1皿目 春子
大根が煮えるやわらかいにおいが部屋に満ちている。
ふきんでこしたかつおと昆布が香るだし汁を大きな鍋に入れ、洗った湯気の出る大根を放り込む。
砂糖の壺から手で確かめた量を入れ、酒、醤油、みりんの瓶からこれもまた計りもせずに感覚で鍋に注ぐ。
切れ目を入れられたこんにゃく、つるりと剥かれた卵がざるに乗ってまだかまだかと出番を待っている。
ことこと
くつくつ
小さな音とだしのにおいをいっぱいにはなって、鍋は沸く。
春子はおでん屋である。
大変昔ながらの、屋台のおでん屋である。
歳は忘れた。役所で何か手続きをするときに思い出す程度で、とにかくずっと婆さんであることだけは間違いない。
昔ながらの屋台を引いて、昔とはすっかり変わってしまった街で、ただ、ただ、おでんを売っている。
酒は酒だけ。一人2合まで、銘柄は一つ。冷ならそのまま、燗なら徳利に入れてとことこと温める。
おでんのほかは梅干の入った白ご飯にごま塩をまぶした握り飯と、甘い稲荷。
4人も座ればいっぱいの木の椅子で、すでに何軒も回って出来上がった会社員等が会社の愚痴をこぼすような、ただただ、おでん屋である。
今日も仕事に出ようと家を出て、近くの薄汚れた小さな稲荷で、屋台を引きずった春子は足を止めた。
誰にも手入れをされていない、小さな小さな稲荷だ。
祠は苔むし草はぼうぼう、お狐さんの色あせて白くなった前掛けと帽子が侘しい。
だったら掃除なりなんなりしてやればいいじゃないかと言われるかもしれないが、あいにく春子はそのような慈愛を持ち合わせていない。
金と自分の得になること以外は死んでもしない主義なのである。
そのお狐さんの前に、春子はしゃがみ込みがんもどきが載った皿を置いた。
これは慈愛ではない。投資である。
こんな寂れたところならほかに祈る人もいないだろうから、狐さんも恩に感じて商売繁盛をもたらしてくれるかもしれない。
そういう期待を込めた、欲である。
油揚げでなくがんもどきなのは、なんとなくである。
捧げものが揃いも揃って油揚げじゃ、さすがの好物でも飽きるだろうと春子は思っている。
ぱん、ぱんと礼もせず春子は柏手を打った。
春子は人に頭を下げるのが嫌いなのである。
二回目の柏手を終え閉じていた目を開くと、そこは知らない世界であった。
「……あ?」
「何者かね」
石造りの壁を見渡していると、しわがれた声がかかった。
振り向けば妙な格好をした外国人の爺さんが一人。
学生服を白くして長くしたような服を着て、じゃらじゃらと重たそうな勲章を揺らし、軍人のように背を伸ばして椅子に腰かけている。
てめえが誰だよと春子は思った。
「おでん屋だよ」
「オデンヤ?」
男は首をひねった。
春子はつかつかと屋台に歩み寄り、パカッと蓋を取った。
「おでん」
「オデン」
ほこほこと上がる湯気を、爺さんが見て、すんすんと鼻を動かした。
「うん、嗅いだことのない香りだが、美味いのはよくわかる。ご婦人、一ついただけるか」
「はいよ。なんにする」
春子は菜箸を取った。
問われて男はまたじっとおでんを見た。
「なるほど種類があるのか。不勉強で申し訳ない。婦人のお勧めをいただけるかね」
「はいよ」
話の分かる男だ、と春子は思った。
これぐらいの歳でぼけていないのに、初見のものを知ったかぶりもせずためらいなく人に任せるのは相当の出来物だ。
大根、卵、こんにゃくを乗せた皿に、だし汁をかける。
汁につかない皿の端に黄色いからしを乗せる。好みがあるので春子は多めにつけるようにしている。
「酒はどうする」
「酒があるのか。ではいただこう」
「冷かい、燗かい」
「ヒヤ?カン?」
