13 決意
消毒薬のにおいに驚いたツァイは目を瞠り、恐る恐るヒューリの背に手を添えた。
指をそっと動かして、服越しの感触を確かめる。
彼の背から胸にかけて、かたく巻かれた包帯の存在に指先が気づいた。
そういえば手袋に包まれた手にも、布を巻いたような厚みがある。
馴染んだにおいと手触りに、ツァイは気付いてしまった。
ヒューリは聖女の身代わりとして、祭儀に臨んでいるのだと。
「ヒューリ。わたしが子どもだった頃、手袋に血が滲んでいたことがあったわよね」
尋ねると、ヒューリが身を硬くするのが伝わってきた。
「手袋越しでも、わたしと手を繋がなかったのは、しょっちゅう怪我をしていたから?」
「こう見えて、粗雑なんです」
「そうね」
ツァイは敢えてそう答えた。本当に粗雑なら、ツァイの古い祭儀用の衣装や装身具を丁寧に保管していない。
それに積み上げられている巻物の中には、見覚えのあるものがあった。
まだツァイが小さかった頃のこと。教義について記された書に、ヒューリの似顔絵を描いたのだ。可愛くしようと思って、巻物の紐を花をしぼった汁で淡い紅色に染めたから。一つだけ、やけに目立っている。
(捨てずに大事に持っていてくれたのね)
衣装を着つけてくれる時の丁寧な手の動き、耳飾りや首飾りをつける時も注意を払ってくれている。
そんな彼が、不用意にいつも怪我をするはずがない。
ツァイには何一つ気づかせることなく。無言を鎧のようにまとって、守ってくれていた。
(だからこそ、これ以上甘えてはいけないんだわ)
聖女の犠牲と血を、捧げものとして求めるのがキュベレーなのに。女神はヒューリの犠牲を当たり前のように受け取っている。
それは、あまりにもおかしい。
狂乱を求める女神だから、気が付かなかったけれど。女神はとうの昔から、真に狂っているのではないか。
そう。幼いツァイの身代わりとして、着付け師を求めるほどに。
「もう終わりにしましょう」
「ツァイさま?」
「アメトリン達の望みを叶えます」
布越しに、かたく巻かれた包帯を頬に感じながら、ツァイは決心した。
ヒューリに送られて部屋に戻ったツァイは、扉を開けて呆然と立ち尽くした。
部屋は荒らされていた。まるで盗人が侵入したかのように。
「シトリン、アメシスト。大丈夫?」
きっと『さっさと戻らぬから、賊が入ってきたのだぞ』とか『もーお、怖かったんだからね』と双子の剣が大騒ぎすると思ったのに。
室内はあまりにも静かだった。
「ツァイさま。中に入らないでください」
ツァイを制止したヒューリが、一人で部屋の中に入っていく。
手燭を持ったまま、戸棚の中やベッドの下も確認する。
「誰もいないようです。ですが……」
「なに? 何か盗られているの?」
「双子神の剣が見当たりません」
灯に照らされたヒューリの顔が、途方に暮れたように見えた。
「精霊が宿る剣を、売り飛ばそうとして盗んだの?」
アメトリンの宝石は確かに貴重だけれど。でもそれゆえ、売りさばこうとするのなら目立つことだろう。
ヒューリは腕を組んで、棚や机を確認している。
「どうしたの?」
「荒らし方が不自然です。まず、祭儀に用いる宝石のついた装飾品は、基本的に衣装部屋に保管してあります。まぁ……現在は俺の部屋にあるわけですが」
「え、ええ」
「聖女の部屋だからといって、金目の物……失礼、金品があるわけではありません。むしろ管理をする事務室に押し入った方がいい」
なるほど。確かに信者が寄進した物品やお金を、聖女が保管するわけではない。窃盗を生業とする者が、そんなことを知らぬはずはないだろう。
「この荒らされた状態は、見せかけなの?」
「はい。目的は最初から、双子の剣そのものでしょう」
「どうしよう」
ツァイはおろおろと両手の指を組み合わせた。蝋燭の灯が映り込んだすみれ色の瞳は、不安に揺らめいている。
「あの子たち、口は達者だしえらそうだけれど。とっても寂しがり屋なの。だからいつもわたしの部屋の、窓から象が見える場所に置いていたんだけれど。象も、もうマグナ・マテルの神殿に戻ったし」
ああ、ヒューリの部屋に行く時に、彼らも連れていけばよかった。
軽率な行動が、今になって悔やまれる。
「捜しましょう。ご自分を責めるのなら、後で。彼らが見つかってからでも、遅くはありません」
「え、ええ」
再び手燭をもって、二人は廊下へと飛び出した。
だが、神殿内を捜しても双子神の剣も不審者の気配もなかった。
◇◇◇
眩しいほどの朝日に照らされて、ツァイは目を覚ました。
どうやら疲れ果てて、眠っていたらしい。
ツァイはベッドに横になっているが、ヒューリはベッド脇にもたれかかった状態で床に座ったまま眠っている。
きっとヒューリがベッドに運んでくれたのだろう。
ツァイは窓辺の机に向かったが、やはり二本の剣はそこにはない。
開かれた窓の向こう、庭を横切る侍女と巫女の姿が見えた。
凶器を思わせるほどの陽射しの中、二人は向かい合わせに桶を運んでいる。
「重いですね」
「こういうのこそ着付け師とかに、頼めばいいのに」
侍女の言葉に、巫女が応じる。
「あの人、腕力ありそうですからね」
桶に入っているのは、黒い液体だ。よほど重いのか、庭の中ほどで桶を下ろす。中身がたぷんと揺れて、少し零れた。
ねっとりとした粘度のある液体が、桶の縁を汚す。
「そういえば、象は元気でしょうか」
「……あのさ、噂なんだけど。最近、象狩りが流行ってるらしいわよ。なんでも象牙をとるんだって」
「牙だけ切り取るんですか?」
「まっさかー。象を殺してから、牙を切るのよ」
その言葉に、侍女は顔を青くした。巫女も自分の口から出た内容に、眉根を寄せる。
「嫌な考えになったわね。あの子が無事ならいいんだけど」
「無事ですよ。だってマグナ・マテルの……女神の使いですよ」
風に乗って聞こえてくる内容に、ツァイは動悸を覚えた。象、アメトリンの剣。どちらもマグナ・マテルに連なる……女神が大事にしている存在だ。
(ああ、でも。考えすぎかもしれません)
多神教の国であるからこそ、他の宗教に干渉せず、互いを認めてここまで来たのに。
最近のキュベレーは、明らかにおかしい。女神としてはあまりにも狭量であり、偏狭だ。
マグナ・マテルの使いの象や精霊が、当たり前のように自分の神殿に滞在するのが嫌だったのなら。
話し合いも何もかもすっ飛ばして、その存在そのものを消そうと考えているのなら。
(まさか、そんなことは)
否定しようとしても、疑念は泡のように次々と浮かんでくる。
もし女神同士の諍いが起これば、それは人を巻きこむ争いに発展する。
それだけは避けなければならない。




