水曜日 つきあい 一
──いつ、壊れるんだろう。
──いつ、からかわれるんだろう。
──いつ、どうなるんだろう。
授業が終わるまでの間、上総は同じことを考えていた。
別に何が起こったわけでもない。からかわれたわけでもない。
全く何も起こらなかった。
朝は相変わらず、古川こずえとの下ネタ攻撃に対抗策を練り、数学の授業では相変わらずぼけた答えを返して笑われ、英語の授業ではひとりだけ別の副読本を渡されて辞書を引いていたりした。
一部訳知り顔の女子数人が、ひそひそ声で上総の方を見てささやき、笑い合っている。
覚悟していたことだった。
野郎連中の反応がどこか不自然だ。
あれだけしつこく
「お前は清坂だろ」
とからかっていた連中が、何も言わずに花札の席へ誘ってくれた。
あれだけうるさく
「美里とつきあっちゃえよ。好きなくせに」
とささやいていた貴史すら全く美里に関する話題を出さなくなった。
美里から声を掛けられれば、多少なりの話をしているのだろうが、上総に対しては全くといっていいほど、ネタを振らなかった。
火曜日の茶道室にて美里とふたりっきり、雨宿りをしていただけのことだ。 たいしたことじゃない、といえばそれまでだ。
でも、あの時
「雨があがるまで待っていようか」
と口にした段階で、上総は覚悟していたはずだった。 教室に戻ってくるなり、さんざん冷やかしの嵐に遭うことを。南雲・奈良岡カップルの他、一年の頃は貴史と美里もだった。貴史とこずえ、という時もあった。男子女子の『つきあい』というものに変動が起こった場合は、まずからかいの洗礼を受けさせるのが常だった。
なのになぜだろう。決定的な、三十分の空白だったというのに。
誰一人、上総に対して
「お前何していたんだよ。三十分あれば、やれるよな」
としょうもないネタを突っ込んでくる奴はいなかった。
恋愛沙汰に関する話題を持ってくる奴もいなかった。
花札、期末テストの予想、高校の情報、テレビ番組の話。
ここまできっぱりと避けられると、かえって不安だった。
──何かがある。
──何があったんだろう。
──俺はいつ、どうなるんだろう。
女子以外の噂がないのが、ここまで不安になるとは思わなかった。
かといって、貴史に聞くこともできなかった。
どつぼにはまってしまうような気がしてならなかった。
まだ『つきあい』を隠しておかなくてはならないと、美里とは約束したのだから。
帰りの会が終わり、挨拶もそこそこに図書館へ向かった。本条先輩と待ち合わせていた。木曜日までに用意する、一年生学年集会に関するレポートの感想と、今後の評議委員会について少し話をする予定だった。
大抵はその後、本条先輩と別の教室でだべることがほとんどだった。上総が多人数でいるのを好まないことを勘付いてくれたのか。口ではそう見えなくとも、本条先輩の決めこまやかな心遣いに感謝していた。
本条先輩はいなかった。
三年A組の前を通ってきたけれども、まだ帰りの会は終わっていないようすだった。
図書館にもいなかった。
窓際の、誰も座っていない机を我が陣地にしたのち、上総は『グレート・ギャツビー』の新しい訳本を探し、本棚の林をさまよった。
「あれ、りっちゃん」
声を掛けられ振り向くと、南雲がにこにこしながら手を振っていた。
「南雲。図書館にいるなんてめずらしいな」
「そうか? まあそんなもんだ。お前こそどうしたんだよ」
「評議の関係でちょっと、本条先輩と打ち合わせなんだ」
「あれ、じゃあ、清坂さんはいないのか?」
「いつも一緒でいないとおかしいか?」
とうとうきたきた。上総はあきらめ気分で答えることにした。
南雲だって言いたくてならなかったのだろう。
「そうじゃないけどさ。それにしてもさ、夏休みの合宿でそろそろ、委員長に関する内定がでるんだよなあ。俺も胃が痛いよ」
南雲には自分にあった委員会を選ぶべきだったのではと言ってやりたかった。シャギーにそいた髪型で、制服も少々崩し気味。 そんな南雲は二年連続の規律委員である。 次期規律委員長に選ばれるのではないかとの噂が流れている。
