日曜日 まよい 2
歩いて十分くらいのところに『聖少女』は建っていた。
ひっそりとしたたたずまい、舗装されていない道、瀟洒な和洋折衷型茶房として、知る人ぞ知る穴場だった。
小さい頃から上総は、母に連れられてお茶をすすったり和菓子をいただいたりしていた。遠くから車で来る客を見込んでか、いつも駐車場は五台の車で埋め尽くされている。暇ではなさそうだ。でも座れないほど込み合っていることもなかった。
薄暗い店内の中、金をあしらった花柄のソファーに、黒大理石のテーブル、小さめのシャンデリアが遠慮がちにぶら下がり、格子戸は目線のところまですりガラスを使っていた。 頭の上くらいしか見えないので、誰がいるかなんてことは、外からは見えない。
露草の紫だけが色のアクセントとしてちらついていた。 ふっと、何かの拍子に薫るのは、膝まで伸びる青草の匂い。 なんとなく、手元でちぎってみた。 緑色の液がついたのは、柔らかい草だったからだろうか。
上総が『聖少女』を友達との待ち合わせに選ぶのは、本条先輩と会う時だけに限られていた 。
もちろん一回のお茶代が千円ほどかかるという、経済事情も絡んでいる。 上総にとってはそう大金ではない。あまり無駄遣いしない性格だから抵抗はない。貴史をはじめとする同学年の連中とは、やはり金銭感覚が違い過ぎた。 本条先輩の場合は、一回千円感覚のお茶を、「もったいない」ではなく「ちょっと楽しめる」と感じてくれた。
かすかにさわさわとゆれるしだれやなぎの並木に、上総は目をちらりと留め、すこし重みのある道を歩いていった。おとといの雨が、まだ地面の下に残っているのだろう。吸い付きのいい土の感触が感じられた。
普段だったら自転車を使う。でも、『聖少女』に行くのならばそれなりの雰囲気で足を運びたい、上総のこだわりだった。
ひとりぼんやりと、煎茶と和菓子のもてなしを受け、いろいろ想像をめぐらせていると、なんだかすべてのことが屏風をたたむように片付いていく。そんな気がした。 自分の部屋では感情に押し流されて思わず泣いてしまいそうになる時も、ここだったら、無理なく耐えられる。
引き戸を開けて、軽く会釈した後、案内されたのは一番奥の窓際だった。 客は、ひげを蓄えた上品な老紳士と、腰まで髪を伸ばした大学生風の女性だけだった。 二人とも、「抹茶セット」を注文したまま、文庫本を読んでいた。 たぶん、常連だろう。 店の方も心得ていてか、たまに冷えた番茶を入れ替えてあげたりして程度だった。追い出そうとする風でもない。
おそらく上総の顔を、小さい頃から見覚えているだろうに、それでも不必要に立ち入ってこない適度な接客態度に、いつもほっとしていた。
ソファーにまず、バインダーを置いて後、やはり抹茶セットを選んだ。これだとわざわざお茶を立ててくれた後に、和菓子三種類を選ぶことができる。でも本条先輩を待たずに食べるわけにはいかない。
「もうひとり来てからでいいですか」
と一言添えた。
本条先輩が来るのは、あと十分くらいしてからだろう。
いつもながら、本条先輩の姿は自分とひとつ上だとは思えなかった。
笑みを浮かべながら、二言三言、尋ねた後すぐに上総の居る席に向かって歩いてきた。
「お前のことだ、後ろの方にひっそり座っているとは思っていたんだけどな」
「さすがよくお分かりです。今日は呼び立ててしまって申しわけありません」
「なんか用でもあったのか」
「いろいろと」
上総はすぐに答えられず、軽くごまかした。思い出した。
「もしお時間があるようだったら、と思っただけです。評議の関係でもあったから」
「なに硬いこと言っているんだ。どうせ、俺に会いたかったんだろ」
「学校で毎日いやってほどお会いしているっていうのに、なんでいまさら呼び出さなくてはならないんですか」
敬語でするすると飛び出す。上総にとって普通の言葉。
「まあいいよ。愛の裏返しだろ。それはともかく、俺も立村に確認しておきたいことがあったからなあ」
「先に注文しませんか。ここでは抹茶セットが一番いいと思います。立ててもらった抹茶と、和菓子がお好みで三個選べるという、なかなか豪華なセットです。俺はそれで頼みますが、本条さんは」
「それなら変わったのにした方が面白いな。この、クリームみつまめセットというのに非常に俺は引かれるんだな」
本条先輩は酒に強いくせに、甘党だった。
注文も終り、上総は潜めた声で話を持ち出した。
