第2章23節:無知こそ凶器
アリス様とのお茶会を終え、別れて室内に戻るとリツさんが壁にもたれて待っていた。
すらりとした長身、分厚い胸、筋がくっきりと見える腕。
リツさんを想っていることに気が付くと、彼の一つ一つが先ほどよりも眩しく見える気がする。
護衛として傍にいてくれているだけのに…私は何をじろじろと見ているのだろう。
リツさんに失礼な気がして、高鳴る鼓動を息を吐いて落ち着ける。護衛対象にこんな風に見られるのも気分はよくないだろう。
「終わったか?」
「うん。待たせてしまってごめんなさい。でも、ありがとう。」
「俺も丁度今来たところだから大して待っていない。楽しめたようだな。」
ふっとリツさんの表情が安心したかのように和らぐ。
それが自分だけが知っているような特別な表情のような気がして、胸の奥が掴まれたように甘く痛む。
今までもこうした気持ちになることはあったが、リツさんを意識するとより一層胸が痛む気がする。
前世の年数もあわせて考えると私はどれだけ感情に疎かったのかを思い知らされる。
毎回リツさんに会うたびに気持ちがかき乱されて私は持つのだろうか。
「すごく楽しかった。アリス様は本当に愛らしくて、それでいてお優しくて、仲良くなれてよかったなって。」
「よかった。」
リツさんから手が伸び、私の頭をそっと撫でてくれた。
優しく髪に触れる指がくすぐったくて胸をじりじりと焦がす。
何をされるたびにこうも心が動かされているとこのまま何か自分の知らない感情の波に飲み込まれるようで、不安に襲われる。
そんな複雑な気持ちのままリツさんの手が離れたかと思えば、何かを思い出したかのようにリツさんの目が開き、眉間に皺が寄った。
先程までの柔らかい雰囲気から一変し、殺気立っているようにも感じる様子に戸惑う。何かあったのだろうか。
「そういえば、テリューア教皇がこの研究所に視察に来ることになったそうだ。」
テリューア教皇…たしか、アナタリナ教の教皇だ。
国教であるアナタリナ教の教皇であることからも、その権力は絶大だ。
王に次ぐ影響力があると言われ、彼からの声は王家であってもそう簡単に覆せないほど。
ただ、教皇自身は柔らかい性格であり、自分があちこちに出向くことで気を遣わせてしまう人が多いからと自身が治めてる地であるイフォガードからあまり出ることはないそう。
「テリューア教皇が…たしか教皇はイフォガードに住まわれていたはずだけれども。」
「久しぶりに友人である王に会いに王都に来るらしい。その一環で研究所への視察をするのだと。」
リツさんが何だか苛立った様子で言葉を返した。テリューア教皇の視察を好まなく思っているのは明らかで。
たしかに教皇が研究所に来るとなればその準備に追われるのは分かるけれども、そこまで苛立つほどだろうか。
手に目を向けると、ちらちらと黒い影が服の袖から動いていた。リツさんの印が動いている。
「リツさん…大丈夫?」
「問題ない。問題ないから、教皇が研究所に来たら部屋から出ないでほしいし、会うような真似はしないでほしい。」
「え…。」
被験対象である自分が会うことはあるのかと疑問は感じたが、リツさんがここまで強く私に願う時は身に何か危険が迫ると判断されている時だ。
教皇が研究所に来ることで何か私にあるのだろうか。
それならば知っておきたい。迫る危険に対してある程度備えておきたい。
「なぜ会ってはいけないの?教皇はお優しいと聞くし、いらっしゃるとなれば警備もそれなりに多くなるはず。何か危ないことでもあるの?」
「とにかく視察の日は大人しく部屋にいてほしい。」
怒りを乗せた黒い目が私を射抜くように向けられる。
先程の柔らかい雰囲気はそこには一切なく、手を出せば噛みつきそうなほどに荒々しい。
でも、彼がそこまで殺気立っている理由が分からない。
「理由を聞かせてはくれないの?ただ会うなと言われても不安になるだけで納得ができない。」
「説明ができない。護衛の俺が言っているのだから、大人しく部屋にいてくれないのか?」
私の視線を離さないとでも言うように強く黒い目が刺さってくる。
暴れ狂いそうなその目に気圧されてしまう。
きっとこのまま理由を問い続けても答えてくれないのだろう…でも、少しだけ悲しかった。
「……分かった。」
私の答えを聞くと、リツさんの眉が安心したように垂れた。
「それでいい。もう日も沈むし、部屋に戻ろう。」
「うん…。」
暗い声が重なり、私の部屋へと歩みを進める。
話をするわけでもなく、夜の闇に夕日が溶け込むように私達の空気も沈んでいく。
リツさんはそれ以上言葉を重ねるわけでもなく、私も何か言えるわけでもなく、歩く音だけが廊下に響く。
一定間隔で警備に立つ騎士以外は、誰もおらず静かな空気が流れる。
徐々に闇に吸い込まれる夕日を見ながら体が妙にぴりつくのを感じ――そして、ふと、思い出した。
テリア・V・ボックス――たしか、バッカスと接触していた子爵家夫人。
彼女はたしか、アナタリナ教の信者であった。
ただそれだけなのだが、このタイミングで妙に何か引っかかった。
それに、私が成人の儀を執り行ったのはアナタリナ教の教会で、私を襲った聖歌隊の一人もアナタリナ教の信者。
これはただの偶然なのだろうか……いや、リツさんの様子を見ると違うのだろう。
私を襲った聖歌隊の一人はソウマさんが連行し、証拠はまだ出ていないと言われていたけれど…それが嘘だったら?何か掴んでいるのだとしたら?
でも、なぜそんな大切な情報を私にも、家族にも伝えていないのかが分からない。
けど、何らかの理由でアナタリナ教が裏にいる可能性が高いと考えたほうがいいだろう。
「テリューア教皇がいらっしゃるときは、リツさんは私の傍にいるの?」
「いや…今日王家から命が出た。教皇が研究所の視察にいる間、テリューア教皇の護衛の任につくようにと。ただ、シーアには必ずついてもらう。」
「そう…なんだ。」
絞り出すようなリツさんの声に、鼓動が早くなる。
リツさんが傍にいない……もし何らかの計画が進んでいるのであれば、敵が私を狙うのに絶好な機会なはずだ。
それに、王家の命でリツさんが傍を離れることが気になった。
王家が裏で何かをしようとしている…もしくはアナタリナ教が何かしら王家に要望を出した?
分からない…。ただ、私が知らない間に何かが背後に忍び寄っている。それがひどく不気味だった。
私は本当に部屋から一切出ない方がいいのだろうか。
部屋に籠ることで狙ってくれと言わんばかりの標的になっているような気がする。
リツさんが出るなと言うのだから、正しいとは思うのだけども…でも…。
リツさんに目をやるけれども、その表情は何も映しておらず、答えを得ることはできなかった。
テリューア教皇が来るまで時間はまだある。
無知こそ凶器。私も動いて今以上に情報を得るために動こう。
夕焼けの光が消えてゆく様子を見ながらそう決めた。