大抵、委員長候補はどこの委員会でも、夏休みに『教育』と称する精神的しごきが行われる。しごき、というと言葉は悪いが、要は現委員長が、次期委員長に対して過去の経験を語りまくるというニュアンスのものだった。
規律委員会というと、めがねをかけたいやみな優等生の役割と思われているようだが、何のことはない。南雲が言うには、
「意味不明な校則を、学校側に改めるよう交渉するのが仕事であって、守らせる仕事じゃない」
のだそうだ。もちろん遅刻玄関チェックなどはするけれども、大抵大目に見るようにしているという。青大附中で遅刻を三回すると、チケットが切られてしまい担任との面談が待ち構えている。
南雲は主に、
「お前そろそろちょっとやばいよ」
と忠告する役割にとどめていた。締め上げているところを上総は一度も見たことがない。
「内定か。もう規律委員のほうは南雲に決まっているようなもんだって聞いていたよ。どうなるんだろうなあ」
「何言っているんだよ。りっちゃんだってそうだろ。来年の評議委員長はお前で決まりじゃないかって、うちの委員会でももっぱらの噂。本条委員長の懐刀といわれているじゃないか」
「誰が言った、そんなこと。俺は毎日本条先輩に怒られているよ。まさかそんなことあるわけないだろ」
本当はわかっていた。
おそらく来年は評議委員長をおおせつかることになるだろう。
同期の評議委員もみな納得ずみだった。
どうしてかわからないけれども、
「立村ならば委員長で問題ないんじゃないか」
という結論に達したらしい。あとは今年の夏休みに行われる委員会合宿で、本条委員長からの内定をいただくのみとなっている。内定式という形ではなく、現委員長がなんらかの方法で伝える。
「ずっと思っていたんだけどさ、南雲。どうして規律委員会なんて硬いところを選んだんだ? どうみても、お前、らしくないよ」
「知らないのかな、りっちゃん。規律委員会の外部活動を」
南雲は相変わらずにこにこしながら続けた。
「規律出身の先輩たちはなぜか、ファッションセンスにうるさい連中ばかりなんだ。普段制服をチェックすることになれているから、なおさらなんだろうが。だから、暇があれば駅前の洋品店を覗いてファッションの研究にいそしむのさ。やたらと絵がうまい奴とか、モデル並にスタイルばつぐんの子とかいるだろ」
意味は通じた。
「なるほど、青大附中のファッションリーダーってわけか」
「その通り。表は先生の言う通り、バッチをつけろとか、スカートの丈短くしすぎるなとか顰蹙買うこと言っているけれどな。ちゃんとコピー機を使いまくって、『青潟大学附属中学発信ファッション通信』を発行しているってわけ。あ、大丈夫だよ。どうせ先生にもばれているんだからさ。ちゃんと職員室にも配っているから」
「同人誌作りのようなものか」
「とも、言うな。でもさ、評議だって同じだろ。文化部の行事をほとんど網羅している謎の集団だって言われているし。生徒会よりも、評議委員会の方が力強いというのは、かなり怖い現実だよ。先輩たちにも、『評議とはうまくやっておけ』って言われているしな」
「よくわかった。俺も今の話で、規律委員会とうまくやらなくてはならないことがよくわかったよ」
「ふうん、なぜ」
手招きして上総は南雲にささやいた。
「演劇関係の衣装担当として、協力参加っていうのは」
きょとんとしていた南雲。
ゆっくりうなずいた。
「なるほどね、さては去年、相当苦労したと見える」
「『忠臣蔵』なんてやらせる学校、青大附中以外にどこにあるってさ」
しばらく南雲とたわいもない話をしつづけていた。たまたまこうやって別の場所で顔を合わせると、南雲は上総のことを『りっちゃん』と呼んだ。
他の連中から大抵苗字を呼び捨てにされていた。
決して名前で呼ばせたことはない。
もし冗談でも声を掛けられたら、一生口を利くもんか、そのくらい徹底していた。
一年持ち上がりのクラスだから、前から話はしていたけれども、たまたま所属するグループが異なったこともあり、親しかったわけではなかった。
貴史とどうも波長が合わなかったらしいのだ。
