幾重箱
眠れなくて今こうしてスマートフォンのディスプレイと睨めっこをしている訳なのだが、イヤホンが絡まって耳に届く音が小さい。下手にもぞもぞと動いてすぐ隣の部屋で眠る妹を起こしたくなかった。我慢する。テクノに加工された少女の声。
イヤホンの音があまりに聴こえないと、外部を遮断しきれない。その所為で廊下を挟んだ部屋の、刃物を研ぐような強い言葉が薄ら、聴こえてくる。明日の笑顔の心配をして、音楽を止めてスマートフォンの電源を切った。イヤホンを嵌め直し、何も響かない真空を子守唄にする。
僕は夢を見た。幼いころから通い続けている図書館に似ているけれど、それ以上に本棚は高くて、魚眼レンズを覗いている様に歪んでいる。その先、唯一正常な景色の中で女の子を見つけた。深緑色の、丁寧にアイロンが掛けられたワンピースを来て、母親にしてもらったのだろう長い三つ編みが印象的だ。文学少女を気取ったのか、それとも真にそういう性なのか。彼女が腕に抱えた本の山は今にも崩れそう。手伝ってやろうか、と思い一歩踏み出す。足音で気付いたのか彼女が振り向いた。足を止める、目が合う。ぼんやりとしている様な、それでも眼だけがやけに鋭くこちらを見ていた。
声を掛けようとして、喉が踏みとどまった。その間にぱたぱたと、本を落として彼女は走り去る。
「あっ…」
彼女が魚眼レンズの彼方へ消えてからようやく僕は足を進める。一冊、二冊、本を拾っていく。見慣れぬ題名ばかりだ。『性嫌汚』『蝋燭に灯りを』『消え行く末は定かでなく』世の中僕が知らない本など溢れかえっているものだなぁと呑気に思う。四冊目、最後の本。題名が読めない。字が霞んでいる。服の袖を少し引っ張ろ伸ばして表紙を擦る。よくよく見れば、表紙は燻んだ淡藤色ということしか伝わらない。題名も写真やイラストと思しき物も上手く見えない。擦る。布越しに熱が伝わる。
「はあ、はあ、」
気づけばそれに熱心になっていた。否、自覚など無い。身体が震えて髪が跳ねる程に手を擦り、狂ったようにみえるであろう何かを見つめ続ける。そして、袖にびっしりと淡藤色の塗料が付く。本棚に飛沫する。装丁が露わになって、そして。
脳が覚める。
どこからどこまでが夢だったのか。
一緒に住む者など居ないのに。
枕元に向かって陽光が痛い程刺さる。寒さを堪えて、布団と一緒にベッドから転げ落ちた。僅かな衝動ではっきりと覚醒する。骨に響く様な痛みで目蓋を開けた。大きな、格子のはまった窓。床に観葉植物。そう、こんな部屋に住むのが夢で、やっと住めるようになって。ベッドだけ買って、本当か床に積みっぱなしの六畳一間。冷たいフローリング、汚れ寂れた窓。綺麗にしようと思いつつ出来ていない。
呻きながら身体を起こした。立ち上がり軽く伸びてから窓に寄る。三階。下の通行人を見下ろしてから視線を真っ直ぐ見やった。窓ガラスに僕が映る。髪は昨日切ったばかりだ。少し刈り込んだショート。パジャマは面倒で着ていない。大量生産された、殆ど意味を為さないスポーツブラとトランクス。いくら三階とはいえ、こんなにも私生活だだ漏れなのは果たしてどうなのか。薄いレースカーテンを閉じ切った。クローゼットを開け、服を悩む。外出の予定も特に無いので、どうせこのままでいて腹下すのだろうが。
朝ごはんは食べなかった。昼になってもお腹は空かない。そこで、嗚呼これも夢だなと思い至る。床の冷たさ、陽の暖かさが僕を誤魔化してた。
多分、これは悪夢だ。あまりにも羨ましくて嫌味にしか見えない。ここまで自由に生きれたら。窓を突き破って三階より上へ、遙かへ、遙かへ。
手を翳す。太陽は熱を持ちすぎていて、眩し過ぎて、苦し過ぎて。頬に何か伝う。これは、本物。目覚めた先に何も待っていないことを知っている。
何故私は泣いていたのか。そんな疑問を抱きながら、布団を跳ね除け起き上がった。




