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タイムトラベル―体育会系剣道GIRLの青春―

作者: 南城真生

 

 第1幕 プロローグ―私って変なコドモ―



 ある日、私は自分の特異な体質(?)に気づいた。

 子どもの頃から、興味のある分野についての記憶力、理解力が異常によいのだ。

 そんなの当たり前だと言うかもしれないが、5歳の頃にTVに映るプロ野球選手の名前が全部言えたのって、フツウじゃないらしい。

 また、大相撲でも幕内力士は全員、顔と名前が一致した。

 パパがスポーツ観戦好きで、いつもTVで野球、サッカー、相撲、ゴルフ、テニスなどを観ている。

 その中の野球と相撲に私が食いついた。

 若干5歳にして・・・

 お兄ちゃんもやがて野球にのめりこむが、TVによく映るひいきのチームくらいしか覚えていなかったらしい。

 私の知識は、12球団のレギュラークラスはほぼ全員。

 選手名鑑もよく見ていたから、それで自然に覚えた。

 また、今にして思えば解説者の説明も大体理解できていた。

 こんな感じだから、まわりの同世代がコドモに見える。

 こんな例もある。

 小学校1年生の授業の時、教科書を読む際にみんなは一語一語区切って読んでいた。

「お・か・あ・さ・ん・は・ぼ・く・を・み・て・に・っ・こ・り・と・わ・ら・い・ま・し・た。」みたいな感じで。

 でも、私は普通にスラスラ読めた。

 これも今なら当たり前だと思うかもしれないけど、私以外のクラス全員が「お・か・あ・さ・ん・は・・・」って区切って読んでいたのだ。

 また、3年生のときに書いた「四つの夢」という作文には、「・・・それを聞いた時、私の中に一筋の冷たい風が通りぬけた・・・」って書いたら、何かのフレーズから盗んだと思われて先生に叱られた。

 ただ思いついたことを書いただけなのに。

 4年生のときに「自殺」というタイトルで書いた作文には、「・・・高いところから飛び降りるのは勇気だ。私にはその勇気がない・・・」とあったのを読んだ先生が慌てて、結構な騒ぎになった。

 別に自殺する気なんてさらさらないのに、担任以外にも学年主任や保健室の先生、カウンセラーなどいろんな大人が説得に来た。

 私はコドモっぽくないだけなのだ。

 時折、他人が考えていることがわかることもある。

 ジャンケンなんかでも、たまに相手が何を出すか(ひらめ)くんだ。

 直感っていうのかしら。

 そういうときは、百パーセント勝てる。

 もしかしたら上空には神様がいて、私たち人間の行動を全て操っているんじゃないかしらって思っていた時期もあった。

 だから、誰かに何を言われても、その先を読んだり、裏を考えてしまう性格なのだ。

 可愛くないコドモだと思うけど、そうなってしまったんだものしょうがない。

 現実が見えてしまった私は、いつしか空想の世界を楽しむようになった。

 何人もの男の子たちが私を巡って争ったりする場面を、勝手頭の中で描いたりしている。

 私のピアノ・リサイタルで、観客が感動して涙を流すなんてこともよくある場面だ。

 またお母さんや先生に叱られた時は、いなくなったりして叱ったことを後悔させたりもしてきた。

 我ながらイヤな性格だ。

 こんな変なコドモ、まわりにいる?

 やがて、夢の世界にも私の意思が通じるようになってきた。

 私の場合、普通に夢を見てもその記憶が鮮明であり、強く思えばストーリーを変えたりすることができるんだ。

 クラスの友達に話してみたら、大概「何、それ」と言われるのだが、何人かに1人は「あ、私も」と言ってくれる。

 しかし、実際にその内容を聞いてみると、私の話に比べてホント薄い。

「怖いものに襲われて走って逃げるんだけど、うまく走れない。でも、結局は空を飛んだりして何とか逃げた」とかそんなような感じの話が多い。

 そうじゃなく、私の場合は夢の中とはいえリアルな状況を自分の思う方向へ何度も修正しながら持っていくことができるのだ。

 これも聞いた話だけど、世の中の何万人かに1人はママのおなかの中にいるときの記憶があるらしい。

 実は私もその中の1人。

 家の近所の公園前で、仕事へ行くパパを見送るシーンがたまに脳裏をよぎる。

 私はママの横で手を繋がれていて、パパが駅に向かって自転車で走り去る姿を一緒に見ているんだ。

 自転車の後には、お兄ちゃんが座っていた。

 そして2人して手を振りながら見送っているのだが、ママはパパの姿が見えなくなると、私の方を見て、「あなたはもう少し、ママのおなかの中にいるんだからね」と語りかけるんだ。

 私はその声までハッキリ覚えている。

 パパとママにこの話をすると笑われておしまいなのだが、確かに公園前でパパを見送ったことはママも覚えていて、しかもその時は、ちょうど妊娠中(おなかの中には私がいた!)だったそうだ。

 そして出産間近であったため、パパがお兄ちゃんを親戚の家に預けに行った日があったとのこと。

 おそらく、私が見たのはその日の出来事だったのだろう。

 そういう体質からか変な才能なのかはわからないが、今ではさっき言ったように、夢のストーリーを勝手に変えることもできるし、夢の続きを見たいときには一度起きたとしても、もう一度夢の世界に戻ることができる。

 なので、朝になると大笑いしていたり、感動で泣いていたりすることも多い。

 そばに誰かがいたら、きっと気味悪がられる・・・

 幸い私は小学校1年生の時からひとり部屋なので、今まで誰にも気づかれていないのだが。

 逆に怖い夢や嫌な夢の時には、自分の意志で目を開けていつでも現実に戻れる。

 なので嫌な夢を見ても、一度リセットしていい夢へと転換させることまでできるようになった。

 夢って毎晩見るものらしい。

 だけど、大半は起きた瞬間に忘れてしまうものだそうだ。

 私はほとんど毎朝、見た夢をクリアに思い出すことができる。

 そして、必ずハッピーエンドで終わるようにしている。

 そんなことを繰り返していたら、いつの間にかタイムトラベルまでできるようになった。

 強く念じると、かなりの確率で好きな場面の夢を見ることができるんだ。

 お兄ちゃんといっぱい遊んだ2~3年前やパパとママの若い頃まで、私はタイムトラベルを時折楽しんでいる。

 この前TVを観ていたら何かの番組で、現代の小学生は塾や習い事、または何時間も続けるゲーム、スマホなどで疲れきっていると言っていた。

 だから、「何をしているときが一番幸せか」というアンケート調査によると、「寝ること」が第1位で、画面の中の大人たちは残念そうなコメントを残していた。

 でも、それって表面上のことじゃない?

 だって、私も「寝ること」がとても幸せなんだもん。

 今日はどんなストーリーにしよう・・・そう考えながらベッドに入るのは悪くない・・・




 第2幕 11歳―新しい出会い―



           1


 女の子特有のベタベタが苦手だ。

 ウチのクラス、6年3組の女子15人は大体3つくらいのグループに別れている。

 1つはおとなしい、どちらかというといじめられやすいタイプの4人組。

 何となく暗くて近寄りがたい。

 アイドルとかが好きならばわかりやすいのに、この間グループで固まって漫画を読んでいたので、ちょっとのぞいてみたらボーイズラブ系のものだった。

 ちょっと、そういうのはニガテかも・・・

 残りの2つのグループはともに5人組で、何となくお互いを意識してる。

 あえて表現するならば、ひとつはジャニーズ系でもうひとつはEXILE系かな。

 EXILE系は読者モデル系と言い換えてもいい。

 この2つのグループは特に表立って対立しているわけではないが、何となく冷戦みたいな感じかな。

 ホント、女の集団というのは息が詰まる。

 私、北川(きたがわ)(ゆい)はおとなしいタイプではないので、その2つのグループの間をフラフラしている感じ。

 だから誰とでも普通に話が出来るが、親友と呼べるほどの仲のいい友達はいない。

 でも別に一人でもいい。

 いや、むしろこんな女々しい環境では1人の方が気楽かも。

 4つ上のお兄ちゃんとは昔からよく遊んだ。

 だから男っぽい性格かも知れない。

 女々しいこと、コドモっぽいことなどは嫌い。

 早生まれ(3月30日)って一般には幼いというけれど、私の場合は逆だ。

 ブラザーコンプレックスというわけではないが、お兄ちゃんに勝る男の子には今だかつて出会ったことはない。

 だから恥ずかしながら、初恋もまだ。

 そのお兄ちゃんも今年高校に入学し、甲子園にも出たことのある野球部に入ってしまったので、朝から晩まで野球漬けの日々。

 めっきり話をすることもなくなった。

 お兄ちゃん離れのいい機会かもしれないが、やっぱりちょっと寂しいかも・・・

 EXILE系、冴子のグループは特に派手だ。

 特に、冴子と園美は茶髪に厚底で登校し、片時もスマホを手放さない。

 休み時間だけでなく、気の弱い音楽の先生の授業中もよくラインを打ったりしている。

 彼女たちの影響からか、最近冴子グループではスマホを持つ子が増えている。

 ていうか、スマホを持っていないと仲間になれないようだ。

 ああ、息苦しい。

 私はスマホを持っていないけど、何の不自由も感じない。

 そもそも、私たちコドモは何のためにスマホを持つの?

 安全確認のためってよく言われているけど、1人でそんなに遠くに行くこともないし、オトナみたいに仕事で使ったり、何かを調べたりすることもない。

 パパは昔からケータイを2台持っていて、家でも会社からの連絡が入ることもあるけど、忙しそうに話している姿を見ていると、いっそケータイなんて持たない方がいいんじゃないかっていつも思う。

 冴子たちは、家の電話ではなくラインで連絡を取り合う。

 ちょっとでも返すのが遅れると、タイヘンだそうだ。

 あとは、いろいろなアプリっていうモノを使っているみたい。

 世の中何かが流行っているというより、ちょっとでも話題になったものに一生懸命乗っかろうとしている人が多いと思う。

 乗り遅れたらイケナイみたいな。

 私はスマホを持っていないから、そんなわずらわしさもない。

 その冴子と園美のお気に入りは、クラスの西浦俊一クン。

 後ろ髪がちょっと長く、やはり茶髪。

 スラリとした背でサッカーのクラブチームに入っていて、勉強も出来て確かにビジュアル的にはカッコイイ。

 でも私見ちゃったんだ。

 俊一クンがスマホで話しているのを。

「もしもし、ママ。」

 ママって・・・

 そもそも私たちぐらいの男の子って幼いけど、ママなんて言われた日には、百年の恋も冷めるわよ。

 あ、別に私は俊一クンのことは何とも思ってはいない。

 俊一クンだけでなく、クラスの男の子には全く興味はない。

 だって、寝ても覚めても一日中ゲームの話ばかりしているんだもの。

 何のゲームがあるのかよくわからないけど、ちょっとオカシクないかしら。

 パパの若い頃はマンガが批判されたっていうけど、今のゲームに明け狂う現状が異常だと思っているのって私だけじゃないと思う。

 親子でも友達でも、会話をろくにせずにそれぞれがスマホをずっと見ている光景も絶対に変だよ。

 何も考えずにゲームに没頭している姿って、結構見苦しい。

 特に電車の中でスーツを着た大人が、ニヤニヤしながら一心不乱にゲームしているのをたまに見るけど、小学生と一緒のことやっているのをまわりに見せて恥ずかしくないのかなって思う。

 この前、お台場でレアなポケモンがゲットできるといううわさが広まり、何百人もの人が殺到したというニュースをやっていた。

 大勢の人が車道を練り歩き、警察官の指示も無視して画面を凝視していたようすをTVで観たけど、大半がオトナだった。

 どこかオカシイって思うのって私だけ?

