月曜日 おちゃっぴい
毎朝、古川こずえとの『朝の一戦』は気合を入れていどまなくてはならない。
「あんた童貞?」
とぴょんと聞かれた時に、上総は鳩が豆鉄砲くらったように、しばらく無言でこずえの顔を見返していた。
後で貴史に一言、
「お前さあ、もう少し何か反応しろよ。あきらかに立村、それだってことがばればれだろうが」
と言われて、さらに動揺した。自分なりにかわしていたつもりではあったのだが、周りからしたら、
「恥ずかしさのあまり絶句してしまったかわいそうな立村くん」
という結論しか引き出せなかったのだろう。
仲のいい連中はだいたいが、六月までに誕生日を迎えていた。貴史が五月、美里が六月初旬、こずえは四月。上総は九月十四日生まれ。明らかに末っ子扱いされている。あまり気にしないようにしている。
こずえは楽しそうにそこをついてくる。
なにかあると
「本当に立村って私の弟って感じよね」
と言う。
「血がつながっていなくて、本当によかったよ」
まだ際どい言葉は出てこない。
ほっとした気持ちで上総は次の授業準備をした。
朝一番は英語の授業だった。得意分野だ。すでに英語の小道具であるカセットテープは運んできた。音楽の授業とちがって、ちゃんと一台ですんだ。
「リーダーの暗誦部分、きちんとやってきた?」
「やらなくちゃ、立たされるだろ」
教科書一ページ分を一週間かけて暗記し、ひとりひとりが抜き打ちで暗誦しなくてはならない授業だった。出来ない人は教室の隅に立たされ、一時間じっと待っていなくてはならなかった。
幸い上総には、『方程式は覚えられなくても英語は全部暗記できる』能力が、神さまからあたえられていた。その点は悠々としていられた。
ひとりだけのうのうとしているのも気が引けるので、こっそりカンニングペーパーを作り、かなりまずいという連中に渡すことも忘れてはいない。
机の上に見えないよう貼り付け、それを読みながら暗誦した振りをするのだった。先生の机からは見えないはずだった。美里も貴史も、そのお世話になっているのはいうまでもなかった。
「どうして立村って、文系ものだけこうも得意なわけ?」
「知らない。好きだからだろう」
「いったい、いつ勉強しているの?」
「夜かな。一番頭に入るのは十二時くらい。三回くらい音読して、五回暗誦できれば、あとは寝るだけで問題ない」
珍しく下ネタを持ってこない。今日はまじめに英語のネタか。と思いつつ英和辞典を取り出した。
「一晩寝ると忘れていたりしない?」
「全然。かえってよく頭に入っていたりする」
「ふうん、そうなんだ」
こずえはなにやら思いついたようににやにやしながら頬杖をついた。
いやな予感あり。上総も用心深く言葉を継いだ。
「寝る前に読んだり観たりしたものは忘れにくいって本当だよな」
「ふうん、夢に英語が出てきたりする?」
「社会の年号を覚えていたりすると、明治時代にタイムスリップした気持ちになったりする」
「ふうん、じゃあ、さあ、夜見る夢に、誰かさんがでてきたりしないの?」
「誰って、歴史の登場人物とかか?それはたまに………」
こずえは下からじーっと見上げた。
「おかず本の女の子、とか?」
言われた意味がわからなかった。
「立村のように、記憶力が鋭い奴だったら、当然、見ているよね」
「何、それ。もっとわかりやすい表現を使ってほしいな。第一なんだよ、その「おかず本」って」
「ははあ、立村ってば、まだ未経験なの? 写真の方は、あ、わかった。まだうちのクラスの集合写真使ってるんじゃないの? 一年同じクラスだったら、結構、『使える』写真とか、たくさんありそうじゃないの。セクシー系とか」
上総は無言でこずえの口元を見つめていた。
頭の中に言葉が混乱してきて何を意味するのかがつかめない。
何か、しょうもないねたを振られているのはなんとなくわかる。
──でも、何が『使える』写真なんだろう。
──なんで、うちのクラスの集合写真を使う必要、あるんだ?
