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無印の呪い  作者: J佐助
開拓編
20/59

第1章18節:痺れ

ひどい臭いだ……。

ぼんやりとした意識の中でそう思った。

鼻の奥を刺すような臭いで、いてもたってもいられなくなる。

まるで腐敗した何かを湿度のある部屋に閉じ込めておいたような刺激臭で、咳き込むために反射的に息を吸った。

だが、息を吸った途端、鼻と喉の奥に粉状の何かがへばりつき、苦しくなった。

酸素を求めてさらに息を吸うが、粉状の何かをあわせて吸い込む、さらに苦しくなる。

体をよじって、その苦しさから抜け出そうとしたが、手や足が一切動かない。

手と足が拘束されていた。

それに、どうやら、顔に何かを被せられているよう感触がある。

目には布が巻かれ、鼻と口だけ別の何かで覆われている。

完全に自由が利かない状態であることに気づくと、更に苦しくなる。

全く状況が把握できない今では、自分がこのまま死ぬのかどうかなど分からない。

息を吸っても吸っても苦しくなり、咳き込んでも苦しさから逃れることができない。暴れることもできない。

だんだんと恐怖に支配されそうだった。


「おい、ビス、もうやめろ!死なれたら金にもならねぇ上に、俺ら殺されるぞ。」


そんな怒鳴り声が聞こえ、私の鼻と口を覆っていたものが退かされる。

慌てて息を吸い込むと、粉をさらに取り込むことなく、新鮮な空気を肺に送り込むことができた。

死ぬところだった……。

新鮮な空気を吸い込みながら、口の中にへばり付く何かを唾と共に傍に吐き捨てた。

下品な行為かもしれないが、この状況下で得体のしれない何かを口に含み続けるつもりはない。

毒かもしれないのだ。

一刻も早く体内から追い出さないといけない。


私の前方から「汚ねぇ」と、笑いを含んだ声が聞こえる。

その声にイラつきながらも、鼻と口、そして喉にじわじわくる痺れに不安になった。

吸い込んだばかりの粉が何かは分からないが、体に良い影響がないのは明らか。

痺れが出ている時点で焼け石に水かもしれないが、唾をひたすら吐き出し続ける。


「いやぁ、旦那。もうあれだけの粉を吸ったんだ。取引前にちょいと楽しんでも問題ねぇんじゃねぇかい?」


下卑た声が聞こえた。

取引……この状況だと私が取引に必要な物なのだろう。

ということは、殺すような物は盛られていない可能性があるが、この痺れには何だか不安を感じる。

それに楽しむって何だ……。

その響きに悪寒がはしる。

私にとってメリットなどないことは、考えなくとも分かる。


「止めろ。こいつは俺が粉を撒いた部屋にずっといたのにもかかわらず、最後まで魔法が使えたんだ。何かしらの耐性があるかもしれん。犯してる途中に抵抗されて逃げられたんじゃここまでの労力が水の泡だ。」