 例えこのことをクラスのみんなに話したとしても、多数決で消されてしまうのだろうな。

 だってみんなは熱中している側だから。

 ゲームを開発した会社の人たちはそういうことわかっているのかなあ。

 話は変わるけど、サッカーの派手なパフォーマンスも好きになれない。

 特にゴールを決めた瞬間の、「自分さえよければ何でもあり」的なアピールは見ていて気分が悪くなる。

 また、それに乗っかって、喜びのおすそ分けを求めるチームメイトのはしゃぐ姿もキライだ。

 私って、ホント性格悪いな・・・

 お兄ちゃんが野球をずっとやっているせいもあってか、根性路線の方が好きなのかも。

 千本ノック(古いか)とか、高校野球の全員坊主や打席に入る前の礼などの方が、チャライ人よりよっぽどカッコイイと思うのに。

 やっぱり私、ブラザーコンプレックスなのかなあ・・・




           2


「唯、ちょっと。」

 金曜日の朝、登校するなり冴子に話し掛けられた。

 目の回りが銀色にキラキラ光っている。

 まったく何を考えているのやら。

 最近よく、12歳の女の子が事件に巻き込まれるってニュースでやっているけど、何となくわかる気もする。

 中学に入ると制服を着なければならないし、校則も厳しいらしいので、好きなことできるのって小学生までなのかもって思うんだ。

 特に冴子や園美を見ていると、本当に自由気ままに生活しているのがわかる。

 オトナじゃないんだけど、TVや雑誌に載っているオトナの虚像を追っているみたいな感じがする。

 耳だけでは飽き足らず、オヘソやまぶた、やがては舌にまでピアスをつける人に将来なるんじゃないかしら。

 おまけにタトゥーとかもいれたりして。

 もっと、フツウのオトナの方が多いはずなのに。

「なあに。」

「昨日の夜、佳苗先輩からラインが来たんだけど。」

 佳苗先輩っていうのはウチの小学校を昨年卒業した1つ年上の先輩だ。

 冴子グループとのつながりが昔からずっとあって、私も何回かは喋ったことがある。

「明日の土曜日、園美たちと佳苗先輩のところに遊びに行くことになってるんだけど、先輩が唯も呼ぼうって言ってるんだよね。」

 言い訳を猛スピードで考える。

 だって佳苗先輩は、中学校に行ってからやたら評判が悪いのだ。

 ママたちの情報網ってスゴイから、何でも入ってくる。

 駅前のコンビニでタバコ吸ってたとか、家の前にいかにもって感じの男の子が迎えに来てたとか。

 仲間というより、冴子たちを子分にしようとしているのがミエミエなのだ。

 おそらく、中学でもいろいろなグループがあって面倒くさいんだろうな・・・

 冴子グループでない私が何でって感じ。

「明日はママのバレーボールを見に行くことになってるから。ゴメンネ。先輩によろしく言っておいて。」

 私はオトナと同様、平気な顔してウソつけるタイプだがこの話は半分ホント。

 毎週土曜日にダラダラしている私を見かねたのか、ママから見においでって言われていたが、興味もないので今まで行ったことはない。

 でもこうなってしまった以上、明日は行かなければならない。

 それこそ、ママたちの情報網で行かなかったことが冴子たちにバレるともっと面倒くさいから。

 昨年まで土曜日も希望制の講習があったけど、今年からそれがなくなった。

 おそらく学校、ていうか先生方の都合だと思うけど、土曜日が休みになってから結構みんなヒマしてる。

 平日は習い事などしている子が多い。

 学校が終わるとすぐに塾に向かう子もいる。

 かくいう私も、小1の時から火曜日と金曜日の週2回、ピアノを習っている。

 自分でやりたいとお願いしたのではなく、少しは女らしく育てようとパパとママが考えたのかしら。

 お兄ちゃんが野球の道に入ったのは、パパの勧めだと聞いている。

 パパも高校まで野球をやっていて、自分の子供と公園でキャッチボールをするのが夢だったなんて話を酔っ払った時に言っていた。

 この前久しぶりにお兄ちゃんとキャッチボールしたら、見事に突き指してたけど。

 一方、ママ待望の女の子として生まれた私は、ママの描いた理想を達成すべくピアノに向かっている。

 本当はお兄ちゃんと一緒に野球をやりたかったんだけど・・・

 私、身体は小さいけど女子の中では脚も学校で一番速いし、スポーツテストの総合成績もずっと1位だ。

 それでもスポーツをやりたいと主張することもなく、近所のピアノ教室に小1からもう6年間近くも休まず通っている。

 一時はもっとレベルの高い先生につくべきだってそのピアノ教室の先生に言われ、銀座まで通ったこともある。

 ただ、ピアノの世界で生きるつもりが全くない上にお金がかかるから、途中で今の教室に戻ったんだけど。

 たまに、家でもママと連弾したりしてる。

 その時のママはとっても嬉しそう。

 それを見ているパパもご機嫌だ。

 だから、やめる理由もないので今まで何となく続けている。

 ただ発表会は苦手。

 だってフリフリのかわいいドレスを着なければならないんだもの。

 似合わないのよ私。

 髪型もいつもショートだし。

 でも女の子にはピアノってママはいつも言っているし、ビデオとデジカメの両方を覗きこんでいるパパの姿が切ないというか滑稽というか・・・

 親孝行してるよ、これでも結構。




           3


 で、土曜日にママのバレーボールを見に区民体育館へ行ったら、1階フロアで思わぬ人に会ったんだ。

「何してんの、こんなところで?」

 クラスの日野隼人クンだ。

 剣道をやっているのは耳にしたことあったけど、剣道着・袴姿をはじめて見た。

 ちょっとカッコイイ。

「剣道の合同稽古会だよ。普段は中学校の体育館でやってるんだけど、何かの行事があるとかで使えないみたいなので、ここで他の剣友会との合同稽古会になったんだ。北川こそ何でここにいるんだ?」

 コドモっぽいクラスの男の子達のなかで、日野クンはちょっと違ってる。

 いつかゲームの話で男子が盛り上がっていたとき、ポツンと一人でいたので「何でみんなと一緒にいないの?」って聞いたら。「オレ、ゲームやらないんだ。」って素っ気なく答えたんだ。

 あの時から、何となくクラスで唯一気になる男の子だ。

 お互い無派閥っていうか、もしかしたら気が合うかも。

 日野クンがどう思っているかはわからないけど。

 ママのバレーボールも意外と楽しそうに見えたが、剣道の合同稽古会ってやつもかなり気になる。

 ママが夢中になっているのを見計らい、奥の剣道場に行ってみた。

 剣道場自体がそんなに広くないせいか、子供たちの父母と思われる人たちが廊下に溢れていたので、その集団に紛れて日野クンに見つからないように覗きこんだ。

 面をかぶっているから顔はわからないが、お腹の下あたりに「日野」という名前が見えたので、その姿をずっと目で追った。

 カッコイイ! 

 普段教室で見る日野クンより大きく見えるのは気のせいだろうか。

 先生(?)に倒されたり、わけのわからない声(気合っていうのかしら?)を出していても、確かにカッコイイのだ。

 日野クンがというより、生まれて初めて見る剣道に感動していたのかもしれない。

 上下白の剣道着に赤い胴をつけている女の子達もカッコよかった。

 私、やっぱり根性路線かも。

 何か、その日はワクワクして興奮状態だった。

 だって夢の中にまで剣道着姿の男の子(日野クンもいた)や女の子達、そしてカッコイイ先生などが出てきたんだから。

 ただ剣道の経験が全くない私は、右往左往するばかりだったけど・・・

 翌日も剣道の夢だった。

 叩かれて悔しくて泣いたり、自分の勝利でチームメイトが歓喜の輪に包まれたりする場面が出てきた(というか、自分でそういうストーリーを描いた)。

 何か、すごくスッキリとした目覚めだった。


「ちょっとは剣道に興味持ったか?」

 月曜の朝、たまたま早起きできたのでちょっと早目に登校したら、教室には日野クンしかおらず、普通に話し掛けてきた。

 ついさっきまで見ていた夢に出てくるくらい剣道に興味津々だったので、何となく心を見透かされたようでドキッとした。

「どうして?」

 小首をかしげて可愛い子ぶった。

 別に意味はないが。

「だって北川、ずっと見てたろ。」

 逆に見られてたのか。赤面した。

 剣道というより日野クンに興味があったと思われると恥ずかしい。

 本当はどちらに興味があったかと聞かれると答えられないが。

「中学でもやるの? 剣道部とかに入って。」

 話題をそらせた。

「でも二中には剣道部がないんだよ。一中にしようか、五中にしようか迷っているんだ。」

(そっか、日野クンは二中に行かないんだ・・・)

「私立は?」

 スポーツは私立が強いってお兄ちゃんが言っていたことを思い出した。

「私立? 無理無理。ウチお金ないし、そもそもオレが受験勉強なんてやると思う?」

 日野クンは笑って教室を出てトイレの方へ歩いていった。

 私たちの地区は普通なら二中に進む。

 でも部活動の関係や、荒れている(ママの情報)ということもあり、隣接学区の一中や五中を選ぶ人も毎年少しいる。

 私は別に荒れていようが何だろうが、どうせまた1人だろうから特に何とも思わないのだが、剣道部がないというのは日野クン同様ショックかも。

 だって土日ずーっと考えた結果、中学に入ったら剣道部に入部しようと思い始めていたんだもの。


 教室に人が増え始めた頃、冴子と園美が登校してきた。

「おはよう。」

 いつも通り声かけると、挨拶を返す前に冴子は開口一番、

「佳苗先輩怒ってたわよ。」

 と朝からブルーになる言葉を口にした。

 冴子グループの全員が佳苗先輩のところへ行き、挨拶をしたらしい。

 何の挨拶かって? 

 二中に入るっていう挨拶なんだって。

 この時期はどこの中学に進学するか決める時期なのだが、グループによっては毎年先手を打って先輩が声をかけてくるらしい。

 ホント、バカみたい。

 佳苗先輩グループに入る子たちにしてみれば、荒れていようが関係ない。

 ていうか、荒らしているような強いグループに入れば、発言力のある先輩の威光で好き勝手なことできるのだから、みんな二中でいいのだろう。

 でも私は佳苗先輩グループでも冴子グループじゃないのに・・・

 お先真っ暗だよ。

 都内東部のこの地区は、伝統的に私立中学に進む子はそれほど多くはない。

 かといって隣接区以外の越境が盛んなわけでもないので、自然に学区域内の二中に進むことになる。

 私の小学校は基本的には全員が二中だ。

 だから人間関係が変化しない。

 それがいいと言う人もいるけど、せっかく中学生になるのだから新しい環境でやってみたいかなと思う。

 最近、小中一貫校ができるというニュースを見たけど、9年間も同じメンバーで過ごすことに意味があるのかなあ。

 例えばいじめられている子にしてみたら、せっかく中学進学で新しい生活にチェンジできるはずなのに、同じ子にいじめられる可能性もあるわけだからデメリットの方が大きいような気もするんだけど・・・

 学校が変わるたびにどんどん新しい出会いがあった方が、人間関係が広がっていいと思うのは私だけかな。

 あ、でももしかしたら私みたいにグループに入れないような、人間関係をつくるのが下手な人のためなのかも?

 何かわけがわからなくなってきた。

 そのあとも日野クンと少し話をしたら、二中に進んで部活は剣道じゃないものをやりつつ、今所属している剣友会で続ける選択肢もあるって言っていた。

 でも、私のやりたいことって一体何?

 もし二中に行っても冴子グループとのいざこざがあったり、今やっているピアノもまだ始めていない剣道も、さらに他の部活に入ったとしても全てが中途半端になっちゃうような気がする。

(今夜の夢の中で決めよう)

 11年間の人生で、最初の大選択だ。




           4


「あのね、ママ・・・」

 タイミングを見計らって切り出した。

 パパもいたのだが、何となくママに切り出した。

「なあに、唯。」

 食後のお茶を入れたママがいつも通り優しい笑顔で答えた。

「うん・・・」

「どうしたの?」

「・・・私、私立に行きたい。」

 今までは二中でいいと言っていたけど、ここ1週間くらいずっと考えていたことをついに口に出した。

 何度もいうが、私はコドモっぽくないコドモだ。

 普通のサラリーマンのパパの給料が決して人並み以上にいいわけはないとわかっているので、何かをねだったことはほとんどない。

「何が欲しい?」

 誕生日とかクリスマスの時に聞かれても、最初に出てくる言葉は、

「特にない・・・」だ。

 本当は欲しいものがないわけではない。

 でも、私は欲しがらないのだ。

 何となくいつも何かを我慢してしまっている。

 変に冷めた性格だ。

 パパとママが「ウチはそんなに裕福ではない」みたいな話をしているのを聞いてしまった小学校2年生の時から、ゴハンのおかわりも一切していない。

 その私が、人生最大のおねだりをしているのだ。

「私立って・・・最近まで二中でいいって言ってたじゃない。区に提出する書類も二中で明日にでも提出しようと思っていたのよ。どうしてまた・・・」

 驚いた顔でママが大きな目を向けた。

「英語勉強したいし、新しい環境でやってみたいの。」

 私もママから目をそらさずに、自分の思いを伝えた。

「そんなこと言ったって、唯は塾にも行っていないんだから、受験なんて無理でしょ。」

 私は宿題以外の勉強をほとんどやったことがないにもかかわらず、学校の成績はそれほど悪くない。

 いや、実はクラスではほとんど1位か2位だ。

 しかし、中学受験がそれとは違うレベルだということは百も承知している。  

「今からでも頑張るから、お願い。」

 この私にもこんな情熱残っていたのかというくらい、真剣だった。

 何週間かけても粘って説得するつもりだった。

 ところが、

「唯がそんなに行きたいのならそうしなさい。」

 そう言ってくれたのはパパだった。

「ホント?」

 思わずパパに抱きつきたくなった。

 幼稚園以来かも。

「ああ。その代わり、英語をちゃんと勉強する約束だぞ。」

「うん、する。英語一杯勉強する。」

「二中は荒れているから、その方がいいかしらねえ。」

 一家の大黒柱のパパの一言で、ママもその気になってくれた。

 何でもママが仕切っているようだが、肝心なことはやはりパパがリーダーシップをとる。

 夫婦がウマクいくコツだ。

(またコドモらしくないことを・・・)

「そういえば最近、会社でどこの私立がいいか話題になって、同僚の息子さんが通っている、英語が盛んな学校が千葉にあるって言ってたな。都内の有名な中学校に比べれば、そういう学校なら入りやすいんじゃないか? 英語は学力よりも言葉だから慣れが大切だろ。パパの会社でも、英語を使うことがだいぶ増えてきているし、これからはもっと英語がしゃべれて当たり前になっていくのだろうな。だったら、早く英語に触れていた方がいい。今度の運動会の代休にでも行ってみるか? パパも有休とるから。」

「ウン、行く。行きたい!」

 自然とコドモっぽくはしゃいだ。

 そんな私の姿にパパもママも安心したかな・・・?


