水曜日 つきあい 三
雲の裾が銀色に染まり、やがてひたひたと生ぬるい空気が広がっていく。
自転車に乗っている時は風で溶かされているせいか気付かずにいるけれども、信号で止まったりした合間に、じわりと汗がにじんできたりする。
品山に帰るまでには、まだかかるだろう。
空は、持ちそうになかった。
携帯傘も今日は持ってこなかった。
自転車で走るほうが楽だから、当然といえば当然なのだが。もし駅前近辺にいるのだったら、本屋に立ち寄ったりするのだろう。上総の知っている町並は目に入っていた。中途半端な知り合いの多い道だった。近くにはファーストフードの店も見えるけれど、雨宿りはしたくなかった。小学校時代の知り合いがいないとも限らない。別に自分が悪いことをしているわけではないけれども、できる限り顔を合わせたくない連中がいるのも確かだった。
上総は見渡した後、自転車を降りた。同時に雨粒らしきものがぽつりと頬にかかった。見上げた拍子に雲の全身は黒い銀色に染まり降り注いできた。
夕立だった。
通りすがりの人々も急ぎ早に軒下を探して走っていた。集まった場所は近くの、バス停留所だった。半そで姿の高校生、中学生がみな、ばたばたと雨のしのげる場所を見つけてもぐりこんでいた。急いで上総も自転車をひきずってもぐりこんだ。舗装されているのはバス道路だけ、目の前に広がっているのは、まだ放置されたままの住宅地だった。まだ青々とした叢が、道路越しに広がり、お辞儀をしていた。ばさばさと打ち付けられるような音をさせている雨。
雷が落ちないといいけどな、ぽつりとそうつぶやいた。
ポケットにつっこんだままのカセットテープを取り出した。
時間つぶしに、というふうに、カセットレコーダーにはめ込んだ。
目線を道路越しに向けたまま、上総はイヤホンをつけて、再生ボタンを探った。間違って録音ボタンを幼いように、指先で確認しながら、でも見ないように。
じいじいと響く雑音に混じり、声が聞こえた。
カセットテープの中では、ふたりの声だけが、はっきりと聞き取れた。
雨の音にも消えずに、聞こえてきた。
本条先輩と南雲のふたりがたりだった。
「……要するに、うちのクラス、つまり二年D組は誰が仕切っているかというと、本当は立村なんですよ。りっちゃん。絶対そうなんです。ただ、行動したり発言したりするのは羽飛なんですよ。立村がああしたらどうだ、こうしたらうまく行くとか言っていろいろ考えてくれているんですけれど、じゃあこうしよう、と言って片付けようとするのが羽飛。あの二人は馬が合いますから、役割分担はうまくいっているんでしょう。きっと。でも、本条先輩、ここからが重要なんですが、D組で立村の存在感は薄すぎます。真面目だし、いい奴だから野郎はみな納得していますけれど、女子がなあ。いまひとつなんですよ」
「あいつが女子受けしないのはそういうことか。で、不幸な失恋ばかりしているってわけか、なるほどね」
「なんすか、その不幸な失恋って」
「有名な話だろう、D組のおとなしそうな子に立村が手を出してこっぴどく振られたって。何血迷ったのかわからんが」
「ああ、杉浦のことですか。あれはちょっとばかし、立村が不幸すぎますね。話そのものがあまりにも捻じ曲げられていますからね。どうしてあいつは自分で言い返さないんだろうと思いますよ。全くのでたらめなんだから」
南雲は杉浦加奈子のことを『杉浦』と呼び捨てにしている。
女子受けするタイプの南雲はみな、丁寧に「さん」つけをしているというのに。
どうして南雲がD組の状況を本条先輩に説明しているのだろう。
雨音と一緒に振るわせて、心に落とし込んだ。
「あくまでも羽飛の話を信じればですがね。立村はたまたま杉浦の関係で何かがあって、それ以来ひどい嫌がらせを受けているらしいってことです。詳しいことは知りませんが、女子がなぜ野郎にそういうことをしようとするのかが俺にはとんと理解できません。こういう問題こそ、規律委員会の出番なんでしょうが。なにせ、証拠がありませんからね」
「単に惚れて振られて追いかけてって話じゃないのか」
「あいつが好きな女子を追いかけて口説いてさらに追いかけるなんてこと、するように見えないし。いくら人は見かけによらないとはいえ」
「実践している南雲の言葉は確かに重い」
「杉浦も顔に似合わず汚い女だと思いましたね。俺は女子にルックスを求めなくなり二ヶ月になりますが、とにかくやり方が汚いですよ。なにが、『立村くんにしつこく迫られている』だって。C組の女子を固めていって、そこからD組に情報を流して、最後に菱本先生に話を持っていくって方法を取ったらしいです。あいつ、相当ひどく絞られていましたよ」
