金曜日 こくはく
朝の小雨は給食時間までにやんだ。水たまりにはさっぱりした青空が映っていた。窓ガラスに滴れていた水滴が乾き、白っぽく跡を残している。
一年生から預かってきた書類に目を通し、上総は軽く机の上でまとめた。先週行われた『一年学年集会』の報告書類だった。
「立村くん、どうなるかと思ってひやひやしてたでしょ」
窓を両手で押し開けながら、清坂美里が上総に声をかけた。
二年生の評議委員は、みな上総に仕事を押し付けて帰ってしまった。自分でそうさせるように仕組んだようなものだった。最後は一人で帰りたかった。なのに、同じ二年D組の女子評議委員である清坂が最後まで残ってくれたのはありがたい反面、落ち着かないものがあった。
「そうだな、最後は杉本がうまくまとめてくれたからよかったけどさ。今年の一年生は難しいって本条先輩も話していたし」
「なんであんなに一年生って男子と女子、仲が悪いんだろうね。信じられない」
「俺たちの代まで、異常なほど仲良すぎただけかもしれない」
美里の言う通りだった。
その年入学してきた連中はなにかかしらあると、評議委員同士いがみ合っていた。
上総からすれば、どうしてそこで譲ってやらないのか、どうして親切にしてやれないのかが不思議でならなかった。
プリントを預かって、朝の会で発表する時すらも、お互いに仕事を押し付けあうのはよくあること。
男子と女子が露骨に分裂するだけならまだしも、一人の女子評議委員に面倒な仕事を押し付けて、あとは自分らだけさっさと帰るとは、言語道断の行為に思えた。
今回の一年学年集会も、ほとんど案を考え実行したのは、その女子評議委員だけだった。
もちろんひとりだけでできるわけもなく、二、三年同士が相談しあい、うまく回るように手はずを整えたものだった。
「杉本さんがよくやったよね。クイズ大会の問題とか、資料とか、手回しとか、一年生から人材集めなくちゃいけなかったでしょ。立村くんも大変だったと思うんだよね」
「もう少し今の一年がな、自分から動いてくれたら。杉本ひとりに負担がかかりすぎてるよ」
「でもね、正直なところいうと、杉本さんももう少し、男子とうまく話ができればいいのにな、というのはあるよ。女子から見てね。どうしてああ、もう少し柔らかく男子に頼めないのかな。あんたが無能だと言わんばかりのやり方だったら、みなやりたがらないよ」
上総は同意しながらもう一度、書類をめくった。
「確かに。もう少し、要領がわかってればな。あれだけ頭がいいんだから、うまく手回しをしてやれば、もっと楽だろうに。つくづく、俺たちの代っていろんな点で恵まれていたと思う」
「ほんと、いい奴が揃っててよかったよね。立村くんはひとりでいろいろやっていたと思ってるだろうけど、私とかも手伝っていたんだからね」
「わかってる。感謝してます」
美里の顔を見ないで、上総はさりげなくささやいた。
夏服の襟もとにさりげなく猫のブローチをつけている。落ちそうなのか、片手で触れている。肩に届いたおかっぱ髪を揺らす。
「本当に、感謝してくれてるのかなあ」
「信じられなかったか?」
「だって、立村くんいつもひとりでなんでも背負い込んでしまうからね。クラスの行事とか、去年の学校祭とか、冬休みの『忠臣蔵』演劇ビデオ作りとか。本当は言いたいこと、いっぱいあったんだろうなあ、とは思っていたけど私もどうしていいかわからなかったんだよ。前から言っているけど、もし何か手伝って欲しいんだったら、ちゃんと言ってよね。今の一年と違って、うちらの代の評議委員は、いい奴ばっかりなんだから」
「いつもすみません」
丁寧語で答えた。
「本条先輩には来週の木曜までに提出すればいいと言われているから、あとでまとめたものを見せるよ。二年評議同士は味方につけたいからさ」
「数字使うところとかない?計算とか」
計算や数学が苦手な上総の弱いところをついてきた。
「あとで、検算もお願いします。清坂氏」
窓を閉めながら、美里はピースサインを送ってきた。
「まかせておきなさいって」
初夏とはいえ、梅雨のない青潟の気候のせいか、蒸し暑さは感じなかった。雨が上がればあとは、風がちょうど良いやわらかさで吹き抜け、しゃらしゃらと揺れる葉音が聞こえていた。
