17 籠の中の手袋
がばっと大きく紗がめくられた。ふだんは薄布に閉ざされた神の座所から、一人の女性が姿を現す。
(この方が、女神キュベレー)
ツァイは息をのんだ。
女神の姿をじかに見るのは、初めてだ。
(いえ、初めてではないわ。さっき神殿の前で、炎に包まれた剣を見て笑っていた人よ)
キュベレーの見た目は、三十代後半だろうか。けれど年齢以上に、手の甲には血管が浮き出て、首にはしわが刻まれている。
「……リリ。やはりあなたが」
呆然とヒューリが呟いた。その琥珀の瞳は、まっすぐに女神を見据えている。
懐かしさをたたえた表情は、まるで少年のようだ。
「大きくなったわね。元気そうで何よりだわ」
「いえ、俺はもうあの頃の子どもではありませんから」
「私にとっては、サドリもヒューリもあの頃のままよ」
軽やかな話し声は、これまで聞いたことのある女神の声とは全く違う。
女神は穏やかで優しそうな視線を、ヒューリとサドリに送るが、決してツァイに目を向けようとはしない。まるでそこにいないかのように、完全に無視している。
「そうそう。私の着付け師の席が空いたの。あなたに後をお願いしようと思って」
「いえ、俺……私は聖女の着付け師ですから」
「もう決めたことよ」
キュベレーは、どさりと何かを床に落とした。燭台はすべて倒されて、神殿の中は薄暗い。
ただ庭で燃え盛る炎の明るさだけが、窓を通してそれを虚ろに浮かび上がらせる。
「見てはなりません」
ヒューリが慌てて、ツァイを腕の中に閉じ込める。
だが、一瞬目が捉えてしまった。
床に転がっているのは、手だった。
ツァイの悲鳴は、ヒューリの服に吸い込まれた。あまりにも恐ろしくて、必死に彼にしがみつく。思い出してはいけないと思うのに、瞼の裏に手の残像がこびりついた。
「ヒューリは、彼も言っている通り聖女の着付け師です」
女神とヒューリの間に割って入ったのは、サドリだ。
「私の着付け師が、仕事のできない状態になったの。ヒューリも同じく着付け師だもの。問題はないわ」
「……問題しかありませんよ」
噛みしめたサドリの歯と歯の間から、苦々しい言葉が洩れた。
顔は女神に向けたまま、サドリが背後のツァイたちに向けてほんの少しだけ手を上げる。
それは、合図だった。
もうこれ以上、女神をのさばらせてはいけないという、彼のぎりぎりの選択だ。
ヒューリはアメトリンの柄を握り、鞘から剣を抜こうとした。
「ヒューリ……あの頃のことを覚えていて?」
「リリ」
「いつもサドリの荷物を届けてくれてありがとう。私ね、いつかあなたが私の着付け師になってくれることを望んでいたの」
野の花が咲いたような可憐な笑みを、キュベレーは浮かべる。
女神は、ヒューリに向かって腕を広げた。ヒューリはまるで引き寄せられるように、彼女に向かって進んでいく。
「待って。ヒューリ」
ツァイは手を伸ばした。だが指先はヒューリの服をかすめるだけで、彼は女神の腕の中に収まってしまった。
「サドリから聞きました。あなたがキュベレーを宿らせる生き女神であることを」
「そうするしか、サドリを守る術がなかったの」
ヒューリに抱きつき、愛しそうに頬をすり寄せる女神は、声も口調もすべて別人だ。年齢はかなり上だけれど、優しくて温和そうに見える。
「私のために、あなたは犠牲を捧げてくれた。とても嬉しかったの」
「いえ……俺は」
「ねぇ、見て」
朗らかに笑うと、女神は後方に置いてある籠を示した。その中に詰め込まれているものを見て、ヒューリがあからさまに眉をひそめる。
そんなにも嫌悪するなんて、いったい何が。
ツァイも視線を向けた。だが、すぐに手で口を押さえた。
籠いっぱいに入っているのは、赤黒く染まった布だ。
「ほら、これはあなたが神殿に来て間もない頃のもの。もう色褪せてしまっているけど、これはその翌月」
女神が鷲掴みにして取りだしたのは、血に染まった大量の手袋だった。
「まだ傷痕は残っているんでしょう? ね、ずっとずっと残るのよね。これからも消えないのよね」
ふふ、と楽し気に笑いながら、女神は次にまだ赤い手袋を取りだす。
