19 外へ
神殿の外に出ると、辺りは早暁の頃だった。西の空はまだ夜の闇が残り、東の空には朝の気配が漂っている。
肌寒さに、ツァイは布に包まれた双子の剣を抱きしめた。
物心ついた時には、この神殿の中で暮らしていた。ろくに外出することもなく。
「知らなかったわ。こんなに小さかったのね」
ふり返ったツァイは、己の世界のすべてであった神殿が、広い街のほんの一画でしかなかったことに驚いた。
井戸の水で汚れを流していたヒューリが、水を滴らせながら顔を上げる。
何か拭くものをと考えて、ツァイは剣に巻いてある布をヒューリに手渡した。
『やっだー。あたしのお布団』
『ちと寒いな』
『やめてよー。男くさいにおいがつきそう』
ぎゃあぎゃあと喚きたてる精霊たちの声に、ヒューリは結局自分の手で大雑把に顔を拭った。
「まぁ、お気に入りを取り上げてはいけませんから」
「そうね。わたし達は大人だもの」
ツァイは再び、布で剣を巻く。アメトリン達は安心したのか、おとなしくなった。
「ところでツァイさま。これからは外の世界で生きることになります。分かってらっしゃいますね」
「もちろんよ」
ヒューリの言葉に、ツァイは覚悟を込めてうなずいた。
「えーと。実際のところ、理解してらっしゃいますか?」
「服は自分で着るのよね。髪も自分で梳かして、あ、そうそう髪も自分で洗えばいいのよね」
徐々にヒューリの顔が曇っていく。
これはいけない、名誉挽回しなければ。ツァイは慌てた。
「体は自分で洗ってたわ。顔もね」
「……俺はどうやら子育てから始めた方がいいようですね」
「お嫁さんとして育ててくれるんじゃないの?」
何気なく発した言葉だったのに、ヒューリは大きく目を見開いた。
言葉もなくツァイを指さし、その後自分を指さした。
「えーと……ツァイさまには俺なんかより、年相応の青年の方がふさわしいかと」
「うそっ。わたし、ヒューリの元から離れて、見知らぬ男性に嫁ぐの? そんなの聞いてない」
「……でしょうね。俺も考えていませんでした」
ヒューリは困ったように天を仰いだ。
毛先からは、まだ水が滴っている。昇りかけた朝日に照らされたその姿は、まるで彫像のようにきれいで。
つい、見とれてしまった。
「参ったな。なんで俺はこんなことを言ってるんだ?」
明けていく空に答えが書いてあるわけでもないのに、ヒューリはまだ上を向いている。
その喉元に女神の……リリの指の痕が残っている。
ツァイは思わず、ヒューリの腕にしがみついた。
「ツァイさま?」
「わたし、一緒にいていいの? 迷惑じゃない?」
ヒューリは、懐から取り出した手袋をはめた。そしてツァイを抱きしめた。
「迷惑なはずがありません。共に居させてほしいと願っているのは、俺の方です。さすがに風呂のことまでは存じ上げませんでしたが。あなたに何ができて、何ができないか、わきまえているつもりです」
「他の人に嫁がなくてもいいの?」
「嫁がせません」
ヒューリの逞しい腕に力がこもる。息が苦しくなるほどに。
「あなたを他の誰にも渡しません。俺の我儘を、聞いてもらえますか」
「はい」
彼の胸に顔を寄せているから、その鼓動の速さがツァイの耳に直接伝わってきた。
緊張しているのは自分だけじゃない。
手を繋いで歩いていると、ふいにヒューリが十字路で立ち止まった。
石造りの建物が並ぶ道の、その奥に目を向けている。
空は徐々に明るくなっているが。街自体はまだ暗がりに沈んでいる上に、似たような建物ばかりだから、彼が何を眺めているのか分からない。
「学校が見えます」
「ヒューリが通っていた?」
「はい。正確には俺とサドリが通っていた中等学校です」
目を細めて、ヒューリはその古めかしい建物を指し示した。ただ懐かしいだけではなく、苦しさを含んだような表情で。
「もっと近くで見る? そうだわ、ヒューリの実家もあるんでしょう。寄らなくて大丈夫なの?」
ツァイが勧めると、ヒューリは学校とは反対の道に視線を向けた。きっとその先に、彼の家があるのだろう。
「すでに両親もおりませんし。兄夫婦と姪が住んでいますが、俺も神殿で暮らすようになってから、全然実家には立ち寄らないので」
「……もう会えないかもしれないのよ?」
二人はサラーマの港から船に乗り、南海の島へ向かうことになっている。事を為した後、交易のための商船に乗せてもらえるよう、マグナ・マテルが手配しているのだとアメトリン達に教えてもらった。
「リリの命を奪った俺が、何もなかったふりをして自分の家族に会うことなんてできません」
ヒューリは一度瞼を閉じると、迷いをふり切るように歩きだした。港へ向かって。
無言のまま進むと、どこか離れた場所から、賑やかな声が聞こえてきた。
果物の甘い匂いや魚のにおいが、風に混じっている。
「朝市の準備をしているようですね」
「聞いたことはあるけれど、見たことはないわ」
世の中は、自分の知らないことでいっぱいだ。
土の道には轍という線があって、そこは馬車が通った跡なのだとか。夜明けに井戸に水を汲みに来るのは子どもだとか。
魚をくわえた猫を追いかける人がいるけれど、奪い返した魚を、その人は食べるのだろうか、とか興味は尽きない。
ツァイは学校に通った経験もないし、実家の場所がどこなのかも知らない。
神殿がツァイにとって世界の全てで、故郷であるはずのサラーマの王都をじかに見るのは、これが初めてで最後だ。
思わず、繋いだヒューリの手をきゅっと握りしめた。
「どうかなさいましたか?」
「ううん、なんでもないわ。ねぇ、ヒューリ。もうわたしに対して、手袋をはめる必要はないと思うの」
「あっ」
ついクセで、とヒューリは苦笑しつつ手袋を脱いだ。
神殿で感じた時のような冷たい肌ではなく、温かな手に包まれて、ツァイはほっとした。
外の世界が初めてで心細いなんて、教えない。
だって卵から孵ったばかりの雛のようで、恥ずかしいもの。