ほとんどの男子は半そでのワイシャツで通っている中、上総は布帛の、薄いジャケットを羽織って通っていた。
ブレザーでは暑苦しい。かといって腕を出しているとすぐに身体が冷えて具合悪くなってしまう。
ことに学校の中ではクーラーが完全整備されているので、気温差が激しかった。
「立村くん、いつも思うんだけど、その格好、暑くない?」
美里は、羽織りものを着ている上総をいぶかしげに見ながら尋ねた。前から上総の着てくる服について、妙に関心を抱いている様子だった。
これだけ洋服についてのチェックが厳しいのは女子でもめずらしい。
「自転車に乗っていたら風がぶつかってきて、すぐ冷えるから、ちょうどいいんだ」
「そうか、立村くん、時間かかるんだよね」
「本当に時間がかかるんだ」
帰る準備が整い、窓を閉め、上総は美里と一緒に教室を出ようとした。
次の日の、音楽試験について思い出した。
「あのさ、清坂氏、明日の一時間目、確かリコーダーの試験だったって言っていなかったか」
美里は立ち止まり、しばらく天井を見上げ人差し指であごをつついた。
「そういえば……言ってた言ってた」
「五人で、合奏するって聞いたような記憶があるんだけどさ、全くやってないよな」
アルト、テノール、ソプラノ、バスの四パートに分かれ、バロック形式の小曲を演奏する予定だった。今回は演奏とペーパーテストの比率が七対三という比率で評価されるということなのでクラスの連中も結構真剣に練習しているようだった。
「私もやってない」
「それで、リコーダー、貸してもらえるって聞いたんで、昨日音楽の先生から借りてきたんだ。ただ」
「ただ、どうしたの」
上総はこめかみを指で抑えながらつぶやいた。
「たぶん、D組の教室に忘れてきている」
総毛立って細かなチェックを行い、できるかぎりミスしないように心がけている上総もたまにこうやって抜けたところが出てきてしまい、いつも落ち込むことが多かった。几帳面に身ぎれいに、過ごしているつもりだけれども本当のところは、こんなもんだと、自分でもわかっていた。
美里がそういう上総の性格を見抜いているのかどうかはわからなかった。
「じゃあ戻ろうよ。今気付いてよかったじゃない。確か、立村くんのパートってテノールリコーダーだったよね」
「一人しかいないから間違ったら絶対、目立つし」
「気持ちはわかるな。私、アルトリコーダー二人組でよかった!」
気を遣ってくれているのだろうか。
一年前、入学式で羽飛貴史から『俺と同じ小学校の幼なじみ』という紹介で知り合った。たまたま座った前の席に貴史がいて、美里が声を掛けてきた。なりゆきもあって、学生食堂に行き、昼ごはんを食べたのがきっかけだった。
やはりなりゆきで上総と美里はD組の評議委員に選出され、お互い話す時間も長くなった。
授業中、委員会中、時には別の場所。
女子とそれほどおしゃべりする方ではない上総でも、美里には気兼ねなく『清坂氏』と呼びかけることができた。入学後一時期はやった、『女子を氏つきで呼ぶ』という遊びが廃れた後も、なんとなく上総は、美里にだけそう呼びかけることにしていた。意味はない。呼びやすいだけだ。
毎朝しゃべったり与太ネタを話したりする『仲良し』に近いのだろう。
現在の一年生が異様に男女の差を意識しているのに比べ、上総たちの代はみな、仲のいい奴はいい奴、悪い奴は悪い奴と割り切っているような感じがしていた。
相性の合う人合わない人がいる程度で、男女だからという意識はほとんどしていなかった。
貴史が言うには、
「あいつが男だったらすべて丸くおさまったんだろうけどな」
美里が言うには、
「あいつとしゃべっているのはおもしろいよ」
まさか中心グループの人気者たちと親友づきあいさせてもらえるとは思わなかった。
できるだけみんなにあわせていよう、浮かないようにしよう、そう気を遣いつづけた一年間。
気が付けば上総は、二年に上がってから無条件で、評議委員に選ばれていた。
「やっぱり、D組の仕切りは立村しかいないだろ」
と、ほとんどの男子がうなづいてくれた。
一年以上経ち、クラスではいやなこともそれなりにあった。
傷ついたこともたくさんあった。
もう、これで自分はおしまいだと泣きそうになったことも何度もあった。
