金曜日 おひろめ
まだ身体のだるさは残っていたけれど、シャワーを浴びて寝臭さを消し、上総は自転車に乗った。乗ってしまうと後は楽だった。まだ夏の匂いが薄い空気がおいしかった。品山を出て青潟駅を通りぬけ学校に到着した。大急ぎで教室に向かった。
「あれ、立村、昨日どうしたのよ。知恵熱でも出したの?」
隣の席でこずえがにやにやしながら上総を迎えた。手招きする。
「何が知恵熱だって。去年と同じパターン。死ぬかと思った」
「でも今回は一日で復活してきたじゃない。あんたも大人になったねえ」
「頼むからその言い方はやめてほしい」
さて、何をつっこまれるだろう。上総は気持ちを臨戦体制に切り替え、朝自習用のプリントを学習委員からもらった。まだ貴史、美里は到着していないらしかった。あの二人はぎりぎりなのだ。一緒に来ることが多かった。近いとかえって遅刻しやすいとはよく言うものだ。
「そういえば、さっき一年の杉本さんがあんたを探しに来ていたよ。あの子も早いよね。『立村先輩いませんか』って。評議委員の関係なんでしょ」
「頼むからそれを最初に言ってほしかった」
杉本梨南、いったい何の用だろう。
「確かこの辺に住んでいるんだよね」
「よく知っているなあ」
上総はプリントを置きっぱなしにして立ち上がった。一年の教室に行くつもりだった。こずえは引き止めるように袖を引いた。
「いやね、伝言して帰っちゃったよ。なんかさ、今日の評議委員会の反省点でね、自分なりにまとめたレポートを持ってきましたから立村先輩に渡して欲しいって。『先輩』だってさ。立村先輩だって、笑っちゃうよね」
「じゃあ今度から、『古川先輩』と呼んでやろうか」
「私は『お姉さま』と呼んでもらわなくっちゃ」
「しゃれにならないよ」
杉本梨南が持ってきたというレポート用紙二枚に目を通し、ところどころチェックをした後、上総はすぐにしまい込んだ。別に特別な内容だったわけではない。反省点を箇条書きにして、わかりやすくまとめてあるだけだった。杉本梨南としてはどうしても気になったのだろう。別に無理しなくてもいいのにと思う一方、自分が彼女の立場だったとしたら同じようにしただろうという気もした。
──杉本、本当に生真面目だよな。
──一生懸命だから、俺とかだとどうしても手伝ってやりたくなるんだけどな。
──どうして一年の男子連中はああも嫌うんだ?
──世の中はわからないよな。
「なにがわからないのよ」
慌てて上総は取り繕った。
「いや、さ、杉本がどうしてあそこまで一年男子に嫌われるのかななってことさ。古川さんはどう思う? 俺からすると、あれだけ真面目な一年って珍しいと思うんだけどな」
「仕事はきちんとするし、ひたむきだし、と立村は言いたいんだね」
「そう、手抜きしないし、とにかく一生懸命なんだよな。男子とか女子とか関係なく、ああいうタイプの人はもっと誉められていいと思うんだ」
こずえはしばらく人差し指のつめをかみながら考えていた様子だったが、
「わかった。あの胸にひかれたんでしょう」
「え?」
「絶対、杉本さん、Bカップ以上のブラつけているよね」
「何、言っている?」
「やだなあ、立村、あんたも気が付かないとは言わせないよ。先週の金曜日、だいたい今くらいの時間に杉本さんを呼びつけて話していたことあったでしょう。あの時の目、杉本さんの谷間に行っていたの、見ていたんだからね。夏服になったばかりだったし、気持ちもわからないことないなあ、とは思っていたんだけどね」
ため息をついて言い返した。
「古川さん、今非常に失礼なこと言っているって、気付いていないだろ」
「自覚がない分、やっかいよね。ほら、朝自習のプリント落ちているよ。はい」 無意識で落としてしまったらしい。慌てて拾った。
「でもしょうがないよね、男子はそういうのが定めだって、この前の保健体育でもならったからね。十四才の男子は毎日がそのことで頭いっぱいだっていうしね」
「すべての十四才がそういうこと考えているとは限らないだろ」
言い返すのもばかばかしくなり、上総はざっと朝自習のプリントを見直した。社会の年号暗記問題だった。
