日曜日 まよい 1
大抵の日は、家で洗濯物を片付けたり、何も考えずに寝ていたりと、外に出ることもなくおとなしくしている。
決して、次の日の予習をしたりとか、友達を呼んだりとか、そういうことはしない。
もちろんクラスの何人かは遊びにきてくれたりするし、駅前に出て遊んだりすることもあるけれども、なにせ品山の人間ゆえ、どこにいくにも遠い。かといって、近くで遊ぶのだけは避けたかった。
小学校時代の知り合いと顔を合わせるのはいやだった。
約束のない日曜日、上総はいつも部屋の中で過ごしていた。
「上総、起きているか」
ドアの向こうから父の声がする。
日曜日なのに、めずらしく家にいるのはなぜだろう。
上総の記憶には、祝日遊びに連れて行ってもらったことがほとんど残っていない。
全くなかったわけではなさそうだった。かなり古い写真には、つまらなさそうな顔をして映っている遊園地でのスナップが残っている。楽しいと思ったことがないから、たぶん両親も好んで連れて行ったわけではないのだろう。
「起きてるけど」
「今日はどこも行かないのか」
「行かない」
短く答え、上総は父親が部屋に入ってくるのを迎えた。
机に向かっていれば何をしていても、まず勉強だと思ってくれるだろう。
教科書を開いていれば、カモフラージュも問題なし。
周りから『うり二つ』と言われるくらい、父と自分とは似ているらしい。
上総自身はそう考えたことがないのだが、母からもしぐさひとつに、
『上総はお父さんそっくりだから』
と言われつづけてきた。
どこが似ているのだろう。細い唇とか、痩せ型のからだつきとか、首の長いところとか、ありとあらゆるところが重なるのだそうだ。
「お前、身体の調子は大丈夫なのか」
「問題ないと思う」
父が上総に話し掛ける最初はいつも、体調の是非だった。だんだん夏気温に近づく頃、大抵上総は高熱を出して一週間くらい寝込む。本当に小さい頃からそうだった。
一年の六月、やはり夏風邪で倒れてしまったにもかかわらず、父は
「いつものことだ」
とばかりにほったらかして仕事に出かけてしまった。かえってそれの方が嬉しい部分もある反面、全快してからの家事を片付けるのに大変な思いをした。
今年はそれに懲り、前もって夏風邪対策を練っている。薬を準備しておき、ちょっとふらっときたらすぐにベットに横になる。具合悪いから、の一言でほとんどの言い訳が利く。
ただ、その時はかならず
「頼むから、お母さんには連絡をしないで」
と頼まなくてはならない。うっかり、別居している母に連絡を入れられたら、病人といえども心休まる間がない。
上総は数学の宿題をやっているふりをしながら父の方を見た。いかにも
「忙しいのに、一応親だし」
という顔をしてみせた。薄手の灰色開襟シャツをきちんと着ている格好は、まるで学校に行っているかのように見えたのだろう。
「誰か遊びにでもくるのか。学校の友達か誰か」
「来ないけれど」
「それならなぜ、もっとラフな格好をしないんだ」
「着たくないから」
ふうん、と上総を眺めた。普段から軽いジャケット風の洋服を好む上総の性格を、我が子ながら今ひとつ、理解できないでいるようだった。
「そういえば、母さんが来週、一泊二日で泊りにくると電話があった。久しぶりに家の掃除をしてやるから、と電話で話していたよ」
「別にいいのに」
──母さんか。
──冗談だろ。
──また何言われるかわからないよな。
──誰かの家に泊りに行こうかな。
「そうだ、この日に関しては、上総、友達の家に泊りに行くのはあきらめろよ」
心を見透かされたようだった。
ため息が漏れ、あわてて顔を机に向けた。
「月に一度のお約束だからな。父さんも休みを取るから、おあいこだ」
憂鬱一色。
父も母もいる週末、自分もどこにもいけない。
──こんなうっとおしい土日が来週なのかよ。
「だから、母さんに見られてまずいものは、どこかに隠しておきなさい」
「そんなのないけど」
顔を上げずに上総は答えた。
いつ母が来ても問題ないように、掃除洗濯は神経質すぎるくらい気を使っているなんて、父には言えない。
きちんと季節の飾り物なども、母の残してくれた『歳時記ノート』を参考に、並べていることも。それこそ抜き打ちテストのようなものだった。
