14 松明
サドリは神殿の奥に運ばれた桶を覗きこんだ。とてつもない臭さに、思わず息を止める。
ねっとりとした黒い液体。桶の中に入っているのはタールだ。
「本当にタールに浸すのですか?」
「たっぷりとな。さぁ、早うやらぬか」
紗の向こうからキュベレーに命じられ、サドリは革の手袋をはめて、まずは短剣を手にした。
「ふふ、奴の悔しがる顔が見えるようだ」
趣味の悪いことだ。
嬉しそうな女神の顔を想像して、サドリは顔をしかめる。
キュベレーは、マグナ・マテルの精霊が宿る二本の剣を松明代わりにしようとしている。
剣にたっぷりとタールをつけて、それを庭に立てて火をつけようというのだ。
こんなことをしたら、マグナ・マテルが黙ってはいないだろう。
「……賛成しかねますが」
「よいよい。そやつらは我が命を狙うためにマグナ・マテルが差し向けた妖怪。やられる前にやる、それだけよ」
サドリはためらいながらも、短剣を桶の中に沈めた。手を入れれば、腕までタールまみれになるので、鉤状の棒で短剣を引き上げる。
「さぞや綺麗な炎を上げるであろうの。夜が楽しみじゃな。そうそう、今夜祭儀を行おう。ヒューリを呼ぶがよい」
女神は明らかに、はしゃいでいる。
「本日は祭儀の予定はございませんし、着付け師はあくまでも聖女の代理ですが」
「サドリ」
司祭の名を呼ぶ声は、恐ろしいほどに低い。
「お前は私に意見できる身分なのか?」
「いえ、身の程をわきまえず、失礼いたしました」
宝石に宿る精霊のことを妖怪と呼ぶ女神は、自らも化け物と化していることに気づいていない。
サドリは二本目の長剣を桶に入れた。長さのある剣なので、一度で全体をタールに沈めることはできない。
途中で上下の向きを変え、たっぷりと黒い液体をまとわせる。
キュベレーが、アメトリンの剣を検分するようなことがなくて、よかった。
アメシストとシトリンが、騒がしいほどによくしゃべることを、キュベレーは知らないし、知ろうともしない。
「先日、象牙の話をしたであろう? ついでにの、象も巨大な松明にしてはどうか?」
女神が何を言いだしたのか、サドリにはとっさに理解することができなかった。
長剣と短剣を乾かすために並べ、タールまみれになった手袋を脱ぎ捨てる。
「そうじゃの。一日一頭でもよいぞ。象牙をとった後の象を、松明にして神殿を照らすのじゃ」
「キュベレーさまは、殺戮の女神におなりあそばすのですか?」
「ふふ、それも楽しいのぅ」
紗の向こうに見える人影は、何かに頬ずりをしているように手と顔を動かしている。
サドリには分かっている。
あれは血に染まった手袋だと。
◇◇◇
急遽、祭儀が行われることが決定し、ヒューリはツァイに衣装を着つけていた。
自分が代わりに出ると言ったのだが、ツァイはそれを認めない。
「痛っ」
「申し訳ございません」
椅子に座ったツァイの髪を梳いていたヒューリは、驚いて櫛を落としてしまった。
「ごめんなさい。わたしが動いたせいで、ヒューリが悪いんじゃないわ」
いまだ双子の剣が見つからないので、ツァイは焦る気持ちが抑えきれないようだ。
あれからヒューリは何度か街に出て、露店や武器を扱う店を覗いたのだが。どこにもそれらしい剣は見当たらなかった。盗品なのだから、表に出ない場所で売買される可能性も高い。
「彼らは、ツァイさまのお友達ですから。見つけてさしあげたいのですが」
ヒューリの言葉に、ツァイは突然両手で自分の頬を押さえた。
「ツァイさま?」
「……友達、なの?」
「違うのですか。てっきりそうだとばかり。仲が良くていらっしゃるから」
人と精霊という違いはあろう。
けれどこの神殿ではツァイと同世代の侍女や巫女は、彼女に仕える存在だから、親しい仲とは言い難い。
アメトリン達以外に、ツァイに遠慮なく話す者たちを、この十数年間ヒューリは見たことがなかった。
「わたし、友達を助けたいと思っているの?」
ツァイの髪を結っていたヒューリの手から、ぽろりと簪が落ちた。繊細な葉の飾りがついた簪が、床に当たり儚い音を立てる。
ツァイのしなやかなうなじは、薄紅色に染まっていた。
「……知らなかったの。わたし、友達がいたのね」
そんなことも気付かなかったのかと、笑い飛ばすのは簡単だ。だがヒューリには、それができなかった。
自分やサドリは学校に通っていたけれど。ツァイは赤ん坊の頃に神殿に売られ、そのまま聖女としてだけ生きてきたのだ。
同世代の子どもと対等な立場になったことなど、ただの一度もない。
(ただ聖女という肩書だけで、檻の中に閉じ込められているようなものだ)
外はすでに暗く、窓に映るツァイの表情は戸惑っていながらも頬が紅潮している。
その表情の愛らしさに、ついヒューリは微笑んでしまう。
「いやだ。笑わないで。恥ずかしい」
「笑っていませんよ」
「だって、ほら窓にヒューリの顔が映っているもの。わたしのことを、馬鹿だなぁって思ってるもの」
おっと、しまった。
ヒューリは慌てて表情を引きしめた。
「これは馬鹿にしているのではなく、愛しいと思っているのですよ」
少し体を屈めて、ヒューリはツァイの耳元に口を寄せた。
ツァイはヒューリに囁かれるのが好きだ。本人は気付いていないかもしれないが、こうするといつも目を見開いて、動きが止まってしまう。
それが楽しいなんて言ったら、やはり怒られてしまうだろうか。
自分たちの顔が映るガラスの向こうで、ゆらめく明かりが庭を進むのが見えた。
サドリが手燭を掲げて、何か長いものを持っている。
庭の中央で立ち止まると、まずは長くて黒い棒を地面に突きたてた。ついで短い棒を同じように刺す。
「何をしているんだ?」
ヒューリは訝しんで眉間にしわを刻んだ。
「ツァイさまはここに。様子を見て参ります」
「わたしも行くわ」
柱廊に面した扉を開き、サドリの元へと駆けていく。すでに下草には夜露が宿り、足を湿らせる。
「サドリ。それは何だ」
「余興ですかね、女神の。本日からこの二本が、松明として夜の庭を照らします。燃料が燃え尽きれば、またタールをかけますよ」
サドリは黒い二本の棒と、ヒューリやツァイを見比べた。
ツァイはその長さと本数から、何かを感じ取ったのだろう。ヒューリの袖をぎゅっと掴んで離さない。
「名づけるなら、双子神の松明……とでもしましょうか。さぁ、御覧なさい。点火しますよ」
「やめてーっ」
ツァイの絶叫が響く中、黒い松明は炎に包まれた。