 雲ひとつない秋晴れで気分も爽やかな月曜日、電車が江戸川を越えて千葉をしばらく走ると、段々と窓の外がのどかな田園風景になってきた。

 通学時間を計るために、パパの車ではなく電車にした。

 下り電車だということもあるが、この辺りまで来ると3人並んで座れるくらいの余裕が車内に出てきた。

 一度乗り換えて、更に15分ほど電車に揺られる。

 ここでも3人が並んで座れた。

 綺麗な駅で降り、バスに乗り換えて約5分とのこと。

 スクールバスもあるということだが、通学時間帯ではないので路線バスに乗った。

 パパは何でも「SUICA」で支払っているが、持っていないママと私は後ろから乗って整理券を取ったりと何か楽しい。

 都営バスとは全然違うんだな。

 合計1時間ほどで到着。

 これくらいなら十分通学できる。

 たまに渋谷や原宿につきあいで遊びに行っていたけど、電車は立ちっぱなしだしどこへ行っても人が多くて、正直「早く家に帰りたいなあ」なんて常に思っていた。

 部屋で1人、空想にふけっているのが落ち着くんだ。

 でも、こうしてのどかで新しい世界に初めて足を踏み入れると少しワクワクしてきた。

 パパとママはスーツで、私は滅多にはかないスカートだ。

 制服っぽい清楚な格好がいいだろうってパパが言って、このマドラス・チェックのスカートをママが選んで買ってくれた。

 でも、このあと着ることあるのかしら・・・?

「意外と普通の学校ね。」

 正門前でママがつぶやいた。

 私立というと豪華な校舎を想像していただけに、私も同感だ。

 パパが守衛さんと話をしている間、キョロキョロとあたりを眺めた。

 グランドはとっても広い。

 野球とサッカーのコートが別々にとられている。

 他にも少し小さいソフトボールのコートもある。

 そして、どうしても野球の方に目がいってしまう。

 甲子園を狙えるくらい強いのかしら。

 お兄ちゃんの学校と甲子園で戦えればいいな。

 そんなことをぼんやりと考えていた。

 やがてグレーのスーツを着た先生らしき男の人が小走りにやってきて、案内してくれることになった。

 都内の学校と違って、敷地が広くて歩いて回るだけでも結構時間を要する。

 校舎裏にはテニスコートもあった。

 硬式テニスが結構強いらしい。

 射撃の的みたいなものもあるので何かなあって思っていたらママが聞いてくれて、アーチェリーという競技だそうだ。

 そういえば、オリンピックでメダルを取った選手を昔TVで観たような気がする。

 私立っていろんなものがあるんだなあ。

 体育館ではちょうど体育の授業中で、バスケットボールが行われていた。

 部活ではバレーボール部と半面ずつ使用しているとその先生が説明してくれた。

 中二階には卓球場も見える。

 剣道場は・・・パパとママがいたので聞けなかった。

 校舎に入り廊下から教室を覗くと、みんなおとなしく授業を受けている。

 好き勝手にみんなが思ったことを口にしていて騒がしい小学校とは、雰囲気が全然違う(ウチのクラスだけか、そんなのは・・・)。

 小教室では外国人の先生が5~6人の生徒相手にレッスンしてる。

(こんなに少ない人数で授業があるの?)

 何もかもが新鮮だった。

「本校は、施設は決して誇れる程ではありませんが、建学の精神に従った教育内容には自信を持っています。」

 見た目若そうだか教頭先生だというその先生(ウチの学校のハゲ上がった教頭先生とは大違い!)が、ひとつずついろいろな説明をしてくれる。

 それがまたわかりやすい。

 進路指導室前の壁には、大学合格一覧も貼り出されていた。

 そこには小学生の私でも知っている有名大学の名前がズラリと並んでいた。

 ウチの小学校の先生方は決してキライじゃないけど、授業や集会での説明を聞いていても時々何を言っているのかわからないことがある。

 多分、先生自身も頭の中で整理をしていなくて、よくわかっていない状態で話をしなければならないという事情があるのだろう。

 何か、悪いけど先生も中学生と小学生くらいの違いはあるんじゃないかと感じた。

 一通り案内してもらった後、応接室に通された。

 制服を着たマネキンが何体も並んでいた。

 そのうち女子の制服が四種類もあって、不思議そうに眺めていると中等部夏服、冬服、高等部夏服、冬服だと教えてくれた。

 ベスト、セーター、スカートも2種類ずつあるようで、組み合わせも自由だからバリエーションが抱負とのことだ。

 紺色のスクールバックもおしゃれでカワイイ。

 今まで女子っぽいカッコはあまりしてこなかったけど、もしかして私も女子力アップできるかも!

 フカフカのソファに座ってそんなこと考えていたら、美人の女性がパパとママにお茶、私にはオレンジジュースを運んでくれた。

 私立ってやっぱり凄いなあ・・・

 これから入試について説明してくれるとのことだが、教頭先生は部屋のスミの電話で誰かを呼んでいる。

 4、5分位経つとドアがノックされ、ネイビーブレザーを着た、カッコイイ30歳くらいの男の先生が入ってきた。

 ちょっとドキッとした。

 この前夢で見た剣道のカッコイイ先生と似ていたからだ。

「じゃあお嬢さんはこちらの教員がもう少し案内しますので。」

 教頭先生の言葉で私は促されるまま、わけもわからずその若くて(何歳くらいなのかしら?)カッコイイ先生に連れられて応接室を出た。

(お金の話だな)

 コドモっぽくない私にはピンときた・・・

 私立には入学金や授業料以外にも色々なお金がかかるって横浜の親戚のおばさんが昔言っていた。

「茜(おばさんの子供で今は大学生)には内緒だよ。」

 って私のパパとママに話していたのだが、当時小学校1年生の私はその場所にいたんだよ。

 おそらく、私は小さいからどうせ意味がわからないだろうと思われていたのだ。

 しかし、全部わかってしまった。

「教頭に少しだけ聞いたんだけど、北川唯ちゃんていうんだ。どこから来たの?」

 イケメン先生が爽やかな表情をこちらに向けて尋ねてきた。

「東京からです。」

 しおらしく答える。

 何故か普段と違って、私緊張してる。

 あまり物事に動じるタイプではないんだけど。

「ちょっと遠い気もするかもしれないけど、東京の生徒は結構多いから心配ないよ。教頭に案内してもらったと思うけど、もう少し見たいところとかある? ホントはコンピュータの体験でもって言われているんだけど、あいにく情報科の教員が出張でいなくてね。僕はピンチヒッターなんだ。だからコンピュータは教えてあげられないけど、そのかわり何でも聞いてよ。どうしてウチの学校見に来たの? 何か興味ある?」

 ちょっと低い声のトーンやリズムが心地よくて、さっきまでの緊張がウソのようにほぐれていく。

「剣道部ってありますか?」

 だから一番聞きたかったこと、パパとママにも言えないのに、素直に聞けたのだと思う。

「あるよ。じゃあ剣道場に行ってみようか。」

 さっき案内してもらった体育館の地下一階に柔道場と剣道場が並んでいた。防具(日野クンに聞いて呼び方を知った)が棚にズラリと並んでいた。

 ついている名前はもちろん全部違うのだが、一糸乱れぬような感じでピシッとそろっている。

 そんなこともあってか、練習をしているわけではないのに空気がピンと張り詰めている感じがする。

「剣道はやったことあるの?」

 雰囲気に飲まれて、言葉を発せない私の顔を覗きこむように聞いてきた。

「いいえ。でもやってみようかなって思ってるんです。」

 最初の一言が少しかすれた。

 何故か、うまくしゃべれていない。

「ふーん、そうなんだ。剣道は(りん)としてるからいいよね。ウチの剣道部はそこそこ強いし、部員も真面目でいい人ばっかりだよ。もし、入学することになったら是非おいでよ。中学からはじめる子が多いから、すぐ慣れるよ。」

 背の高いその先生の隣で、白い剣道着と白い袴姿の自分を想像してみたら、ちょっと胸がドキドキした。

「女子の白い剣道着、袴姿ってカッコイイよね。」

 まるで心を見透かすかのように、その先生が身をかがめるようにしてやさしそうな笑顔を私に向けた。  

 クラスの男子にはないオトナの香りが立ち込め、顔が熱くなった。

 なぜかわからないが、涙が出そうだった。

 その先生には見られたくなくて、目をこするフリしてそっと目頭を押さえた。

(この学校に行こう)

 心の中でそうハッキリ決心した。




 第3幕 中学校生活―剣道GIRLに憧れて―



            1


 あれから1年半が過ぎた。

 初めて学校を見に行った日から必死に勉強したかいあって、私は無事に志望校に合格して中学校生活をスタートさせ、今はもう2年生になった。

 毎日休むことなく、電車とスクールバスで通学している。

 ラッシュ時でも下り電車はギュウギュウ詰めなんてことは滅多になく、毎日ほとんど座って通学している。

 近所の小学生を見るとコドモだと思う。

 たった1歳か2歳しか違わないのに、制服を着ていない人種というのはやっぱりコドモだ。

 私も1年半前まではものすごいコドモだったんだなと思うと、妙に恥ずかしい。

「先輩。コート空いたからやりませんかぁ。」

 1年生の酒井美早(ミサ)が背中から声をかけてきた。

 ちょっとハスキーな声で、ショートカットの彼女はボーイッシュでカワイイ。

 現在一番仲のよい友達だ。

 美早はつい1ヶ月前に入学してきた。

 しかし彼女は4月2日生まれなので、3月30日生まれの私と、たった3日しか誕生日が違わない。

 私たちはテニス部で出会った。

 なぜテニス部かというと、話は長くなるが・・・

 入学式の日に最初に声をかけてきたのは岸本響子という、清楚でおっとりとしたカワイイ子だった。

 席も近かったし、お互い同じ小学校からの入学者がいないということで話が合い、すぐに友達になった。

 ただ何となくそうなったのだが、1週間くらい続いたオリエンテーションが終わった頃、気がつくとクラスの女子のほとんどが2人組を作っていた。

 男子はそんなことないのだが、気持ち悪いくらいに女子はぴったり2人組だ。

 あとあとわかったのは、2年生の先輩も3年生の先輩も、女子はほどんど2人組で動いているということだ。

 何か、とっても変!

 ある意味、キモチ悪い・・・

 別に響子はイイ子だから不満はない。

 そして響子に誘われるままテニス部の見学に行き、そのまま入部した。

 剣道部のことも頭にあったが、響子と離れて1人になるのも不安だった。

 そう、制服も電車通学も中等部の授業も、先生も友達も何もかもが初めてのことだったので、私も不安だったのだ。

 もともと運動はキライじゃない。

 テニスもそこそこ楽しいし、上達もしてきた。

 ママも私のテニス部入部と同時期に、テニス・スクールに通い始めた。

 ピアノの連弾と一緒で、いずれ2人で打ち合うのかしら・・・

 パパとお兄ちゃんのキャッチボールのようにならなければいいけど。

 ウチのテニス部は、中学にはめずらしく硬式だ。

 ただし高等部の練習の合間をぬってコートで打てるのが週2回くらい。

 だから不完全燃焼な部分もある。

 しかし、不完全燃焼なのは他にも理由がある。


「先輩、テニス楽しいですか?」

 新緑のまぶしい季節、コートから出た美早と汗をぬぐいながらジャグの水を飲んでいると、突発的に聞いてきた。

 美早はそういう子だ。

 思ったことは何でも口にする。

 そんなところが好きだ。

「楽しいよ。どうして?」

 私はどちらかというと、オブラートに気持ちを包む方だ。

 正直じゃない。

 そして素直じゃない。

 つまり、可愛くない。

 だから余計美早には惹かれる。

「私、楽しくないんですよ。あっ、先輩といる時は楽しいですよ。今日みたいに運良くコート使えると充実してるし。でも友達の付き合いで入部しちゃったんですよね。ホントはテニスやりたかったわけじゃないのに・・・」

