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5 箱の中の手袋

 初めての祭儀から十年。それがキュベレーの聖女を務める期間と定められている。

 本来ならツァイはもう聖女の座を降りているはずなのだが。十年を過ぎても、次の聖女が見つからなかったために、任期が一年延びている。


「でも、それももうあと一月で終わりだわ」


 体力が回復したツァイは、神殿の中庭を散歩していた。側にはヒューリが付き従ってくれている。

 ツァイやヒューリ、司祭、巫女たちが暮らす棟の柱廊で囲まれた庭は、広い草地になっている。


 庭には、獅子を従えたキュベレー像。ツァイはこの神殿で暮らして長いが、実際に仕える女神と対面したことはない。

 彼女は常に紗の向こうにいて、ただ言葉少なく命じるばかりだ。


 急に強い風が吹きつけ、ツァイの髪が乱れた。だがすぐに風は止んだ。

 不思議に思って顔を上げると、ヒューリの袖がばさばさと風を受けている。


 とっさに風よけになってくれたのだと思うと、ツァイは嬉しさに微笑んだ。


(でも……)


 双子から頼まれたことを考えると、気が重くなる。

 彼らの提案は、こうだった。


 ――キュベレーを殺してほしい、と。


(聖女が、仕える神を殺すなんて、聞いたことがないわ)


 とっさに突っぱねたけれど。アメシストもシトリンも納得した様子ではなかった。


 双子は互いに顔を見合わせると「このままだとツァイが殺されちゃうのにね」「断る理由が分からぬ。己が身を守ろうとは思わぬのか」と不思議そうに首を傾げていた。


 ふと視線を感じて顔を上げると、ヒューリが心配そうに眉を下げて、ツァイを見つめていた。

 まだ具合が良くないと思っているのだろう。


「平気よ。もう少し歩きましょう」


 ツァイの身長は、ヒューリの胸辺りまでしかない。もちろん、足の長さも歩幅も違うのだが。風よけの壁に徹してくれているのか、ヒューリはぴったりと隣を歩いてくれる。

 ツァイの足下の草はまっすぐに葉を伸ばしているが、少し離れた場所では葉が揺れている。小さな羽虫が、風にさらわれていった。


 ほんの少し腕を動かせば、彼の手に触れることができる。


 白い手袋を外したなら、彼の手はどんな感触なのだろう。関節が節くれだっているのだろうか。かさついた肌なのだろうか、それともしっとりとしているのだろうか。

 もし素手と素手で、手をつなぐことができたなら。どんなにか心躍ることだろう。


 布越しのくちづけについて、ヒューリは何も話してくれない。元々口数が極端に少ない彼だから、当たり前かもしれないけれど。


(説明を求めてもいいかしら。いいわよね。だって理由があってのことかもしれないし)


 ぐっと拳を握りしめて、ツァイはうなずいた。


「あの、ヒューリ。質問があるの」


(がんばれ、わたし。負けるな、わたし。押せばいいってシトリンも言ってたじゃない)


 無言のまま、ヒューリがうなずく。


「あの、この間の……あれは何だったの?」


 返事はない。この訊き方は、具体的ではなかったかも。だけど自分の口からキスとか尋ねられるはずもない。

 恐る恐る見上げると、ヒューリは白い手袋に包まれた左手で顔を覆っていた。


「あの、ヒューリ?」


 彼の指の間から、きつく閉じた瞼が見える。歯を食いしばっているのか、顎には力が入っているようだ。


「……忘れてください」

「え?」

「卑怯なのは重々承知しております。ですが、俺の迂闊で愚かな行動が、ツァイさまの名を貶めることになってはいけません。どうか……」

「なかったことにしろと?」

「はい。そうして頂ければ……」

「そう……なの」


 陽射しは温かいのに、まるで太陽が消えてしまったかのように、ツァイの心にだけ闇が訪れた。

 もしかしたら同じようにヒューリも、ツァイのことを好いてくれているのだと思ってしまった。


「……勘違いだったのね」


 一瞬、ヒューリが慌てた表情でツァイを見下ろした。

 だが、それだけだった。


 青い空や柱廊がまるで水に溶いたように滲んでいく。

 どうやって自分の部屋まで戻ったのは、記憶になかった。


 ◇◇◇


 突然、中庭にしゃがみこんで泣きだしたツァイを、ヒューリは抱え上げて部屋に戻った。

 声を殺してはいるが、次から次へと溢れる彼女の涙を見ていると、まるで首を絞められたかのように苦しくなる。


「勘違いなのね」とツァイは言っていた。その言葉に期待をしてしまう自分が、もっと嫌になる。

 あと少しで自由になる人なのだ。自分の未練で縛りつけてはならない。


 ツァイをベッドに横たえて、毛布を掛けてやる。

 泣き疲れたのか、しゃくりあげながら寝入ってしまったツァイの頭に手を伸ばす。


 慰めることなどせずに、突き放して部屋を出ればよかったのに。それができないのは、背中を丸めている彼女を、それでも愛しいと思ったからなのか。

 ツァイの頭を撫でようとして、手袋が土で汚れているのにヒューリは気付いた。


(触れるなということか)


 ため息をつきつつ、予備の手袋が置いてある棚へと向かう。

 棚の引き出しから新しい手袋を出して、ヒューリは机の上に置いてある箱に気づいた。

 金属の箱の蓋が、少しずれている。その隙間から覗いているのは、白い手袋だ。


「これは、俺の」


 今、手に持っている新しい手袋ではない。指や手の厚みによって、布がよれた手袋だ。


「なぜ、こんなものを」


 箱に入っている十枚ほどの手袋を、ヒューリは握りしめた。


 答えは分かっている。二人の気持ちは、同じなのだ。

 今はまだ、その時ではない。だが、一月経ったなら。

 好きという言葉を伝えても、許されるのかもしれない。


 そう、あとたった一月なのだから。


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