雪を降らせる
大人になった今も、ふとした拍子に彼のことを思い出す。
彼と過ごしたのはほんの十分程度。けれどそのわずかな時間の出来事は年月を経ても色褪せることなく、根を張ったように私の中に残っている。
そして、そのおかげで私は彼が教えてくれた小さな魔法を使うことができるのだ。
彼がホクロと呼んだ気まぐれな黒ウサギは今どこにいるのだろう。
彼らは無事に再会することができたのかな?
私が小学生だった時の話だ。身長がようやく小柄な母と並んだ頃のこと。
梅雨に入ってすぐの日曜日だったと思う。
あの頃はいつも日曜日が憂鬱で、けれどそのことを誰にも言えなくて、休日を楽しめないのは学校中で私だけだと思っていて、苦しかった。
その日も昼食を食べるとすぐに家を出て、狭い町内を一人でぶらついていた。
川辺の土手で四葉のクローバーを探す。なかなか見つからなくて、いい暇潰しになった。
ひとつだけ見つけたそれを握りしめ歩いていると、突然空が怒ったように曇りだし、瞬く間に雨が降り始めた。
運よく数十メートル先に屋根付きのバス停があった。みるみる出来ていく水たまりをよけながら全速力で走り、屋根の下へと飛び込む。
バス停のベンチには先客がひとりいた。
「こんにちは」
男の人にしては柔らかな声だった。
「こんにちは」
学校で叩き込まれた挨拶習慣によって反射的に元気よく挨拶を返す。
彼はおじさんではなくお兄さんで、けれど高校生よりは大人に見えた。今思えば二十歳前後くらいではなかったかと思う。
「雨やどり?」
尋ねられ、私はうなづいた。
彼は足元に置いていた大きなリュックサックの中に手を突っ込んだ。何かを探すようにがさがさと腕を動かす。
私はジーパンの後ろポケットからハンカチを抜き出して、濡れた肩をふいた。ついでに握っていたクローバーをハンカチに包み再びポケットにしまう。
彼はリュックから何かを引き抜くと立ち上がり、私の前に立った。
「よかったらこれ使わない?」
そういって紺色の折りたたみ傘を差し出した。おそらく雨が止む気配がなかったからだろう。
私は彼の好意を感じて自然と笑った。けれどまだ家に帰りたくなかったし、傘をさして雨のなか歩き回るのも嫌だった。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。雨やどり好きだから」
精一杯気持ちを込めてお礼をいい、お辞儀をした。
ぺこりと頭を下げながら、変な子だと思われるかもしれない、ともやもやした不安が雨雲のように胸にひろがっていく。
顔をあげると彼はにこにこ笑っていて、不安な気持ちが蹴散らされるように霧散した。
恭しい仕草で、隣に座るように促される。芝居がかった動きに思わず笑いながら腰掛けた。ベンチに並んで座り、屋根が弾く雨の音を聞く。
パパパパパパパ。
途切れなく続く頭上の雨音が愉快に思えた。
彼がとてもくつろいだ様子だったので、私は居心地が良く、晴れ晴れとした気分だった。
「雨音もいいなぁ」
彼がのんびりと呟いた。そして身体の正面を私に向けるようにお尻をずらして座り直す。そしてにこりと笑い口を開いた。
「迷子の黒ウサギを探してるんだけど、見たことない? 身体は真っ黒でふわふわ、口の横に白い斑点がひとつ付いてるんだけど」
そういいながら自分の口の横を指先で示す。
「見たことないです」
唐突な質問に驚きつつも答えた。
彼は少し淋しそうに目を細め、ありがとう、といって微笑む。
「ずっと探してるんですか?」
思わず尋ねると彼がうなずいた。
「一緒に旅をしてたんだけど、去年の冬にはぐれちゃってね。
でもホクロは頭のいいヤツだし、気まぐれなヤツだから今も楽しく好き勝手にやってるとは思うんだ。またどっかで会える気がするから、僕も好き勝手にしちゃってるしね。あ、ホクロっていうのは彼の名前だよ」