「これは先週の、これは今週のもの。ね、包帯を解いて見せてちょうだい」
「いえ……それは」
ヒューリは女神から逃れようと後退する。だが女神はぐいっと腕を伸ばして、ヒューリの手首を握りしめた。
包帯の上を掴んだのだろう。ヒューリが痛みを堪えるようにうめき声を上げる。
「わたしが望んで、サドリにつけてもらったあなたの傷。三人で、まるで昔に戻ったみたい」
「……昔とは違います。何もかも」
「いいえ、変わらないの。ずっと同じ。だからね、ヒューリ。邪魔者はいらないの」
女神が横目でツァイを一瞥した。その冷たい目に、背筋がぞくりとする。
「あなたが私の着付け師になってくれるのなら、聖女は解放してあげる」
「次の聖女が見つからないから、わたしは無期限で聖女を続けるんじゃないんですか?」
ツァイは思わず口を挟んだ。
女神は、煩そうにツァイに向かって手を払う。まるで向うへ行けといわんばかりに。
「気が変わったの。あなた、いらないから」
女神は、ヒューリの腕をぐいっと引っぱった。彼の逞しい胸の中に、女神自身が収まる。
ヒューリは逃れようともがくが、女神は彼の背中にまわした腕を決して解こうとはしない。
ここが自分の場所なのだと主張するように。
「離れてください」
「私の着付け師になってくれる? ずっと傍にいてくれたら、あなたの犠牲を求めないわ。血に染まった手袋よりも、あなたが欲しいもの」
「無理です」
「ううん。無理なんてことない。それにヒューリ、あなたは断らないわ。だってあなたが着付け師になってくれないなら、やっぱりあの子を松明にしちゃうもの」
無邪気なその言葉に、神殿内を沈黙が支配した。
ようやくヒューリは口を開いたが、その声はまるで凍てついた氷のように冷たかった。
「……解放すると、さっき言いましたよね」
「だって、あなたが受け入れてくれないから」
「リリ」
「なぁに?」
元の名前で呼ばれて、女神は弾けた声で答えた。まるで恋する乙女だ。
「女神の着付け師の腕を落としたのは、リリ、あなたなのですね。マグナ・マテルの精霊や聖女を松明にすると決めたのも、あなた自身が決断したことで間違いありませんね」
「ええ。でもなぜ?」
「いえ、キュベレーの意思かどうか、知りたかっただけです」
ヒューリは念を押すように確認した。
腕の中の女神を押しのけることもなく、ただ彼女のなすがままにさせている。
「キュベレーは、ただ聖女と信者の苦痛と血と呻き声を欲しているだけ。何の進展も発展もないのよ」
「リリの言う進展と発展は、聖女を意のままに動かすということですか? 彼女にも人としての生があるというのに、それを無視して。あなたは俺やサドリに優しかった。それは子どもをいたわる心があるからでしょう?」
さも心外だといわんばかりに、女神は目を見開いた。
高い位置にあるヒューリの顔を見上げ、首を傾げる。
「サドリは私の弟よ。あなたは弟の友人だわ。だから私はあなたを守るために、キュベレーを押さえこんだの。キュベレーは、幼い聖女の身代わりとなったヒューリを嫌って、殺してしまえばいいと言ったの。ヒューリがいなくなれば、聖女の犠牲が得られるからと。でも、そんなのダメでしょ」
それまで弾んでいた女神の声が、徐々に低く陰鬱なものになっていく。
「リリ。あなたがサドリと俺を守りたかった気持ちはありがたいと思います。でも、俺にも守りたい人はいるんです。その人をあなたが害すというのなら、俺は抗います」
「だめよ……我の力はまだ失われてはおらぬ……いやよ、出てこないで……私はヒューリが欲しいの……我は聖女が欲しい」
二つの声が重なって聞こえる。
一つはリリの、もう一つは地の底から響くようなキュベレーの声だ。
「抗うなど許さぬ……たかが四十年も生きておらぬ小娘が、我と取って代わろうなど認めぬ。なるほど……お前のせいで、依代が叛くのじゃな。お前を消せば、こいつは黙るのじゃな」
目を血走らせたキュベレーが、ヒューリの首に手をかける。
ツァイは、とっさに短剣の鞘を抜いた。