「ちなみにね、それ、美里にも見られていたってことを教えてあげるね」
「そりゃそうだろう。杉本が来た時、一緒に清坂氏もいたんだ。評議委員会の話なんだから、一緒に話をすすめるんだから。果たして俺が杉本のことをじろじろ見ていたかどうかまで、確認はしていないけどさ」
「まったく、あんたってばかだねえ、お姉さんは悲しくなるわ」
出た。こずえの十八番だ。上総は黙って次の出方を待った。
「あの後、美里は胸を大きくする体操ないかって話していたからね。ショックだったと思うよ」
こずえの言いかけた言葉は、すぐに遮られた。
「こずえ! あんた何言っているのよ! そんなこと、一言も言ってないじゃない!」
いつのまにか教室に来ていた美里が、どんと机の上に両手をついて怒鳴った。
別の場所でだべっていた貴史もきょとんとした顔で振り返った。
「言っていいことと悪いことがあるって、わかっている? 嘘ばかり言わないでよ!」
本気で憤っているらしい。この前、茶室で 「付き合っている奴いるのか」 と聞いた時と同じくらい、腹を立てているらしかった。
──古川さん、あやまればいいのに。そう言ってやりたかった。
相手方のこずえは冷静沈着だった。
「嘘じゃないよ、私、ちゃんとあの後、先輩たちから『バストアップ運動』について聞いて、教えたじゃない」
「なんでこんなところで言わなくちゃいけないのよ!」
上総が側にいることを全く意識していないようすだった。
「だって、美里が落ち込んでいたのって、先週の金曜日、朝だったじゃないのよ。なんでかなって思ったら、美里ってば真剣に『胸が大きくなるにはどうすればいいのかな』とか言うんだもの、なんかあるとは思ったけどね」
「変なことばかり言うのはやめてよね!」
「美里だっていつも言っていることじゃない、いまさら知らないふりしたってね。だって、あの時の美里、すっごく怖い顔していたよ」
「あの時っていつよ!」
「杉本さんが立村の机にかがみこむようにして、話を聞いていた時よ。立村が座ったままだったから、もろ、顔にあの大きな胸がぶらぶらしていたじゃない。しかもあの子、ノーブラだったからね。気付いていたでしょ、立村」
「んなこと、知るかよ」
なんだかこずえと美里の口論になりつつある。杉本梨南の谷間を見ていた記憶は全く残っていなかった。なぜそんな話で二人が喧嘩しはじめるのかがわからない。上総は黙ることを選択するしかなかった。
「そんなところ見ているのは、こずえだけに決まっているじゃない!」
だんだん美里の口調に悲鳴じみたものが混じってきた。こずえは気付いていないのだろうが、隣で聞いている上総にはぴんときた。これは泣き出す前の、微妙なサインだった。しゃべりつづけているうちに、小さく「き」という声が混じりはじめると、かなり危ない。
──大丈夫か、清坂氏。
こずえの冷静な言葉に、美里がどんどん挑発されてしまい、かっとなって支離滅裂に叫んでいる様子。貴史の姿を探した。羽飛貴史はけげんそうにこちらの方を見ていたが、入ろうとはしなかった。女子同士の喧嘩に割り込んだらろくなことがおこらないとわかっているからだろう。
果たして美里が、先週の金曜日に上総と杉本梨南との語り合いを見て、なにかショックを受けたのかどうかはわからない。また、胸の大きさにショックを受けて、自分もがんばって大きくしようと思ったのかどうかもわからない。ただ、いつも見ている美里の様子とは異なっていた。
上総の方を一切見ないで、こずえだけをじっとにらみつけるように抗議している。
── これは、まずい。
──完全に、清坂氏、理性が飛んでいる。
──でもきっかけは、俺なんだよな。
──そんなことしていなくても、やはり、まずいよな。
頭の中で言葉が飛び交い、右往左往している。
「あの、いいか」
息をひとつ吸い、上総は古川こずえに声を掛けた。美里の方は見ないままにした。
「なによ、今美里と私、雌雄を決する戦いしているんだから」
「結局、何が原因なんだ?」
「あんたが杉本さんの胸の谷間に見とれてなかったらよかったのよ。全くすけべなんだから」