もし、ひとつでも整っていなかったら、何を言われるかわからない。
成績のことについてはあまりうるさく言われないけれども、生活が荒れ果てていることだけは許されなかった。
──やっぱり今日は、家の中、必死で掃除しないとまずいってことだよな。
──本当はずっと横になっていたかったのにな。少し頭がぼおっとしてきているし。
「そういえば、最近どうしている? あの、電話をくれた女の子は」
「別に、なんでもない」
「はきはきした、いい感じの子だな」
家に電話をくれる女子といえば、清坂美里しかいなかった。
評議委員会のからみもあって、確かにしょっちゅう連絡が入る。時にはつきあって長話をすることもあった。
でも、父が電話を受けたのは数回程度のはずだった。
上総は父のつっこみを無視することにして、シャープペンシルを走らせた。
いかにも、
「宿題をやっています」
というポーズを見せた。
「たまには外で遊びに行ったりしないのか」
「それどころじゃないから」
「宿題が大変なのか」
「そういうこと」
「数学か」
ようやく父も、上総の成績について気がかりなことを見つけたらしく、教科書を覗き込んできた。
迷惑だ。
早く部屋から出て行って欲しい。
そう念じるのだけれど、鈍感な父は気付いてくれなかった。
こういう雰囲気が上総はたまらなく苦手だった。
「どうなんだ、学校では勉強とか辛くないのか」
「数学以外は」
最近の上総は、自分の成績について開き直っていた。成績表を見せても、父は怒るわけでもないし、むしろ文化系科目の良さに驚いている様子だった。たぶん、上総の成績が、両極端なものだというのに戸惑っているのだろう。
一年の時に家庭訪問があり、その際に菱本先生からいろいろ助言されたらしい。
くわしいことは聞いていないし、父も特に後から言わなかった。
ただ、
「お前は英語科に進んだ方がいいかもな……」
とつぶやかれた程度だった。
青大附高には英語科目カリキュラムが豊富な英語科という、クラスが用意されている。
「あまり無理にとは言わないが、英語以外の科目ももう少し、勉強した方がいいんじゃないか」
「している。出来ないだけ」
悔しいからそれしか答えなかった。
一応どころじゃない、ちゃんと他の科目を勉強しているとところじゃないか。
──赤点続きだけどさ。
──数学の勉強しているつもりだってさ。
いかにも
「勉強中なので邪魔するな」
というオーラを撒き散らしたので、ようやく父も部屋を立ち去った。
あまり話すこともないし、上総も口が多いほうじゃなかった。
他の友達が「父親ってうざったい」「顔を見るのもいやだ」とこぼすのを聞くたび、どうしてそんなに話をすることが多いのかが不思議でならなくなった。一応二人暮しなのだから、それなりに話はするし、たまには注意されたりもする。でも、激しく言い合ったり、殴られたり、怒られたりとか、そういった生々しい経験はほとんどない。忘れているだけなのかもしれない。かえって気が楽だ。来週の『母、襲来』に向けてはいろいろと相談しなくてはならないこともあるし、男同士でなんとか乗り切らなくてはならないこともわかっている。
父がちらっと口にした言葉を、ふと思い出した。
「お母さんに見られてまずいものは、かくして置きなさい」
──まずいものか……。
上総は本棚から『フィツジェラルド』と書かれた文学全集の箱を取り出した。わけがわからないなりに、小学校六年までの間に読みきった本ばかりだ 。
中でも『グレート・ギャツビー』は、ページに折れ目がついてしまったくらい、繰り返し読んだものだった。
中学に入って最初に図書館で調べたのは、『グレート・ギャツピー』の原書だった。アメリカ文学はどことなく、文体が乾ききっていて上総の好みではなかったけれども、この作品だけは別だった。何度読んでも、全く飽きなかった。
箱に収めておいたのは、三冊ばかりのハンディグラビア写真集だった。
数週間前、本条先輩からもらったものだった。
引き出しに、『グレート・ギャツビー』はいつでも取り出せるようにしまいこんでいる。
空いているから、しまいこんだだけ。
上総はぱらぱらとめくりしまおうとした。
とたん、気になった一ページがのぞき、広げなおした。