 私と同じだった。

 でも私は素直じゃない上に先輩面したい部分もあり、自分の気持ちを正直に言うことは出来なかった。

 1年前、一緒に入部した響子は2年生になるとすぐ辞めてしまった。

 今でも仲は悪くはないのだが、クラスが別々になり、以前ほどベッタリということはなくなった。

 女子特有の2人組は基本的には同じクラスでなければならない。

 クラス替えをしても、中にはどうしてもその子と一緒のクラスにして欲しいと先生に頼み込む親もいるそうだ。

 それでクラスを変えてもらったと悪びれることもなく言っている子がいるから、ホントにそうなのだろう。

 響子はそういうわがままな子ではないが、別の子と2人組を作りその子とイラストクラブに入った。

 私は新しいクラスになじむのに時間がかかり、2人組を作れなかった。

 もともとベタベタが苦手なはずだが、この1年ですっかりこの学校の校風(?)に染まってしまったみたいで、私もパートナーを求めている部分がある。

 美早が入ってきたので、部活の時間が一番楽しい。

 だからテニス部を何となくでも続けている。

 学年は違えど、美早が私のパートナーなのだ。

 でもテニスが楽しいわけではない。

 だから美早の言葉に少しドキッとした。




           2


 翌日、地理の滝本先生(初老)が病気でしばらく休むと担任の柏原先生(中年・理科)が朝のHRで言っていた。

 地理は何時間も続けて自習になっていたので、滝本先生の具合は気になるけど、ちゃんと授業が進むことに少しホッとした。

 転校生を迎えるように、どんな先生が来るのか他のみんなもワクワクしていた。

 しかし、柏原先生が言うには、急なことなので代わりにくる先生は高等部の先生で、厳しいからしっかりやるようにとのことだった。

 ただでさえ厳しい規則の学校なのに。

 学校見学のときにカワイイと思ったスカートも、はいてみたら思ったより長い。

 学校を一歩出ればウエストの部分を折って短くはいたりもできるが、校内では生活指導の先生が目を光らせていて、すぐ指摘される。

 首元のリボンも、ブラウスの第一ボタンが隠れるまで結び目を上げないと指導の対象になってしまう。

 指導が度重なると、学校に親を呼ばれる。

 さすがに私はそこまでされたことはないが、入学前の雰囲気と現実は違うなってずっと思っている。

 その中でも厳しい先生って・・・何となく気分が重くなった。

 ところが・・・

 4時間目の授業に現れた先生を一目見たとき、私の心臓は爆発しそうになった。

 そう、1年半前に初めて学校見学に来た時に、剣道場を案内してくれたあのカッコイイ先生だったのだ。

 中等部と高等部の校舎が別々なので、この1年間全く姿を見ることがなく、私も忘れかけていた(もしかしていなくなったのかもとも思っていた)が、私に受験を決意させてくれた先生が今、目の前に立っているのだ。

『笠原 順』と黒板に大きく書き、

「滝本先生が戻られるまでの間だけど、よろしく。」

 とあの時と同じ、優しそうな笑顔で挨拶をした。

 ただし、あの時と違うのは、その笑顔は私1人に向けているわけではないってこと。

 ちょっと残念。

 でもやはり嬉しい。

 私のこと、覚えていてくれているのかしら? 

 そんなことをぼんやり考えていた。

 もしかしたら表情がデレーっとしていかかもしれない。

 記念すべき笠原先生の最初の地理は、「沖縄の気候」の授業だったが、気持ちがホワーンとしていてほとんど頭に入らなかった(ゴメンナサイ)。

 授業が終わり、休み時間になると隣のクラスの男子が教室に入ってきて、ウチのクラスの男子(角田クン)と喋っている。

 私は地理の授業の名残をかみしめるように地図帳の沖縄のところをずっと眺めていて、別に気に留めるまでもなかったのだが、何となく会話が耳に入ってきた。

「笠原先生って厳しいってこの前言ってたじゃん。でも、今日は何か、優しい感じだったけど、本当に怖いのか?」

「バーカ、角田は何にも知らないからそんなこと言えるんだよ。部ではメチャクチャ厳しいぜ。おれは中等部だからあまり怒られないけど、高等部の先輩たちにはハンパじゃないぜ。」

 その男子は身振り手振りが大げさな上、声も大きいのでつい見てしまった。

「へー。じゃあ授業中は静かにしてよっと。」

 角田クンがそう言った後も、その子は高等部の先輩や自分が怒鳴られたりした武勇伝(?)を語り続けていたが、やがてチャイムが鳴り、自分の教室へ戻っていった。

 昼休み、角田クンに話しかけた。

「さっきの男子って何部?」

 何気なく聞いたふうを装った。

 2人組の女子にはできない芸当だ。

 だって角田クンと話すのはこれが初めてなんだから。

「さっきって?」

 ポカンとしてる。

 そりゃそうだ。私が唐突なんだ。

「笠原先生が厳しいって言ってたじゃん。私も気をつけようかなって思ってね。」

「ああ、2組の依田ね。1年のとき同じクラスだったんだけどね。剣道部だよ。」

「剣道部!?」

 思わず声が大きくなった。

「何だよ、デカイ声出して。剣道部が厳しいのは当然だよな。」

 1人納得したようにそう言い残すと、角田クンは教室を出ていった。

 私の中に、泣きたいような、笑いたいような、不思議な感情が渦巻いた。

 こんなキモチ、初めてだ。


 夜、美早にラインした。

 中学合格のお祝いにスマホを買ってもらった私は、あれほどラインを嫌っていたのに、今では毎晩のように美早と連絡を取り合っている。

 だって、無料なんだもの。

「実は私もテニスはそんなに楽しくない」って送信した。

 今日の私は素直だ。

 すぐに返信が来た。

「えっっ!! どういうことですか?」

 また返信を打っていたら、ライン電話とは違う着信音が鳴った。

 ホントの電話だ。

「あっ、美早? どうしたの、電話なんかしてきて。」

「ライン電話だと途切れることあるじゃないですか。特に私の声って聞き取りにくいってよく言われるんですよね。そんなことより先輩、どうしたんですか突然? テニス楽しくないだなんて。この前は楽しいって言ってたのに。」

「ゴメン。何となくうまく言えなくて・・・」

 言葉がうまく見つからない。

「でもよかった。何か嬉しい。私だけじゃなかったんだって感じ。」

 美早の一語一語に気持ちが和む。

「私、実は剣道がやりたいんだ。剣道部入る。」

 正直に言った。

 誇らしげというか、何ていったらいいのだろう。

 堂々と言えた。

 今までの嘘つきの私があらわになるけど、別にもうどうでもいいって感じ。

「エーッッ!!」

 美早が大声を張り上げた。耳が痛くなるくらい。

「何よ? 私と剣道部ってそんなに意外?」

「先輩、ホントに剣道部入るんですか? 実は私も最初、剣道部に入ろうと思ってたんですよ。お父さんが昔やっていたので、若い頃の写真見てかっこいいなって思って。今は酒ばっか飲んで、デブデブでどうしようもないオヤジですけど(笑)。」

「ホント? ホントにホント? 美早も剣道に興味あるの?」

 ビックリしたのは私の方だ。

 さっきまでの重々しい雰囲気とは一転、嬉しくて気分がハイになった私たちは、結局1時間も話してしまった。

 通話料を考えると恐ろしい。

「話ホーダイ」ならいいけど。

 そうじゃなきゃ、美早のママが払うのかしら?

 などと、またコドモっぽくないこと考えつつ・・・

 で、中間テストが終わったらテニス部の森先生に話をして、その足で剣道部の見学に行くことに決めた。




           3


 数日後、私と美早はガチガチに緊張して剣道場の入り口に立っていた。

「こんにちは!」

 美早と同じクラスの剣道部員、池田あおいに促されて一歩中に入ると、準備体操前の部員たちが一斉に挨拶をしてきた。

 オトナみたいに大きな高等部の男子が、私たちみたいな中等部の小娘に「こんにちは」って言って頭を下げているので、かなりビビった。

 でも、いわゆる体育会系のドスのきいた「ウォース」とかいうのではなく、普通の挨拶だったのでちょっと安心した。

 ほんのちょっと。

 剣道場の隅の太鼓のそばにイスが用意されていて、2人して小さく座っていると師範室と書いてある部屋の扉が開いて、剣道着・袴姿の笠原先生が出てきた。

「こんにちは!」

 さっきの倍くらいの大きな声で部員たちが挨拶をした。

「キミが酒井さん。あおいに聞いてるよ。まあゆっくり見学していって。」

 いつもの笑顔を美早に向けた。

 美早と先生はほとんど初対面だ。

 授業でもう2週間おつきあい(!?)している私には何て言ってくれるのだろう。

 ドキドキしながら笠原先生の言葉を待っていると、

「おっ、北川は付き添いか?」

 かなりショックだった。

「いえ、違います。」

 落胆を悟られないように無表情になったが、

「そうか、北川も剣道に興味あるのか。高等部から始める子もいるので、別に中2からでも遅くないぞ。頑張れ!」

 ゲンキンなもので、私は満面の笑みを浮かべて

「ハイッ!」

 と元気に答えていた。

 太鼓の合図で稽古が始まった。

 一斉に鳴り響く気合と、弾けるような竹刀の音。

 細い腕で太鼓を叩いているマネージャーの秋山夕(ゆう)()先輩(高等部2年。メチャ美人!)が稽古内容をところどころで説明してくれる。

 美早はフンフンうなづきながら聞いているが、私はどこか上の空だった。

 ホントに大事なことに限って、ろくすっぽ聞いていないという悪い癖だ。

 小学校の時に区民体育館で日野クンの剣道を眺めて以来の感動に、何故か興奮していた。

 初めて間近に見るその雰囲気に圧倒されていたせいもあると思うけど。

 池田さんや隣のクラスの依田クンもなかなかの迫力だったが、やはり高校生はそれ以上だ。

 特に男子の先輩の力強さに圧倒されていたのだが、その男子の先輩たちを次々となぎ倒していく笠原先生は、悪役を1人でバッタバッタやっつける時代劇に出てくる正義の味方、ヒーローのような感じがする。

 笠原先生も身体は決して小さくはないのだが、それより一回り大きい部員たちを次々と打ち込んでいる。

 スゴイなあ、剣道って・・・

 女子の先輩もメチャクチャ格好イイ!

 男子みたいな力強さがある先輩もいれば、女子特有のしなやかな美しさに溢れている先輩もいる。

 とにかくみんな格好イイのだ!

 帰り際、「明日入部届を出そう!」って2人で決めた。


 翌日から私と美早は正式に入部した。

 剣道場の隅の方で礼の仕方や座り方、挨拶、すり足というのを教わった。

 他の部員と違って、上は半袖体育着、下はハーフパンツだし、竹刀も持たせてもらえないので、まだ何となくしっくりこない。

 でも先生も部員の人たちもみんないい人だ。

 特に、あおいが同じ中等部として色々なことを教えてくれるから安心だ。

 中間テストも終わったし、やっと私の学園生活は充実しそうだ。

 体育着での活動が1週間ほど過ぎると、笠原先生に勧められて出入りの防具屋さんから買った、竹刀と剣道着、袴が届いていた。

 防具はもう少しあとから来るとのこと。

 男子部員の剣道着は紺が主流だが、女子は上下紺の人と白の人がいる。

 好きな色を選ぶように言われて、美早と相談して私たちは上下ともに白にしたんだ。

 かねてから白に憧れていたし、中等部3年生の先輩も白で、美早もそれでいいと言うのですぐ決まった。

 ネームのカラーもおそろいのマリン・ブルーにした。

 部室であおいに教えてもらって初めて着てみる。

 袴のはき方が意外と難しい。

 あおいがいなかったら、コントの格好になってしまうところだ。

 ようやく着替えが終わって剣道場に入ると、男子の先輩たちにヒューヒュー冷やかされて恥ずかしかった。

「おっ、なかなかカッコイイぞ!」

 笠原先生も声をかけてくれる。

 赤面してきた。

 体育着のときとは違って、何となく剣道らしくなってきた。

 女子の先輩たちやあおいが毎日交代で教えてくれるのだが、とにかく初めてのことばかりなので難しい。

 美早には遅れをとりたくないので、頑張るしかない。




            4


 いつも通り、すり足、素振りなどの稽古をしてたら、

「バカ者!」

 突然笠原先生の声が鳴り響いた。

 もうすぐ今日の稽古が終わろうとしている時間だったが、他の部員たちも動きを止めて面をつけたまま注目した。

 太鼓のそばで制服姿の女子の武藤先輩(高等部2年)がうなだれている。

 すぐに集合がかかり、先輩たちは面を外して先生の周りを取り囲んだ。

 私と美早もわけがわからず輪の中に入った。

 激しい稽古のあとなので、部員の身体中から熱気が立ちこめている。

 やがて、呼吸の乱れが段々と静寂に包まれていく。

「先生がお前たちに教えていることは何だ。仲村。」

 男子の主将が聞かれてすぐさま

「剣道を通した人間形成です。」

 と答えた。

「じゃあお前は今日、何をして稽古に遅れた。武藤!」

 普段の先生の優しい顔が、ウソのように紅潮していく。

「授業中に・・・友達と・・・ラインを・・・していて・・・居残り・・・を・・・させられていました。」

 制服の両肩を小刻みに震わせつつ、武藤先輩が泣きながら、途切れ途切れの一語一語をつなぎ合わせるように答えた。

「それが、剣道で学んだ礼を重んじるということか? 授業を通していろいろなことを教えてくれる先生にも失礼だし、一生懸命勉強しているクラスの雰囲気を壊していることになると気づかないのか!? こんなこというのは初めてではないはずだ。なぜ、同じことが繰り返される? 西岡、お前は何を指示しているんだ。」

