1 着付け師
「ねぇ、どうしてヒューリは、ツァイとお話ししてくれないの?」
まだ幼い聖女、ツァイは小さな手でヒューリの袖を掴んだ。
だがヒューリは無言のまま、ツァイの手を外した。
彼の大きな手は、今日も手袋に包まれている。ただ怪我をしているのか、白い手袋にうっすらと血が滲んでいる。
「ねぇねぇ、ツァイのこときらいなの?」
我慢できずに、ツァイは口を尖らせて背の高いヒューリを見上げた。
当時、七歳のツァイから見れば、二十三歳のヒューリは聳えるほどに背が高く、恐ろしいほどに体の大きな大人だ。
正直、黙っているヒューリは怖い。それでも他に頼れる人のいないツァイは、何度も勇気を出して彼の手を掴んだ。
ヒューリは感情のこもらない瞳で、ツァイを見下ろした。そして何も言わずに手を離した。
ただ、それだけだった。
だからツァイは思ったのだ。自分はヒューリに嫌われていると。
◇◇◇
あれから十一年。十八歳になったツァイは、今も女神キュベレーに仕える聖女だ。
腰まである銀色のまっすぐな髪は、月の光を宿し、その白い肌はまるで真珠を思わせる。
ヒューリは神殿にあるツァイの部屋に入ると、祭儀用の衣装を手にした。重い首飾りに髪飾り、長い布を体に巻きつけて胸の下を紐で結ぶ聖女の衣装は、一人では着ることができない。
短い金髪に袖の長い黒い服、体格はいいが物静かなヒューリは着付け師だ。
神殿では、聖女に専属の着付け師がつくことになっている。
「失礼いたします」
一礼すると、ヒューリは白い手袋をはめた。
男性が聖女の肌に直に触れることは禁じられているからだ。
「ねぇ、ヒューリ。わたしが聖女でいるのは、あと何日かしら?」
ヒューリは黙って、壁に貼られた羊皮紙を指し示した。そこには月の満ち欠けが表になっており、その下の方にインクで印がつけてある。ちょうど一月後が、聖女を辞める日だった。
「本当に、わたしと話すのが嫌なのね」
ツァイは苦笑しながら、壁を見遣った。
「でも、安心して。わたしが聖女でいるのはあと一月だから。そうすれば、あなたは嫌いなわたしに仕える必要もなくなるのよ」
そういう言い方はやめてほしい、とヒューリは思った。
頷くこともできないし、首を振ることもできないのだから。
ヒューリは祭儀用の衣を机に並べながら、不足はないか確認していった。
「……無視しないでよ」
ぽつりとツァイが呟く。その声がとても寂しそうに聞こえたが。着付け師はできる限り聖女とは会話してはならないという規則がある。
聖女に唯一触れることのできる着付け師は、ともすれば聖女を穢してしまう可能性があるのだから。
(規則が厳しいのも、分からないではないが)
ツァイは小さな頃から、ずっとヒューリの後を追いかけていた。神殿の庭で花を摘めば、それを誇らしげに見せ、朝食のリンゴに青虫がついていたら、興奮しながら掲げていた。
笑顔を見せてはならないとの規則はないが。もしツァイに微笑んでしまったら、心の奥底に潜んでいる名前のない気持ちを、抑えることができなくなる。
ヒューリは、ツァイに向かって一礼した。
これでツァイも察してくれるはずだ。今から着付けを始めると。
「あとたったの一月なんだから。最後くらい仲良くしてくれてもいいと思うの」
ため息をつきながら、ツァイがヒューリの前に立つ。そのすみれ色の瞳は、愁いを帯びている。いつからだろう、こんな風に彼女の表情に寂しさが混じるようになったのは。
(いや、考えるな。思考を停止しなければ)
ヒューリは、用意した首飾りに耳飾り、腕輪の数を丹念に確認する。
(ツァイさまにとって、俺はただ冷淡なだけの人間でいなければならない。そうあるべきだ)
ツァイが着ている服を脱がせると、これまで一度も日に灼けたことがないのではと思うほど、白い肌が現れた。
けれど。すぐにヒューリは眉をしかめて、唇を噛みしめる。
自分でも気づかぬうちに、手を伸ばし、露わになった肌に残る傷痕に、そっと触れてしまっていた。
手袋の布越しに触れられたのが、分かったのだろう。ツァイがびくっと身をすくめる。
「も、申し訳ございません」
なんてことだ。聖女の肌に触れるだなんて。己の行動に驚いて、声が上ずってしまう。
「い、いえ。どうしたの。急に」
「羽虫が……」
「えっ! 取ってください」
とっさに嘘をつくと、ツァイは飛びのいた。けれど背の傷が引きつったのだろう。
苦悶の表情を浮かべて、床に座りこむ。
「ツァイさま」
「大丈夫」
そんな真っ青な顔色で、平気なわけないだろう。彼女が幼い頃から仕えているヒューリには、それが分かる。
ぽたり……。床に落ちたのは、鮮血だった。
「やはり傷が開いているではありませんか。手当ていたします」
「平気よ。どうせまたすぐに開くんですもの。今月は祭儀が二度あるから……それに、昔よりも治りが遅くなっているみたい。年を取っちゃったのかしら」
ふふ、とツァイは微笑んだ。今にも消え入りそう儚い笑顔。ヒューリは胸が引き絞られたように、息が苦しくなる。
ここは女神キュベレーの神殿。建国してまだ間もないサラーマでは、キュベレー、マグナ・マテル、フォルトゥナの古代からの三女神が信仰されている。
ただ女神キュベレーの性質は苛烈で、その祭儀には聖女や信者の体を傷つけることが求められる。血を好む好戦的な女神だ。
キュベレーは両性具有の神が去勢した女神であるためか、女神の信奉者の中には自ら去勢する者がいる。
その狂信的なありようを、サラーマを建国した王は嫌っているという。
滅んでしまえばいいと思う。こんな信仰。いっそ今すぐにでもツァイをさらって、逃げてしまいたい。
(俺は、なにを?)