「その記憶って全くないんだけどさ。もし、そういう風に見えていたら、やっぱり俺が悪いんだよな」
「別に、あんたが悪いとは言わないわよ。自然な十四才の反応なんだから」
「悪い、俺はまだ十三歳のままなんだ。九月が誕生日だからさ」
少しでも空気を和らげるべく、使いたくなかった誕生月を持ち出した。これでまた弟扱いされてしまうが、しかたない。
「そうだっけ? そうかそうか、あんたは弟分だもんね」
「で、清坂氏はなんで怒っている?」
「そんなの、なんで立村くんまで聞かなくちゃいけないのよ!」
「あの、さ、つまり」
息を吸い込んで、ひいふうみいと心で唱えた。
「俺と、清坂氏と、付き合っているから、もしそういうことが原因だったら、あやまっておいた方がいいかな、と思ったんだ」
「え? 立村、今、何て言った?」
こずえがすっとんきょうな声を上げた。
「だからつまり、清坂氏と俺は、付き合っているからさ」
表情だけはなんとか自然なままに保ったつもりでいた。声も静かに波立たせずにつぶやいたつもりだった。目線もおだやかに、こずえと美里に向けたつもりだった。
すべては『つもり』だったけれど、どういう風に見えているのかはわからない。 「付き合っているって、あんたたち、いつから?」
「たぶん、先週の金曜日から」
美里の顔が真っ赤に染まっていくのに気付いたのはその後だった。頬が紅潮する瞬間というのを、上総は初めて目の当たりにした。まずいことを言ってしまったと後悔する間もなく、美里はすっときびすを返して自分の席に走っていった。ばたんと椅子をひいて座り、ぐっとうつむいた。次の授業、歴史の教科書を取り出して開き、じっと見入っていた。
「ねえ、なによ、美里、どういうことなの?」
大きい声でこずえが尋ねるが、一切無視。美里は唇をかみ締め、一心不乱に歴史の教科書を読みふけっていた。
はたして羽飛は、と貴史の姿を探すと、顔を露骨にしかめて上総に、人差し指を立てて口に当てた。
「それ以上言うな、ややこやしくなる」 という合図なのだろうか。素直に上総は従った。
あれだけ大きい声でしゃべっていたのに、なぜかクラスの連中は和やかなままだったのはなぜだろう。上総にもわからなかった。
「おはよう、りっちゃん」
後ろから声をかけられ、上総は振り向いた。後ろの席にいる南雲がぎりぎりで飛び込んできたようだった。遅刻すれすれというのが、いかにも規律委員らしくない。
「なんだか妙な雰囲気だなあ」
「やはりわかるか」
本条先輩からもらった盗み撮りテープの内容を聞いているから、南雲がどう考え、どう感じているかはおぼろげに想像ついた。でもまだ、そのことについて話してはいなかった。照れも残っていた。
南雲も少しぎこちないものの、顔だけはからりとしたままで、
「おととい、本条さんと話したんだろ」
「一応、全部、聞いた」
テープの存在を知らない可能性もある。上総はあいまいに答えた。
「どういうこと聞いた?」
おそらく南雲も、自分が話したことをすべて上総に伝えられたとは思っていないのだろう。盗み撮りされたこと自体知らないのかもしれない。短く答えた。
「つまり、俺がこのクラスにいても、かまわないってことかな」
目を見て答えられず、うつむき加減になりながら、
「なぐちゃん、ありがとう」
ひょんな拍子で口に出た。南雲のことを『なぐちゃん』とは、一度冗談交じりで言ったことがあったけれども、意識して言葉にしたのは初めてだった。下の名前は『秋世』と書いて『しゅうせい』と読む。自分の名前を呼ばれるのは好きじゃない上総は、あえて、『りっちゃん』に似た呼び方を選んでいた。
予想に反して、南雲は何も答えなかった。
じっと上総を見つめて、うなずいた。
貴史や美里の言葉とは全く違った、やわらかいものが伝わってきた。
すべての授業が終わるまでの間、上総は南雲と洋楽ベストテンの傾向について語ったり、菱本先生にまた呼び出されて『無断欠席』について叱られたり、杉本加奈子から微妙な視線を送られて考え込んだり、気持ちの中では忙しく過ごしていた。