 女子の主将が叱られた。

 言葉を返せない西岡先輩は、滴る汗を拭おうともせず笠原先生をじっと見つめている。

「西岡!」

「ハイ、すみませんでした。女子部員全員にもう一度徹底します。」

 西岡先輩に向けていた厳しい視線を外すと、笠原先生は部員全体にゆっくり語り掛けた。

「いいか、学校の規則で携帯の電源は切るように言われているが、規則を守らなかったことだけを言っているのではないぞ。今言ったように、先生に対する礼儀、頑張っている仲間に対する気遣いが足らないから言っているのだぞ。我々は武器を持って相手を叩くという競技をしているが、それが許されるのは稽古や試合の前後に礼をするからだ。礼儀がなければただの野蛮な喧嘩だ。野蛮な喧嘩とは、どんな勝ち方でも勝った方がえらい、勝ったら相手を見下していいという考えだ。礼儀も守らず、そんな考えを持っているのなら、剣道部を今すぐ退部しろ。そして、授業中にラインを返さなければならない友達なんていないということを覚えておきなさい。本当の友達なら携帯なんてなくてもつながっているはずだ。そういうことがわからないと、お前たちの友達は携帯という小さな機械だけになるんだぞ。今回武藤がしたことは、部員の日頃の努力を無にすることにもなる。『剣道部は頑張っているな』と他の先生やまわりから評価されてきたことを壊すことにもつながりかねない。お前たちは厳しい修行をしているのだから、教室でも学校の外でも、どんな時でも他の者の見本になるような行動をとらなければ信用まで失ってしまうんだぞ。わかっているのか。」

「ハイッ!」

 静まり返っていた中、部員全員の声が響き渡る。

 正直、私も授業中にラインをしたことがある。

 今までの私なら、先生に怒られてもどこか上の空で適当に反省したフリをしていた。

 それは、先生方のお説教に不信感をもっていたり、心から納得しているとは言えなかったからだ。

 しかし、この時は何故かビクビクしていた。

 武藤先輩ではなく、私が怒られているような気がして、深く反省した。

 そして、何故だろう・・・

 怒られたにもかかわらず、すがすがしい気分で、ちょっと嬉しかった。

 いつもより少し早いが、そのまま部活が終わり、女子だけのミーティングが行われた。

 武藤先輩がみんなの前で謝って、主将の西岡先輩が今後気をつけようと締めくくった。

 そして美早と私に、

「笠原先生は普段はとっても優しい分、こういうことではものすごく怖いけど、正しく指導してくださるので唯と美早も部員として行動に気をつけてね。」

 と優しく言ってくれた。

 いつもなら笠原先生は女子部員を下の名前で呼ぶ。

 それは、女子部員同士が下の名前で呼び合う伝統だからだそうだ。

 それが、チームワークを生むって夕海先輩が言っていた。

 だから、名字で呼ばれた武藤先輩、そして西岡先輩も今は叱られているのだということがハッキリわかる。

 教室でしかられた子たちが、先生がいなくなると不満や文句を言ったりする場面をよく見る(私自身もそうだった)が、剣道部ではそういうことが一切ない。

 笠原先生ってスゴイ。

 いや、剣道部自体もスゴイ。

 私はますます剣道にのめりこむことになりそうだ。




            5


 しかし、手と足のタイミングがつかめないまま、時間だけが過ぎていく。

 何回やっても、面を打つ手と足の動きがバラバラになる。

 ましてや、小手ー面などの連続技になると、もっとヒドイ。

 美早は天性の運動神経からか、「上達が早い」っていろんな先輩から言われてる。

 例え3日とはいえ、早く生まれて学年が1つ上の私はどうしていいかわからなくなる。

 2、3日そんなジレンマが私を襲った。

 そんなある日の昼休み、マネージャーの夕海先輩が教室まで来て、すぐ笠原先生の所へ行くように言われた。

 5時間目が地理の授業なのに、何の用だろうか。

 わけもわからず高等部校舎の地歴・公民科教科室に駆けつけた。

 ドアをノックすると、

「どうぞ。」

 と公民の鯨井先生の声がした。

 代講で一度私たちのクラスに来たことがある女の先生だ。

「どうした、最近元気ないな。」

 私の存在に気づいた笠原先生は仕事の手を休め、近くに座るよう促した。

「あの・・・」

 何て言っていいのかわからずに口ごもった。

「手足のタイミングを合わせるのが最初の難関で、誰もがぶつかる壁なんだ。ただな、大器晩成って言葉わかるよな。自分が人より遅れているだとか気にする必要ないんだぞ。剣道は自分の目標に向かって積み重ねていく修行なのだから、自分との戦いだと思って、今後もしっかりやるんだぞ。」

 インターハイ予選を間近に控えていて、先生はレギュラー選手の先輩ばかり指導していて、私や美早のことは気にもかけていないと思ってたのに、すべてお見通しだった。

「お前たちは初心者なんだから、できなくて当然なんだぞ。頑張れよ、唯。」

 初めて唯と呼ばれて照れた。

 そして、その日の稽古は何と初めから笠原先生が教えてくれた。

 2時間みっちりと。

 美早も嬉しそうだ。

 もちろん私もいつも以上に一生懸命稽古した。

 すると、不思議なくらい、手と足のタイミングが合ってきた。

 理由はよくわからないが、やっぱり笠原先生はスゴイ。

「唯も美早もなかなか上手だぞ。この調子なら、あと2、3週間もすれば面をつけられるかもしれないな。」

 美早と顔を見合わせた。

 面をつけることが今の目標だったから、喜びもひとしおだ。


 夕海先輩と帰りのスクールバスが一緒になった。

 いつもは稽古後の選手の自主練習につきあっているので遅いバスなのだが、月に一度整骨院に行っているそうで、通院の日はこの時間のバスらしい。

「ヒザが悪いのよね。私も中2までは試合も出ていたのよ。あ、ここの附属中じゃないけどね。でもドクターストップがかかって辞めたの。でもたまたまここの学校に入学して、色々な部活動を見学してみたらやっぱり剣道に携わりたくなってね。それで剣道部の見学もしてみたら、凄く雰囲気がよかったのよ。笠原先生は『剣道部は今までマネージャーはいない』って言って、一度は拒否されたんだけど、どうしてもやりたくて頼み込んだら許してもらえたの。それ以来、先生や部員の信頼を得るために一生懸命よ。」

「見ているとやりたくなりません?」

 こんなこと聞いていいのかわからないけど、何も考えずに言葉が飛び出してしまった。

「でもやりがいはあるのよ。今年はインターハイ行くぞってみんな張り切っているし、私もそのつもりよ。それとね、笠原先生が主将の沙希(西岡)先輩と同じくらい、私にいろいろなことを任せてくれるから。例えば、夏になると体重管理をするようになるの。あまり減りすぎるとバテたりするでしょ。そこから大きな病気にならないとも限らないので、夏休みは毎日、稽古前と稽古後に体重を量って記録しておくのよ。女子部員の分は私が全部管理しているの。笠原先生が、『女子は先生に体重知られるの嫌だろうから、夕海がやれ。問題がある場合は報告しろ』って。ホントは、女子はみんな『笠原先生なら別に知られてもいいですよ』って言っているのにね。」

 2人がけの席なので、ククッと笑った夕海先輩の長い睫毛がちりちり震えているのまでよくわかる。

 本当にドキッとするほどの超美人だ。

「高等部の先輩たちの地区予選が近いのに、笠原先生は何で今日、私と美早のこと見てくれたんですか?」

 優しい先輩に甘えて、何でも聞いてしまう。

「唯も美早も大切な部員だからよ。初心者も選手も関係ないのよ。笠原先生は選手に入れなかった部員には『選手以上に頑張らないと選手は勝てないんだぞ』って言うし、選手には『選手に入れなかった者の分まで頑張らなくてはいけないんだぞ』って言っているのよ。実は去年私、ⅰ-padをスクールバスで聴いていたことが他の先生から笠原先生に伝わって、もの凄く怒られたの。『お前なんか部員として戦う資格がない』って。この前の穂波(武藤先輩)のようにね。でも怒られて嬉しかったというか、マネージャーを雑用係としてではなく、選手と同様に扱ってくれているのがよくわかってね。反省している姿を表したくて、翌日髪をバッサリ切ったわ。だからそれ以来必死よ、私も。」

 優しく微笑む夕海先輩の瞳には、強気な光が宿っていた。

 何故かわからないが、また涙が出そうになった。

 最近の私はやけに涙もろい。

 笠原先生の素晴らしさを私に伝えようとしてくれている夕海先輩の優しさに、心打たれていたのだと思う。

「ありがとうございました。」

 バスを降りるとき、夕海先輩が運転手に挨拶をした。

「ハイ、いつもありがとね。」

 運転手も笑顔で返す。

「バスを降りるときにいつも挨拶するんですか?」

 素朴な疑問だった。

「普通なら、お金を払っている私たちがお客様なんだから、『ありがとうございました』って言うのは変だと思うでしょ。でも、笠原先生は『無事に目的地まで運んでくれてありがとうございました』って思うのは当たり前だ。お前たちを安全に運ぶために免許を取り、訓練をしているのだから、感謝するのはこっちの方だっていう考えなの。だから、剣道部は全員、バスを降りるときに必ず『ありがとうございました』って言うようにしているのよ。そもそも挨拶は、相手への気配りと自分自身が元気でいることのアピールだから、中高生の私たちが元気ならば、きっと運転手や他の乗客、地域の人も嬉しいと思うしね。」

 言葉が出なかった。

 私も早く戦う一員になるんだ。

 そう、みんなに、夕海先輩に、そして笠原先生に認めてもらうんだ。




           6


 夏休みの稽古、合宿を乗りきり、初めての試合も経験し(あっという間に負けた)、私と美早が入部してから早半年が過ぎた。

 稽古中の笠原先生は相変わらず厳しいが、授業中の先生は優しい。

 そして面白い。

 もともと社会は嫌いで、暗記は苦手なので成績はあまり良くなかったが、笠原先生が担当になって以来、我ながら頑張っていると思う。

 週2回の地理が楽しみで、歴史と合わせて社会の成績がつくので歴史にも力を入れるようになった。

 この学校を受験するときのパパとの約束で、英語はもとから頑張っている。

 さらに、笠原先生は部員全員の成績を見ると夕海先輩が言っていたので、全ての科目をきちんと勉強するようになった。

 剣道部に入ると言ったときに「指をケガしたらどうするの!」(多分ピアノのことを心配していたんだと思う)と大反対していたママも、期末テストの結果を見せたときは「剣道部に入って本当によかったわね」と手のひらを返したように褒めてくれた。

 私が笠原先生の話ばかりするものだから、ママも笠原先生を信頼している。

 授業参観のときは高等部の校舎まで行って挨拶してきたと興奮気味に話していた。

 あ、もうピアノは通っていない。たまに趣味程度に弾くことはあるけど。

 私立中学に行っているんだから、塾や習い事には行かないと決めたんだ。


 いつものように地理の授業の後、黒板を消していると一番前の席の麻島夏樹が話し掛けてきた。

「大変だね、唯。剣道部だと黒板まで消すんだね。」

 夏樹はテニス部だから1年生のときからの知り合いだ。

 今年初めて同じクラスになったので、それほど親しかったわけではないが、こうしてたまに話す。

 いつもニコニコ笑っている感じのイイ子だ。

「部員だから。他のクラスでも部員がやってるから。」

 このクラスには部員は私しかいないから、必然的に授業の前後の黒板消しは、地理に限っては日直ではなく私の仕事だ。

 でも、全然嫌じゃない。

 先生のためにできることがあるということは幸せなことだ。

「でも笠原先生ってカッコイイし優しいし、イイよね。」

 夏樹の言葉にうまく返事できなかった。

 何て返したらいいのだろう。

 戸惑っていたら、突然、

「唯、好きなんでしょ。」

「エッ・・・! いや、尊敬はしてるけど・・・」

「いいよいいよ、隠さなくても。顔がトマトだよ。」

 夏樹はいつものニコニコ笑顔で私の頭をポンポンと叩いて離れてった。

 心臓がスパークしそうだ。

 先生のこと、好き? 

 自問自答した。

 答えは明らかだった。

 もしかして、これって初恋なのかしら。

 中学2年にして、遅すぎた春ってやつ?

