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 -13『苦し紛れの魔法』

 床下に潜り込んだ僕の目の前に現れたのはネズミでした。


「何の音だ?」


 僕は咄嗟に口を塞ぎましたが、声はしっかりとシュランたちにまで届いていたようです。


 ――まずい。ばれちゃう。


 僕がここにいることが知られれば大変です。


 床板の隙間から見えるシュランは、怪訝そうな顔を浮かべながら僕のいる床下の方を見ていました。


「なんかいるのか?」


 シュランがそう言って僕の方へと歩きだしました。


 もうダメだ。

 そう思った時でした。


「あらごめんなさいねえ」


 シュランを引き留めるようにそう言ったのはマスターでした。


「なんか最近、床下にネズミが住み着いちゃってるのよ。それもいっぱい」

「ネズミ? そんな声だったか?」


 怪訝に眉をひそめるシュラン。

 そんな彼に、マスターはまるでふざけたような軽い調子で言っていました。


 マスターは何を言わずとも、床下に僕がいることに気づいているのでしょう。

 

「あらぁ、本当よお? オネエさんの言葉が信じられないとでも言うの?」

「おや、そういう訳じゃねえけど」


 マスターはシュランへと詰めより、彼の顎を掴んで、まるでキスをするかのように引き寄せました。


 二人の顔がぐっと近くなります。


「ふふっ。私も本当はねえ、ネズミなんかじゃなくて坊やみたいな可愛い子を飼えたらいいんだけど……ねえ」


 本当に無理やり唇を奪うのではないかと思うほど真剣なマスターの顔に、シュランも戸惑いに息を詰まらせました。


「あらぁ。あなた、近くで見るとすっごく好み。食べちゃいたくなるくらい」

「ひえっ……」


 さすがのシュランもどん引きのようでした。


 マスターの言葉がどれほど本気なのかわかりません。しかし迫真です。ぺろり、とリップの塗られた分厚いマスターの唇を舐める仕草はちょっとしたホラーのようでした。


 シュランが逃げようとするも、しかしマスターの力の方がずっと強いのか、微動だにできていません。


 シュランが死を覚悟するような悲壮な表情を浮かべた瞬間、しかしマスターはけろりとおどけるような顔をして、


 ――ドスン!


 と床を蹴破る勢いで踏みつけました。


 床下の僕にまで衝撃が伝わるほどでした。それが響くと同時に、僕のそばにいたネズミが驚いた声をあげて薄闇の向こうへと逃げていったのでした。


「ほらねえ?」

「あ、ああ……わかったよ。わかったから離せよ」


 嫌がっているシュランですが、それでもマスターは執拗に離そうとしません。そんなマスターの視線がさりげなく、床下に潜り込んでいる僕へと向けられていました。


 それに気づき、僕はハッとなりました。


 ――マスターが注意を引きつけてくれてるんdな。


 シュランも、お嬢様すらも手を煙草の箱に向けたままマスターに気を取られています。


 僕はそのチャンスを逃すまいと、穴から細長いひっかき棒を差し込みました。


「いって! おねがい!」


 狭い穴の限られた可動域の中、僕は必死にひっかき棒を伸ばして机の上を狙いすましました。


 けどうまくいきません。

 見えづらいし、そもそも狙う的も小さすぎます。


 かといって闇雲に振り回せば机にぶつかり、無用な音を立てて気づかれて今します。しかし早くしないと、マスターが気を逸らせる時間にも限度があるでしょう。


 慎重に。

 けれど早く、でも確実に。


 精神がすり減るほどの全神経を集中させました。


 お嬢様を守るために。

 僕の嘘を本当にするために。


 絶対にやり遂げてみせる。

 お嬢様を傷つけさせたりしたいんだ!