あえて、美里と貴史には声をかけなかった。貴史がたまたま、一年生の教室に用事があったようで出かけていた、というのもあった。たぶん、この前の金曜日に告白されたという一年生についてのことだろう。上総も詳しいことは聞いていなかった。無理やり聞く必要もないと思っていた。
美里の方をなかなか見ることができなかった。
土曜日に美里は
「しばらく黙っていたほうがいいな」
と話していた。
隠す必要はないけれども、言いふらす必要もないと。
本当は上総の内気な性格を知っていたから気を遣ってくれたというのに、結局は自分の方からさらけ出してしまった。上総としては、こずえとの喧嘩をうまく止めたかっただけだったし、それ以上に美里の気持ちがかなり動揺しているのを感じてしまい、とにかくなんとかしてやりたかった。でも、見事に裏目にでてしまったようだった。
「立村、美里に声かけてやりなよ」
帰りの会でこずえがささやいた。
「杉本さんの胸にぼーっとしていたのは別にいいけどさ、付き合っていることを言い出したのはあんたなんだからさ。それくらいの責任は取りなよ」
「だから何が責任だよ」
「胸が小さくても好きだって言ってやりなさいよ」
「気にしているのは古川さんのほうだろ。よくそんなところ見ているよな」
放課後は評議委員会だった。隣同士に座る。いやおうなしに隣り合うことになる。気持ちは重たいけれども、なんとかなるさと心につぶやく。
「それにしてもね、立村、あんたの方からとうとう言うとはね。お姉さんは安心したわよ。弟よ」
ふっと上総も言い返した。
「お姉さん、今度はあなたの現実問題について考えた方がいいんじゃないですか」
やんちゃな言葉を口にする寸前で止めた。
──まさか羽飛が一年生の女子と付き合うかもしれないってことを、ずっと片思いしている古川さんが知ったら、冷静でいられるわけないじゃないか。そこまで俺は汚いことをしたくない。真実を教えてやるのがいいと、南雲は言ったけれどもそれもよしあしだよ。
掃除が終わった後、美里を探したがすでに、教室を移動してしまったようだった。いつもだったら
「先に行くね!」
と声を掛けてくれるというのに。相当ショックだったのかもしれない。だんだん不安が募ってきた。でも顔には出したくなくて気ままに南雲と話をしていた。委員会関係の話がほとんどで、テープに録音されていたようなことは出てこなかった。
「じゃあ、これから評議があるから」
「わかった、また明日な」
南雲がいなくなった後、教室には誰もいなくなった。羽飛が戻ってきたのは南雲とすれ違いだった。軽く「おつかれ」と交わす言葉が耳に入った。
自分が南雲とちょくちょく話をしていること、面白くないのかもしれない。貴史は軽く手を上げて、上総の隣に立ち、窓を見下ろした。
「これから委員会だろ」
「そう。評議委員会」
短く答え、上総も窓を見下ろした。中庭には一年の女子がたむろしてきゃいきゃいと花を摘んでいた。もちろん雑草のあかつめくさや露草ばかりだった。二年の女子とは異なった嬌声が、幼く聞こえて思わず上総は耳を澄ませた。貴史がぽつりとつぶやいた。
「俺たちも年をとったよな」
「確かに」
「なんだか一年前とは思えないよな」
「全くだよな」
ふけた会話を交わした後、時計を確認した。三時半にそろそろ差し掛かる頃だった。
まずい、そろそろ評議委員会の開始時刻だ。
三年A組の教室に集合しなくてはならない。
本条先輩にカセットレコーダーを返さなくてはならないし、夏休み合宿についての話し合いもしなくてはならない。
上総のしぐさに貴史も気がついたらしく、窓をゆっくりと閉めた。
「もう行くんだろ」
「ああ、なんだか気が重いな」
ふふっとに貴史は笑い、両手を上げてバンザイした。
「ははあ、立村、お前美里に嫌われたと思っているだろ。今朝の騒ぎでさ」
「そんなの知るかよ」
「なあに、あいつ図星指されてパニックになってしまっただけだ。安心しろよ」
「安心するもなにも」
言いかけた上総を押しとどめるように、
「一年の女子には手加減しろよ。俺がわかるのはそのくらいだ」
──一年の女子って、いったい誰だろう。
──杉本のことか。