 いや、先生は結婚しているし(美人の奥さんとカワイイ娘さんがいるらしい)叶うはずのない恋だから、春ではないか。

 もっと早く出会いたかった。剣道にも笠原先生にも。

 先生に最大限認めてもらって、誉められることが今の私にできることなのだろう。

 今よりも、もっともっと頑張ろう。

「よし!」

 気合を入れて私はまた黒板を拭き始めた。




 第4幕 タイムトラベル―大学生になっちゃった!―



           1


「唯、起きなよ。」

 肩を揺すられて目を明けると、まばゆいハレーションの中、美早の顔が逆光で見えた。

「早く、ミーティングに遅れるよ!」

 背中の芝を払いながら美早に抱え起こされた。

(どこ、ここは?)

 見なれない建物があたりを取り囲んでいる。

 そして今私が寝ていたのは小高い芝生の丘だ。

 遠くに十字架の教会が見える。

 そうだ、ようやく思い出した。

 高校生の選手たちの強化で一度来たことがある、笠原先生の母校の大学だ。

「早く、行くよ!」

 美早に促されるまま、剣道場へ向かった。

(何で笠原先生の大学でミーティングなんだろう)

 どうやら私は夢を見ているようだと何となく理解してきた。

 今すぐにでも目を覚まして現実に戻ることもできそうだが、先生の大学をもう少し見ておきたいので夢の世界にとどまることにした。

 見覚えのある剣道場にはかなりの部員が集合していた。

 夕海先輩もいた。

 スタイル抜群で、私服姿もなかなかキマッている。

 あれっ? 何で私服? 

 隣の美早もそうだし、私も? ジーンズ履いている・・・もしかして私たち大学生なの? 

「唯うるさいよ。さっきからブツブツと。」

 美早がキッと睨んだ。

 そもそも何で美早は私を呼び捨てにしてるの?

「1年生は全員揃った?」

 マネージャー(おそらく)の夕海先輩に聞かれると、依田クンが私の周りをグルリと見渡して「揃いました。」と答えた。

 私と美早は同じ1年生らしい。

 ヤだなあ・・・私、浪人ってこと?

「では笠原先輩、お願いします。」

(笠原先輩って、もしかして・・・)

 夕海先輩に促されて話し始めたのは、紛れもなく笠原先生だ。

 若い! そしてメチャクチャカッコイイ! 

 本学主催の大会のことを話しているようだが、完全に上の空。

 ヨダレが出ているんじゃないかと思うくらいボケーッと笠原先生(先輩・・・)の姿を眺めていた。

「ちょっと、唯。主将の話、聞いてるの!?」

 美早がまたキッと睨んだ。

(そっか、主将なんだ・・・)

 白いVネックのTシャツにジーンズ、その上にアーミー系のブルゾンを羽織った笠原先生は本当にカッコイイ。

 私、やっぱりこの前、麻島夏樹に言われた通り笠原先生のこと好きなんだとわかった。

 しかも目の前の先生は先生ではなくて、結婚もしていないんだ!

 どんなに好きになっても構わないんだ!


 その日の夜、大会の前祝ってことで渋谷でコンパが開かれた。

 渋谷なんて小学生の頃、冴子や園美のつきあいで洋服を買いに来て以来だ。

 中学生になってからは一度も来ていない。

 ららぽーとで満足している私は、すっかり千葉県人だ。

 しかし今は、渋谷から近い大学に通う大学生!? なのだ。

 キャンパスからみんなでダラダラ歩いて向かったはずだが、夢の中なので、場面はもう薄暗い店の中だ。

 店は、居酒屋というよりはちょっとお洒落なBARみたいだ。

 何か、いきなりオトナになった気分。

 まあ、夢の中とはいえ、実際にオトナになっている設定なのだが。

 あ、でも計算すると、浪人していても3月生まれの私は、まだ19歳なのだ。

 お正月にパパに勧められてちょこっとだけ飲んだことのあるお酒を堂々と飲んでもいいのかしら? 

 夢の中だし、まあいいか。

 おいしいし、全然酔わない。

 私、カワイクないだろうな。

 となりの美早は、よりハスキーな声になった。

 色白のあおいは、耳たぶまで真っ赤だ。

 上級生中心の会みたいだが、1、2年生も私たちみたいにチラホラ存在している。

「そういえば、笠原先輩はどうしたんですか?」

 斜め前の男子が誰ともなく聞いた。

「遅れて来るって言ってたな。デートじゃねえの? あいつ、毎日がデートだって自慢してたから。」

 酔った勢いで他の先輩が叫んだ。

「順は強いけど軟剣だよな。女に対しても軟派だからな。」

 ワケのわからないこと言う先輩も出てきた。

(何よ! 私の笠原先生に!)

 グラスのビールを引っ掛けてやりたくなったが、夢とはいえ目の座っている酔っ払い相手にケンカを売るほど私は強くはない。

「どうしたの唯、尾上先輩のこと睨んで。」

 美早の声が頭に響く。

 アルコールには強いが、感情が顔に出るタイプらしい。夢の世界では。

(う~、こいつ尾上っていうのか、殺す・・・)

 すっかり出来あがった酔っ払いのような目で私は尾上を睨んだ。

 そして、笠原先生(先輩)を待ちつづけながら、私はビール、サワーのあとはひたすらカクテルを飲み続けた。

 美早が止めるのも聞かずに。

 で、結局、笠原先輩は現れなかった。

 尾上が「順の奴、デートがウマくいってやがるな。」

 などと言うものだから、アルコールが回った上に気分が滅入って、気持ち悪くなってきた。




           2


 気がつくと二日酔いの私は、昨日と同じ芝生の丘の上に寝転がっていた。

 さすがに日差しが眩しいので、木陰を選んだが、ハレーションが強くてクラクラする。。

「どう、少しは気分良くなった? まったく、ジュースみたいなんて言いながら、どうしてカクテルを8杯も飲むかなあ。」

 美早があきれ顔でペットボトルの水を差し出してくれた。

「だって・・・尾上の奴があ。」

 夢の中だとわかっているので、美早には笠原先輩のことを好きだとバレている設定にした。

 フランス語の講義の時間だと言いながらも、美早はうだうだしている私にずっと付き合ってくれている。

 私は愚痴ばかり言っていて、ホント情けない・・・。

「おっ、どうした1年生? こんなところでサボリか?」

 背後から声をかけられ、ドキッとして振り向くと、憎き尾上が逆光で立っていた。

「ヨイショッと。」

 無礼にも尾上は私たちの正面に腰を下ろした。その瞬間、尾上の影に隠れていた百万ボルトの太陽光線が二日酔いの私に直撃し、意識が飛びそうになるほど気持ち悪くなった。

「昨日は大丈夫だったか? 北川も酒井も結構飲んでただろ? 目が座ってたし、ちゃんと帰れたのか心配したぜ。」

 この男から心配なんて言葉が出るなんて。

 ていうか心配されたくないし。

 それにつけ加えるならば、目が座っていたのはお酒のせいというよりはあんたを睨んでいたからよ。

 実際にはそんな言葉を発せない私たちにお構いなく、尾上は勝手に1人で話し続ける。

「結局順は来なかったよな。電話したけど出なかったし。多分彼女と一緒だったんだろうけど、モメてるみたいだよな。」

「エッ! 何でですか?」

 初めて美早が反応した。

 いや、私も素早く反応したはずだが、夢の中のせいか言葉が出てこなかった。

「就職のことだろ、多分また。ホラ、順の彼女はもう内定が出ているだろ。それに比べ順は今年就職する気がないから。」

「就職する気がないって…?」

 私も恐る恐る聞いてみた。

 尾上と話をするのは事実上(?)初めてだ。

「教員になるって言ってるからな、順は。4年になってから急にそんなこと言い出したものだから、単位も足りなくて、もう1年大学に残らなきゃならないだろ。彼女は結婚願望も強いから、早く順に社会人になってもらいたいらしくて、毎日ケンカだとか言ってたよな。まあでも順は教員に向いているかもな。警察や実業団からの誘いを断っても、剣道をずっと続けるって言っているし。たった1年くらい社会に出るのが遅れても何てことないのにな。女の場合はその1年が大事なのかもしれないけど。でも、やはり一恵の方が間違っているんだよ。」

 意外だった。

 尾上って嫌な奴だと思っていたが、もしかして笠原先生の親友・・・? 

 そう思うと、正面に座っている無礼な尾上がいい奴に見えてきた。

「おっ!?」

 尾上が反応した。

 見直し始めたことがバレたと思い、あたふたしたが、

「噂をすれば、順と一恵だ。」

 ニヤリとしてつぶやいた。

「えーっ!」

 私と美早はビックリだ。

 チャペルの方から笠原先生とモデルのような美人の彼女が仲むつまじく歩いてきた。

 ちょっと短いTシャツにスリムなジーンズというさりげない格好だが、スタイル抜群だし、とにかくメチャ綺麗!

「ハア~・・・」

 思わずため息が出てしまった。

 ジェラシーとかいう気分以前の問題だ。

 そして2人は笑い合いながら私たちに気付くこともなく、通り過ぎていった。

 毎日ケンカしているなんて言って、尾上め・・・って一瞬思ったが、笠原先生の言葉を思い出した。

「自分の技で勝負しろ。相手に合わせたら負けだぞ。自分の得意技を出せる場面に持っていけるかどうかは気持ち一つ、気迫だ。つまり自分自身との闘いなんだぞ。」

 そうだ、今の私はもっともっと強くなることが必要なんだ。

 目の前の笠原先生の彼女にはビジュアルでは絶対に敵わないが、私自身が強くなることでいつの日か勝負できるかも(?) 

 そう考えると割と客観的に自分を眺めることが出来た。

 でも、笠原先生がなぜ先生になろうとしたかが知りたい。

 笠原先生が先生にならなければ、私は出会うことすらできなかったんだ。

 強く念じたら、さっきまでそばにいた美早と尾上が消えていて、隣には笠原先生、いや先輩がいた。

 Vネックのネイビーブルーのサマーセーターに、いい感じに着古したジーンズが今日も決まっている。

 髪はちょっと伸び気味かな。

 普段会っている笠原先生よりも年齢が近いせいか、妙な親近感がある。

 しかし、心臓はバクバクだ。

「唯は何で剣道やっているの?」

 小6のときに初めて会ったときのような人懐っこい笑顔で突然聞いてきた。

「ハイッ・・・あの・・・中学の時の剣道部の顧問の先生がカッコよかったので・・・」

 本当は日野クン(懐かしい!)の剣道を見て急激に興味を持ったのだが、実際に始めたきっかけは笠原先生だったので、あながちウソでもない。

「ハハハ。そういうきっかけが一番長持ちするのかもな。自分はたまたま近所に剣友会があったからだけどな。」

「あの、先輩・・・(何か変な感じ)」

「何?」

「先生目指してるって聞いたんですけど…」

 ちょっと困ったような顔をしながらも、答えてくれた。

「うん、まあな。いくつか企業からの誘いはあったんだけどな。何かしっくりこなくて。さっきたまたま近くに剣友会があったから剣道始めたって言ったけど、何度もやめようって思ったんだよな。でも、絶対やめない、ずっと続けるんだって思ったのが高校の時で、稽古は厳しかったんだけど先生が素晴らしい人でさ、自分もこんな先生になれればって思ったんだ。大学に入ってからはある意味視野が広がって、教員以外の世界にも惹かれたけど、ようやくこの時期になって本当にやりたいことが見つかったってことかな。単位が足りなくて、聴講生として大学にもう1年残らなきゃならんけど、自分の将来だから時間をかけて考えたかったし、目標さえ見つかれば滅茶苦茶頑張れると思うしな。」

 少し照れたような表情がカワイイ。

 新たな魅力を発見した気分。

「高校の時の先生ってどんな先生だったんですか?」

 調子に乗って私はさらに深く突っ込んだ。

「普通の県立高校だったんだけど、かなり厳しかったな。稽古も授業中も私生活までうるさく言われた。初めは何でこんな苦労しなきゃならんのだろうと思ってたけど、全てが正しいんだよ。もちろん、理想と現実のギャップもあるんだけど、正しいことが出来ないのは自分の甘えだとまで言われて、逃げ場なかったから頑張るしかなかったんだ。実は、高3の最後の県大会で絶対にインターハイに行ける自信があったんだけど、決勝で今まで負けたことのなかった高校にやられてね。準決勝で強豪高校を倒して油断したのもあるが、敗因はポイントゲッターのはずの自分が引き分けてしまったから。主将の自分が責任を果たせなかったので、負けたんだ。でもその日の夜、先生から電話がかかってきて、「おまえは本当によく頑張った。おまえのおかげで決勝まで来れた。」って泣くんだよ。本当はそんなに酒強くないはずなのに、かなり酔っぱらっているみたいで、負けた原因のオレのために泣いてくれたんだよ。その時だな、自分もこういう先生になろうと思ったのは。」

 照れ隠しなのか、笠原先輩は正面を見たまま語り続けているが、穏やかな表情から視線を外せない私は、涙が止まらなかった。

 言葉にならないほど、感動していた。

 やがて、ワンワン泣き出したとき、目が覚めた。

 現実の私も泣いていたらしく、枕がぐっしょり濡れていた。

 夢だとわかっていても、こんなに泣くことなんて・・・

 その日は1日中、不思議な気持ちで過ごした




 第5幕 最後の夏―打倒、梅村学園!―



           1


 剣道部に入部して1年が経ち、私も中学3年生になった。

 中学校生活最後の夏の大会に向けて、頑張るのみだ。

 しかし、高等部は数多くの練習試合をこなしているのに、中等部の試合ははほとんどない。

 去年はそんなことに気づく余裕なんてなかったけど、なぜ中等部の試合がこんなにも少ないのか、見当もつかない。

 しかも、笠原先生は「基本が大事だ」と言って、中等部の私たちには試合に勝つコツなどは全く教えてくれない。

 ひたすら「基本、基本」って言われ、まっすぐ打つことのみの稽古に終始している。

 高等部には、私が聞いてもよくわからない、技術的な難しい話をよくしているのに・・・

 なので、美早、あおいと3人で、何となく不安になっている。

 剣道の団体戦は、基本5人対5人で戦う。

 女子中等部は、美早、あおい、私とこの4月に入部してきた里香(初心者)の4人だけだ。

 こういう場合は、5人の相手には最初から不戦勝が一つ計上されてしまう。

 十数校がひしめくこの地区には、部員が50人位いる中学校が3つもある。

 特に、同じ私学の梅村学園は、県の代表として全国大会によく出場する強豪で、高校男子部、高校女子部、中学男子部、中学女子部いずれも十数人以上の部員がいて、Bチーム(二軍)の人たちもかなり強い。

 また、それぞれに顧問の先生がつき、大会では他校や観衆の注目をいつも集めている。

 応援も人数が多い上、統制がとれていてかなりの迫力だ。

 生徒はもちろん、応援の保護者まで、背中に大きく学校名の入ったスクールカラー(緑色)のお揃いのTシャツを着ている。

 一度だけ合同稽古で訪れたことがあるけど、試合場が3面はとれる広い剣道場には、すごい数の賞状が壁一面に飾られていて圧倒された。

 それだけでなく、天井にはエアコンが15台もついていたのだ(美早が数えた)!

