20 遥かなるサラーマ
ツァイとヒューリの乗った帆船は、遥かな南東の島に向かっていた。
目指す島の名はシンハ。
『火山があって、あたしたちの仲間がよく採れるんだよ』
『さよう。土の中から掘り起こすのだ』
「精霊が採れるの? ざくざくと?」
思わず声を上げたツァイに、二本の剣から朧に姿を現した双子が、互いに顔を見合わせる。
その呆れた表情は『ばっかじゃないのー』『愚かにもほどがある』と言っている。彼らは表情も雄弁なのだ。
「採れるのは、宝石ですよ」
船の甲板で、ヒューリは笑いを噛み殺している。この船は貿易船で、南海の島との交易品が積んである。
「シンハとシンハラ。この二つの島は、宝石の産出で有名で、ツァイさまの装飾品も、シンハの宝石が用いられていましたよ」
着付け師らしく、ヒューリは宝飾品にも詳しいが。ツァイは煌びやかな衣装や宝石には、興味もなかった。
『さよう。マグナ・マテルは宝石に命を吹き込み精霊を宿らせる。いずれは我らも代替わりし、消えることだろう。だが、次にまた新しい精霊が生まれるだろうの』
「消えるの? アメシストもシトリンも双子神になったのに」
『人と同じだよ。永遠なんてないの』
『まぁ、我らが島にいる内にマグナ・マテルを迎えることができればよいが。その日が来るということは、サラーマでの彼女の信仰が途絶えるのと同義じゃからの』
水平線の向こうに見えていたサラーマは、いまではぼんやりと霞み、しだいに線となって消えていく。
かの地に二度と戻ることはないだろう。
「ツァイさま。船内に戻られますか? 海風は体によくありませんから」
「いえ、もう少しこのままで」
潮風がツァイの銀色の髪を乱したからか、ヒューリが手早く紐で一つに結んでくれる。そのまま髪を頭の上の方でまとめようとして、ヒューリは我に返ったように、はっとした表情を浮かべる。
「ヒューリ?」
「済みません、手が勝手に動いてしまいました。着付け師の感覚が抜けません」
ツァイの髪を手にしたまま、困ったように眉を下げるヒューリが可愛く思える。
その時、船が揺れてツァイはよろけた。
ヒューリはとっさに彼女の髪を離し、背中に腕を回す。アメトリンの剣は甲板に倒れるけれど、お構いなしだ。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ。びっくりしたわ」
ヒューリは片腕だけで簡単にツァイを抱え上げて、揺れる船上でもまったく平気そうだ。
彼だって船は初めてのはずなのに。どうしてどこにも掴まらずに立っていられるのだろう。
船といえば……ツァイは今自分がいる場所を思い出して、ヒューリの頭にしがみついた。
「あの、ヒューリ。この船の下って地面じゃないのよね。海って、水たまりみたいに浅くないのよね」
「底知れぬほど深いといいますね。潜っても潜っても、海底にたどり着かないとも」
ツァイは息を呑んで、さらに強くヒューリに抱きつく。
「は、離さないでね」
「離さなくていいんですか?」
「当然です」
「では……お言葉に甘えて」
ヒューリが、ツァイの耳元で吐息のように囁く。その言葉に、背筋がくすぐったい気持ちになるのは、なぜだろう。
「あ、あの。ヒューリ。下ろして」
「離さないでと伺いました」
「そういう意味ではないの」
ツァイは顔を赤く染めて訴えた。だがヒューリは、聞き入れてくれない。
「何年我慢したと思っているんですか?」
「……何年なの?」
ヒューリは明らかに狼狽えたように、視線を逸らす。
「いつからわたしのことを好きだったの?」
「潮風は体に良くないですね。船内に入りましょう」
「ねぇったら」
催促しても、顔を背けたままで答えてくれない。
まるでかつての彼だ。
けれど今のツァイは知っている。ヒューリはツァイのことを嫌って、そっぽを向いているわけじゃないと。
「こっち向いて」
両手で彼の頬を挟み、自分の方を向かせる。恨みがましそうな琥珀色の瞳に睨まれた。
でも、もう怖くない。
「ツァイさま。我儘になられました?」
「素直になったの」
「なるほど……そうきましたか」
「で、いつから?」
ツァイはヒューリの頬に手を添えたまま、顔を近づけた。神殿にいた頃とは違い、少しひげが伸びている。
ざりっとした硬い感触。生まれて初めて触れるし、撫でるとちょっと痛いけれど。これもヒューリだと思うと、嫌じゃない。
「自覚したのは、最近です。ほんの数か月前です」
ツァイはヒューリの顔をじっと覗きこんだ。
「それだけ?」
「無自覚だった頃は、自分では分かりません。なぜなら自覚がないのですから。気付きようがないでしょう?」
さっき何年我慢した……って言ってたのに。矛盾していることに、自分で気づいていないの? ツァイは頬を膨らませた。
「そういうツァイさまは、いつから俺のことを好きだったのですか?」
「最初からよ」
好きになってほしくて一生懸命話しかけて、お花も摘んで。神殿の庭の花を摘みすぎて、当時の巫女に怒られたこともある。
――聖女さまが通った後には、ぺんぺん草も生えない、と。
ところでぺんぺん草って、何だったのだろう。
「それは随分と、ませていたんですね」
「そうよ。ヒューリが素敵だったから」
ツァイは軽く瞼を閉じて、ヒューリにくちづけた。
一瞬、何が起こったのか彼は分からなかったようだ。だがしばらくして理解できたのか、空いた手で顔を覆ってうずくまってしまった。
もちろんツァイを抱えたままで。
「な、ななな、なにをするんです」
「キスよ」
「どこでそういうことを、覚えたんです」
指の間から、戸惑う声が洩れている。
「ヒューリから」
「……俺ですか」
相当ダメージが大きかったらしく、ヒューリは立ち上がることができずに、しゃがみこんだままだ。
「ああ、確かに俺です。俺しかそんなことをしません。いや、俺以外がしても困りますが、俺がしてもいけませんよね」
何をぼそぼそと呟いているのだろう。大丈夫だろうか。
いつまでもヒューリは自問自答しているから、ツァイはもう甲板に降りようとしたけれど。彼は腕を離してはくれない。
「あの、大丈夫?」
「気持ちが落ち着くまで、しばらくこのままでいてください」
「え、ええ」
よく分からないけれど。あなたがそう望むのならば、しがみついていよう。
本当のことを言えば、いつから好きとか、どちらが好きになったとかは関係ない。この気持ちを受け入れてくれた、それだけが大事なのだから。
ヒューリの左腕に抱えられたまま、ツァイは自分の右手をじっと見つめた。
キュベレーの背を刺した時の感覚は、まだこの手に残っている。
もう無邪気な存在ではいられない。誰かを守るためとはいえ、彼女を殺した事実は決して消えないのだから。
ツァイは空を仰ぎ、眩しさに目を細める。陽光が、銀色の睫毛を照らす。
「サラーマにも、この空は続いているのね。同じ太陽が輝いているのでしょう?」
「ええ」
気を取り直したのか、応じるヒューリも青空を見上げた。その眼差しは、寂しげだ。
彼もきっとツァイと同じことを考えているに違いない。
あの国の神殿に残る優しい人を、どうか穏やかに照らし続けてほしい、と。