考えがまとまらぬうちに貴史は威勢良く教室を出て行ってしまった。上総も急がなくてはならなかった。すでに一分経過ごしている。入っていったらたぶん、本条評議委員長にどやされるだろう。上総は窓に鍵をかけたのち、急ぎ早に廊下を走った。
思ったとおりだった。時間厳守で始まっていた評議委員会。上総が到着した時には壇上の本条先輩から物言わずにチョークを投げつけられた。ちびたまるっこいものだったからぶつかってもたいした事はないのだろうが、うまく避けられた。目で軽くあやまっておいて、すぐに二年生の席についた。
隣にはいつものように美里がノートを取っていた。評議委員会ノートは大抵美里が筆記してくれるものだった。一応上総もメモは取る。ただ取り捨て選択がうまく行かず、 『字だけはきれいなのだが、内容がわかりずらい』 状態になってしまう。その点美里は、わかりやすくポイントを押さえてくれるので、非常に助かった。
「どのくらい、進んでいる?」
「今、始まったばかりだよ」
短く答え、美里はちらっと上総に目を走らせ、すぐにそらせた。
やはり、なんだか、妙だった。
でもこれ以上私語したら、今度は本条先輩から直接長いチョークが飛んでくるだろう。さすがにそれは避けたかった。本日のテーマ『七月末の評議委員会合宿』について、本条評議委員長の発言をじっくりと聞いた。どうせ、ある程度進んだら、呼び出されて黒板に書き込みをすることになるのだろう。
まださほど、合宿についての予定は決まっていないようで、ざっと説明をしただけにとどまり、本日の評議委員会はお開きとなった。杉本梨南が苦労してまとめたらしい『一年学年集会』のレポートを本条に渡すため腰を浮かせた。と同時にいきなり後ろから腕を捕まれ引っ張られた。
A組、C組の男子評議委員である。
「あ、の、さ、立村。ちょっと来いよ」
「どうした?」
言われるがままに後ろに行くと、今度はB組の奴までいた。にやにやして、取り囲み、でも声は潜めて。
「とうとう、なんだろ?」
「何がだよ」
「聞いたもんな。あのことをさ」
「だからなんだよ、わかりずらいな」
「よくぞ落としたよな」
「しつこい、何がなんだよ」
気だるい感じで答え、本条先輩の姿を探した。まだ教壇の上で三年生同士、何か話している。いるうちに渡さねば。
「しっかし、立村も長かったもんなあ、報われない時代がさ」
A組評議委員は、わざとらしくため息をした後、ぽんと肩を叩いた。
「ほんとほんと。切腹したい気持ちだったのは、よおくわかるぞ。浅野匠之頭」
B組評議委員が続ける。
「でもなあ、やっと、お前も名誉回復できるな。よかったよかった」
なにやら、祝福されているらしい。戸惑いつつも上総はもう一度尋ねた。
「だから、お前ら何を言いたいんだ? 持って回った言い方しないではっきり言えよ」
どつぼにはまったと気付いたのは次の瞬間。遅すぎた。
「いいのか?はっきり言って」
「とにかくしばらくは新婚気分を味わいなってな」
「二年評議の公認カップル、とうとう誕生!とうとう来る時が来たって、感じだなあ!」
もう、言葉の響きはひそやかなものではなかった。たぶん他の学年にも聞こえただろう。ぽんぽんぽんと三人に、頭や肩背中を叩かれながら、上総はしばらくふらついていた。逃げるのもみっともないし、否定することもできない。怒るのもなんか変だ。どう振舞っていいのか、どう言い返せばいいのか、言葉が見つからず同じことばかりつぶやいていた。
「だから、そんな、大それたことじゃないってさ」
しばらく男子連中にやいのやいの言われた。一年生はひそひそとささやき、三年生は納得顔でうなずいていた。いつのまにか、情報は評議委員全員に広まっていたらしい。たぶん、上総の休んでいる間、本条先輩が誰かに話したのだろう。それとも金曜の朝、上総が言った言葉を他組の連中が聞きつけ、広めたのかもしれない。とにかく、 『立村上総と清坂美里は付き合っている』 という事実が伝わっていることは確かだった。
自分でばらしてしまったのだから、こうなるのはわかっていた。
もっと、笑われるだろうと思っていた。
なのに、なぜかみな、冷静に受け止めてくれている。