 去年は何もわからずがむしゃらに稽古するだけで、当然梅村学園に勝つなんてことは一切なかった。

 秋の新人戦は、私、美早、あおいの3人で団体戦に出場し、1回戦は同じく3人でエントリーした学校に勝つことができたが、5人そろっているチームには到底勝つことができず、2回戦敗退に終わった。

 団体優勝を果たした梅村学園女子チームは地区の代表となり、県大会でも準優勝を果たしている。

 特に悔しくもなく、ただ凄いなあと思っていた。

 しかし、ある日状況が一変する。

 いつの間にか私は、女子中等部の主将になっていたのだ。

 それは、同学年の女子部員が私しかいないから当然といえば当然なんだけど・・・青天の霹靂(へきれき)だった。

 1つ上の先輩たちが卒業していく(そのまま高等部の剣道部に入る)とき、任命されて頭が真っ白、目の前が真っ暗になった。

 ちなみにその日は昇段審査で、運よく初段に合格した嬉しい日でもあったのだが、その喜び一瞬にして吹っ飛ぶくらい不安になった。

 たった一年の剣道経験だとしても、主将になったからには強い剣道部の伝統を汚すわけには行かない。

 私は梅村学園に勝つことを目標に掲げ、そのためにどうすればいいか、悩んでいた。

 剣道は左手と足が重要な競技だ。

 とりあえず、すぐにできることとして通学カバンは極力左手で持つことにし、夜は家の周りを走るようになった。

 もちろん、毎晩の素振りも欠かさない。

 とにかく、何かをしていなければ落ち着かないんだ。

 そして部活の稽古では、真っ先に笠原先生に並ぶようにしている。

 高校生の大会直前でも、先生は拒否をすることはなく最低4分間、長いときには8分から12分間稽古をつけてくれる。

 しかし、いくら掛かっても、この1年間は面だけしか打たせてもらえない。

 来る日も来る日も面打ちで稽古が終わる。

 女子高等部の先輩や、中等部でもあおいや美早とは、試合と同じような「地稽古」を行っているのに・・・

 女子高等部の新主将は武藤穂波先輩だ。

 去年スマホの件で笠原先生に激怒されて以来、耳が見えるほどショートカットにして気合を入れ直し、新人戦では大将戦や代表戦をことごとく制する大活躍をして、チームを県ベスト8に導いてカッコよかった!

 その穂波先輩が笠原先生と稽古をすると、自然と他の部員たちが注目する。

 もちろん、笠原先生の強さに圧倒されてはいるが、それでも時折、「パシッ!」という音とともに、穂波先輩の美しい小手が笠原先生の手元を捉える。

 去年の主将、沙希先輩も強かったが、同じく穂波先輩は私たちの目標であり、憧れだ。

 本来、主将ってそういうもののはず。

 今の私に力がないのはわかるが、美早やあおいから尊敬されているとはとてもじゃないが思えない。

 マネージャーの夕海先輩も最上級生になり、相変わらず部員に厳しく、そして優しい。

 高等部1年生の新入女子部員は4人。

 うち2人は付属中から上がった先輩たちだが、ほかの2人は公立中からの新入生だ。

 中でも倉重果歩先輩は、何と昨年度の中学校県大会チャンピオン。

 去年の夏に県大会の見学に行った時、決勝戦で素晴らしい面を打って優勝したシーンは、今でもクリアな映像として、頭の中で上映され続けている。

 年はたった1つしか違わないのに、雲の上のような存在。

 全国の多くの高校からスカウトされたであろうそんなスゴイ逸材が、ウチの学校に入ってきたのだ! 

 春休みからレギュラー候補として稽古に参加しているが、とにかく強い。

 穂波先輩でさえ、4分間の地稽古中に打たれることがある。

 ある日、果歩先輩と帰りが一緒になった時に聞いてみた。

 どうして、数ある学校からウチの学校を選んだのかってことを。

「他の学校の稽古にも誘われていろいろ参加してみたんだけど、何かしっくりこなくてねー。どこも、試合に勝つためには・・・ってことばかりだっだの。でも、ここは基本稽古をしっかりやっていたんだ。そして、笠原先生に『何で、私に声をかけてくれたんですか』って聞いたら、何て答えたと思う?」

 いたずらっぽい目をして逆に質問された。

「県チャンピオンだからですか?」

「それは、他校の監督たちの答え。笠原先生だけ、『笑顔で挨拶がしっかりしているから』って言うの。おかしいでしょ。」

 果歩先輩はフフっと笑った。

「でも、中学の顧問の先生には、『伸びしろがある』って言ってくれたらしいの。他の学校は県優勝っていうその時の力を認めてくれたんだけど、笠原先生だけが『性格がいいから、将来的にもっと強くなる』って、人間性と可能性を評価してくれたの。それに他の学校の監督は、自分の学校に来ればいいことばっかりだという説明だったり、逆に他校の悪いところを指摘して「あそこは行かない方がいい」なんて言うので、何か信用できなくなっちゃったんだ。だけど笠原先生は『部員を見てもらえれば、ウチの剣道部がわかるよ』って言って、主将の沙希先輩や夕海先輩を紹介してくれて、2人ともとっても優しく接してくれたのよね。で、先輩たちはいいところばかりでなく、遠征が少ないことや笠原先生の厳しさとかも正直にきちんと伝えてくれて、この先輩たちと一緒に稽古したい、ここならどんなに厳しい稽古でも耐えられると思って決めたのよ。でも、スポーツ推薦がなかったので、引退後に必死に勉強しなければならなかったけどねー。まわりは、他校なら特待生として剣道で進学できるんだからもったいないって言ってたけど、顧問の先生は『お前が本当に笠原先生の下でやりたいのなら頑張れ』って背中を押してくれたんだ。入学してやっぱり正解だったわー。」

 こんな果歩先輩だから、すぐに打ち解けて、戦う一員になったのだろう。

「唯は上段について、どう思う?」

 思いがけない質問に、ドキッとした。

「攻撃主体だから憧れはありますが、私には無理かな・・・」

 私は背も低いし、まだまだ中段すらできていないから正直にそう思う。

「そうよねー。私の先輩でも唯みたいに背が低いのに、他の高校ですぐ上段にさせられたんだけど、何で上段にしたかというと、『引分け要員だ』って言われたらしいの。それってヒドイよねー。団体戦で勝つためには、相手のポイントゲッターに当てて引き分ける作戦らしいけど、私はそんな学校、いくら強くても絶対に行きたくないと思ったの。それで、笠原先生に上段についての考えを中学の先生を通して聞いてもらったら、『本人から希望があったときに、適性を考慮して判断します』って答えたらしいの。ウチの先生がどういうことか尋ねたら、『まずは中段の基本がしっかりできていること。次に、上段にしても将来的に剣道を続けられるかどうかが大切』と言われたんだって。私、大学や社会人になっても剣道をずっと続けたいって思っていたので、こういう先生の下で高校時代を過ごしたいって思ったんだー。」

 入学してまだ2ヶ月も経っていないのに、昔からいる先輩のようだ。

「だから、唯たちがうらやましいのよー。」

「えっ? どうしてですか?」

「だって、笠原先生の指導を6年間も受けられるんでしょー。あ、唯は5年間かー。私は3年間しか教われないからねー。唯に負けないように頑張らなくちゃ!」

「いや、いや、先輩になんて勝てるわけないじゃないですか!」

 私は焦って、少々怒り気味に言ったが、果歩先輩はニコニコ笑っていた。

 こうして新入部員の加入でますます強くなりつつある女子部は、最近では県の優勝候補とまで言われている。

 そして、笠原先生は女子高等部にはあまり厳しいことを言わなくなった。

 穂波先輩、夕海先輩らに任せている感じがする。

 それが、強くなっているということなのだろう。

 しかし、たった4人の女子中等部、その中でも私はいつまでたってもコドモ扱いだ。

 以前はコドモっぽくないコドモだったのに、年を重ねた今、完全なコドモに逆戻りしてしまったようだ。

 女子高等部のように強い部にしたい。

 でも、笠原先生は、相変わらず基本稽古しかやらせてくれない。

 勉強や生活態度についてのお説教は、毎日のように言ってくるのに・・・

 自分自身でトレーニングをし、強くなる努力を続けなければならないということなのだろうか・・・

 寝る間も惜しんで竹刀を振り、家のまわりを走り、本やDVDで技の研究をした。




           2


 5月の中間考査を終え、1週間休みだった稽古が再会される日(高等部は試験期間中も稽古をしていたのに・・・)、笠原先生に呼び出された。

 何となく心当たりはあった。

「失礼します。」

 ノックをして師範室に入るなり、

「何だ、この成績は!」

 案の定、叱られた。

 先生が手に持っていた、鯨井先生の公民のテストが最悪だった。

 正直、剣道のことで頭がいっぱいで試験対策をろくにやっていなかったので、結果は最初からわかっていた。

 言い訳できないで黙っていると、

「そんなことで強くなれるか!」

 と怒鳴られ、つい反論してしまった。

「ちゃんと稽古はしています。試験期間中も走ったり、素振りもやっていました。それより、もっと強くなれるように技を教えてください!」

 すると、笠原先生の顔がみるみる鬼の形相になり、

「それより、とは何だ。中学生にとって学校生活の中で勉強より大切なものなどあるか! 何を生意気なことを言っているんだ。そんな中途半端な気持ちでいるなら今すぐ帰れ!」

 先生の怒鳴り声が響いたのか、自主練をしていた剣道場内も静寂に包まれた。

「先生は全然女子中等部のことを見てくれないじゃないですか!」

 泣きながら言い返した。

 私は強くなりたいだけなのに・・・

「失礼します。」

 もう何も聞きたくなくなって、笠原先生の目を見ずに頭を下げて師範室を出た。

「唯、おいで!」

 ドアの向こうにいた夕海先輩が怖い顔をして、私の手首をつかんだ。


 剣道場に近い空き教室で、夕海先輩が私に向かって話を始めた。

 ガラス張り講義室なので、通りかかった他の部員がチラチラこちらをうかがっているのがわかるが、私の視線は足元を向いたままだ。

「唯、どうすれば強くなれるかわかる?」

 わかりきっている質問に、少しムカついた。

「稽古すれば強くなれます。」

 下を向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。

「それだけ?」

「それ以外に何があるんですか?」

 大好きな夕海先輩だけど、私は挑戦的になってキッと睨んだ。

「梅村学園に勝ちたいんでしょ。だったらどうすればいいの? 笠原先生が普段、何て言いながら指導してくださってるの?」

 夕海先輩の迫力に圧倒され、言い返すこともできずにしばらく黙って考えた。

(勝つために何をするのか、どうしたら強くなれるのか・・・)

 夕海先輩も答えを急かすことなく、じっと待っていてくれている。

 するとカーっとなっていた気持ちが、さざ波のように段々と落ち着いてきた。

 さっきの夕海先輩の張りのある声が、心の中に染み込んでくる。

 そして、笠原先生の言葉がそこに重なる。

「集中力とチームワークです。」

 ゆっくりと顔を上げて、答えた。

 厳しかった夕海先輩の顔が、やわらかくなるのがわかった。

「そうよ。さっきまでの唯を見て、美早、あおい、里香がまとまると思う? 梅村学園に勝つために唯がやるべきことは、まずチームワークを高めることでしょ。主将がうろたえていてどうするの!」