そんな自分が、はずされることもなく二年連続評議委員に納まっていられるのは、おそらくこの二人のおかげだろう。
清坂美里には、心から感謝している 。
言葉に嘘はなかった。
D組の教室に戻り、すぐに上総は机の中を確認した。
たいてい、使わない教科書などは置きっぱなしにして帰るものだった。音楽、保健体育、技術家庭、道徳などがそれに当たった。
見つかると先生たちからは厳しく叱られる。
教科書を取り上げられて、後で職員室に来るよう、命令される。
お説教付きで一発ひっぱたかれた後、教科書をかばんにつっこまれるのはざらだった。
──そんなことを言ってもかばんに入りきらないんだから、しかたないだろ。
二年D組内における、多くの主張だった。
幸い上総は、評議委員会の先輩達から隠しておくテクニックを教えてもらっていた。呼び出しをくらったことはなかった。
なんのことはない。 手提げを用意して、運動靴入れのロッカーにいれておけばいい。 目立たない形にしておけばいい。 委員会が終わってからこっそり置いてくればいい。 自転車で三十分近くもかかる品山の家まで、重たい荷物を持つのはごめんだった。
「立村くん、見つかった?」
「どこいったんだろう、変だな」
口では抑揚の無い返事をしているつもりだが、真剣にあせっていた。
ちゃんと借りてきたはずなのに。
まさか今度はなくしてしまったなんていわないだろうな。机の中に確かにしまったはずなんだが。
「別のところに置いたんじゃないの?」
「かもしれない」
手提げバックの中に入れた記憶はなかった。
さらにいうなら借りものを靴の匂いがつきそうなロッカーに入れるような非常識なこともしていないつもりだった。
「教室出るまではあったのね」
「そうだと、思う」
「掃除の時に落としたとしても、拾うからわかるよね」
「うん、でもそれしか考えられないな」
机の出し入れをした際に、転がり落ちたか、その可能性しか思いつかなかった。 かなりまずい。 明日、なんでなくしたのかとか言われて怒られそうだ。 頭を抱えたいのが本心。
でも美里がいる以上みっともないところは見せたくない。
「ね、立村くん、念のためロッカーも見てみなよ。もしかしたらってことあるかもよ。立村くんの机に入れておくと、また落ちてしまうってだれかが思ったかもよ」
「あることを切に祈る」
たかが音楽、と馬鹿にすることなかれ。なにせ青大附属においては、合唱コンクールの最優秀賞受賞クラスに『一泊二日クラス旅行』を賞品に用意するくらい、力の入った行事だった。そこまでいかなくとも歌のテストがある時は、一種異様なカラオケ大会と化するありさまだった。
企画は得意だが自ら演ずるのが苦手な上総としては、できるだけ避けたい行事のひとつでもあった。
ロッカーには鍵がついていなかった。
盗難防止に、というよりも、鍵をつけたら絶対に誰かがかぎを無くすのが目に見えているからだろう。
しかも、四人共同のものだ。
五十音順だから、「り」行の上総は「は」行の貴史と一緒だった。
すでにごちゃごちゃといろいろなものが混じっていた。
互いのものがわかりやすくなるように、大抵は手提げかビニール袋に覆われていた。
漫画本と、休み時間に使うボール一式。
バレーボールが入っている時もある。
上総が置いているのは、体育用の上履きと、習字のセット一式、あとはリコーダーくらい。几帳面にまとめて棚に並べて置いていた。
まさかこの中にあるとは思えない。
美里の勧めに従い、袋を開けてみた。
「あのさ、清坂氏、聞いていいか」
「なあに?」
「ロッカーの中にあるって、どうしてそう思った?」
「だって、立村くんは机の中に入れておいたんでしょ。で、そこになかったんでしょ。ということは、落ちたか拾われたか盗まれたかのどちらかでしょ」
「盗まれた、か」
「でも、学校のものを盗んでなんになるって気もするのよね。最後の可能性として取っておくとしても、拾ったらどうするか。立村くんの机だってことはわかるだろうし、明日リコーダーの試験だってこと、思い出すだろうから。しかも立村くんってば、テノールリコーダーじゃない。各グループ六人しかいなくって、今必要だってことを考えたら、立村くんに行き着くのは時間の問題だと思うな。私だったら、さっさとロッカーに入れておいて、知らん振りするけどね。ほら、また机の中に入れておいたらころころ転がってしまうかもしれないじゃない」