「濡れ衣って奴だな」
「だからどうして言わないんだろうと思いますね。腹が立ったら言ってしまえばいいのにと思うけれど、その辺が立村の立村であるべきところでしょう。結局噂はあっという間に消えましたからね。ただ、女子にひどい目で見られるようになったのは確かです」
どうして南雲はそこまで知っているのだろうか。
確かに、南雲の言葉に嘘はなかった。
杉浦加奈子から流されたデマを、黙って受け止めてきた。
よく知らない女子たちから、
「なんで立村くんがそんなことするわけ?」
「いやがる女子を追いかけるなんて最低だわ」
と陰口を叩かれても、菱本先生に呼び出されて厳しく叱られても、上総は言い返さなかった。認めもしなかった代わり、言い訳も抗議もしなかった。
クラスで再びいたぶられるはめになってもいいと思っていた。小学校時代、自分を傷つけてきた連中に頭を下げるくらいだったら、もう一度一人ぼっちになってもかまわない。覚悟はできていた。
「お前らじゃあ、どうして本当のことを知ることができたんだ? その杉浦って子は、頭の切れるタイプらしいし、野郎たちもあっさりだまされてもおかしくなかっただろうしな」
「本条先輩、年下だからって見くびるのはやめましょうよ。つまりですね、俺たちはその話が出た段階で、立村という奴の性格を大体把握していたわけなんです。何かあったらすぐに自分の中にしまいこんでしまう、自分でがまんすればすべてことがすむとわかればあきらめる。とにかく人のことばかり気を遣っている。まあ並べればそんなことですよ。自分のすることをうまく隠して、相手にみんな手柄を譲るようなところがあるんです。物笑いにしたいと思う、タイプの人間ではないですよ。たぶん立村じゃない奴だったとしても、うちのクラスは味方になってやろうと思うでしょうよ」
「なんて、麗しいクラスなんだ! ある意味、怖いところもあるなあ」
「いや、これ本気で。うちのクラスって男子に関しては妙に団結力がありますよ。女子はどうかわからんが。普段だったら立村が自分で采配を振るって、ある程度の手回しをするんでしょうが、今回は自分のことですからねえ。あきらめていたんだと思いますよ。それでさっそく、羽飛が女子の方からいろいろ詳しい話を聞きだして、俺たちにこっそり教えてくれたんですよ。連絡網を使うんですよ。俺たちの場合」
「連絡網、なあ」
「だいたい状況が判明したので、羽飛が仕切ることになり、『このことは全くのでたらめだけど、噂は消せないから、俺たちだけでも立村の味方になってやろうか』という結論に達したと」
「おい、誰かその杉浦とかをつぶそうとかは思わなかったのか」
「それはなかったですね、女子に噛み付くようなことは誰も考えなかったし、第一に羽飛の考えとして、『立村には内緒にしておかなくてはならない』っていうのがあったようですから。かえって気を遣わせてしまうということだったみたいですよ。いやあ、うちのクラスに限って言えば、緘口令ぴっちりでしたね。あいつ、たぶん今でもそういうことがあったなんて知らないんじゃないんですか」
──羽飛がなぜ。
髪の毛から滴る雨。
上総は額をぬぐった。冷たい水滴が、手の甲に染み入った。
「ただね、本条先輩。ここからが本音なんですがね。俺が思うに羽飛のやり方はあまりにも、あまりじゃないかという気がするんですよ。だって、立村は自分の情けない過去が、俺たちD組の連中にばればれだと思い込んでいるわけなんですよ。俺がもし、あの立場だったら、地獄だと思うだろうなあ、って思いますし。まあ、最近も自分で経験しましたからね」
「ああ、『理科実験室の告白事件』……」
「笑ってやってください。まあやったことは後悔していませんよ。惚れた相手がたまたま一般受けしない相手だったってこともまずかったんでしょうけどね。言ったことよりも、ばれたことの方がショックでしたよ。相手は混乱しちまうし、誤解曲解されるし。でも、立村が……、そうそう、立村と同じ班なんでしゃべるんですけどね。『一番いい形になるようにするから』って言ってくれたんですよ」
「これだけか?」
「そう、それだけですよ。たぶんあいつのことだから裏でいろいろ女子に手を回してくれたりしたんだろうなあ。彰子さんからあとで聞きました。とにかく、俺がいかに真面目で規律委員の誇りのような人間であるかどうかを、うちのクラスの野郎がみな、切々と伝えてくれたらしいです。恥ずかしくなりますわな。もともと見た目が俺、こうですから、本気では受け取ってもらえませんから。とにかく立村のおかげで俺は両思いになれたってわけです。あ、本条さん、これは俺だけの話じゃないですよ。うちのクラスの場合、他人の恋路は応援するという『紳士であれ、淑女であれ』という校訓が徹底して生かされていますからね」
