18 女神殺し
「ぐ……っ」
ヒューリは苦しそうに呻いた。首を絞めるキュベレーの手を引き剥がそうとしても、できないようだ。
彼の手から長剣が落ちていく。
「我を殺すのかえ」
シトリンを宿した短剣の柄を握るツァイのてのひらは、じっとりと汗をかいていた。
ツァイを睨みつけるキュベレーの顔から、すとんと険が取れた。だが次の瞬間、彼女は悲鳴を上げた。
「いやっ! どうして?」
自分の手が、ヒューリの首を絞めていることに驚いたのだろう。さっきまでキュベレーであった女性は、半狂乱になって、手を離そうとする。
だが、彼女の思いとは反対に、ますます指に力がこもり、指先がヒューリの首に食い込んでいく。
「面白いのう。我に謀反を起こそうとするからじゃ。どうじゃ? 好きな男を自らの手で縊り殺す気分は」
口からは不穏な言葉を発するのに、その表情は動揺したリリのものだ。大きく目を見開いて、やみくもに首を振っている。
「二度と叛かぬように、しつけねばならぬのぅ」
さらに手に力が込められたのか、ヒューリが女神の手の甲を掻き毟る。
もはや迷っている暇はなかった。
ツァイは女神の背中に短剣を突き立てた。
鈍い感触を伴いながら、剣の切っ先が沈んでいく。
「お……前。我の聖女であるのに……」
「ヒューリを離してっ!」
無我夢中で柄を握る手に力を込める。その時、どさりと音がして、ヒューリが床に倒れ込んだ。
激しく咳きこんだヒューリは、体を起こすことも難しそうだ。
「ヒューリ」
「……ご無事……ですね」
大きな手がツァイの頬を撫でる。何度か触れられたことのある手よりも、体温が低い。
その冷たい手に、ツァイは自分の手を添えた。
だが、次の瞬間、ヒューリの表情がこわばった。
ツァイを突き飛ばし、よろけながらも立ち上がる。
床に倒れたツァイが目にしたのは、シトリンの短剣で襲いかかってくる女神の姿だった。
その形相は凄まじく、女神というよりも怪物を連想させた。
髪をふり乱し、ツァイ目がけて剣を振り下ろす。シトリンの悲鳴が、女神の手の内から聞こえる。
『いやよ、やめて。あたしはツァイを傷つけたくない!』
ヒューリはアメシストの長剣を握り、女神を斬りつけた。
血しぶきが上がり、悲鳴が神殿内に響き渡る。
タールと血のにおいが、辺りに満ちた。
「なぜ? ヒューリ。私よ、リリよ」
「あなたがキュベレーであっても、リリであっても。ツァイの命を奪うことは許さない」
苦しそうな呼吸をしながら、ヒューリは女神を睨みつける。その顔は、女神の血で赤く濡れていた。
「違うの。こんなの望んでないの。私はヒューリに幸せになってほしいの……私がヒューリを幸せにしたいの」
ぼろぼろと大粒の涙を、リリはこぼした。
「……さよなら、リリ」
「ヒューリ」
「どうか、リリとして別れを告げさせてください。俺が憧れた、優しいあなたとして」
彼の言葉に、リリは柔らかな笑顔を浮かべた。
だが、その目の端に何かを映したのか、震える手を伸ばす。
「だめ……サドリ。やめて……」
ふり返ったツァイが見たのは、自らの首を掻き切ろうとする司祭の姿だった。
「姉さん。あなたを一人にはしません」
サドリは瞼を閉じ、眉間に深くしわを刻んだ。
ツァイは飛び出した。シトリンの短剣で、サドリが首に当てた短剣を弾く。
勢い余ったツァイは、そのままサドリもろとも床に倒れた。
「馬鹿なことをしないでください」
「ツァイさま」
サドリの短剣を蹴り、床を滑らせる。ツァイはサドリに馬乗りになった状態で、彼の服の胸元を掴んだ。
「……なぜ泣いておられるのですか?」
「泣いてなどいません」
上から見下ろすサドリの頬に、徐々に雫が落ちていく。ツァイの涙は、司祭の頬を伝って流れていった。
「あなたを拘束した女神は消え、あなたを傷つけ続けた私も消えるのですよ。むしろ嬉しいのでは?」
「……嬉しいですよ。わたしはあなたが嫌いなのですから」
でも知ってしまった。司祭が背負った苦しみを。家族のために自らを売った女神の器としての女性のことを。
神と人が共存していても、荒ぶる太古の神に引きずられ、人が苦しんでいいはずがない。
「狂っています。おかしいんです。人を捧げることが、神にとっての最大の奉仕だなんて。この神殿の中だけ、人そのものを供物とした、遥かな古代のまま時が止まっているかのようです」
サドリは無言で、ツァイを見上げている。ツァイがうつむくと、長い銀の髪が彼の顔を覆った。
まるで女神を隠していた紗の布のように。
「おっしゃるとおりです。私は時を止めたかったのです。弟である私のせいで人生を狂わせた姉のために。そのためには、あなたに犠牲を強いることも厭いませんでした」
視界を塞ぐツァイの銀髪の隙間から、サドリは息絶えたリリを見つめた。
「ここはキュベレーが姉に与えた牢獄です。一生この神殿から出ることが叶わぬのなら、せめて幻であっても夢を見せてあげたかったのです」
「……夢」
「彼女が、聖女ではなくヒューリを望むのなら、私にそれを制止する理由はありません。最大の犠牲を払い、精神を蝕まれていく彼女を、責めることなどできないのです」
その夢の結晶が、リリの希望が、血に染まった手袋だったのだろうか。
ツァイはサドリから離れた。立ち上がろうとした彼女の手を取ってくれたのは、ヒューリだ。
包帯が巻かれた彼の大きな手を、ツァイは握りしめた。
この手は常に自分を守ってくれていた。
穢さぬようにと手袋を、傷つかぬようにと祭儀の身代わりを、そしてツァイに女神殺しの罪を被せぬように。
結果的に女神にとどめを刺してくれたのは、ヒューリだ。だが、それは彼にとって大事な人でもあった。
近く、この神殿からは人が去るだろう。血と犠牲を狂乱を求めた信仰が、これ以上続くことはもうない。
神殿の外の時の流れを無視して、いつまでも古の時代を続けることなどできはしない。
「逃げなさい、二人とも」
黒い幽鬼のように、ゆらりとサドリが立ち上がった。
彼は横たわる姉の側に座り、その細い体を抱きしめた。
とても愛おしそうに。
「そこの精霊たちを連れて……このサラーマから立ち去りなさい」
「サドリ。お前……」
「賊が神殿に潜り込み、乱心した女神を殺して去ったのです。夜が明ける前に、賊はどこかへ消えました。私は司祭、神殿を離れることはできませんが、危険が及ばぬように聖女を逃がしました。着付け師は、その護衛です。彼らの行方は分かりません」
背中を向けたまま、サドリは二度とヒューリやツァイを見ようとはしなかった。
とても孤独な背中だった。