「冷たいのと熱いのどっちがいい」
「では冷たいので」
「はいよ」
一升瓶を傾けて、ドボドボと酒屋のマークの入ったコップに注ぐ。
箸と皿、コップを、屋台の椅子に腰かけた男の前に置いた。
「箸使えるかい? フォークを出そうか」
ハシ? と爺さんが首をひねったので面倒になりぢんとフォークを置いた。
昔は置かなかったが、最近は外国人の客も多いのでフォークも用意している。
当たり前のものにいちいち騒ぐ奴らだが、別に春子は食ってくれるなら相手はなんだって構わない。
「では、いただこう」
手を顔の前にやって何か祈りのようなポーズをしてから男はフォークを手に取った。
フランス料理じゃねえぞと言いたくなるほど優雅に大根を割る。
「これは、カブかな?」
「大根だよ」
「ふむ」
男が大根を口に運ぶ。
一口噛み、驚いたように目を見開いた。
「じゅわっと……じゅわっと……まるで飲み物のような、いや違う、柔らかな筋がある。いや、美味い!」
「そうかい」
春子が売るのはおでんだけなので、媚は売らない。
「酒は2合までだよ」
「ああ、そうだった酒もあるのだった。いただこう」
おっとっとと零れないようにコップを持ち上げ酒を口に含み、また男が目を見開いた。
いちいち大げさな野郎だなと春子は思う。
「なんだこれは! なんて澄んだ、なんて研ぎ澄まされた味なのだ!」
「そうかい」
「合う! 実に美味い! この汁も飲みたいのだが、スプーンはないのだろうか」
「汁ぐらい口付けて飲みな」
「なるほど、そういう作法なのだな。ではそうさせていただこう」
ちゅ、と口を、髭につかないように器用に皿に当てて男は汁を飲んだ。
「っあ゛~~~!」
何とも言えない声で男は唸った。
なかなかわかってる男じゃないかと春子は心の中で頷いた。
「素晴らしい! 皆同じスープで煮込んでいるにも関わらず、それぞれがそれぞれ美味い! なんと高級な卵だ、全く臭みがなくプリプリ、このよくわからない弾力のあるものも味が染みていて実に味わい深い。そして何より体の温まることと来たら! ありがとうご婦人、なんだか力が湧いて20歳は若返ったような気がする。もっと、もっと出来ることならば全てを頂きたいがあいにく時間だ」
「そうかい」
じゃ、金出しなと春子は手を出した。
「うん、それはそうだ。申し訳ないがご婦人、私は今金の持ち合わせがない。このような素晴らしい品にこのようなもので申し訳ないが、足りるだろうか」
男が出したのは金のブローチだった。
本物かどうかわからないが、たかが三品にコップ酒1杯。まあいいよと春子はそれをお代のざるに置いた。
「ありがとう! すっかり体が軽い。では参ろうぞ! 老将オーガスタス = グリーナウェイここにあり! 身の程知らずの蛮族に目にもの見せてくるわ!」
はっはっはと高らかに歌いながら男は去っていった。
春子は菜箸を置き、おでんに蓋をした。
そして顔を上げると
「あ?」
色あせた前掛けをかけた狐がそこにいた。
いつもの、家の近所である。
春子は焦った。自分のおつむりも、ついにぼけがきちまったようだと。
慌てて屋台を見ればそこには、汁まで空になった皿、ガラスのコップ、フォークがきちんと置かれていた。
「あ?」
お代のざるを見る。
あの爺さんにもらった金のブローチと、何故か大根、卵、こんにゃく、酒一杯ぴったりの代金が、硬貨で置いてある。
「……取りすぎちまったじゃないか」
春子はぎろりと狐さんを睨みつけた。
金は好きだが、足し引きの合わないことをするのは嫌いなのである。
何か言うかもしれないとしばらく睨んでいたが何も起こらないので
仕方なく屋台を引きずり、春子はそこを離れていった。