「あとで、どういう感じで付き合いかけたのか、言えよ」
「そういうんじゃないってさ」
だんだん教室から一人、二人帰っていく中、ずっと待っている女子がいた。
美里と、杉本梨南だった。
ずっと椅子に座ったまま美里は本を読んでいた。教科書ではなかった。文庫本だから何なのかわからなかった。側によって声をかけるつもりだったが、側でじっと待ちつづけている杉本の方をまず優先した。
「杉本、朝もらったレポート、良かったよ。本当は本条先輩に渡そうと思っていたんだけどさ。明日、見せるよ。やはり、杉本は頭が切れるよな。うらやましい」
お下げ髪をぷらんとぶらさげ、大きな瞳をきゅっと絞り込み、にこりともせずに杉本は答えた。
「ありがとうございます。私、どうしても書きたかったんです」
「わかっているよ。杉本が一生懸命やっているってことは、俺もよくわかっている」
いつのまにか自分が笑顔でいることに気付き、上総は戸惑った。いつもそうだった。杉本梨南に話しかける時にはいつも、にこやかになってしまう自分がいた。本条が言うとおり、ひいきしていると思われても仕方のないことだろう。でも上総が自分に素直になると、どうしても杉本に対してのみ、かばってやりたくなるし、誉めてやりたくなる。これは好きとか嫌いとか、付き合いたいとかそういうものではなく、ごくごく自然なものだった。笑顔を見るとほっとするとか、そういうのではない。いつもぶすっとした顔で、にらみつけるように話す杉本のまなざしは、確かに怖い。でも、その奥で、上総にしかわからない不安な気持ちが見え隠れする。絶対にうまくやらなくちゃ、絶対にこの人には認められなくちゃ、そう必死に、あがいている姿が見える。
かつての自分を見ているようだった。
小学校時代のいじめられた記憶を、打ち消そうとしてあがく、一年生の頃の上総そっくりだった。
古川こずえは上総に
「あの胸にぼーっとしているんでしょう」
と言ったけれども、それだけは断固として抗議したい。杉本がどれだけ、目立たないようにかがまないように、猫背で歩く癖があるのにだいぶ前から気付いていた。まるで自分が、クラスから浮かないように、いろいろなグループの連中とうまく付き合っているようだった。
杉本が男子だったら、別だっただろう。
自分に似た奴を好きになんてなれなかっただろう。
でも杉本梨南は女子だった。あまりにも不器用な一年生だった。
同じ辛い思いを少しでも、わかってやりたい。
でも、この時だけはもうひとつ、大切なことが残っている。
「あのさ、杉本。明日の朝、詳しいこと説明するから今日は早く帰った方がいいよ」
はっとした表情で、杉本梨南は上総を見返した。
「私、家近いから、遅くなっても平気です」
「そうか、でも、今日だけは、どうしてもだめなんだ」
上総はきっぱりと告げた。
「今日は清坂さんと一緒の、用事があるんだ」
坐っている美里に、聞こえるよう、ゆっくりと告げた。
「そうなんですか。では明日、立村先輩の教室に行きます」
「待っているから」
よくわけのわからなさそうな顔で、杉本梨南は一礼すると、美里の方にも小さく会釈し、教室を出て行った。
ドアが閉まり、杉本梨南の足音が消えたところで、上総は美里の隣に戻った。身動きひとつせず、美里はひたすら本を読んでいた。聞いていたのかどうかわからなかった。
「あのさ、清坂氏」
「いいよ、先に帰って」
「まだ、怒っているのか」
静かに上総は声をかけた。波打たずに、聞こえた。
「怒ってなんか、ないけど」
「だったら、帰ろうか」
しゃがみこみ、美里の坐っている机にひじをついた。下から見上げる感じで美里の顔を覗いた。
「やだ、見ないでよ」
「やはり怒っているんだな。悪かった。俺が変なこと言わないほうがよかったのかな」
「そんなことないよ、立村くん。どうしたの。なんだか違うよ、今日は」
「お互い様だろう」
何の本読んでいるのか、と、カバーから透ける題名を読み取ろうと覗いた。露骨にそうしたわけではなかった。でも美里にとっては不愉快だったのだろう。さっと綴じた。
「変なことしないでよ、立村くん、何か熱で頭おかしくなっちゃんったんじゃないの。もう」