「やだなあ、私もあんたの夢に出てあーんなことやこーんなことさせられているかもね。記憶力いいのも、考え物だよねえ、美里」
美里もいつものパターンだと知っているのか、まぜっかえしてくれたりする。 軽く、、
「こずえ、やめときなよ。えげつないよ」
と残して、さっさと自分の席に戻った。
授業が終り、男子は男子、女子は女子と分かれ、保健体育の授業に移った。青大附中では性教育の時間をしつこいくらい取り込んでいる。教科書そのものはさほど、詳しい内容が記述されているわけではない。ただ、何かというと月一回は生殖関係の話題を先生達が取り上げる。一年の頃だったら妙に授業前、授業後の盛り上がりがすごいものだったが、今ではそんなこともない。ひっそりと、いつかは自分の実践用に役立つことあるのか、と考える程度だった。大して関心のない顔をし、通すのが自然なものだと思っているようで、あえて話題にすることもなかった。
C組の教室に移り、あいうえお順に並んだ。隣のクラスとはいえ、ほとんどしゃべったことのない奴も多い。一番後ろの席で貴史とふたり、テレビ番組の話をしていた。もっともほとんどは、貴史のお気に入りアイドル『鈴蘭優』の出番が少なかったとか、最近は大人っぽい系統の服が多くなって不満だとか。肝心の番組を観ていない上総はあいづちを打つしかない。
「サインもらいたいとか、思うのか?」
「そりゃ、欲しいに決まっているだろ。懸賞にも応募しているけどなああたらねえよ。競争率高いものなあ。立村はあまり、アイドル系とか好きじゃないのか」
「いない。いないな」
いつものように同じ答えを返した。
「前から言っているけど、同じ顔に見えるんだよ。ちょっと雰囲気がいい、という写真とかはあるけれども、だからといってそういう人がいいっていうのはないな」
「優ちゃんのかわいさをわからない奴がここにもひとり、と。お前だったら『榛野七草』あたりかなあ。ああいうちょっと気の強そうな色っぽい感じの子も、好みじゃねえのか」
「誰、それ」
思い当たらず、上総は首をひねった。貴史もちらちらとためらい気味に、
「ここだけの話だけどな、美里の昔の相手、よくあいつのことを『榛野七草』に似ているって言っていたんだと」
「そうなんだ。今度じっくり見てみよう」
「言われてみると、なあ、確かにって思うなあ。ぞくぞくするってところはないけれど、はっきりした顔の雰囲気はなんだかそれっぽいかもなあ。お前、どう思う?」
初めて聞く言葉が飛び出して、上総は戸惑いながらも自然に流した。
「清坂氏もやはり、付き合ったことがあるのか」
清坂美里は『付き合う』の意味を知っているらしい。
──昔の相手、ってことだと、そうなんだろうな。
「でも安心しろよ。とっくに別れた」
「なんで俺が安心しなくちゃいけないんだよ」
いいのか。幼なじみとはいえ、知られたくないことを平気で言うのは。
「気にしているくせに。まあいいけどな。俺には関係ねえよ。それよか、立村。今日の古川、どういうネタを降ってきた? また『あんた童貞?』か?」
「そういうわかりやすい言葉じゃなかった。なんだかさ、テレビの語学番組でよくやる『スキット』をやらされているみたいだよな。クラスのみなさまを楽しませるために、古川さんと漫才やらされている気がする」
「お互い、ネタを用意しあってきているのが、よくわかるもんなあ。立村、お前も芸人になったよ」
「好きでやっているわけじゃない。こちらだって散々今までひどい目にあっているんだ。全く。一度は逆襲しないとこちらの気持ちが治まらない」
上総はかいつまんで朝の『夜の記憶力』について説明した。
キーワードは『夜』だから、かなり際どいネタ振りをしたかったのであろう。受ける側の上総が理解できないまま授業に突入してしまった。
本当は古川こずえにもう一度確認してみたかったのだが、どつぼにはまるのも目に見えていた。男子だけの授業ということもあるし、羽飛に聞いてみようとは思っていた。
「立村の英語に関する記憶力は確かに尋常ならざるものあるよなあ。俺、すげえうらやましいよ。でも歴史関係は俺もたまあに夢に見る。織田信長と友達になっちゃったりとかさ」
「俺はそこまで遡らないな、せいぜい明治大正前後。鹿鳴館のあたりを歩いているとか、のどかな感じの話。さわやかな目覚めを迎えられるかもって話ばかり」
「さわやかな目覚めかあ………」
羽飛は、指先でとんと机を叩いた。
