第2章19節:狂化
私は壁に書かれていた文字を読み上げた。
リツさんは興味深そうに、シーア様は楽しそうにそれを聞いていた。
「ソウマに調査を依頼された遺跡に行ったら魔神イリテメイドに関連する内容にぶち当たったと……何かを感じるねぇ。」
「それに、呪いという言葉が気になります。この内容だと、まるで印のことを呪いだと指している気がしませんか?」
リツさんも頷く。
十二の呪い……そして、呪いのみ人間に受け継がれるという内容を見ると、これは印を指していることで認識に誤りはないはず。
印のような、受け継がれるものは、私が知る限り人間にしかないし、十二支の数もその呪いの数と一致している。
呪いという言葉を使っていることはすごく気になるけれども。どうして呪いなのだろうか。
それに、もう一つ気になることがある。
「十二の印を一身に魔女が受けたとあります。呪いが印だとして、十二もの印を持つことなんて可能なのでしょうか。」
「俺は聞いたことがない。過去の文献などを見ても最高でも二つだけのはずだ。ただ、書かれている内容を聞いていると本当に十二の印を持っていたんじゃないかと思う。」
「それは、どうしてですか?」
リツさんと目が合ったが、その瞳が一瞬揺れたような気がした。
少し不安そうな、迷っているような、リツさんにしては珍しい反応。
でも、すぐにそれを隠すようにすっと目の表情が消えるのを感じた。
どうしたんだろうか。何か聞いてはいけないことに触れてしまったんだろうか。
「アーリア、狂化って知ってるか?」
「きょうか…ですか。知らないです。」
「そもそも二つ印持ちが滅多に生まれないからあまり知られていない。シーアから俺が二つ印持ちであることは聞いてるか?」
「はい。」
私が頷いたことを見ると、リツさんが息を吐く。
シーア様がそれを見て、目を細めて笑った。
「二つ印は、稀にだがこの狂化という状態になる。狂化するきっかけは人によって違うみたいだが、感情が大きく高ぶっていたりするとなりやすかったりする。」
「狂化という状態はよくないのですか?」
「よくないどころじゃない。狂化すると魔力が体内で暴発して、自分でも抑えが効かなくなる。最後には脳にまでその影響が侵食してきて、理性を失う。」
「そうそう。体の能力とか魔力の量が爆発的に上がるんだけどねぇ。暴れ馬状態になるんだよ。強さは得るけれども野放しにされた殺戮人形になるねぇ。」
つまりは、狂化してしまうと強くなる一方、理性を失うから敵味方問わず襲ってしまう状態になるということか。
彼も特別な体質を持つので被験者なのです。彼の体質の問題からも王族の護衛に入れる状態ではないのですよ――リツさんが私の護衛に入る時に、ソウマさんがそう言っていたのを思い出す。
リツさんがどうして王族の護衛にいないのかと不思議に思っていたけれども、この狂化の心配があるからということなのだろう。
実際に目にしたわけではないから分からないけれども、リツさんが暴走するということを想像すると…誰も止められないのではないだろうか。
リツさんがいつも冷静なのは、狂化しないせい…?
いつ自分が暴発するか分からない……その気持ちは私には理解することはできないけれど、もし自分だったら恐ろしくてやっていけないと思う。
恐ろしさが先にきて、そればかりを考えて、気をちゃんと持って生きていけるだろうか。
リツさん程の力を持っている人なら尚のこと恐ろしいはずだ。
「申し訳ない……。」
「え?」
リツさんがぽつりとそう呟いた。
今のやり取りにどこに謝るところがあったのだろうか。
目を合わせようとするも、リツさんの視線は地面を向いている。
「狂化のことを今に至るまで言わなくて申し訳ない。護衛される側が知っているべき情報なのに…言い出せなかった。」
そんなこと……。いや、リツさんの様子を見ていると、そんなこと、ではないようだった。
私に狂化のことを言い出せなかったことをひどく悔いているようだった。
目を合わせることができない上に、私から距離をとろうとしている。
「解任されても仕方のないことだと思う。ただ、この遺跡の調査を終えるまでは守らせてほしい。これを終えたら、解任でも何でも受け止める。」
リツさんが拳を固く握るのが見えた。
いつもは口数が少ないリツさんが、絞り出すような声で言葉を紡ぐ。
その掠れた声からも、ずっと悩んでいたことが分かる。
一緒に過ごしていく中で、リツさんは誠実であるということはよく知っている。