「おかしくなったのか、どうなのかわからないな。三十九度くらいまで上がった 」
何度かくわえて計った体温計は、午後までなかなか下がらなかったことを思い出した。
「うそ、三十九度ったら、起きてられないよ」
「いつもそのくらいなんだ。去年の今ごろもそうだった」
美里はおそるおそるといった風に、上総のひたいを見つめた。
「なら、今は、平気なの? 具合悪くないの」
「夕方には下がった。だから、学校にも平気で来られたんだ」
わざとはっきり、美里の顔を見つめながら答えた。
美里の表情が刻々と変わっていくのを知るのは正直なところ怖かったけれども耐えた。いつも以上にやわらかく答える努力をした。
「やっぱり、立村くん、まだ熱出しているんだよ。きっと」
本をかばんにしまい込もうとした拍子に、ちらりと表紙がはがれた。美里は気付いていないようすで、すぐにカバーをかけなおし、中に入れた。古本なのだろう。薄汚れた文庫本の表紙に印刷された題名を、上総は読む前に気付いた。
「あのさ、今の本って」
口に出そうとして、すぐに飲み込んだ。
「なんでもないよ、なんでもないったら」
「それならいいんだ」
窓を締めようと、上総は背を向けた。
──フィツジェラルドか。
聞こえないように、自分の中でつぶやいた。
『華麗なるギャツビー』 邦題がそうなっていた出版社もあったはずだった。何作か訳者違いの本を読み比べていた。美里が持っていた文庫本は一番よく出回っているタイプのものだった。
愛読書だと知っていたのだろうか。
青大附中の面接試験で、上総は好きな本について何でも答えるようにいわれ、『グレート・ギャツビー』への思い入れを語り尽くした。たぶんあれで受かったのだろう。時間オーバーするくらいにしゃべりつづけたことを覚えている。
愛した女デイジーを取り戻すため、毎晩派手なパーティーを開きつづけ、やがて成功するギャツビー。しかし最後は裏切られる悲劇について、ありふれた感想を語った。
貴史には話したことがあるかもしれない。聞いたのだろうか。
決して誰もが好きになれそうな小説ではないのに。
好みの作品じゃなさそうなのに。
言えない言葉が、次から次へと咽の奥にたまりすとんとみぞおちに落ちていった。
椅子ががらっと鳴った。振り返ると美里が、準備を終えて上総を待っていた。
「じゃあ、行こうか」
硬い表情をしたまま、美里は頷いた。思い切ったように大きく息を吸い込み
、
「立村くん、あのね」
はたっと言葉を切った。
「どうした?」
「みんな、もう、気付いていたんだよ。ごめんね。私もわかっていたのに」
「え? 気付いているって」
「昨日の段階で、D組の男子、みんな知っていたって。でも」
堰を切ったように美里は言葉をついだ。
「みんな、立村くんが言うまで、知らないふりしてあげようって、決めていたんだって。貴史が、さっき、そう言っていた。女子にも内緒にしてあげようって、言っていた。いやな思いしないようにって、男子がみんな、決めていたんだって」
南雲発言のテープから前もって聞いていたことだった。上総は驚かず相槌を打った。
「立村くんが加奈子ちゃんに告白なんてしてないって、私、知っていたよ」
「え?」
「去年の冬、噂立つ前から知っていたよ。だって私、杉浦加奈子ちゃんに確認したんだもの。加奈子ちゃん、立村くんに付き合い、かけられてないって言っていたもの。どうしてあんな噂が立ったのかわかんないけど、今ならどうでもいいよね。だって、わかっている奴はみんな、わかっているもん。D組の男子も、貴史も」
私も、とは言わなかった。
「だから、無理しなくていいんだから。D組、私と貴史と、男子の連中だけはみんな、立村くんの味方なんだから。立村くんが一生懸命やっているってことは、みんなすっごく、よくわかっているの」
言葉をさしはさもうとするが、美里は首を軽く振って続けた。
「さっき、杉本さんに話していたでしょ。あの子、一生懸命やっているっていつも立村くん言っているよね。私もそう思うよ。だから、先週の金曜日、一生懸命杉本さんに教えていたんだって、わかっている。こずえが言ったみたいに、変なとこ見ていたなんて、思ってないから」