「うらやましい、俺なんて『近寄るだけで妊娠するぞ』と言われている。失礼な」
「本条先輩くらい遊び人だからしょうがないでしょう」
ずいぶん南雲も本条先輩に言っているものだ。
さすがにここまで言い放つ自信はない。
思わず早回しボタンを押してしまいたくなった。
「でも、これが誰も知らない場所で行われていたとしたら、不気味でしょうなあ。俺はいやですね。どんなに善意であったとしても。だからこそ、俺は羽飛の親友ぶったやり方にむかついてしまったわけなんです。確かに仲はいいだろうし、それなりに知っていることもあるんでしょう。立村の性格もよくわかっているからでしょう。でもなあ、一言くらい言ったっていいんじゃないかと思いますよ。俺たちはお前の味方だって。でないと、あいつのことだ、ずっと杉浦への告白事件を引きずることになってしまいますよ」
「いまだに、委員会内でも本当のことだと思っている連中が多いからなあ」
「たぶん他のクラスも、そのことはまだ事実だと思っていますよ。D組だけでうまくいかせるよりも、はっきりと杉浦を告発した方がずっと、ためになると思いますよ」
「確かに、でも証拠がないんだろ」
「そう。肝心要の立村が言い訳しないからです。無理でしょうな。ただ、どういうことが起こっているかくらいは知りたいと思いますよ。うーん、だから、俺は羽飛のやりかたを見ているといつも頭にくるんですよ。いかにも親友面したやりかたっていうのがね。自分を犠牲にしているような顔つきして、俺たちに強要するっていうんですか。だから俺も今回は思いましたよ。また似たようなことがあったら、立村にすべて教えてやろうってね。ずっと生ぬるい感じで、自分を恥じつづけなくてはならない立村の気持ちが、なんとなく、俺にはわかるんですよね。羽飛は気付いていないかもしれないけれど、やはり経験者としては、辛いっすよ」
「で、似たようなことが、最近起こったというわけか」
「そうです、さっき話した、例の『茶道授業謎の空白二十分事件』です。土曜にも立村と清坂さんは、音楽室で十五分くらい時間つぶしていましたから、みな影でいろいろ噂はしていました。もともとあの二人、できているという噂、前からありましたからね。ただ、例の杉浦疑惑があった関係で立村も言えずにいるんじゃないかとか、羽飛のことも絡んでいるから気を遣っているんではないかとか。立村が清坂をむちゃくちゃ意識していた様子なのは、見え見えでしたよ。りっちゃんは隠していただろうけれど。決定打が月曜日です。茶道の授業の準備で出かけたと本人は言い訳していましたよ。手にはふくさとか、茶碗とか抱えていましたから。本当にそうだったかもしれません。でもまあ、俺たちとしてはこの辺であの二人をハッピーエンドにしてやった方が、いいんじゃないかという結論に達したわけです」
「思いやりのありすぎるクラスだな。普通だったら思いっきりからかいまくってやるんだが」
「立村の性格でしょうね。あまりしつこくしてしまうと、自分で自分をだめにしてしまいそうな感じなんですよ。それ、羽飛もそう思っていたみたいですよ。一年から二年にかけて、立村に世話をかけてしまった連中が、うちのクラスほとんどですからね。この辺で恩返しといったら変ですが、『あったかく』見守ってやろうか、という話を、茶道の自習中にしていました。男子に関してはその辺、誰も反論はなかったです。ただ、女子は妙な顔していましたが。杉浦を追い掛け回していたら今度は、清坂さんを狙うなんてなんて女ったらしなんだろうという感じなんでしょうね。なんとなく、女子は清坂さんと羽飛をくっつけたがっている目線だったしなあ」
「それは自然の反応だろう。俺もあの二人は出来ていると疑わなかったが」
「ですよね、本条さん、俺もそう思います。だからなんだよなあ、俺、しつこく羽飛の悪口話していますよね。『自分が惚れている女子を親友に譲って酔っている』ような態度っていうんですか、それがなあ、どうしようもなくいやだったんですよ。で、今回もやはり、土曜の夜に連絡網が回ってきました。羽飛発ということで、『例のことはしばらく内緒にしよう』とかいう話でした。別にそれはいいですよ。自然にばれるだろうし。でもな、なんで羽飛がそこまで仕切りたがるんだか。俺がりっちゃんを信頼できるというのは、前もって俺に一言、声をかけてくれたからなんです。あいつはそうですね、影でこっそり仕切ることはしない奴ですね。影でこそこそやられる辛さの方をよく知っているんだと思います。でも、羽飛の場合は、自分に対して異様なまでに自信があるんでしょうな。立村には内緒にしろの一点張り。女々しい奴だとか言っているくせに、お前の方こそ、女子とおんなじじゃねえかと、思いますよ。どうでしょう。本条さん」