真っ白いスリップ姿の、大体年恰好は十七歳くらいだろうか。ショートカットの悲しげなまなざしをした、少女のアップだった。
初めて見た時から、このモデルには目が留まった。
机の上の問題集の上に、広げたまま置いた。父はいない。大丈夫だ。
一、二分程度だと思っていたけれど、時計では五分以上たっていた。
黙って身を硬くしたままじっと見入っていた。ただそれだけだった。
もちろん、夜、父の気配もなくて、あとは寝るだけという状況だったらどうしていたかは想像がついた。たぶん、衝動を押さえられなかっただろう。悔しいことだけど、自分の意志の弱さはよくわかっている。
上総は息を深く吸い込んでぱたんと本を閉じた。
ショートカットの哀しげな少女は姿を消した。
母の直感というか、嗅覚は、かなり鋭く、ちょっと隠し事をしただけですぐに見つけ出す。父のようにある程度黙っていてくれたらいいのだが、すぐに上総を攻めたてまくる。怖い。
まあ、父にも見られたくない本ではあるからして、どうにか処分しなくてはならないと思っていた。
まだ十時を回っていない。上総は居間に向かい、父が座っていないかを見渡した。
二人暮しだというのに豪勢な居間だった。臙脂に黄色の幾何学模様を施したじゅうたんが敷き詰められていた。父母どちらの趣味かはわからない。ここにしか電話が置いてないのは不便きわまりなかった。自分専用の電話が本当は欲しいけれど、そうもいかない。
本をしまいこんだ後、暗記している電話番号をダイヤルした。
本条先輩の家だった。
「はい、本条です」
声は確かに本条先輩のものだった。ほっとして上総は名乗った。
「立村、どうした、今日も暇か」
「用事があるから電話かけたに決まっているでしょう。本条先輩、今、大丈夫ですか」
「ちょっとばかし眠い」
「また、ですか」
一年以上の付き合いで、本条先輩の女性遍歴はだいぶ見えてきた。周りで騒がれているほどに派手ではないにしても、することはきっちりしているという。現在付き合っているのは、公立中学の三年生だという。 さすがにどういう子かまでは聞かないにしても、しょっちゅう泊り込んだりしているのは確かのようだった。
「また立村、勘違いしているのか。全く、お前も最近は」
言いかけて、ふと止めた。上総はちょっとだけ間を置いた。
「勘違いされるようなことをどうせしていらっしゃるんでしょう。俺は先輩の趣味についてとやかく言うつもりはありませんが。それより、少し相談したいことがあるのですが、そちらまでお邪魔してよろしいですか」
「どうせだったら、俺が品山の方に行く。ほら、この前入ることができなかった喫茶店、『聖少女』だったか。あそこにもう一度、入ってみよう」
「『聖少女』ですか。でも大丈夫ですか。本条先輩の家からだとかなり遠いですよ。別に駅前でもかまいませんが」
「いや、いろいろ事情があってあの辺には立ち寄りたくない」
理由を本条先輩は言わなかった。上総も問い詰めはしなかった。
「では申しわけないのですが、昼の一時に『聖少女』で」
機嫌よさそうに、本条は受話器を置いたようだった。
一応は先輩の顔を立てて敬語を使っている。でも、二人の時に話す内容はかなり言いたい放題言っている。学校から離れたらなおさらだ。先輩意識が皆無だといわれても仕方ないだろう。
上総もこういうのりは、本条先輩にしか使わなかった。
中学一年、評議委員男子限定歓迎会で悪酔いし帰ろうとした上総を、家まで送っていってくれたのが本条先輩だった。
ただビールをひとくちだけ飲んだだけ。上総はこの時初めて、自分が下戸だと知った。まずいと思ったからすぐに、用事のある振りをして結城先輩の家から出た。自分ではうまくごまかしたつもり。本条先輩もよく気付いてくれたものだとも思う。
まだ肌寒い四月中旬の午前様、父親が泊り込みというのをいいことに、初めて酒を口にした。激しい吐き気とめまいにふらふらになりながらも、なんとか外には出られた。本条先輩が追いかけてこなければ、たぶんその夜は苦しみながら野宿していただろう。下手したら警察に補導されていたかもしれなかった。
朦朧としたまま歩いていた上総をすばやく、自転車に座らせ、途中休憩しながら品山まで送ってくれただけではない。たまたまその夜は父が泊りだったこともあり、夜が明けるまで面倒を見てくれた。