「で、立村はどう反応したんだ?」
「言っている意味がわからないから、そのまま黙って聞いていたよ」
「お前、本当に、ばかか」
とうとう羽飛は腹を抱えて笑い出した。
「そりゃあそうだよなあ。俺も優ちゃんの写真集とか、観て寝たら夢で出てくるかもと、思ったことあるぞ」
「実際出てきたことあるのか?」
「ねえよ、そんなの。でもな、確かに夢の中でどういう展開になるかは、そりゃあ、古川のことだ、想像しているだろうなあ。おい、ここまで言ってもお前、わからんのか」
わからず上総は聞き返した。
「ごめん。俺はやっぱり鈍いんだ」
「で、最後にクラス写真まで持ち出したのかよ。まあ、立村がまさか、古川の写真見てあーんなことやこーんなことをしている夢見ているとは、誰も思わないけどな。でもまんざら嘘じゃないってことか」
しばらく考え込むうちに、ぴんとくるものがある。
おかず本、という言葉に、反応するものが確かにある。
昨日返した写真集の束を思い出し、上総はふうっと息をついた。
「つまりなにか。古川さんは俺に、限りなく失礼なことを言っていたってわけか」
「立村、あの場で気付かなくて良かったなあ。図星か濡れ衣か、その辺は追求しないでおくけどな」
「濡れ衣に決まってるだろ!」
「クラスの女子をおかず代わりに使っていたんじゃねえかと言われたら、そりゃ、むかつくだろうよ」
口調だけおだやかにつぶやいたつもりだった。
「いったい何考えているんだよ、古川さんの頭の中、一度勝ち割ってのぞいてみたいもんだな。普通朝一番に浴びせる話題じゃないよな。まったく。本当に女子の考えていることってわからない」
はたして貴史がどう感じているかは見当がつかない。
「だから清坂氏に『あまりえげつないこと聞くな』って言われていたんだな」
「へえ、美里そんなこと言っていたんだ。いつもだったら調子に乗ってつっこみにくるのに。それも仕方ないか。相手が立村だからなあ」
「俺がそういう話嫌いだってわかっているから、気を遣ってくれてるんだろう」
「そういう気遣いできる女子だと思うか? 美里が」
貴史は鼻で笑いながらさらに続けた。
「六年の時に、『男と女』の違いについてスライド見せられたことあっただろ?その時にさあ、俺に聞いてきたんだぜ。『本当に男子ってああいう風になるの、具体的に説明して』って」
具体的に説明ってどういうことなんだろう。貴史と美里のコンビがどういう会話をしているのかが、容易に想像できてしまい、奥歯で笑いをかみ殺した。
「清坂氏なら、やりかねないな」
「だから聞いてやったんだよ、俺だって。月一回のあれっていうのが具体的にどういうもんか、教えろって」
「どっちもどっちだな。で、どう答えた? 」
けろりとした顔で答えた。
「次の日、百科事典二人で見て確認した。ああ、そういうことなのかって」
「ふたりっていうのが、なんだかすごいなあ」
保健体育の授業は、知っていることをいまさら聞いてどうする、というのりで終わった。教科書を尻目に、別のことばかり考えているふりをしていた。性教育のテストだったら成績が悪くても可愛げがある、そんな雰囲気すらあった。
「女子の方は盛り上がっただろうなあ」
「おそらくな」
貴史ののんびりした声を聞きながら上総はD組の教室に戻った。
これからひとつ、反撃だ。
「古川さん、あのさ」
「どうしたの、保健体育の授業で興奮したの?」
「新しいネタを仕入れてきたんだろう」
次の授業、国語の教科書で軽く壁を作り、上総はささやいた。
「朝のスキットの説明を、羽飛に全部してもらった」
じっとこずえの表情をうかがった。
「羽飛に聞いたわけ? ばっかじゃないの!」
「申しわけないな。ぴんとこなくてさ」
もうひとつ、大切なことを伝えねば。
少しだけ間を置いて尋ねた。
「おんなじ質問、羽飛にしてみたらどうだ?」
古川こずえが羽飛貴史に、一年の頃から惚れぬいているのは周知の事実だった。 上総に向けるような際どい質問をしないのは、きっと恥じらいがあるからなのだろう。 禁じ手だ。普段だったら上総も人の弱みにつけ込むようなことはしたくない。
こずえはしばらく
「なによ、なんで羽飛に告げ口するのよ、ガキじゃあるまいし、何よ、ばか」
ぶつぶつつぶやき、上総をにらみつけた。知らん振りし、してやったりと思う。ちらりと様子を伺うと、こずえの表情にはどきまきしている様子が、まだ、消えていなかった。嘘のなさを見て上総は苦味を覚えた。