「お見事」
上総は、ケースの中に入っているリコーダーを掲げるようにして持ち、美里の方を向いた。
「しつこいようだけど、今日は本当に感謝してます」
今度こそはなくさないようかばんに押し込み、外を眺めた。
二年に進級してから、委員同士で班を組ませるやり方は行わなくなった。いつも同じ顔をつき合わせていたくないという、一部の委員から意見が出たためだった。持ち上がりの担任である菱本先生もあっさりその要求を飲み、学期の初め班編成を行うことになった。 誰もが納得する方法として、くじ引きが採用された。 評議委員には『班変えのくじ引き作り』という新しい仕事がまた増えた。
その結果、一学期中、上総は美里と貴史と別班にまわされることとなった。まあ、去年はずっと一緒だったし、クラスそのものは一緒なのだから、取り分けて淋しいということはない。班で一緒になった連中とも、それなりに仲良く付き合っている。
現在の班には、古川こずえがいる。隣の席だ。
本音を言うとこちらの方が上総にとっては悩みの種だった。
仲が悪いというのではない。
それどころか、女子の中では話の合う、いい友達だと思っている。
しかし、毎朝『弟にしているような』際どい質問を投げかけるのはやめて欲しかった。
いきなり 『あんた童貞?』 と脈絡も無く投げかけられると、こちらはどう反応していいかわからない。おそらく日々、姉からの攻撃に耐えているであろうこずえの弟に上総はいつも同情していた。
話を聞いている限り、感覚がかなり自分と似た小学校六年生らしい。
少しだけ雲の色が重さを増していた。もくもくと聳え立つ雲が見えるようならば、必ず折りたたみ傘を持っていかなくてはいけない。
ロッカーには万が一のためにかさも入れてあった。 ついでに持ち出すと、美里が目ざとく見つけてきょとんと尋ねた。
「こんないい天気なのに、雨降ると思う?」
「なんだか危ないよ。この雲はまずい。清坂氏の家までなら平気かもしれないけれど、俺の家になるとかなり遠いから、空が持つかどうかわからない」
どうせ、上総の住んでいる品山の方は天気が変わりやすいのだ。
二階の教室から眺める山々は、うっすら水色に浮かんでいた。かすかに雲が輝きを抑え、まだらに空気をすかしていた。山の色といえば、遠めで見る限り、水色だ。今にも消えそうな、はかない薄さだった。 窓を閉める前に上総は、誰か校庭にいるのかどうかを確認した。
誰もいなかった。
遠くのグラウンドでかすかに、吹奏楽部の練習がもれ聞こえる程度だった。
「羽飛はいないみたいだな、もう帰ったか」
「委員会もやらないんだったら、もう少し部活をまじめにやればいいのにね。あいつ馬鹿ね。そうそう知ってる? 貴史ね、一年生の女子から昨日、告白されちゃったらしいのよ。こずえが騒いでた」
あんなに上総に対してはしょうもないネタをかますくせに、肝心の羽飛貴史に対しては積極的になれない古川こずえ。あきれてしまう。
「古川さんももう少し、自分の心に素直になれって言いたくなるな」
「こずえは自分なりに素直でいるんじゃないの。まあ、私も知っている子だったけれど、どうかなあ、なにせ貴史の好みは『鈴蘭優』だから」
「羽飛のおかげでやっと覚えた」
芸能人やアイドルについてどうしようもなく疎く、一年のうちはちんぷんかんぷんだった。話をあわせるのに苦労したものだった。
最近になってようやく少しずつわかるようになったものの顔を覚えるのがやっとだった。
「立村くん、貴史からは聞いてないの?」
「全然。男子同士ではあまり、そういう話、しないんだ」
心ならずも嘘をついてしまった。男子同士が集まる時、全くしないどころか、ほとんどの場合、ひそひそ声の話題になってしまうことが多い。
女子の前では絶対にいえない内容である。
さすがにクラスの女子について批評するなんてことは、めったにしない。
その代わり、『鈴蘭優』などのアイドルをネタにして、胸の大きさやセクシーショット、どういうところにそそられるか、などを真剣に語り合って最後に自分の抱えていることに行き着くという、良くあるパターンだった。