してくれたのが本条先輩でなければ、きっと自分でも許せなかっただろう。
初めて評議委員会で本条先輩の発言を聞いた時から、こういう切れ味のある人間になりたい、とあこがれた存在だった。
学年トップの成績でありながら、ルックスもきりりとしたもの、銀縁めがねで少々格を落としているのがしゃれている。学内では恋人希望の女子がたくさんいるというのに、他の中学、高校にそれなりの恋人がいるという。
一時期は
「本条里希は百人切りを目指している」
とか
「初体験は小学校の時らしい」
とか
「高校生を妊娠させた」
とか、かなり欲望にみちた噂が流されていた。どこまで本当なのかはわからない。ただ、それなりの関係を持っていることは確かのようだった。
一年間、本条先輩からよく伝授されたことのひとつに。
「することはしている。だが、相手を傷つけることはしない。男の義務として」
なる名言がある。
「複数の女子と付き合うのですから、傷つけないこともないんじゃないですか」
「具体的に言うと、妊娠を絶対にさせないこと、そして病気を持たせないことだ」
去年の今ごろは、本条先輩から具体的な内容を聞かされるたびに、生返事を返していた。理解できない感覚だった。 もちろん上総に好奇心がなかったわけではない。早い段階で、その手の知識は雑誌や本で大量にたくわえていた。 ただ自分の身に置き換えて考えることができなかった。 本条先輩の感覚が自分と重なることがあるのだろうかとぼんやり考えるだけだった。
──本条先輩のようになれたら。
本条先輩のようにいつも冷静沈着に、それでいて必要な時はきっぱりと片をつけられるようになれたら。
軽さと重さを使い分けるだけの器量があれば。
いつしか上総の中で、本条里希先輩の存在は自分のありたい姿に変わってきていた。 軽い調子で語りかける心地よさと、うじうじしている連中に対して一気に畳み掛ける迫力とが交じり合い、本条先輩特有のカリスマ性をかもしだしていた。 上総がいつかは手にしたいものばかりだった。
いつも、クラスの問題が起こった時、いつしか上総は
「本条先輩だったらどうするだろう」
「本条先輩ならこういう時どう考えるだろう」
と問い掛ける癖をつけていた。
美里と話す時も無意識に、「本条先輩だったら……」と口にすることが増え、よく言われたものだった。
「立村くん。本条先輩ならこうするかもしれないけど、立村くんはどうしたいの?」
「そうだな……俺だったらたぶん、本条先輩の案をもう少しひねるだろうな」
「じゃあ、無理に本条先輩のことを意識しなくたっていいじゃない」
美里には、上総が感じている本条先輩へのあこがれを理解してもらうことは難しそうだった。決してそれ以上は口にしなかったし、わかってもらおうとも思わなかった。
「でもね、本条先輩の彼女ってかわいそうよね。何人目? この前、こずえから聞いたけど、また駅前で別の女子と歩いていたんだって」
「先輩の偉いところは、青大附中で決して、手を出さないことだろうな」
「偉い? そうかな。ただ自分の身を守りたいだけなんじゃないの。私は本条先輩を、評議委員長としてはすっごく尊敬しているけれども、ただね、ああいう付き合いは絶対にされたくないな」
部屋に戻り、大判の封筒に三冊の写真集を突っ込み、バインダーにはさんだ。財布だけをポケットにつっこみ、腕時計を確認した。特に見られて困るようなものは、あと見当たらなかった。
アイドル狂いの結城先輩は、かなりきわどいアイドルポスターを持っているようだが、上総の部屋にはなかった。
羽飛貴史だったら、それこそ鈴蘭優の写真集を全部持っているらしい。隠すこともなく、堂々と本棚にならんでいるのがすごい。どうして隠さないのか聞いたら、
「なんで隠すんだ?」
と、反対に問い返された。現役アイドルだから、それほどえげつないアングルのものは少ないのだろう。
空気を入れ替えた後、麻布のベストをはおり上総は出かけることにした。本当だったら自転車で駅前にしてほしかったのだけれども、本条先輩の希望だ。仕方がない。風がまだまろやかなうちに店に入っていたかった。昼からはだんだん暑くなるだろう。
父にも声をかけず、上総は家を出た。