私の護衛も自分の時間を削りながら、片時も警戒を完全に解くことなくこなしてくれている。
フォーカルド家の屋敷にいる時と比べると、私は遥かに安心して過ごせている。
いつ誰に襲われるか分からない…いつ誰に裏切られるか分からない……そんな風に気を張っていたのが、リツさんの前だと嘘のように感じられないのだ。
それは、彼が多くを語らない中にも、ひたむきに私に向き合っていることを行動で感じるからだと思う。
もちろん、リツさんが強いからということもあるけれども、何があっても私の安全を考えて動いてくれている…ということがすごく伝わるから。
狂化のことを悩んでいたのも、私の安全を考えた上でのことだろう。
私はリツさんに歩みを進め、彼の固く握りしめられている拳を手に取った。
ぴくりと彼の拳が動いた。
「私はリツさんに護衛でいてほしいと思っています。解任するなんて、とんでもないです。そんなこと欠片も考えていません。」
「どうして……。いつ爆発するか分からない。護衛どころか、敵になることだってあり得る。」
「それはその時です。でも、私はリツさんに傍にいてほしい。」
私は言葉があまりうまい訳ではない。
前世の時だって、うまく周りに自分の気持ちを言えたことはなかったし、そのせいであまり友達がいなかったのもある。
だけど、今だけははっきり思ったことを伝えなくては、リツさんがいなくなってしまう気がした。
今だけは自分の持ちうる限りの力をつかって、リツさんに気持ちを伝えないといけない。
強くリツさんの拳を握る。
「私、屋敷にいた時は、常に不安でした。そう見えないように気はもちろん遣ってましたけど、本当はすごく、すごく不安でした。いつ自分が襲われるんだろう、いつ誰が裏切るんだろうって。そればっかり考える内に少し疲れてしまっていたんです。でも、今は違います。」
リツさんの固く握られていた拳がいつの間にか解かれていた。
やっと顔をあげてくれたリツさんと目が合う。
その目の瞳はまだ不安に揺れていた。
「リツさんが私をめいいっぱい守ってくれようとしてくれるのがすごく伝わって…私、ちゃんと守られているんだって感じるんです。今の方がすごく安心感があって…これもすべてリツさんのおかげなんです。リツさんには感謝の気持ちしかありません。狂化の心配もあるかもしれません。でも、それは一緒に話し合って、そうなった時はどうすればいいのか話をしましょう?誰も完璧な人はいない。狂化しない人だって、ひょんなことから護衛対象を裏切ることだってあるんですよ?」
バッカスを思い出す。
私を守る仕事があった人間だって、何かをきっかけで裏切ることもある。
狂化しないから大丈夫だなんて保障はどこにもないのだ。
「私はリツさんに一緒にいてほしいです。……それじゃ、だめですか?」
少し身勝手過ぎただろうか…。
リツさんを話させずにどんどん自分の気持ちをぶつけてしまったけれど、これでいいのだろうか。
話している内に少しだけ勢いがついてしまって止まらなくなってしまったけれど…引かれてしまったかな。
自分のしたことに恥ずかしくなって、今度は私が俯く番だった。
すると、リツさんがそっと私の手から逃れ、私の手を握りなおした。
温かい大きな手がすっぽりと私の手を覆ってしまう。
「だめなわけない…。俺でいいのか。」
微かに漏れたリツさんの声が震えていた。
こんな熱を含んだ声は珍しい。
恐る恐る顔を上げると、口を結んだリツさんが困惑したような表情をしていた。
「もちろんです。リツさん以外は嫌です。」
痛みを感じるくらいに強く強く手が握られた。
「もちろん狂化の対策はとる…から。本当に、ありがとう。」
消え入りそうな声でリツさんがそう呟いた。
礼を言うのはこっちの方なのに…。
でも、気持ちが伝わったようでよかった。
リツさんの手の震えは気になるけれども、引いてはいないようだし、これでいいのかな。
いつもは大きい背中が今日は少し小さく見えた。
それほど自分の狂化の状態に引け目を感じていたのだ。
私も力になれるようなことがあれば力になりたい。
「私こそ、いつもありがとうございます。」
握られた手を握り返すと自然と笑顔になった。
リツさんは少しだけ驚いたような顔をしていたけれども、ほんの少しだけ笑い返してくれた。
「あのぉ……僕がいるのを忘れているよね?お二方。」
不満たっぷりのシーア様の声が横から聞こえたのは、それから少し後だった。