雨は小ぶりになったとはいえ、まだしずくの縦線が消えなかった。遠方にて落雷が聞こえる。思わず身を震わせる。金属なんて持っていないだろうか。カセットレコーダーを止めようとしたが、やめた。
額のしめった前髪を、そのままにして空を軽く、見上げた。目に冷気がすうっと入っていって、奥を乾かしているような感じだった。
「南雲、それは意見が分かれるところだから俺は何も言わない。羽飛のように秘密を隠すことが正しいとするか、お前のように相手に話したほうがいいとするか、なんともいえない。ただ、今の話からすると、杉浦との玉砕告白事件だけは早く教えてやった方がいい、気はする。ここで相談なんだが、南雲」
「なんすか、本条さん」
「この話を俺から立村に伝えておくっていうのはどうだ。たぶん、あいつのことだ。同級生からそういうことを聞かされたら、理性がぶっとんで何をしでかすかわからない。羽飛と喧嘩しないとも限らない。あいつは本当に、怒らせたら何をしでかすかわからないからな」
「そうですね、俺たちよりも、本条さんの方が立村とは親しいだろうから」
「それと、清坂とのことは、もう無理に隠さなくたっていいだろう。どうせお前ら、立村をからかった時、杉浦のことを打ち消させるようなつもりで、『お前は清坂だろ』とか言っていたんだろうからさ」
「あ……ばれていました?」
「あたりまえだ。普通だったら、杉浦関係のことでもっと引っ掻き回してやっておかしくないだろう。それを、ずっとお前ら、立村と清坂をくっつけようとしていたんだからなあ。無意識かもしれないが、それがお前らなりの、立村への友情表現だったんだろうな」
「意識していますよ。俺に関しては断言します。羽飛のやり方にむかつきつつも、俺たちは、こちらが真実だと思ったら当然そちらを弁護しますよ。すでに杉浦の本性はいろいろなところでばれていますしね。D組の男子では、杉浦を要注意の女子だと認識しています。最低な女だと思います。もちろんいまさらいじめるなんてことはしませんよ。それこそ『紳士』として、知らないふりをしつづけます。ただ、何かあっても、俺たちは無視しますね。掟を破った奴を、俺たちは許せません。男女関係なく。ところで本条さん、今日の話って、『規律委員会と評議委員会』の今後についてのレクチャーでしたよね、どうして、いきなり立村のことに……」
ばちんと、録音の終わる音が入って、そのあとは静かな雑音が流れていた。
約十分程度のしゃべりだっただろうか。
一方的な南雲の語りだった。
からっとした言い方の中に、憤る言葉の数々が耳に残っていた。
羽飛貴史への感情は、隠すところがどこにもなかった。
南雲も自分を紳士として意識しているのか、表立って喧嘩を売ろうとはしていない。きちんと、クラスメートとしての付き合いをしている。でも、本心がここまで煮え立っているとは思わなかった。しかも、自分の恋愛沙汰でないのになぜ、憤るのだろう。
羽飛貴史と清坂美里との間に流れる何かを、感じ取ってしまったのだろう。
自分だけが一年の頃から感じてきた、ふたりへの違和感はそこだった。 絶対にふたりには割り込めない、恋とも友情ともつかないつながり。 『つきあう』という言葉では終わらない美里と貴史に手を触れるのは失礼だと思っていた。触れる気もなかった。
貴史が懸命に美里とくっつけようとしているのも、まわりが
「お前は清坂だろ」
とあっさり認めているのも、南雲のいう通りと考えれば意味は通じた。
精一杯尽くしてきたことが、D組の男子にだけは伝わったということ。
話しても無駄だと決め付けていたのに、上総が望んでいる以上に、精一杯気持ちを汲み取ろうとしてくれていたことだと。
──羽飛、南雲。
上総は手を差し伸べて、雨粒を受けた。一瞬のどしゃぶりは落ち着いたけれども、まだ袖口がぺたりと重くなりそうな粒の重さを感じた。遠くに見える山の上には、白いガスがかかり、裾根まで広がっていた。
十分、今日は、ぬれて帰ることができる。
びしょぬれになって、髪の毛をぬらして帰ることができる。
頬にかかった雨をそのままにして帰ることができる。
自転車のロックをはずし、上総はゆっくりと自転車を引き始めた。首筋に流れるしずくが張り付いたようで、気持ち悪かった。前髪からしずくがまたぽつりと目の中に入った。何かの拍子でそれが目から涙になりそうだった。目尻にも、唇にも滴る冷たいしずくをそのままに、空を見上げ歩き続けた。
あと、十五分。流れるままでいい。
次から次へと、上総の瞳に雨は降り注いでいた。