「この前の、一年学年集会のレポートなんですが、一応出来上がったのでもってきました。学校で渡してもよかったのですが、直すところがあるなら今日のうちに直しておきたいので」
金曜にまとめたものだった。実は土曜日のうちに片付いていた。無理に早くしなくてもよかったのだけど本条先輩に会う口実としては、ちょうどいいものだった。
「ああ、あれな。クイズ大会というのは、なんだか去年の秋、やったものと同じのような気もするが、まあぼろがでなかっただけ、よしとするか。杉本梨南もよくがんばったしな」
「杉本、だけ、と言った方が正しいですね。正直なところ」
「今年の一年はどうしてああも、いいかげんな奴ばかり揃ったのか理解に苦しむよな。立村。何よりもなぜ、あそこまで男子と女子がいがみ合っているのか、俺には全く理解できねえよ。見た目可愛い子もいるっていうのに、誰も口説こうとしない。もったいないことするよなあ」
「お願いですから、本条先輩が手を出すのはやめてください。これ以上複雑になったら、もう目も当てられませんから。それに来年俺たちが三年になった時、地獄を見そうな気がしますから」
現一年生の『やる気なさ』には、上総を始めとする二年生、および本条先輩を含む三年生も頭を痛めていた。 おそらく、委員の選出方法が今年の一年担任一同によってかなり変更されたからだろう。 去年までは「評議委員会」イコール「青大附中内社交界」としての地位を確立してきたのだが、一部の教師から『もっと部活で自己表現をするべきでは』という声があがり、最初に部活を選ばせた後に委員を決めるという方法を取るようになったという。
去年はその逆で、委員会を決めた後、可能かどうかを調べつつ部活に入るという形式だった。必然、委員会が最優先とされ、部活には入れないとあきらめる者も続出した。 体育系の部活に入りたかったのに意に反して委員会へ放り込まれた奴にとってはかなり悔しい現実だったらしい。
なぜ二年の評議委員がまとまっているかというと、深い意味はない。体育系の人間が全くいなかったからだろう。文化系でやるべきことは、ほとんど評議委員会で可能なことばかりだった。合唱も、演劇も手芸も文芸も、映画もビデオも音楽も、みな評議委員会でまかなえる内容のものばかりだった。
「言っちゃなんですが、喜んで評議になった奴がほとんどいません。それは大きいですね。もっとも俺も最初はやる気があったわけじゃありませんが。でも、一ヶ月くらいで慣れました」
「自分で慣れたと、思っているのかよ。全く、お前はだからガキだっていうんだよ」
表情はさらっとした笑みを浮かべたまま、本条先輩は上総に向かい、つぶやいた。
「もちろん、本条先輩、結城先輩を始め、先輩たちには感謝してますよ。もちろん」
「お前の面倒見てきたのはほとんど俺じゃないかよ」
否定できないところが辛い。
「とにかく、今の一年生をもう少し仕込まないと、来年苦労するのは今年の二年生なんだからな。夏合宿の時になにか考えた方がいいかもしれないな」
「ただ、杉本が……」
上総はもうひとつ、気になっていることを告げた。
「杉本梨南のことなのですが、俺から贔屓目なしに見ても、かなり切れる頭を持っていると思います。あの一年の中でも、杉本だけは認めていいんじゃないかな。第一、ほとんどクイズ問題の設定から点数付け、あとは構成実行までプランを組んだのは杉本でしたし。それと他の連中を一緒にするのはちょっと、まずいんじゃないかな」
「お前は杉本をひいきしてるからなあ」
「まともに話して通じるのが一人だけだってことです。それに、杉本は一生懸命ですよ。準備の間もしょっちゅう、俺に質問を浴びせてきましたし、わかりずらくないようにと文章でまとめていろいろ相談持ちかけてきましたしね。その内容がみな、論理だっていて、わかりやすいんだな。これはやられた、と思いましたよ。あれでもう少し、人当たりがやわらかければ問題ないんだけどな」
杉本梨南のことを話しているうちに、自分でも止まらなくなってきた。
一年生の中で唯一、やる気を見せている女子評議委員一年生だった。
案を練っているうちに他の一年男女がみな、用事を思い出して帰ってしまった中、杉本だけは自分なりに計画をこしらえて、上総あてに提出してきたのだった。 二年生が補佐をして、一年生だけで計画、実行するという形式だったのだが、実際は杉本梨南が計画を立て、上総たち二年生と本条たち三年生が手伝った、というのが真相だった。
手伝った部分というのは、杉本が苦手としている、男子生徒たちとの折衷であったりもしたし、教師たちとの打ち合わせでもあった。