「へいへい。バッカスの旦那は面白くねぇなぁ。」


そのやり取りの中で、知っている声が聞こえた。

この声は、マーカスだ。

まぁ、バッカスとも呼ばれていることからも、マーカスという名前は偽名なのだろう。

バッカスという名前自体も本名かどうか、怪しいものがあるが……。

脳裏に、マーカス――――いや、バッカスがイリアを刺したこと、私を守ろうとした侍女が次々に倒れたこと、そして最後に私が捕まった状況が過った。

そうだ…私は攫われたのだ。

状況を打破することができなかった。

それに、話を聞いていると、私と侍女たちがいた部屋に何かしらの粉を撒いたようだ。

私もそうだが、侍女たちは大丈夫だろうか……イリアは、助かったのだろうか。

私に一生懸命尽くしてくれていた彼女たちが心配になってくる。

私だけが目的なのであれば、命は奪われてはいないだろうが、状況が正確に把握できていないため安心ができない。

試しに魔法を使おうと、体の奥から熱を引き出そうとするが、少しも熱が反応してくれない。

魔法が発動できそうな気配がない。

どんな粉を使ったのかは知らないが、魔法を発動させないようにする効果があるものが使われているのだろう。

私が吸った粉がこの効果があるのならば、痺れの作用がでていることからも、もしかすると体内の枝を麻痺させているのだろうか。

そうすると、魔力はまだあるから、枝を復活させれば、また魔法が使える気がする。

そこまで魔力が残っているわけではないが、今は粉の効果が切れるまで待つしかない。

あるいは、拘束が解かれた際に、隙を見てこっそり逃げるか。

いずれにせよ、今の完全に拘束されている状況の中で私ができることは少ない。

ここで無暗に叫んで危機的状況を作るよりも、状況を少しでも把握していく必要がある。

今はなるべく粉を体外に出して、痺れがなくなるのを待つことぐらいしかできない。


「いや、まじで汚ねぇし、うざったい。」


体外に粉を出している私を見かねたのか、ぎしぎしと前方から誰かが動くのが聞こえる。

靴音から私の背後に回ったかと思えば、口の中にごつごつとした指が入ってきた。

無理やりこじ開けられ、口の中に何かを詰められ、そして何かを噛ませられる。

後頭部にぎゅっと何か締め付けられるような感覚がし、猿轡を噛まされたと分かる。


「大人しくしていろ!」


そう怒鳴られた。

できる限り粉は出し切った。後は逃げる機会を待とう。

そう思うも、口と喉の痺れが強くなってきていること、そして額に変な汗をかき始めていることが気になる。

それに、少しだけむかむかし、気分が悪い……。

殺す意図は今のところないのかもしれないが、やばい薬を盛られたのかもしれない。

逃げる機会ができても、うまく逃げられるか不安があった。


地面が時折揺れたり、跳ねたりしているし、地面というより何か板の上に乗せられている感覚を考えると、恐らく私は今馬車に乗っている。

空腹感を感じないことからも、攫われてから時間もあまり経っていないのだろう。

鳥の印(トリのイン)持ちのバッカスが馬車に乗っているということは、私を攫うときに一度能力を使った可能性が高いと見ている。

私を取引相手のために攫ったのであれば、自分の保身のためにもすぐ引き渡したいはずだ。

攫ってわざわざ馬車に乗せて移動すれば、私がいないことに気づいたヤーコンにすぐに追いつかれるし、その場をすぐ離脱した方が逃げ切れる。

能力を使って移動したが、バッカスの能力だけでは直接辿り着けない距離であるため、馬車に乗って目的地に移動しているのだろう。

ということは、かなりエクスティアから離れているのかもしれない。

その結論に至ると、絶望感しかないが、私は誰かの思い通りになんて絶対になりたくない。

私を愛してくれる家族がいる。

そして、幸せになるためにここまで積み重ねてきたものがある。

どんな取引をしようとしているのかは知らないが、私が求めてきたものを踏みつぶさせたりはしない。決して。

こんな状況にへし折られないように、気持ちを強く持とう。




「おい、降りさせろ。」


振動が止まったかと思えば、遠くでバッカスの声が聞こえた。

新鮮な空気を運ぶ風が頬に触れ、気持ちいい。

私は全身から汗を流していた。

体も沸騰するくらい熱いし、小刻みに震えている。

痺れが足まで広がっており、気分が恐ろしく悪かった。

明らかにあの粉の効果だろう。

ずっと寝かされていたはずだが、体が疲れている。

逃げる機会があっても逃げることができるのだろうか。

体に腕が回され、持ち上げられた。


「おい、こいつ熱いんだが。」


「お前があれだけ与えるからだ。相手が寄越した粉だ。相手に何とかさせればいい。」


体が揺らされ、吐き出しそうになる。

体調が悪化しているこの状況を何とかしなければ……。

取引相手がこの体を癒す術を持っているのならば、一度相手の手に渡る必要があるだろう。

未知の領域に足を踏み入れることになるため、あまりいい考えとは言えないけれど、何の施しを受けないまま時間だけが過ぎていけば、死んでしまうかもしれない。

たまに心臓の音が乱れることがあり、危機感を感じる。

心臓が麻痺してしまうことはあるのだろうか…。

そう考えるとぞくりとする。


「ほら、お前らが求めていた女だ。」


巻き付いている腕が少し揺れたかと思えば、体が浮き、そしてすぐに肩から落ちるようにして着地した。

どうやら投げられたらしい。

ぶつけた拍子に外れてしまったのか、肩に鈍い痛みが走り、食いしばる。

叫びそうになったが、無様な姿をこんな奴らに見せたくない一心で堪えた。

心臓の音にあわせて肩がじんじんと痛みを訴えかけてくる。

気分が悪い上に、物理的な痛みも加わって苦しい。


「まぁ、お母様に対してこんな扱いをするなんて。この無礼が許されるお思いで?」


甲高い、少し耳障りでもある女性の声がした。

冷たい手が急に額に触れ、驚いて体をびくつかせてしまう。

目にまかれている布に触れられたかと思えば、視界が一気に広がる。

辺りは暗くなっており、もう夜だった。

誰かが辺りを照らしているのか、周りがまったく見えないわけではない。

顔を少し上げると、のっぺらぼうのような、目も鼻も、そして口もない真っ白な顔があった。


「お母様ぁ……お会いできて嬉しいですぅ。」


表情は全くないその顔が、幸せそうな声でそう言った。


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