12皿目 薬学研究者エミール3
「僕は全員分乳鉢を洗ってから帰ります。鍵下さい。締めて帰るので」
「悪いね」
「ありがとよ」
「すまんの」
箱に全員分の乳鉢を入れ、エミールは中央の洗い場に向かう。
途中
大きな部屋、新薬開発室の扉が開いている。
「うっ……」
泣き声
リーンハルトに泣かされたウロノスかな? とのぞき込めば
なんと驚き。泣いているのはリーンハルトだった。
小さいころから栄養に満ちた食事で育てられたのだろう富の象徴のような高身長をみじめったらしく丸め、机に手をついて歯を食いしばっても堪えられなかったらしい嗚咽と涙をこぼしている。
ここは初級学校ではない、職場である。彼は立派な成人の男である。
完全に見ちゃいけないし見たくもないものである。
よし見なかったことにしようと思ってそっと引き返そうとしたら、がちゃんと音が出た。
凍り付いたように固まったリーンハルトが、エミールを見ている。
エミールは観念した。
しかたなく歩み寄る。
彼の手元の置いてある素材を見る。
「……上級咳止め、か」
「うるさい」
「黄色くならなかったのか」
「うるさい! あっちにいけエミール=シュミット!」
リーンハルトがギロリとエミールを睨みつける。
プライドが高く、人に弱みを見せられない偉い人の子供。昔はもっと無邪気で素直だったのに、歳を重ねるごとに彼は乱暴でかたくなになっていった。
正直好きか嫌いかと言われれば、まあ好きには入らない。
が
アスクレーピオスにはなるな、という戒めがある。
「ハノリスを細かくするとき、ポッポ・ケーロさんの歌に合わせて擦りつぶせばいいんだよ。ポッポ・ケーロさーんポッポケーロさーんの速さで9回半。多くても、少なくても駄目だ」
「……」
「ついでに言うと君はせっかちで、人の目と失敗を気にしすぎ、機材の手入れがとても雑だ。それじゃあ成分が混じって失敗するに決まってる。それではよい週末を」
「待てエミール=シュミット」
呼び止められたので振り向いた。
「何」
うっとリーンハルトが言葉に詰まる。
「……ポッポ・ケーロさん、って、なんだ」
「驚いたな。君の家は童話も童謡も禁止かい?」
「……子供の勉強方針は父が決めた。子供向けのものは一切なかった」
「偉い人の子も大変だなあ」
初めてエミールはリーンハルトに同情した。
やかましい怒りんぼでいじめっこの、元同級生の元同僚。
金に近い茶色の長めの髪を昔ながらの薬師のように紐で後ろでまとめ、白衣の下は高そうだがどこかクラシックな形の服。
薬の研究に向いているとも思えない、短気でこらえ性のない性格。
いろいろなものを生まれながらにおっつけられたり乗せられたりしてひん曲がり、彼は本日こうなっているのだろう。
ほっとこうかな、とも思った。
だが
アスクレーピオスにはなるな、という戒めがある。
『お前に渡せば人に広めてくれる』と信じてくれた人たちがいる。
「……仕方がないから歌から教えてあげよう。今日はこのあと暇かい」
「言っておくが今の俺に取り入っても無駄だぞエミール=シュミット。父上はもう俺を見限った。……既に3歳下の弟の教育で頭がいっぱいだ」
「へえ、見限りが早い。ああ、だから寂しくて泣いていたのか」
「人を子供のように言うな! 己のふがいなさに思わずだ」
「へえ」
「ちゃんと聞け!」
いつものように怒鳴ったリーンハルトを、エミールは冷静にまっすぐ見据えた。
「怒鳴らないでくれ。声を荒らげられると普通人は不愉快になるんだ。どうする? 僕だっていい歳の男に童謡を教えてあげるほど暇じゃないのに、寂しくて泣いてる君が少しだけ可哀想な気がしないでもないから申し出ている。これは元同級生としての最後の慈悲だ。人の助言に耳を貸す気も、反省する気も、自分を変える気も無いならどうぞ何も変わらず今後も失敗を重ねてくれ」
エミールの言葉にリーンハルトはまた泣きそうな顔をした。
「ほかに言い方はないのか……」
「今までの自身の行いを胸に手を当てて考えてから言ってもらおう。君はもっと無礼でずっと乱暴だった。なお今回の僕の授業料は『週明け君がウロノスに真摯に謝罪すること』だ」
「……」
リーンハルトはじっと自分の失敗作を見た。
「……わかった。……どこでやるんだ」
「おや? 『お願いします』が聞こえない? 不思議なことがあるものだ」
「…………お願いします」
俯いて彼は言った。
見ている方が恥ずかしくなるべそをかいた子供のような顔に、父親に見限られてきっと取り巻きにも去られただろう直後の男に言い過ぎたかなと思ったものの
彼から『ウスノロウロノス』と呼ばれすぎて周りの人たちから『ウスノ……ごめんウロノス』と言い間違えられ泣きべそをかいているウロノスを思い出し、いやいや、と首を振る。
「わかった。君の家が無理なら僕の家だろう。流石に研究所や外で成人の男二人声を揃えてポッポ・ケーロさんを歌う勇気はない。行く途中、君の有り余るポケットマネーで、いい肉と固めのバゲット、上等の葡萄酒を買っていこう。夕飯に僕が最高の味付けで焼いてあげるとしよう。滋味深い美味しいものをいただいたら、今度は脂ぎった濃いものが食べたくなってしまった」
リーンハルトが眉を上げた。
「料理できるのか」
「うん。あれは製薬に似てるから」
「……なんだかなあ。なんで俺の金なんだ」
「嫌な奴におごらせてやったと思いながら食べると3倍くらい美味しいじゃないか」
エミールは無邪気な顔でにっこりと笑う。
うわっとリーンハルトが身を引く。
「なんて非道な奴なんだ」
「では後程。僕は乳鉢を洗ってくる」
「あ、じゃあついでに俺のも」
「自分で使ったものは自分で洗うものだよ」
「……他のも洗ってるじゃないか」
「これは僕の尊敬する先輩方のものだ。君のばっちいのとは扱いからして違う」
「ばっちくない。……わかったよ」
じゃ、あとでと別れた。
乳鉢を丁寧に洗いながら
エミールは鼻歌を歌う。
きっとあの新しい証言書の記述をもとにしたとしても、いきなり『できました』にはならないだろう。
たくさんの『ダメでした』を、また地道に積み重ねて
自分たちはアスクレーピオスにはならず、それでもアスクレーピオスの姿を追いかけるのだ。
エミールは歌う。
その歌はもちろん、ポッポケーロさんだった。