「ああ、今朝のことか。あれは失礼な話だよな」
何気なく美里の胸元に目が行ったがすぐに逸らした。
「私、言いたいのはこれだけ」
両手をぎゅっと握り締めたまま、美里はゆっくりと、上総の瞳を捕らえたまま。
「杉本さんの面倒を見てあげている立村くんと、同じ目をしているの。きっと、私、立村くんに」
ころがりおちた言葉を拾い上げようとするように、ちらっと下に目を走らせた。無理して笑顔を作ろうとしている。肩で息をしている。
「じゃあ、また明日ね」
急ぎ早にドアを開けて美里は帰ろうとした。ノブに手がかかる。
──好きなんだろ、付き合っちゃえよ。
──お前は清坂に惚れているんだろ。
──見るからにばればれじゃないかよ。
D組男子たちがぶつける言葉に戸惑っていた。
貴史、南雲の言葉と、自分が感じている美里への思い。
今の今まで繋がらなかった。
そばにいて真っ赤になってしまうとか、夢に見てしまうとか、そういう感情はなかった。茶道室で一緒にいた時も、ふたりっきりでいたのに。手を触れたいとも思わなかった。
なぜだろう。
美里の言葉で硬く引き絞られた結び目が解けた。
好きとか、嫌いとか、愛しているとか、そんな言葉じゃない。
自分の味方でずっといてくれた美里を、わかってやりたい。
痛みを少しでも減らしてやりたい。
口に出せずにいる言葉を、汲み取ってやりたい。
杉本梨南に感じている感情に限りなく似ている。名前をつけられずにいた。
上総が杉本梨南に懸命に教えていた時、美里はかなりきつい目をしてにらみつけていたという。こずえはその時に「杉本さんの胸にぼーっとしていた」と決め付けた。また美里も、「胸を大きくしたい」などと口走っていたという。でも、美里が見ていたのはそんなもんではないだろう。
美里が言ったとおり、
「杉本さんの面倒を見てあげている立村くんと、同じ目をしているの。きっと、私、立村くんに」
杉浦加奈子との告白騒ぎに巻き込まれても、散々女子からはあきれられても、美里はきっと、同じ目をして自分を見つめてくれていたのかもしれない。
D組の男子連中が早い段階で噂ががせねただと理解してくれていたこと、貴史が上総に内緒にしようと手を回してくれたこと、南雲が反発して本当のことを話してくれたこと。ありとあらゆることが繋がっていく。
本条の言うとおりだった。
「お前、ガキだよ。ガキだから、守られているんだよ」
染み通った。
恋愛感情なんてわからない。もしかしたら清坂美里のことを好きではないのかもしれない。でも、美里の動揺した様子を見ていて、たまらなく助けてやりたい、わかってやりたい、そう感じたのは本物だった。 つい、言うつもりのなかった 「付き合っている」 という言葉を口走ってしまったのも、美里を泣かせたくない、ただそれだけの気持ちからだった。
気付いたとたん、勝手に体が動いた。
美里を呼び止めた。
声が出た。
「それならさ、俺は、杉本よりもうすこし、清坂氏のこと、ひいきすれば、いいってことだろ」
びくりと動かなくなった美里に近寄った。
「ひいき?」
か細く、美里が答える。
「本条先輩に言われたんだ。『お前、杉本のことをひいきしているからな』ってさ」
「なあんだ。わかっているんだ」
「だったら、それ以上、ひいきすれば、いいんだよな。それが、付き合うって、ことだろう」
自分で思いつくまま、とりとめなく話しているのが情けない。必死におだやかな口調をつくろうけれど、どうしても早口になってしまう。
「それなら、俺もできるからさ」
うつむいたまま、美里は頷いた。言葉を発さなかった。 怒った肩が少し下がりかげんだった。身を硬くしているようす。 右手がノブにかかったままだった。
── 『付き合う』という言葉、方法はわからないけれど。
──D組の男子たち、貴史、南雲たちが俺にしてくれたように。
──清坂氏の味方でいることなら、できるはず。
上総はためらいがちに、重ねた指先でそのノブをひねった。
自然と指先が触れ合った。
伝わってきたのはしめった温もりだった。
終