私は彼の顔をじっと見つめごくりと唾を飲み込んだ。今まで旅をしている人に会ったことはなかったし、ウサギを探している人にも会ったことがなかった。
私の視線に何かを感じ取ったのだろう。彼は私の期待に応えるように語り続ける。
「三年前の春にずっと暮らしてた村を出たんだ。一人で出発したつもりだったのに、ホクロがいつの間にかリュックの中に潜り込んで付いてきちゃったんだよ。
僕の村は雪がいっぱい降る寒いところでね、ホクロはもっと暖かいところに行きたかったんだと思う。立派な毛皮を着てるくせに寒いのが嫌いで、ストーブが大好きなヤツだから」
相槌を打つ余裕なんてなかった。まぬけに口を開けて、身を乗り出すように彼の話を聞いていた。そんな私を見て彼は愉しそうに口元を緩ませる。
「バスがくるまで、よかったら話を聞いてくれない?」
魅力的な申し出に、全力で首を縦に降った。
彼の暮していた村は冬が長い。一年の大半を雪に覆われて過ごす。
村人はその厳しい環境で生きるすべを持ち、善良で勤勉だ。けれど家で過ごす時間が多いためか恥ずかしがり屋な人が多いらしい。
「ぼたん雪、っていうのは名前の通り大きな花びらみたいな雪なんだよ」
そう彼はいった。
「白い花びらが空からとめどなく降ってくるんだ。音もなく、舞うこともなく、ただ静かに落下する。そして地面にふわりふわりと重なっていくんだ。信じられないくらい静かに。
夜は特に静かで、だけど無音とは全然違う。
冷たくて綺麗な音が密やかに漂っている感じ。静かな音は気持ちが良いものだよ。淋しくなったり、安心したり、感じ方は人それぞれだし、その時々で変わる。でも良いものだし、必要なものだ。
だから村人はたまに窓の外の静けさに耳を傾けるんだ。大人も子供も関係なくその音を聴くんだよ」
けれど三年前の冬は、雪に慣れた彼らでさえ戸惑うほどの凄まじい大雪だったのだそうだ。
あんな雪は生まれて初めてだった、と彼は苦い顔をしていった。
「村で一番長生きの大婆いわく、百年に一度の大雪らしい。
毎日わんさかと雪かきをしたよ。ストーブに載せた大きなやかんの水が沸騰する間に、子どもたちの作った雪うさぎは埋もれてしまうんだ。
だったら雪だるまを! と子どもたちは無邪気に雪玉を大きくするけれど、そんなことをしている間に頭から足まで白くなるんだ。雪に飲み込まれるみたいにね。母親は大慌てで雪まみれになった子どもたちを家の中に連れ戻す」
語りながら彼が身体に付いた雪を払うような仕草をした。その瞬間、キリッとした冷気が通り過ぎ、鳥肌が立つ。
それは本当に一瞬のことで、次の瞬間には夏を迎えようとする生ぬるい風が前髪を揺らした。勘違いするんじゃないよ、と私のことを諌めるように。
「ホクロは村外れの森に棲んでたんだけど、あんまりにも寒かったからだろうね。ある日勝手に僕の家に上がりこんでストーブの前で寝てたんだ。それでそのまま居着いてしまった。
一人暮らしだったから同居人が増えたのはちょっとうれしかったな。キャベツを要求して地団太を踏むわがままなヤツだけどね」
くすくすと彼が笑う。
「毎日毎日、朝も昼も夜も何回も、雪かきしたよ。屋根に上って汗だくになりながら雪おろしをしている時、頭の奥でプチンと音がして、思ったんだ。旅に出よう、ってね。もう雪にうんざりしちゃったんだよ」
雪が溶けてホクロの暮らす森に春の花が咲きだす頃、彼は村を出た。ホクロは森へ帰ったと思っていたから、リュックからホクロが飛び出した時は本当にびっくりしたのだそうだ。
彼が休憩するように深呼吸をした。私も同じように深呼吸する。唇ががさがさになっていた。
「この街は雪がたくさん降る?」
彼の問いに勢いよく首を左右に振った。雪が積もった景色なんて本とテレビでしか見たことがない。