おおまかにD組男子は三グループに棲み分けられていた。 貴史が中心となっているグループに上総は一応、位置している。 南雲のいるグループは隣のC組連中と重なっていて、『規律委員会』の裏活動のごとく、最新ファッションにうるさい連中が揃っていた。 バンド活動に燃えている奴も混じっているためか、ハードロック関係を愛好する集まりのようにも見えた。
評議委員である立場上、上総はできるだけどのグループにもつかず離れずでいるようにしていた。貴史たちのかもし出す雰囲気が嫌いなわけではないが、南雲たちのしゃれっ気ある集まりもなかなか楽しいものがあった。ただ、貴史がいい顔をしないこともあり、一年生の頃はそれほどおしゃべりしたわけでもなかった。
二年に上がってからだった。男女同じ委員同士の班構成ではなくなり、単なるくじ引きで決まるようになり、たまたま上総と南雲は同じ班となった。評議委員会、規律委員会との次期委員長候補ということもあって、ちょこちょことしゃべることが多くなった。
南雲の方が上総に、強く好感をもってくれていたという印象の方が強い。
上総としては、それなりにあわせていた程度だったのだが、南雲の方が一方的に『りっちゃん』と呼びかけるようになっていった。もっとも、教室では絶対に苗字のままだ。羽飛貴史との付き合いも考えてのことらしい。
──小学校の頃だったら、ひどいめに合わされていたタイプの奴じゃないか。
最初はそう、危惧していた部分もあった。
慣れていくにつれ上総もだんだんやわらかい話題を増やしていった。 奈良岡彰子との恋物語しかり。 内面は見せないようにしていたけれども、南雲にはそこまで言わなくても追求されないですんだ。また納得してくれているような暖かさも見え隠れしていた。 貴史や美里とは違った側面のものだった。
そっと心配してくれている、いわば兄、姉のようば部分があるのに対して、南雲の場合は同じ地平で話ができる弾みのようなものがあった。ボールを投げれば同じ力で跳ね返されてくるような、心地いい弾力。
それゆえだった。『理科室の告白事件』では、できる限りのことをしようと決めた。
南雲の気持ちも、言われてしまった奈良岡の気持ちも、理解できたわけではない。 でも、ひゅうひゅう言われるのはもういやだろう。
──もし俺だったら。
「本条先輩、遅いな、まさか忘れて帰ったなんで言わないだろうな」
十分くらい南雲と話をしていたが、本条先輩の来るけはいはなかった。同じクラスの三年生が図書館をうろうろしているのに、肝心の本条先輩が来ない。上総が一、二分待ち合わせ場所に遅れただけでもどつくくせに、どうしたのだろうか。
「りっちゃんと本条先輩はうまく行っているみたいだな」
「お前のとこはそうでもないのか?」
「まあまあ」
言わずに南雲は回りを見渡した。誰かがいるのを注意しているかのようだった。狼めいたシャギーの髪型が、アイドル歌手に似ているのだそうだ。こうやっていると、南雲は犬系の動物に似ていると思う。
「秘密を聞きたいみたいだな」
「鋭いな。何はともあれ、りっちゃん。今日、クラス妙だと思わなかったか」
まじめな顔で、鼻をこすりながら南雲は尋ねた。
「うちのクラスのことか?」
「まあもともと、妙なクラスだもんな。りっちゃんも落ち着かなかったようだし。俺とかにも聞きたいことがあるんじゃないかな、とか思ってさ」
何を言いたいのだろう。上総は、指先を本の間にはさみこみ、その痛みでもって考えた。果たして自分が今、考えていることと同じなのか、それとも別なのか。うっかり変なことを口にしてしまったら、仲のよい南雲といえどもどう考えるかわからない。
「たとえばどんな」
「うーん、そうだなあ」
南雲はしばらく言葉を選んでいるようすだった。こめかみをつんつんとつつき、本に目を走らせた後、
「話変わるけど、お前今でも杉浦さんのこと好きなのか」
いきなり関係ない話を持ち出した。
悪夢だった。思いっきり本に指をはさみこみ、抜いて、紙で指をすってしまった。痛くなり、すぐにハンカチを探した。動揺してしまったのを、南雲に見られてしまった。
杉浦加奈子。
「なんでいまさら古傷をえぐるようなこと言うんだ、南雲」