そう、男子との受けが異様なほど、悪い女子だった。
上総から見ると、そんなにむかつくことはしていないように感じられる。 むしろ、人見知りが激しい分、信じられる相手にだけは本心を見せるという、ひたむきな部分が見え隠れした。 上総には、しつこいくらい質問の手紙をよこしてきた。こんなことまで考えるのか、と思うくらい影の部分まで目を配っているのに、上総はかなり驚いた。
『立村先輩にどうしても、お願いしたいことがあります。私は男子に嫌われていると思うので、私が言ったらきっと、いやがられると思います。でも、この企画はクラスの男子たちにも参加してもらわないと、意味が無いと思います。ずうずうしいお願いだと思いますが、先輩の方から、その旨を伝えてもらえませんか』
切実な問題だったので、上総はすぐに手はずを整えた。
先輩から後輩への命令は、理不尽でなければ絶対だった。
杉本が自分の苦手分野を理解して、どうやってうまくいくかを冷静に考えているところが、上総からすると偉いと思うところだった。だからつい、夕方まで相談に乗ったり、話をしてやったり、たまには別のことで助言してやったりと、自分なりに気を遣っていたのだろう。
それが、本条先輩の言う
「お前はひいきしているからなあ」
に繋がるのもしれなかった。
仕方ない。わかるのだから。
杉本梨南が必死に努力している苦しみが、伝わるのだから。
似た者どうしなのかもしれなかった。
ただ、女子だから、異性である分、優しくしてやれるのかもしれなかった。
「そうだな、杉本に関してのみ、例外にしてやらなくちゃならないな。ただな、あの子も、悪いが、女子としてはちょっと、避けたいタイプであるのも認めなくてはならない事実だ。お前の趣味はだいたい見当ついているが、いかにも男子を小ばかにしたような言い方は、やめさせないとまずい」
「本人はあれでも精一杯、気を遣っているつもりなんでしょう」
「でもな、『くだらないことでべたべたしている暇があったら、もっと考えてください』なんて言えるか?普通。 あれはまずいと思ったぞ。まあ、立村がしょっちゅう杉本の性格について弁護しているから、俺も大体、受け流すことができたけれどな。一年の連中にも同じこと言っているとしたら、殴ってやりたくなるぞ」
「理由はありますよ。最初の頃、杉本のことで本条先輩、かなりまずいことを言ったでしょう。それですよ」
「なんか、言ったか? 俺?」
「自分で考えてください。悪いけれどあれも、俺はまずいな、と思いました」
ようやく運ばれてきたセットもの二種類を受け取り、上総はまず、茶碗を両手で抱えた。
「たぶん、相手が清坂氏とかだったら、冗談で受け流してくれると思いますよ。でも杉本の場合は、かなりそういうことをいわれたくないとかたくなに思っていたようです」
「ははあ、あれか」
ようやく気付いたようで、本条先輩は軽く舌打ちをした。
「相手を選ぶべき、だったかもな。一応俺としては、誉め言葉のつもりではいたんだが」
「女子はそう思わないでしょう」
「いや、他の子とかは喜ぶけどな。『君の胸は握りごこちがある!』とか言うと」
──そりゃあ、先輩の前で見せられる相手だからだろう。
心で思ったけれども言わずにしまっておいた。
杉本梨南の胸が、他の女子にくらべてふくよかで、かなり目立っていたことを否定はできなかった。 上総も早い段階から、その点に気付いていた。 本条先輩の気持もわからなくはない。 しかし、思っても絶対に口に出すべきことではないだろう。
すべての部分で本条を手本にしたいけれども、女子に対する感情だけは絶対に重ねたくなかった。
理解できないままでいたはずだった。去年までは。
上総はワゴンで運ばれてきた和菓子を三種類選ぶことにした。琥珀色の羊羹と小ぶりのヨーグルトケーキ、あとは卵色にほんのり焦げ目がついている桃山だった。
「お前も結構甘いもの好きだろ」
「和菓子が甘くないわけないじゃないですか」
意味ありげに本条先輩はじっと上総の手元を見つめた。他の奴だったらいらだつのに本条先輩にされるのは平気だった。
本条先輩があんみつを平らげ、上総がヨーグルトケーキを食べ終えた段階で、ふたつ前の席に座っていた女性が会計を済ませ、店を出て行った。
──よかった。
こういう話をしている時に女性がいるのを感じるのは、やはり恥ずかしいものがあった。