 そう強く思いを込めて。


 そして――。



 ことん。



 煙草の箱が倒れる音がして、お嬢様たちの視線が一斉にこちらへと向きました。


 僕はすかさずひっかき棒を床下に戻しました。それにも気づかず、お嬢様たちの視線は倒れた煙草の箱にのみ注がれています。


「た、たおれた……」


 半ば半信半疑に自信がない様子でお嬢様がそう声を漏らしました。


「あら、ほんとうねえ。すごいわあ」とマスターが後押ししたおかげで、お嬢様はやがて目を輝かせるように見開き、


「やったわ! ほら、やったのよ! ちゃんとあの箱を倒して見せたわ! ねえ見たでしょ、ねえ?」


 お嬢様はひどく興奮した様子で飛び跳ねるほど喜びました。


 端から見ると、本当に何か特別な力が加わったことによって倒れたようにしか見えないでしょう。


 よかった。

 これでお嬢様の名誉は守られるでしょう。


 しかしシュランは驚きながらも、不本意に眉をひそめています。


「イヤ、待てよ。今のはどうなんだ」

「どうって何よ。まだ認められないの?」


 お嬢様はやってみせたことに鼻高々です。しかしやはりシュランは納得いかない様子でした。


 彼は拘束を緩めたマスターから離れると、倒れた煙草の箱の元へと小走りで駆け寄っていきます。そしてそれを手に取ると、テーブルのぐらつきや傾き、そして周囲を警戒するように見回しました。


 足下の穴にいる僕に気づいてしまうかも、と僕は息を殺しました。


 結局僕は見つけられなかったようで、しかし足下の床に隙間があることには気づいたようです。


「こんなの、どうせ隙間風で倒れたんだ。そうに違いねえ。こいつは軽いからな」

「何よ。隙間風のせいにするっていうの?」

「それ以外に考えられねえだろ」

「だから魔法なんじゃない」

「いいや、認められねえ」


 予想外にシュランは食い下がってきたのでした。


「もっと証明してみせろ。あんなものダメだ」

「横暴よ!」

「いいや、ダメだ。俺は認められねえ。こんなの偶然倒れただけじゃねえか」


 もはやシュランも意地になっているようでした。かといってお嬢様も引き下がりはしません。


 お互いが一歩も譲らない激しい口論となりました。


「だったら今度は二つだ。こいつを二つ並べてやる。中身もしっかり入ってる。軽くはねえし、簡単には倒れねえぞ」


 そう言ってもう一つの煙草の箱を取り出し、また机の上に置きました。しかも僕のいる真上ではなくまた別の近くの机に、それも机の縁ではなくほぼ真ん中へと置いたのです。


「そんな……」


 最悪の場所でした。

 そこは僕の場所からは絶対に届かないほど離れていました。


 かといってその机の真下にはちょうどいい穴などありません。


 ――そこはダメだ。


 そう思いながらも、しかし魔法が使えたと思っているお嬢様には歯止めなどききません。


「なんだ? やっぱりまぐれだったのか? 偶然倒れただけで喜ぶだなんてご機嫌な貴族様だな」

「わ、わかったわよ。やってやるわ!」


 ここまで言われてはお嬢様も我慢ができませんでした。助長され、そう口走ってしまいました。


 せっかく解決したと思った問題が振り出しに戻りました。


 ――ああ、もうダメだ。助けられない。


 お嬢様は引くに引けない態度でもう一度、二つ並べられた煙草の箱に向かい合って手のひらを掲げます。


 ――ダメですお嬢様! そこはもう!


 そう僕がひどく焦りを浮かべた瞬間です。


 ふと、床下にいる僕とマスターの目が合った気がしました。すると彼がウインクをこっそりと飛ばし、体の後ろに隠すように下げた指先をくいっと折り曲げました。


 その瞬間、お嬢様の目の前に一瞬のささやかな風が吹いたかと思うと、


「きゃあ!」

「うわ!」


 お嬢様とシュランの悲鳴と同時に、まるでつむじ風が巻き起こったかのような突風が吹き荒れ、お店の椅子や机を、煙草の箱もろとも簡単に吹き飛ばしたのでした。


 その衝撃と音でシュランは腰を抜かしたように尻餅をついて倒れました。お嬢様も突然起こったことにきょとんと目を丸くして固まっています。


「……え」


 横たわった机から煙草の箱がこぼれ落ち、お嬢様たちの前に転がります。それを見たお嬢様はやっと息を呑んで我に返ると、


「や……やったわ! ほら、見た? ちゃんとした魔法が出せたのよ!」


 そう無邪気に歓喜しては周りをきょろきょろ見回していました。足下で転がるシュランなんて気にもとめず、視線をお店中に見渡して喜んでいます。


 子供のようにあどけない笑顔を浮かべていたお嬢様は、しかししばらくすると落ち着いて、ふふっとまた小さく微笑んだのでした。


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