真冬の悪夢だった。上総にとって打ち消してしまいたい記憶の塊が杉浦加奈子だった。思い出すだけでも本気で泣きそうになる。二重、三重に恥が塗りたくられていった、冬の日を上総はたぶん、一生忘れないだろうと思っている。 冷静に上総は答えた。
「あの頃のことについてはもう、俺は何も答える気はない。皆が思っているとおりに、思ってもらえればいいから」
「ふうん、そうか。皆が思っているとおりにか」
身を乗り出すようにして、南雲はさらに畳み掛けた。
「詳しいことは、聞いているだろう。そういうこと」
きっと南雲には、自分が同じクラスの女子、杉浦加奈子に告白し玉砕したという話が伝わっているのだろう。他のクラス、下手したら二年、三年の先輩たちにまで知られてしまったことなのだから、D組の南雲が知らないわけがない。誰もからかわないでくれたのは、今でも謎のまま。でも、覚悟をしていたことだから上総は受け入れていた。加奈子が戸惑うような表情で上総の方を避けるようにしているのも、事実だとみんなが思っている証拠のように見えた。
本当のことを言う必要は、ないと思っていた。
南雲はそんな上総の考えを軽々と読み取っている、そんな顔をした。
上総の感じたボールを上手に跳ね返したまなざしだった。
決して痛くないものだった。
「杉浦さんに惚れた立村が何を考えたか、呼び出して付き合いをかけてみたのはいいが、杉浦さんには彼氏がいたと。だからあっさり振られてしまったものの、二度、三度としつこく追いかけたものだから、杉浦さんも困りきってしまったと。で、とうとう他の組の女子に助けを求めたと。まあ、俺たちが最初に聞かされた話はそんなもんだった。確かに、最初はびっくりしたよ。あの立村がなあ、って。普段りっちゃんって、女子のこととか関心ないような顔しているしなあ。って。だから、かなり驚かされたよ」
「悪かったな。なんとでも言えよ」
「で、一時期は女子にも無視されそうになるしな。清坂さんと古川さん、あと彰子さんくらいだったか。まともに話してくれたのはさ」
「自分の相手を名前で呼ぶのはやめろよな」
「お前だって『清坂氏』って呼んでいるだろ」
「癖だよ。一年の頃の名残さ」
なんで南雲がいきなり、思い出したくもないことを持ち出したのか。とまどいながらも上総は必死にボールを返した。ずっと凪いでいた海が、南雲の一声で荒れ狂う合図なのだろうか。堤防が切れる寸前の自分がいた。
何かの拍子に泣きじゃくってしまうかもしれない。
小さい頃から上総は『泣き虫』と言われてなぶられてきた。泣かないでいられる自信は正直なかった。一人でいる時以外は絶対に涙をこらえていた自分なのに。みっともないところを見せたくはない。
普通に聞こえるぎりぎりの声。上総はゆっくりと答えた。
「でも、それでも、D組の奴は、いい奴だと思えたからそれが救いだよな。地獄を一度覗くと、もう怖いものなんてないからさ」
「どうしていい奴だと思った?」
口にするのをためらい、さらにゆっくりとつぶやいた。
「D組の教室では誰も、俺を責めたりしなかったからさ」
「なんで責める必要あるんだ?」
「確かに俺のしていたことは、嫌がられることだったんだろうし。気付かなかった俺もばかだったから」
「気付いていないのは別のことだよ、りっちゃん」
南雲はひょいと立ち上がり、ぱかっと笑顔で答えた。
「悪いけど、今言ったこと、少なくともD組の野郎はこれっぽっちも信じていないよ。そう思われていると信じ込んでいたのは、りっちゃんだけだってことだな。よくもさ、今日までだまされていたよな、驚いたよ」
「どういうことだよ、南雲、ちょっと待て」
「あとはみんな、本条さんに話しておいたから、直接聞けよな。とにかく俺が言いたいのは」
ネクタイをゆるめたまま南雲は片手を上げて去り際、
「りっちゃんが思っているよりも、立村上総はいい奴だってことさ」
思わず声をあげそうになり、押さえこむだけの理性は保っていた。
上総はしばらく、この学校でめったに呼ばれなかった、自分の名前の響きを耳に残していた。男とも女ともつかない『かずさ』という響きの名。
南雲から発せられるとは、思わなかった。