脳裏をよぎった考えに、唖然とした。
呆然と立ち尽くすヒューリを、しゃがんだままのツァイが心配そうに見上げている。
(いけない。これは……考えてはいけないことだ)
自分が今、どんな表情を浮かべているのかも分からない。ガラス製の丸い鏡を手に取ろうとしたが、うまく掴めずに床に落としてしまった。
硬質な音を立てて、鏡が割れる。砕けた破片が四方に散った。
ヒューリは慌ててツァイの体を庇った。華奢な彼女を腕の中に閉じ込め、これ以上傷つけないように守る。
「ヒュ……ヒューリ?」
「申し訳ございません。お怪我はありませんか? すぐに片づけます。あと背中の傷の手当てをいたします」
澱みなく言うのが、やっとだった。
自分の胸にもたれかかっているツァイの体温が、布越しに伝わってくる。彼女の銀色の髪は、甘い花の香りがした。目眩がしそうだ。
認めたくなくても、認めなければならない。
ツァイに恋していると。
聖女と会話をしてはならぬという規則に便乗して、ことさらにツァイに無関心な態度を取ってきた。それは関心があるからこその裏返しだ。
「手当は……いいの。もう少し、こうしていて」
「無理を仰らないでください」
「包帯が見えたら、女神が嫌がるでしょ」
「……了解しました」
不自然なほどに長く、ヒューリはツァイを抱きしめていた。
けれど唇を噛みしめ、彼女の両肩に手を置いて引き離す。
ふと、ツァイが寂しそうに眉を下げた。その感情が何に由来するのか、きっとこれも考えてはいけないことだ。
着付けを再開したヒューリは、たっぷりとした長い布にひだを寄せ、ツァイの肩にかける。これを胸の前で紐で結び、金や宝石で彩られた飾りをつけていく。
苦しくはありませんか、と尋ねようとして、口を閉ざす。
今日はツァイと喋りすぎた。一年分ほども。
着付けを終えると、ヒューリは廊下でツァイを見送った。
シャラシャラと鳴る飾りの音が小さくなる。
今もヒューリは思い出す。健康に育ったからと、ツァイが初めて祭儀に臨んだ日を。あれはツァイが七歳の頃だったろうか。
綺麗な衣を喜んでくれた少女は、泣きながら神殿から戻された。その後熱を出したツァイを介抱したのは、ヒューリだった。
その朝、ヒューリのためにと摘んでくれた花が、机の上で萎れていた。
慌てて瓶に水を入れて差したけれど。結局花は枯れてしまった。
この小さな女の子を守ってやりたいと思った。恐らくそれは、庇護欲といわれるものだろう。
そう。この気持ちは恋であってはならない。
今のツァイは、月夜に咲く白い花のように美しい。たとえ聖女の任を解かれたとしても、年の離れた自分が手折ることなど決して許されない花だ。
神殿への渡り廊下を進むツァイを、司祭のサドリが迎えている。同い年だが、筋肉質のヒューリとは違い、サドリは線が細い。
ヒューリは背中を向けて、立ち去った。
神殿から太鼓や笛の賑やかな音が聞こえてくる。慌てて耳を塞ぎ、布の手袋のせいで音を完全に遮断できないことに気づき、手袋を脱ぎ捨てる。
無数の傷痕の残る手が風にさらされた。
いやだ。もうこんな仕事はしたくない。仕えているのがツァイでなければ、とっくに辞めている。神殿を出て街に出れば、結婚式の着付け、通過儀礼である成人の儀式の着付けなど、仕事には事欠かないはずだ。
ツァイが聖女の任を解かれ、自由になったのなら。自分ももう神殿を去ろう。
彼女がどこかの青年と恋をして、そいつを切なそうに見つめる姿など目にしたくはない。
(きっと俺は、その青年のことを憎むのだろうな)
そう、見知らぬ誰かと愛を語らうツァイを目撃してしまうくらいなら。いっそ二度と会えないくらい遠くへ行ってしまってもいい。
彼女のすみれ色の瞳に映るのは、三十をとうに過ぎた男であるはずがないのだから。
「ああ、でも……寂しいかもしれないな」
ヒューリの呟きは、風にさらわれた。




