水曜日 つきあい 二
本条先輩が現われたのは、南雲と入れ違いだった。
あきらかに南雲と本条先輩は何かを隠している。もちろん、
「あとはみんな、話しておいたから」
と答えたところをみると、上総に話してもかまわない内容なのには違いない。
全く先の読めない会話だった。
規律委員会が『隠れたファッションリーダーの集まり』ということを考えると、同じく洋服のセンスはかなりいい本条先輩が目をつけないわけがないし、評議委員会としてもそれなりの付き合いはあるだろう。しかも次期規律委員長候補というのは、現評議委員長の本条先輩としては積極的に接触したい相手だったに違いない。
──でもなぜ?
名前を呼ばれた軽いショックから抜け出せないまま、上総は立ち上がった。頭を下げた。
「さっきまで、規律委員の南雲と話をしていました」
ぽぞっと、それだけ言った。
「規律委員のくせに、口は規律できないとんでもない奴だな」
「悪い奴じゃないですよ。ただ、今の話はよくわけがわからなかった」
上総の言葉遣いが、どことなく投げやりだったのに気付いたのだろう。本条先輩は銀縁めがねをはずし、生の目で上総を見た。
「何言われたんだ」
「言いたくないです。あとは本条先輩が話してくれるからといって、去っていきました。さっき、すれ違いませんでしたか」
「いや、残念ながら」
とぼける気なのだろう。上総はあきらめた。本条先輩に逆らおうとすること自体が無理だ。むしろ本条先輩の思考回路を自分のものにしてしまい、これからどうすればいいかを考えよう、そう思った。
何はともあれ、明日の評議委員会についての予定を確認し、反省点の発表を行うことを決めることになった。一年生の今後についてとかいろいろ問題は山積みだった。夏休みの合宿についても、顧問の先生にどう要求を提出するかという問題もあり、しばらくは評議委員として話しつづけていた。
「と、いうことで、あとはなりゆきだ。さて立村」
「とうとう来ましたか」
こういう出だしの時は大抵、下ネタでつっこまれるのが見え見えだった。
「今日で三日目となるが、どうだ、まだ平気か?」
「何考えているんですかまったく」
露骨にいやな顔をしてしまい、すぐに反省した。感情がまだ自分でコントロールできずにいた。
「遠慮なく言えよ。鼻血が出そうな時もあるんだろ」
「本条先輩じゃあるまいし」
この前返した、グラビア写真集のことに違いない。
手放して、一人遊びができなくて、眠れぬ夜を過ごしていると思っているのだろう。全く外れているといえないのが悔しいが、顔に出さなければそれですむ。
「ああ、それともな、もしかしたらお前、本気でなまを知っているとか」
「なま? なんですかそれ」
本条先輩の言葉は、抽象的概念が多くて戸惑うことがある。委員会の時には論理的なのに、どうして下ネタの話題になるとぼかすのが上手なのだろう。上総はその辺ついていくのが大変、骨だった。
「でもなあ、相手がまずかったな。清坂じゃあ、口説くなんて無理だろう」
「だから、なんでそういう話になるんですか。南雲にしろ本条先輩にしろ、俺に見えない話題を振るのはやめていただけませんか。ご存知の通り、俺は数学的な部分の能力がかけているんですから。付いていくのが困難だって、知能テストの時に指摘されています」
──やはりこれか。
本条先輩につっこまれたら、もう逃げられない。
覚悟しなくてはならない。
清坂という苗字が、本条先輩の口から出てきた段階で、上総はあきらめた。
してやったりと、本条の表情がやわらぐ。
「俺も無理やり聞くようなことはしたくない。言えることだったら、立村、お前の方から言っちまえ」
雨音の響きが激しかった、午前の茶室。
ところどころ本条先輩に質問されながらも、大まかなことだけは話した。
たまたま茶道の授業があると思い込んで、評議委員同士で茶室に向かったはいいが、茶室には誰もいなかったということ。
たまたま雨が土砂降りになったこと。
濡れたくなかったので、ほんのひと時だけ雨宿りしたこと。
でも、誰も何も言わなかったこと。
「要するに、俺が勘違いして茶室に行かなければこういうことにはならなかったってことですよ。幸い、自習だったからまだ他の組にはばれていませんが、全く面目ないです」
「清坂と、大体三十分くらいふたりだったのか」
「そんなに長くないですよ。二十分くらいかな。一瞬の大雨だったし、すぐにやむだろうと思ったからです。ただまずいなとは、思いました。大抵クラスでなんやかんやからかわれるのが目に見えていますからね」
「二十分あれば、することは一通りできるしなあ」
「だからどうして本条先輩はそういう発想しかできないんですか」
「じゃあ聞く。立村、お前は清坂にむらむらっとこなかったのか? 嘘を言うなよ」
上総は即答した。
「きません。全く。その辺は本条先輩と違います、女子だから誰でもそういう目で見るなんて決め付けないで下さい」
「じゃあ、立村は清坂のことが好きじゃないんだな」
「だからどうして」
再び言い返そうとした上総を、軽く手で押しとどめた。
「白状しろ。清坂と、何か、あったな」
上総の表情がすべてを物語っていたのだろう。
押し黙る上総に、本条先輩はしばらくじっとみつめていたが、思い切ったように口を切った。
「付き合い、かけたのか」
「そういうわけでは、ありません」
「かけられたのか」
黙るしかなかった。