男子に幻想を持ってはいけない。幻滅の道まっしぐらだ。
口に出す気もない言葉を、心の中にしまいこんでおいた。
「ふうん、そうなんだ。立村くんはあまりアイドルのタイプがどうとか言わないよね」
「わからないからな。この前も古川さんにプロマイド、また、見せられたよ。適当に選んでおいたけれど、最近の芸能人って顔が同じに見えるんだ」
「はは、それってわかるな」
「どうして羽飛は、テレビドラマなんかでちらっとしか出てこない鈴蘭優を、瞬時に発見できるのか、俺には理解できないよ。テレビを一緒に見ていると、とにかくおどろくよな」
「そうそう、貴史って、好きなものにはとにかく、チェックが早いよね!」
しばらく美里と羽飛貴史のことで盛り上がっていた。共通の友達だからというのもあるだろう。
本当だったら、夕立が降る前に帰りたかった。
美里の巧みな話術に乗せられたのが真相だった。 話を聞いているだけでなく自分からも話題を出してしまえること。 小学校時代の上総を知っている人が見たら、きっと驚くだろう。 大抵の場合は様子をうかがって黙っていることが多かった。
「ふうん、アイドルとかでも好きなタイプっていないんだ」
「顔を見ればわかるだろうけれど、そうだな。いない」
「でもそれって、淋しいよね。別に結城先輩くらい熱中しろとは言わないけれど」
「あの人はすご過ぎるよ。この前本条先輩と高校に用事があって会ったけれど、前の日に例のアイドルグループコンサートに行くため、授業さぼったという話をしていた」
結城先輩とは、二学年上の評議委員長だった。
上総が入学した年の委員長で、熱狂的アイドルマニア、かつ女性アイドルグループの追っかけに情熱を燃やしていた。今でもその傾向は残っているらしい。何度か上総も、結城先輩の家に遊びに行ったが、部屋にはポスターが天井から床まで大量に敷き詰められていた。同じ部屋を見るなり、「あの部屋で生活するなんて、俺だったら気が狂う」
と言い放ったのは、現評議委員長の本条先輩である。
「そうなんだ。結城先輩くらいマニアックになるとちょっと怖いかもね。彼女作れよ可愛そうにって、女子の間ではさんざん言われてたよ。いないよね、そういう人」
「歴代評議委員長はみな、一癖ある人が多いよな。本条先輩の狂い方も少々怖いところがあるにしても」
本条先輩の女性遍歴は相当なものだった。
上総も何度か話を聞いたことあある。教えてもらったこともある。たぶんほとんど事実なのだろう。
真似はできない。 一日で二人の女子とデートするなんて器用なことできそうにない。
「なんで本条先輩、ああいうことしたがるんだろうな。黙っていてもいくらでも、付き合えるだろうに」
「本条先輩と付き合いたがっている三年の先輩、きっといるだろうにね」
「よくわからないな」
上総はつぶやいた。
「付き合うってこと自体、よくわからない。無理しなくたっていいのにな」
「なぜなぜ?」
「気の合う友達がいればそれで十分だろうに、って思うんだけどな」
「ふうん、そうなんだ。立村くんはそういう感じなんだ。あのね、立村くん、今私たち、噂されてるって知ってた?」
「『私たち』って……か?」
指で自分と美里を交互に指した。
「うん、最近、しょっちゅうなんだけど、立村くんの方はどう?」
「確かによく言われるよ。でも、慣れているけれどさ」
「そうなんだ。で、そう聞かれた時って、どう答えてるの?」
「いや……嫌いじゃないって、そのくらいかな」
「そうなんだ」
ひょいと立ち上がり美里は窓辺を向いたまま上総に背を向けた。
一呼吸置いてから、くるっと振り向き、
「私も、立村くんみたいなタイプ、好みよ。付きあっちゃおうか」
上総は自分がどういう顔して答えたのか自信がなかった。
どくどくと心臓が鳴り響きはじめた。心臓の音が聞こえるのだけは、はっきりとつたわった。なんでこんなにうるさいのかわからなかった。
自分の身体がどう反応しているのかすら自分で押さえられなくて、いらだった。
机の上に片手を置き、やわらかい表情を必死に保ったまま、短く答えるのが精一杯だった。
「いいよ、清坂氏とだったら」
きっと美里には見破られていないだろう、そう願いながら。