「たまに雪が降るけどすぐに溶けちゃうんです。すごく寒いのに」
思いがけず不機嫌になってしまった声を聞いて彼が楽しげに口角をあげた。
「きみの目はホクロに似てるなぁ。黒くて大きくて丸いとことか」
「私はキャベツが嫌いです」
そうこたえると、彼が声を出して笑った。
「やっぱり似てる。ホクロも賢いヤツだからね」
彼は何だかうれしそうで、そんな彼の表情を見ていたら不思議と誇らしい気持ちになった。
「ホクロに似ているきみに、僕が知ってるとっておきの術を教えてあげる」
「じゅつ?」
「おまじない、の方が分かりやすいかな。魔法みたいなものだ。とても小さなものだけどわりと役に立つよ」
魔法! 素敵なその言葉に私は目を丸くした。
「あ、空を飛んだり、物を消したりするヤツじゃないよ! すごくささやかなものだからね」
私はうなずいた。たとえどんなものであっても、彼が教えてくれるそれは素敵なものに違いない。心の底からそう思ったし、私はすっかり彼に夢中だった。
「自分の中に雪を降らせるんだ」
彼は静かな声でいった。
「悲しいときや苦しいとき、怒ってるときや集中したいとき、優しくなりたいとき、目を閉じて想像するんだ」
彼の低く柔らかな声には真摯な響きがあって、私は心地良いその響きに浸った。
「目を閉じて想像して。
きみは広い場所にいて、空からはぼたん雪が降っている。
耳をすませば雪の音が聴こえるよ。とても落ち着く静かな音だ。音を聴きながらどんどん雪を降らせて。白い花びらみたいなきれいな雪を降らせるんだ。
きみにどんなことがあっても、どんな気持ちになっても、自分の中に雪を降らせてその音に耳をすませていたら、嫌なものは雪が吸い取ってくれる。
嫌なものが減るたび空気はひんやりするけど、気持ちがいいから大丈夫。目を開けたとき、身体が軽くなってるはずだよ」
私はいつの間にか目を閉じて彼の話を聞いていた。私の中には雪が降り、すうっとした澄んだ空気を感じて思い切り吸い込む。目を開けたとき、頭の中がすっきりとしているのを感じた。
「きみにこの魔法がよく効くように、僕はきみのことをずっと覚えているよ」
彼は笑った。
降り続いていた雨はいつの間にか止んでいた。
目を開けるとすぐに、バスが来た。
「今日はありがとう。気をつけて家に帰ってね」
そういって立ち上がった彼の細長い影が私の足元に伸びてくる。
彼が行ってしまう。
そう思った瞬間、息が詰まった。
プシューッと乱暴な音がしてバスの扉が開く。
そのとき、私は思い出した。
慌ててジーパンの後ろポケットに手を突っ込んでハンカチを取り出すと、バスに乗り込む彼の手に押しつける。扉の向こう側にいる彼の手の中で、小さく包まったハンカチがはらりと開いた。
ハンカチの上の小さなクローバーを見て彼が笑う。
ありがとう、という彼の声はバスの扉が閉まる音でかき消されてしまった。だけど私には聞こえたのだ。
私は手を振った。彼も手を振ってくれた。バスはあっという間に小さくなり見えなくなった。
私はそれからもあまり楽しくない日曜日を送った。けれど以前より日曜日が嫌いではなくなっていたし、憂鬱なときには自分の中に雪を降らせた。
中学生になったとき、母と二人で街を出た。あの時のバス停からバスに乗って。父は見送りに来なかった。
彼が教えてくれた魔法は、空を飛んだり物を消したりするものより、ずっとずっと役に立つ。あの日から私のことを守ってくれているのだから。
きっと彼は今も私のことを覚えてくれているのだろう。
だって雪を降らせるたび、私の身体は驚くほど軽くなるのだ。
瞼の裏にある足跡ひとつない美しい雪原は、いつだって一歩を踏み出す好奇心と勇気を私にくれる。
春も、夏も、秋も、冬も。
晴れた日も、雨の降る日も。
どんなに強い風が吹き荒れても。
私は足跡をつけながら歩き続ける。