「清坂だったらそれはしかねないよなあ。そうか、で、それはいつだ? あ、そうか、日曜日前であることは確かだな。金曜か、土曜か」
「そんなのどうしてわかりますか」
「だってな、お前の悩みよう尋常じゃなかったぞ。立村。お姉ちゃん本を返すとか言い出すしさ。何かがあったとは思っていたが。やはりそっちの関係だろうなあ。もしかして、清坂に迫られたんじゃないか。キスしてくださいとか言われて」
「そんなわけないでしょう! 想像力を発揮するのはご自分の相手だけにしてください」
「でも、お前のことだ、キスのしかたも知らないくせに……」
「知識はありますよ。実践経験がないだけです」
「向こうの方がうまいに決まっている、なにせ付き合ったことがあるはずだから、そのくらいはあるだろうしな」
「悪いですか」
「別にそれが悪いとは言っていないだろう。立村。お前ももう少し大人になれよ。要は清坂とふたりになりたくてならなかったんだろう。だから、茶室に誘ったんだろう」
「だから誘ったんじゃないんです。茶道の授業準備に行っただけなんです。本条さん、何度言えばわかるんですか。確かに、そういう話が出たのはあります。でも、何でいきなりそんな話まで進めてしまうんですか。第一、付き合う、付き合わないって一体なんなんですか。本条先輩」
とうとう堤防が崩れた。涙の代わりに自分が饒舌になるのがわかる。
まだ、何も始まっていないのに。
たまたま『つきあっちゃおうか』という言葉を受け止めただけなのに。
『つきあう』という言葉がいやだった。
ずっと目を背けてきていた。
本条先輩のような付き合いなんて絶対に出来ないと思っていた。
そのくせ、裏側では写真集の少女を恋しく思う自分を見る。
美里にそういうことを感じたことはない。それはそうだけど、もし写真集の少女に向ける激しい感情を向けてしまったら、もう自分は理想の自分でいられなくなりそうだった。茶室でいきなり抱きついてしまうような人間には絶対になりたくなかった。
すべてがつながる、『つきあう』という言葉。
噛み砕いて、吐き出してしまいたかった。
あまりにも苦かった。 でもそれができなくて、さらに迷う。
美里の好意を素直に受け止めたくて、震えている自分もいる。 受け止めたとたん、すぐに「やりたい」「抱きたい」と感じてしまう自分がいる。 そんな自分を遠ざけたかった。
「あのなあ、立村、勘違いしてないか。付き合うっていうのはな」
まくしたてた後、脱力してうつむいた上総に、本条先輩はしばらく間を取った。
「何もすけべなことしたりすることじゃないんだからさ。もちろん、俺とかは『つきあう』という言葉のセットに、すべてオプションとして入れているよ。でもな、何もお前がそれを最初っから意識して、逃げることはないだろうよ。ぶっちゃけた話、相手は清坂だろ。もう、入学した時から『つきあっている』ようなもんだろ。お前がどう考えているかはわからないけどさ。一緒に歩いたり、しゃべったり、いろいろあっただろう。で、たまたま、清坂が気付いて、『つきあって』といってくれたと。別に今までどおりの感じでも変じゃないだろ」
「じゃあ、なぜいろいろ騒がれなくちゃいけないんですか。その辺も俺にはよくわかりません。今までどおりでいいならばなおさらでしょう」
「それはオプションが必要だったからだろ。でも今の話聞いていると、清坂もお前も、まだ標準設備で十分みたいだしな」
自然と手がこわばってくる。上総は唇をかみ締めた。
「ただ、な。俺が思うに。付き合っていることは早いうちに白状しておいた方が楽だと思う。これは俺の経験上言えることだ。特に清坂は、俺たちの代で非常に人気があるから、狙っている奴がいないとも限らない。それにお前も、早いうちにけしておきたい、過去があるだろ?」
「思い出したくないことを、先輩も思い出させようとするんですか」
いまいましい。杉浦加奈子との玉砕告白事件を、本条先輩も持ち出そうとする。
「事実の方が嘘よりも説得力がある。いやな、さっき南雲と話していて、やっと納得した。やっぱりお前、早いうちに清坂と付き合って、例の噂を帳消しにしたほうがいいと思う。どうせ、嘘は本当のことに負けるんだからさ」
南雲の口にした言葉と重なっていった。だんだん耳の奥からすうっと牽いていく音が聞こえていく。上総は南雲と話していた時以上に低く、つぶやいた。 「どういうことですか、その嘘っていうのは」
「好きでもない女子に、してもいない『玉砕告白話』なんて、消しちまえ」
ポケットからかたかたと、カセットテープを取り出した。
「あとはこのテープを聞いて、お前の身の周りがどういうことになっているかを、よく確認するんだな。本当にお前、ガキだよ。ガキだから、守られているんだよ」
最高に『抽象的』な言葉を残した後、本条先輩は立ち上がった。
「行くぞ、立村。ちゃんとカセットレコーダーも用意してある」
カセットテープを急いでポケットにつっこむと、上総は急いで立ち上がった。白い羽織のジャケットだった。外はだんだん薄墨色の闇が濃くなっていた。
自転車で急いで帰らなくてはならない、急ぐ心と同時にカセットテープの箱が重く感じられた。からからと音がする。何かがせかしている。そんな気がした。
本条先輩とは、自転車置き場で別れた。
小型のカセットレコーダーをぽんと渡してくれた。
「明日、委員会の時返せよ」
はいとも答えられずに、上総はうなずき見送った。