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――悪――  作者: 亜逸


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第37話 三日後

 霞がかっていた意識が少しずつ少しずつ晴れていき……椿は目を覚ます。

 どことなく見覚えのある天井。

 視線を横に向けた際に見えた床と壁の高低差と、しっかりと肩まで毛布をかけられることを鑑みるに、どうやら自分はベッドの上に寝かせられているらしい。


 アンブレイカーと戦い、テーセウスごと殴り飛ばされた瞬間までは記憶に残っている。

 そこから記憶がないということは、情けないことに自分は殴られた衝撃で気絶してしまい、仲間に介抱されたということになる。


 そこまで状況を把握できたからこそ()せなかった。

 今確認した天井も、床も、壁も、どこにでもあるような洋室のそれにしか見えない。

 どこをとっても、ベレヌスの内装とは似つかない。


「ここはいったい……?」


 疑問を口にしながらも上体を起こす。

 その際に毛布がずり落ち、その身に纏っていた、テーセウス用の絶縁スーツが露わになる。

 寝かされていた部屋は、ベッドの他に申し訳程度に設置されたテーブルとクローゼットがあるだけで、自分以外の人間の姿は見当たらない。


 ゆえに、体の線が丸見えな絶縁スーツを纏っていることを気にする必要はないわけだが、どうしても気恥ずかしさが込み上げてしまい、毛布で体を隠――


「椿ッ!!」


 ――すよりも早くに入口の扉が勢いよく開き、大地が部屋に入ってくる。

 革パンにタンクトップという、市井に降りる際の服装――さすがに室内なので革ジャンは脱いでいた――で。


 その勢いに驚かされたせいか、呆気にとられたせいか。

 それとも頭の片隅で、生体サイボーグの聴力でわたしが起きたことに気づいたのだろうと、余計な分析をしてしまったせいか。

 身を隠そうと持ち上げていた毛布が、手から滑り落ちてしまったのが運の尽きだった。


 次の瞬間にはもう目の前まで来ていた大地は、その手に持っていた()()()()()を床に落とし、


「心配させやがってッ!! 馬鹿野郎がッ!!」


 あろうことか抱き締めてきたのだ。


「ぁ……ぅ……」


 言葉にならない呻きが漏れる。

 顔はおろか全身が瞬く間に熱くなっていく。


 普段ならば、こうも易々と醜態を晒すことはないのだが、さすがに今回ばかりはどうしようもなかった。

 体の線がもろ見えで、なおかつ決して生地が厚いとは言えない絶縁スーツを纏った状態で、大地に抱き締められてしまったのだから。

 こんなもの、耐えられるわけがなかった。


「た、頼むからっ!! 今すぐ離れてくれっ!!」

「いーや駄目だッ!! 散々心配かけさせやがってッ!! ちょっとくらい我慢しやがれッ!!」


 またしても「心配」という言葉を出されてしまったせいか、椿は全身を赤くしたまま口ごもる。

 いつもとは違い、こうも密着しているにもかかわらず大地からは微塵の邪念が感じないものだから、なおさら何も言えなかった。

 狂ったように早鐘を打つ心臓の鼓動だけは、どうか伝わらないでくれと祈った。


(……ぁ……)


 ふと気づく。

 自分で処置をしたのか、大地の体は、露わになっている顔や腕は勿論のこと、タンクトップの下に至るまで、ガーゼと湿布と包帯まみれになっていることに。


 椿が気絶した後、大地がアンブレイカーと戦ったかどうかは定かではないが、ベレヌスに突入したヒーローと死闘を繰り広げたことを窺い知るには充分すぎるほどに、大地は傷だらけになっていた。