もっとも本条先輩はさっきから気になっていたようで、なにかあると振り返っていた様子だった。『青大附中の女たらし』の名は伊達じゃない。
「ところで、いいですか」
桃山を指差して、食べるかどうか尋ねると、答える間もなく本条先輩は箸で素早くつまみ、まるごとほおばった。
「もう少し味わったっていいじゃないですか」
「人の食べ方に口出しするなよ。おいしいものはおいしいんだ」
上総はさらに声を潜めてささやいた。
「お願いしたいことがあるのですが、かまいませんか」
「なんだよ、まじめな顔をしてさ」
上総は脇に置いていたバインダーから、大判封筒を取り出した。中には例の写真集が三冊、入っていた。
「先日お借りしたものなんですが、学校で返すのもまずいでしょうから、ここでお返ししていいですか」
袋を受け取り、中をのぞき、本条先輩はきょとんとした表情で上総に尋ねた。
「これ、お前にやったんだから、別に返さなくてもいいってさ」
「それはわかってます。でも、やはり借りたものはきちんと、お返しするのが義務ではないかと」
「どうしたんだよ。立村、使わないわけじゃないんだろう」
「そういうわけではないですが」
口ごもった。さすがに「母に見つかったら半殺し」なんてことは言えなかった。 いかにも何か、怖がっている臆病者に思われそうだった。
本条先輩だったらきっと、堂々と本棚に並べているか、机の中にきちんと整理して納めているのだろう。
「それとも、中のモデルの好みが合わなくなったとか」
「そういうわけでもありません。すみません。本条先輩には感謝しています。ただ」
「ははあ、誰か好きな女子でも出来たのか。でもそれだったら、なおさら必要だよな。欲求不満もたまるだろうし」
「本条先輩、どうしてそういうことに話が結びつくんですか」
「いや、だってさ、立村の場合だと顔にすべて書いているからさ。見ていておもしろい」
思い当たる節があるのが、悔しくてならなかった。本条先輩のまなざしは千里眼だ。上総の考えていることに関してのみ、すみからすみまで見通すのが怖かった。
「まあいいよ。また後で別のタイプのをやるからさ。ちなみに立村、この中ではどの子が好みだった?」
「こういうところで話すことじゃないでしょう」
隠しても無駄だとわかっていながら、上総は目をそらしたまま答えた。
「無理にとは言わないけどな、そのことばかり考えて発狂しそうになっているよりも、そんなもんだと割り切ったほうがいろいろ楽だと思うよ。お前、いつもそうだろ。自分だけそう思っていると信じ込んでいるだろう。だからお前はガキだって言うんだよ」
口調は真摯で耳に残る。
言い返せずに言葉を捜す。
見つからず、いらいらした。
上総をやわらかく見つめたまま、本条先輩はゆっくり、言葉を継いだ。
「なんというかさ、二年になってから立村、俺の話をずいぶんまじめに聞くようになっただろう。いや、評議関係ではなくて、付き合っている時のこととかさ」
「そりゃあ、一年本条先輩のもとで勉強すれば、関心も持ちますよ」
ぼそっとつぶやき、ずっと目をそらしていた。曇り硝子の向こう側を見通すように睨みつけていた。
「それまでは、信じられないって顔であきれ果てていたくせにな。どうして女子とそういうことするんですか、とか言いたそうな顔しててさ。結城先輩も気付いていたようだ。よく話していたよ。『立村をもう少しまともなすけべ野郎にしないと、このままだとまずいぞ』とか言って。だから二人で相談して、お前が好きそうなタイプの写真集を選んだというわけなんだ。結城先輩も卒業したから、もう時効だけどな」
全身が熱くなり、逃げ出したかった。
表情を見せたくなくてずっと反対の方を向いている上総に、本条先輩はいらだつようすを見せなかった。
二年に上がるまえの春休みまで、なぜクラスの連中が女子の胸や唇について騒ぐのか理解できなかった。。
猥談の席にいたこともあったが話だけをふんふんと聞いて、あわせていた程度だった。
その頃はまだ好奇心だけが先行し、実際の感覚がどんなものなのかわからなかった。ただ、語っている連中の顔がどうしても気持悪くなり、たいていは途中で抜けた。
本条先輩と二人でいる時は一応、聞いてやっているという態度を取り、半分無視した態度で聞き流していたものだった。
しかし、実際に経験してみると湧き上がってきたものは強烈すすぎてコントロールできない代物だった。 許せなかった。
一度は鏡をみつめて。その瞬間どんな顔をしているのか見据えたこともあった。 効果はたしかにあったと思う。 がまんできるところまでは堪えようと思えた。
