3 羽虫のせい
顔にかけられた布が、そっと外される。
ツァイは瞬きをすることも忘れて、眼前にあるヒューリの顔を凝視した。
琥珀色の瞳は揺らいでいる。とても切なそうに。
彼は無口だけれど、その手や瞳はとても雄弁だ。
(もしかして……あなたも?)
けれどその問いを口にすることはできない。自分たちは聖女と着付け師の関係でしかない。厳然とした身分差が、そこにはある。
でも、今は聖女だけれど。かつてのツァイは生活に困った親に売られた子どもだ。
ヒューリは自分のことを話してはくれないが、彼に教養があることは伝わってくる。
司祭のサドリと議論しているのを見かけたこともある。その内容は難しく、ヒューリがきちんとした教育を受けた人間であることがツァイには分かった。
「ヒューリ」
ツァイは、思わずヒューリの腕に手をかけた。がっしりとした筋肉のついた腕は逞しく、自分のひょろっとした頼りない腕と全然違う。
「……羽虫が……」
「今日は室内によく虫が入る日なのね」
「はい。そのようです」
羽虫が飛ぶ音なんて、全然聞こえない。それが嘘だと分かっていても、応じるしかない。
ツァイとヒューリは無言で向かい合ったままだ。互いの瞳に、相手の顔が映っている。
今の自分は、どんな風に見えているのだろう。嫌われていないのなら、ほんのわずかでも愛しいと思ってもらえるのなら。とても嬉しい。
ふとヒューリが腕を伸ばして、ツァイの体に服を羽織らせた。
背中から胸にかけて包帯が巻かれているから、あまり寒さを感じなかったけれど。ほぼ半裸の状態だ。
いつの間にか日が暮れていたのだろう、澄んだ虫の声が窓の外から聞こえてくる。
コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。
負傷しているツァイのために、侍女が夕食を運んできたようだ。ヒューリが角盆を受け取ると、豆のスープの香りが漂った。湖で捕れた魚の塩煮に大麦のパンもある。
「お召し上がりになりますか?」
侍女に尋ねられて、ツァイは「はい」と答えた。ヒューリはベッドの側の机に角盆を置いて、手袋に包まれた手でスプーンと二股のフォークを差し出してきた。
このフォークは口に運ぶための物ではなく、肉や魚を取り分けたり押さえたりするためのものだ。
だがそれらを、ツァイは受け取らない。ヒューリは困りつつも催促するように、また差し出してくる。
「食べさせてください」
「……っ」
ヒューリが驚いたように、口にしかけた言葉を呑みこんだ。
訴えかけるようなその瞳が「さっきは大丈夫だと侍女に言ったではないか」と告げている。
でも、知らない。
ただ甘えたい。それだけだ。
肩をすくめたヒューリは、ベッド脇の椅子に腰を下ろして、スプーンでスープをすくった。
とろりとした淡い黄緑色のスープが、口に流し込まれる。
心が落ち着くのはその温かさなのか、それともヒューリに甘えているからなのか。
魚もパンも食べる気にならなかったので、食事はスープだけで終えた。
もう、よろしいですねという風に目配せして、ヒューリは角盆を手にして部屋を出ていった。
パタン、と扉が閉まる。
それを確認して、ツァイは大きな息をついた。
ベッドから降りて、廊下と面した壁へと向かう。壁に手をついた時、背中に痛みが走った。
そのままずるずるとしゃがみこむ。
痛いけれど……それよりも少し前に起こったことが心を占めている。
ツァイは、そっと自分のひたいに触れた。
「あれは、キスでした」
その言葉を口にするだけで、頬が火照ってしまう。
なぜ? どうして?
疑問は頭に浮かぶけれど、答えを求める自分は、とても身勝手だ。
好きだから、という返事以外ほしくないから。
ツァイは頬を、両手で挟んだ。でも、その行為すらも手袋に包まれたヒューリの大きな手を思い出させて。
顔だけでなく耳も首筋も熱くなる。
布越しに唇が触れたひたいは、もっと熱い。
「好きなんです……」
なのに、どうしていいのか分からない。
薄暗い室内で、一人壁にもたれて膝を抱える。
「ふ……うぅ……うぅ」
ぽろぽろと涙が溢れてきた。なぜ自分が泣いているのか、誰か教えてほしい。
「……アメトリン」
親しい双子の名を、思わず口にしていた。
◇◇◇
信じられないことをしてしまった。
ツァイの部屋を出たヒューリは、手袋をはめたままの右手で、自分の顔を覆った。
「……馬鹿か、俺は。実際に触れないから、それでいいってもんじゃないだろ」
たとえ慰めたかったとはいえ、聖女のひたいにキスするなんて有り得ない。
薄い布越しの感触を思い出すだけで、体の奥が熱くなる。
(ツァイさまは驚いて、言葉もなかったじゃないか。きっと何が起こったのか、分からなかったのだ)
そうだ。そうでないと困る。
あの方に恋慕していることがばれたら、きっと悩ませてしまう。嫌っていると思わせておいた方が平穏なんだ。あと一月しか、お世話をすることができないのに。
人気のない廊下に背中を預け、力なく肩を落とす。
同じ壁の反対側で、ちょうどツァイと背中合わせになっていることをヒューは知らない。
(スープを食べさせてほしいと甘えたのも、ただ体がきつかったから。それだけだ)
過度な期待はするな。
たまたまあの場にいたのが自分というだけで、侍女がいたならば、そちらに頼んでいただろう。
(そうだ。俺の代わりはいくらでもいるはずだ)
これまでは仕事だからお側にいることができた。でも、彼女が聖女を辞めたら、もう接点はなくなる。
だからといって、これ以上聖女を続けることなどあり得ないし、そんなことは望んでいない。
ツァイをこれ以上、つらい目に遭わせたくはないんだ。
幼い頃はただ助けたい、庇護したいとの思いだけで仕えていた。ツァイのことを女性と認識したのはいつからだろう。
(阿呆が。自分の年齢を考えろ)
普通、三十歳を過ぎれば子どもの一人や二人がいて、当たり前だ。
不釣り合いにもほどがある。わきまえなければならない。