「心配をかけさせているのは君もだ……阿呆」


 照れ隠しに悪態をつきながら、椿も相手の背中に腕を回す。

 どれだけの時間そうしていたか。

 椿と大地は、ゆっくりと体を離した。


「……ここは、組織の隠れ家(セーフハウス)か?」


 抱き締められ、抱き返した気恥ずかしさを誤魔化すように、現状を確認するための質問をぶつける。

 予想どおり大地が首肯を返したところで、さらにもう一つ、現状確認のための質問をぶつけた。


「わたしは、どれくらい寝ていた」

「三日くらいだな」

「三日……!?」


 思わず呻いてしまう。三日も寝ていたとなると、大地がああも過剰な反応を見せるのも無理はないと思う。

 逆の立場だったら、間違いなく自分も心配で心配で堪らなくなっていたことだろう。


 ……見方を変えれば、三日もシャワーを浴びていない状態で大地に抱き締められたことになるわけだが、今は努めて考えないようにした。

 少しでも頭の片隅からはみ出しそうものなら、羞恥のあまり卒倒してしまうと本能が判断したがゆえのことだった。


 そもそも今考えるべきことは、そんな些事ではない。

 ベレヌスでヒーローと戦っていた自分と大地が、空の上ではなく、地上にある隠れ家にいる。

 その時点で、椿にとっては何もかもが自明だった。


「……負けたのか? わたしたちは……《ディバイン・リベリオン》は……」


 大地は数瞬の沈黙を挟み、ぎこちなく首肯を返した。


「グランドマスターがヒーローに敗れて、ベレヌスは東京目がけて落下を開始したが、ピュアウィンドの力で太平洋上まで流されちまった。クソご丁寧なことに、津波が起きないようゆっくりとな。だから、東京は無傷だ」

「そう……か……」


 こちらを気遣ってか、大地は明言を避けていたが、グランドマスターがヒーローに殺されてしまったということは椿もわかっていた。

 なぜなら、グランドマスターから直々に頼まれて、彼の生体反応が完全に消え次第ベレヌスを東京に墜とすようプログラミングしたのは他ならぬ自分だから。


 どうしようもないほどの哀しみが胸を締めつける。

 瞳の奥から込み上げてくるものを覚えるも、どうにか唇を噛み締めて(こら)える。


 だが、


「……ぁ……」


 大地に抱き締められる直前、彼が床に落とした()()()()()が目に止まってしまい、あっさりと堪えることを放棄した視界が涙で滲んだ。

 その何かとは、ダークナイトの魔剣クライドヒムだった。


 大地が魔剣を持っているということは()()()()()()だとわかりきっているのに、縋るような声音で訊ねてしまう。


「どうして……大地がクライドヒムを……?」

 苦みが大地の顔を歪ませる。

 短くない沈黙を経て、大地は魔剣を拾いながらも、無理矢理感情を排したような声音で答えた。


「託された」


 迂遠ながらも決定的な言葉が紡がれた瞬間、椿の瞳からとうとう涙が溢れ出すも、


「……だが」


 まさか続く言葉があるとは思ってなかったので、思わず涙に濡れた瞳で大地を見上げる。


「アイツのおかげで、アンブレイカーを討てた」


 悲しみが、喜びが、虚しさが……一言では言い表せないほどに雑多な感情が、胸の奥底から込み上げてくる。

 言葉の代わりとばかりに、涙がますます頬を濡らしていく。


 これで全てが終わったと思った。

 同時に、まだ何も終わっていないと思った。

 相反する想いが()()ぜとなり、かき乱された心はもう、涙を堪えるという行為を完全に放棄していた。


「……椿。もう一度だけ、抱き締めていいか?」


 それが、大地の優しさだと察した椿は、ただ一言答える。


「頼む」


 その言葉を確認したところで、再び大地は椿を抱き締める。

 椿も、大地の背中に両手を回す。


 そして――


「ぁ……ぁあ……」


 堪えきれなくなった嗚咽を契機に、


「ああぁあぁぁあぁああぁぁあああぁぁあぁあぁあああぁぁぁ――……」


 大地の胸の中で、涙が涸れるまで泣きじゃくった。

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