当に視野の狭い、大人ぶっただけの子供だった。
「ぐ……ぅ……」
「がんばれアントンもうちょっと。行ってきまーす! ありがとう!」
窓から身を乗り出し、二人は手を振る。
アントンは振っている手とは逆の手で自分の足をつねっている。
「ううう……」
「もうちょいだもうちょい、あとちょっと」
がらがらがら
やがて馬車は遠ざかり、人々の顔は消えた。
「っ……ううぅ……」
歯を食いしばって嗚咽するアントンを、直視しないようにハリーが外の風景を見ている。
「ぐ……」
「……もう普通に泣いちゃえよ」
「……僕だって男だ……ううっ……ぐ……うぅ」
「男なぁ」
ハリーが微笑む。
アントンは変な顔で泣いている。
窓から入る風が気持ちいいとハリーは目を細める。
「いいじゃないかアントン。泣けるほど大事な故郷。羨ましい」
「……君も泣いたっていいんだよ」
「俺はまだここの歴史は浅いからな。羨ましい」
「……クールな君が悔しくてなんだか涙が引っ込んだ。もう着替えようか」
「窓が開いてる」
「目隠しできるさ。先は長いよ。せいぜいだらけてくつろごう」
「4つに割れないようにな」
「そうとも。そんなの不便で仕方がない」
涙をハンカチでぬぐいながら笑い、窓を閉める。
アントンは顔を上げる。
今日は始まり。
夢への道はまだまだ、遠くて長いのだ。
「忘れ物はないか?」
「はい、先生」
にこにことラントが笑っている。
先日セントノリスから合格通知が来た。
『二位だと!?』
このラントがとヤコブは目を見開いた。
ラントよりも賢い子供がいるということだ。ヤコブは驚愕した。
まさかの出題カルヴァスバルカンの問題も解いたのだろう。でなければラントを抑えて一位などありえない。
それにちょっと今回ヤコブは出題の予想を外した。10年分の過去問はさらったものの、まさか19年前の出題を前提にさらに捻ったものが出てくるとは予想外だった。
どこにそこまでさかのぼって対策を立ててくる人間がいるだろう。もしいたとしたら恐ろしいほどの執念深さである。なかなかに性格が悪い出題者も、読まれないことを前提に出しただろう。
まあいい。終わったことだ。二位。素晴らしい成績ではないか。
驚くほど少ない荷物を背負ったラントにヤコブは向き直る。
「……学校は勉強をするところだ。だが、人がたくさんいる、社会の縮図でもある。どんな奴が好きでどんな奴が嫌いか、外にではなく自分に問うのだぞ。嫌いな奴を陥れるために、自分の品位を落とすことだけはするでないぞ。友達はたくさんじゃなくていい。尊敬し合い、尊重し合い、優しい思いやりを示し合える相手を探すのだぞラント。相手が泣いているときに、涙が止まるまで誰も寄せつけないようにあたりを見張っておいてやろうと思える相手を。自分が泣いているときに黙ってそうしようと自分に思ってくれる相手を」
「うん先生、そういうのなんていうか知ってるよ。パルパロ分の友だ」
「わかってるならいい。面白い本があっても、飯を抜いたりするなよ。三食ちゃんと、野菜も食べるのだぞ」
「うん」
「なにかあったら手紙を書くのだぞ。中央には行き慣れている。いつでもかけつけよう」
「大丈夫だよ先生」
にっこりとラントは笑う。
「僕は土族の子だ。土族はどこにいたって強く生きられる。誰にもその誇りを傷つけることなんかできないんだ」
太陽のような笑顔を見てヤコブはじーんと胸が熱くなった。
戸籍上の父になったヤコブを、ラントははじめ父と呼ぼうか迷っているようだった。
ヤコブはそんなラントに、自分のことはこれまで通り『先生』と呼ぶよう強く伝えた。
ラントの父は生涯トゥルバ=テッラただ一人だ。聞けばトゥルバは思った以上にまだ若く、決まった奥さんもいないのだという。
水べりに捨てられていた赤子のラントをひょいと拾って帰り、名を付け、実の子として立派な土族の子に育て、そして子が望むならば黙って見送ると決めた。
あんなに立派な父親はいない。ラントの父親は生涯彼だけでいい。
その代わり自分は師だ。誰が何と言おうとこの賢い子の師だ。
これからラントはたくさんのものに出会うだろう。素晴らしい同い年の友人たち、ヤコブよりも若く立派で頼りがいのある師。
だが自分はラントの最初の学問の師だ。誰が何と言おうと、それだけは譲れない。
誰が忘れようと、ヤコブだけは生涯それを忘れない。
ヤコブは宝を見出した。そして宝はさらに輝いて、今日ヤコブから旅立つ。
これが最後かもしれない、とヤコブは教え子の姿を目に焼き付けようとじっと見つめる。
子供と爺さんに流れる時間は違う。
ラントにはこれから目まぐるしいほどの速さの時間が嵐のように訪れ、ヤコブの残りの時間はますます何もなくのっぺりと過ぎ去り、それらが擦れ違うことのできる時間はきっと少ない。
それでいい。置いていくもののことまで考えなくていい。
襲い掛かる嵐だけをまっすぐに見据え炎の玉のように進む。それこそが若者の仕事なのだから。
後ろなんて振り向かなくていい。失う日まで忘れていていいのだ。
「……体に気を付けて。トゥルバ=テッラのところに泊まってから行くのだな」
「うん、一日泊まって、それからセントノリスに行く」
「トゥルバ=テッラにもよろしく頼む。ああ、土産に酒を一本持って行っておくれ」
「わかった」
「書類は大丈夫だな」
「皮と油紙に包んであるよ」
「よし。……気を付けてな」
年寄りはそんなことしか言えない。
目がじんわり潤むのをヤコブは自覚している。
ラントが馬に飛び乗る。
ラントの大切な愛馬だ。セントノリスにも厩舎はあったはずだが、何しろ都会のことだ。果たして入れてもらえるかなとヤコブは少し不安である。
「先生」
「うん?」
「僕には立派な父と立派な祖父がいる。太陽の下で力強く生き方を教えてくれた父と、月の下で優しく学び方を教えてくれた祖父だ」
にこにことラントは笑う。
「行ってきます。先生も体に気をつけて。監視人のお仕事、無茶はしないで。今度は長いお休みに、僕のパルパロ分の友を連れて帰ってくるよ。自慢の家族を紹介するんだ」
両の目からぶわっと涙、ついでに鼻水まで噴き出した。慌ててハンカチで抑える。
「行ってきます!」
ラントが駆け出す。光の中へ。
軽やかに消えていった若々しいその美しい姿を
ヤコブは濡れたハンカチを振っていつまでも見送っていた。