結局は屈してしまう自分の弱さが許せなかった。
うまくみせないでいられる自分でありたかった。
授業中いきなり昨日見た夢を思い出したり。
何かの拍子に女子の素肌に触れてしまったり。
本条からもらった写真集をめくっているいるうちに、逆流してくるように我をわすれてしまいそうになったり。
本条先輩の言うとおり、誰にでもあることなのだろうし、上総も全くそういうことを知らずにいたわけではなかった。頭の中ではわかっていた。身体の中でも答えは出ていた 。
絶対に本条先輩のように『欲望の赴くままに』突っ走ったり、南雲のように告白をかましてしまったり、手と手をつないでにやにやするようなカップルのようにはなりたくなかった。目をそらしたくてならなかった。
写真集の、哀しげな少女のまなざしをじっと見つめ、写真の美しさについて語ることができたならどんなに楽だったろう。
そういう人間でありたかった。
夜の夢に出てくる顔のない女性を押し倒すような夢におぼれたくはなかった。
裏切られるたび自分を責めた。
母に見られたくないから写真集を返すというのも、口実に過ぎない。
本当は、誘惑に負けてしまう自分を思い出してしまうから、自分の手に届かないところまでおいやりたかっただけだったということ。美里との「付き合い」がもしかしたら、自分の激しい感情に裏打ちされているから受け入れただけなのかもしれないという、恐怖から抜け出したかっただけだったこと。
結局、美里とどうして「付き合う」ことを受け入れてしまったのか。
──本条先輩は、どうやって、付き合いたいと思ったのだろう。
──やはり、気持いいからだろうか。
──第一、「付き合う」ってどういうことだ?
──恋愛感情って一体なんなんだ?
──身体が勝手に反応するくせに、清坂氏にはそういうことを感じたことがない。 わからない、なんで俺は
「いいよ、清坂氏だったら」
と脳天気な答えを返してしまったんだろう。
本条先輩の表情が全く変わらないのが救いだった。
上総はのど上から空気を込めたような声で、ささやき返した。
目を上げることはできなかった。
「本条先輩、すみません。でも今は受け取ってください。理由は聞かないでください。どうしても今は言えません」
「そうか、まあいいよ。溜まってがまんできなくなったら、遠慮なく言えよ。うちにはこのくらいの写真集だったらいくらでもあるからさ」
男四人兄弟の末っ子という本条先輩は、たぶん日常的に猥談をしなれているのだろうし、常識をわきまえた範囲内でおおっぴらに語ることも抵抗がないのだろう。顔を赤くすることもなく、堂々と自分の感じたことを言い放つ性格が、上総はたまらなくうらやましかった。
他の連中だったら、絶対自分の中に入れたくなかった。
本条先輩だけは別だった。
──こんな風に振舞えるなら、自分を許すことができるだろうに。
──こんな風に、俺もさらっと流せればいいのにな。
──どうしてこういう性格になってしまったんだろう。
── そういうものなんだって、あっさり受け入れてしまえればいいのに。
──まだ俺は、本条さんのようになれない。
──自分なりに精一杯、努力してきたつもりだけど、結局は感情に流されて、衝動に屈して、あとでめいっぱい後悔するような人間のままなんだ。
──こんな奴をどうして、清坂氏は「好みだ」と言ってくれたんだろう。
──付き合うという意味すらわかっていないくせにあっさり、流されて受け入れてしまうような俺の性格が、たまらなく腹立たしい。
──金曜日の放課後にもっと、何か、言い方なかったんだろうか。
──情けない。
雲がうっすらと層状に広がってきた。浅い黄金色の輝きが窓に反射した。品山の山色は、決して水色ではなく、近くの緑色がかすかに迫ってきている。山の近くゆえ天気も変わりやすい。
もうこんな時間かと、上総は本条先輩に時刻を尋ねた。
「どうせこれから暇なんだろ。卓球でもやりにいくか?」
「そうですね。久々に。今回も勝たせてもらいます」
ひそやかに勝利宣言をした。卓球だけは、誰にも負けない自信がある。
「冗談抜かせ。今日こそ立村の連勝記録をストップさせてやる」
並んで歩くと、本条先輩の方が首ひとつぶん背が高かった。
まだまだ、この人にはかなわない。
背伸びしたって届かない。
でもいつか、一対一で話ができるような人間になりたい。
伝票を持って立ち上がった本条先輩の背を追いかけた。