 一喝された。

 そうだった、私はチームをまとめる立場だということを忘れていた。

「授業中の集中力が勝負で生きるんだぞ」

 笠原先生のこの言葉も蘇ってきた。

 集中力とチームワーク。

 その2つが欠けていたから、私は叱られたのだ。

 答えはわかった。

 しかし、実際それだけで強くなれる自信もない。

 この先どうすればよいかもわからない・・・

 それでも、稽古を休むわけにはいかない。

 泣いて腫れあがったまぶたが情けないので、顔を洗って道場に戻った。

「唯先輩!」

 美早たちが駆け寄ってくれる。

 無理して少し微笑んで、そのまま師範室へ向かう。

 心臓の鼓動がものすごく速い。

 こめかみから手足の先まで脈打つのがわかる。

 緊張感で膝がガクガクする。

 初めてこの剣道場を見学に訪れたことを思い出した。

「失礼します。」

 大きく深呼吸をしてから勇気を振り絞ってノックをしてドアを開けると、笠原先生がさっきと同じ姿勢で部員のテストの成績をチェックしていた。

「先ほどはすみませんでした。自分の間違いに気づきました。これから勉強もしっかり頑張りますので、今日の稽古に参加させてください。」

 頭をしっかり下げた。

 先生がいいというまで、この姿勢でいようと思った。

 先生の足元にあるスケルトンの救急箱の中に、ハサミが入っているのが見える。

 いざとなったら、あれで髪を切ろう。

 すると、笠原先生は

「試合稽古だ。すぐに準備しろ。」

 と言って、立ち上がった。

「ハイ!」

 とりあえず、今日の稽古への参加が許されたのでホッとした。

 高校生の地区予選が近いこの時期に、部内試合を行うことはわかっていた。

 師範室内のロッカーに管理されている試合用の審判旗、ストップウオッチ、記録ノート、目印などをすばやく持っていこうとすると、

「何をやっているんだ唯、試合だと言っただろ。すぐにストレッチをして、面をつける準備をしろ。先鋒だ。」

 えっ! この時期に中学生の試合をやってくれるの? 

 でも、たった4人しかいない上に、里香はまだ面すらつけたことがない。

 私が師範室を出るのとすれ違いで、夕海先輩が呼ばれた。




           3


 笠原先生と夕海先輩が何を話しているのかも気になったが、素早く着替えてとりあえずは試合に備えてアキレス腱をよく伸ばし、手首・足首を入念に回した。

 Aチーム(高校女子部レギュラーチーム)対Bチーム(レギュラー以外)の対戦ということだが、私は中学生ながらBチームの先鋒に指名された。

 普段なら、中学生と高校生が試合をすることなど絶対にありえない。

(高校生と試合をするなんて、初めてだ。しかも、相手はレギュラーチーム。勝てるはずはないが、堂々と戦おう)

 Aチーム側の監督に、男子主将の水口先輩が座った。

 そして、Bチームには夕海先輩だ。

 笠原先生は、中央の畳に座っている。

「AもBもレギュラーが固定されているわけではないぞ。地区大会は当日エントリー変更可能だから、試合内容を見て決めるからな。みんなしっかりやりなさい」

 笠原先生の言葉で緊張感が走る。

「唯、絶対勝てるよ。」

 面をつけている私に夕海先輩がささやいた。

「いくら果歩が強くても、チャンスはあるからね。」

 えっ! 果歩って、まさか・・・

 黒板のAチームの先鋒の欄にはハッキリ「倉重」と書かれていた。

 絶望だ。せっかくの試合なのに、県チャンピオンと戦うなんて、笠原先生は意地悪だ。

 そんなに私をズタズタにしたいのか。

 緊張感と果歩先輩と戦う不安感でいっぱいだったが、

「唯先輩、ファイトー。」

 美早、あおいに混ざって、里香までわけもわからずに叫んでいる。

 何か、おかしくなってフフって笑ったら、少し落ち着いてきた。

(例え勝てなくても、主将として恥ずかしくない試合を見せなきゃ。)

 一瞬そう思ったが、「いい試合をしようなんて思ったら、負けるぞ。勝とうと思って必死に戦った結果、いい試合になるんだからな」という笠原先生の言葉が思い出された。

 後輩たちの目の前で、叩きのめされるわけにいかない。

 果歩先輩は怖いけど、勝たなきゃ。

 整列して相互の礼が終わり、いよいよ試合になる直前、夕海先輩がまた私を呼んでこう言った。

「笠原先生に掛かるつもりで戦いなさい。」

 その言葉を聞いたら、不思議とスッと体が軽くなった。

 そうだ、私は、毎日笠原先生に叩かれているんだ。

 笠原先生に比べれば、果歩先輩なんて怖くない。

 笠原先生は、面をつけると大きく見える。

 稽古で掛かると、さらに大きくなる。

 怖いオーラが出ていて、ビビリの私は毎日泣きながらぶつかっている。

 面打ちしかやらせてもらえないにしても、ちょっとでも気を緩めると容赦なく突き飛ばされるのだ。

 それに比べれば、目の前の果歩先輩はきっとスキがあるはず。

 そう考えれば、怖くない。

「始め!」

 審判の声と同時に、私はこれ以上ない気合を出した。

 すると体が自然に動いて、気がついたら面を放っていた。

「面あり。」

 主審、副審の白い旗が三本まっすぐ上がった。

 何と最初の一振り、初太刀で一本先取した。

 まぐれだ。

 でも何だろう、体が動く。

 意外な展開に、道場内がざわめく。

 果歩先輩の勝利を信じ切っていたAチームからは、「気にしないで、返すよー」「果歩落ち着いて」と檄が飛ぶ。

 しかし、「いいとこー」「唯先輩、もう一本」「続くよ!」と叫ぶ、たった3人の中学生の声援が、圧倒的にAチームを上回っていた。

「二本目!」

 審判が言うや否や、果歩先輩が猛然と攻めてくる。

 私も負けない。

 鍔競り合いになっても、私は最大の気迫で果歩先輩に掛かった。

 お互いに同時に打った引き面、すぐさま間合いをつめての相面に両陣営、そして中学生から歓声が沸く。

 他の学校は、一本先取したら守りに入って時間切れを狙う。

 しかし、笠原先生はそれを許さない。

「相手が必死に取り返そうとするとスキができるから、その一瞬を狙え」と何度も言われている。

 中盤に果歩先輩が放った引き胴に対し、スーッと間合いを詰めたら、急に一瞬、先輩の足が止まった。

「アッ!」と思ったが、私の身体は自然に前に出ている。

 慌てて面に出た果歩先輩よりも、私の放った面が一瞬速かった。

「面あり!」

 まさかの二本勝ちに、一本先取したさっき以上のどよめきが起こった。

 特に男子高等部の先輩たちの驚嘆する声が冷めやらない。

 果歩先輩が負ける場面を見るのが初めてだという部員がほとんどのはず。

 でも、私は勝利の余韻に酔いしれることもなく、窒息しそうなくらい乱れた呼吸が戻るのにかなりの時間を要した。

 声は枯れて喉が痛いし、両腕の握力はほぼゼロの状態。

 左足のふくらはぎもたった一試合でパンパンに張っている。

 そして何よりも、涙が止まらない・・・

 もちろん、それは決して嬉し涙なんかではなく、むしろ悲しいくらいのわけのわからない涙だ。

 ようやく落ち着いても、現実感もないままフワフワしていた。

 正直、何で勝てたのか、わけがわからなかったんだ。




           4


 中等部の生徒は、どのクラブでも正規の時間に下校しなければいけないのだが、その日に限って私だけ特別に居残り稽古を許可された。

 大会が週末に控えている高等部は、レギュラー以外もほとんど参加している。

 普段は笠原先生が、正規の時間と合わせてほぼ全員と稽古をするために行われているのだが、今日に限って先生は面をつけず、黙って高等部の稽古を見ている。

 初めての居残り稽古だったので、私はいち早く面をつけたものの、どうしていいかわからずにウロウロしていたら、

「唯、稽古しよう」と果歩先輩が声をかけてくれた。

「さっきはやられたからねー」と言いながらも、果歩先輩の優しさが嬉しかった。

 実際に稽古すると、完璧に打たれる。

 何でさっき勝てたのか、全くわからなくなってきた。

 果歩先輩の激しい攻めにボコボコだ。

 実力が違いすぎる!

「さっきの気迫はどうした!」

 正面下に座っていた笠原先生が、腰を上げて私たちに近づいてきた。

 二人の動きが同時に止まり、先生を凝視した。

「果歩、お前は試合で手を抜いたのか?」

「いえ、抜いてません。」

 直立不動で果歩先輩が答える。

「じゃあ唯が今、気を抜いているんじゃないか! そんな甘いことでどうする!」

「ハイ!」

 もう私の顔は泣き顔に近い。

 いや、実際に泣いていた。

 泣きながら、果歩先輩に掛かる。

 そばでじっと見られているので、笠原先生に掛かっているのと同じ気持ちだ。

 どんなに気合を入れても、どんなに頑張っても、全く歯が立たない。

 悔しくて、情けなくて、どうしようもない。

 いつも、高校生だけが居残り稽古を許されているのを見ながら、「どうして中等部には許可してくれないのか」って悔し涙で下校していたが、実際に参加してみるとこんなにも辛かった。

 それも体力的にだけではなく、精神的にもだ。

 たった30分位なのに、ほかの高等部の先輩たちにも散々打ちのめされ、ヘトヘトに疲れてやっと終わった。

 整列して面を外し、滴り落ちる汗を袖で拭うと、体中の水分が目の奥に集まってくるようだった。

 テストのことで笠原先生にしかられたのがたった3時間前とは思えない。

 長い1日だった。


「唯、帰るよ。」

 最下級生の私が床にモップをかけていると、夕海先輩が待っていてくれた。

 中等部の生徒だけで最終下校時間過ぎに正門を出ようとすると守衛さんに呼び止められるので、一緒に帰ってくれるらしい。

「先輩、今日はいろいろとありがとうございました。」

 バス停で深々と頭を下げた。最終バスに乗る生徒は、剣道部以外はほとんどいないので、一番後ろの座席に2人でゆったりと座った。

「何で果歩に勝てたと思う?」

 夕海先輩がいつも通りのやさしいまなざしで語りかけてきた。

 正直、今日の夕海先輩は少し怖かったので、ホッとした。

「まぐれだと思います。」

 ホントにそう思っていた。

 だって、あのあとの稽古であんなに打ちのめされたのだもの。

「違うわね。本当にわからないの?」

 今日は、心身ともにボロボロだ。何も頭に浮かばない・・・

 すると、

「さっきの答えと一緒よ。」

 夕海先輩が諭すように言った。

「さっきって・・・」

「講義室で言ったじゃない。強くなるにはどうしたらいいかって。」

 バスが走り出した。

「チームワークと集中力・・・ですか?」

「そうよ。美早たちの声援のすごさ、聞こえたでしょ」

 確かに、Aチームの先輩たちより、美早、あおい、里香の声が道場全体が震えるくらい私に響いた。

 集中力は・・・自分でも信じられないくらいの気合が出た。

 そうだ、「笠原先生に掛かるつもりで戦いなさい」って夕海先輩に言われたからだ。

 あれで、雑念が消えていたのだ。

「先輩、あの・・・」

 お礼を言おうと思ったら、

「全部笠原先生の指示よ。」

「えっ!?」

「まず、『絶対勝てる』、次に『果歩が強くても必ずチャンスはある』、そして、直前に『先生に掛かるつもりで戦いなさい』って唯にアドバイスしたのは、全部笠原先生からそう言いなさいって指示されていたのよ。」

「・・・」

 言葉を発せずにいると、

「唯が叱られた後、私が呼ばれて『今日は唯と果歩を試合させる。唯が勝つだろうが、両者のフォローをしっかりやっておきなさい』って言われていたの。まあ、様子を見ていたら果歩はフォローする必要なかったけどね。唯に負けて精神的にショックを受けるかなって思ったけど、さすが果歩ね。『負ける』というのがどういうことかよくわかっているのよね。だから、果歩は強いのよ。」

 正直、どういうことかよくわからない。

 果歩先輩は強いから、負けるということも理解しているという意味なのだろうか・・・

 自分なりに考えていると、夕海先輩はさらに、

「先生は、唯が勝つことまでわかっていたのよ。」

 と続けた。

「どうして・・・」

「毎日先生に掛かっているじゃない。だからわかるのよ、きっと。」

 面しか打たせてもらえないのに、なぜ・・・

 私にはまだわからない。

 私には何も見えていない。

 にもかかわらず、大好きな笠原先生に反抗してしまった。

 チームワークなど何も考えずに、自分だけが強くなりたい、主将だから自分が一番強くなくてはいけないと思ってわがままを主張して、先生を怒らせてしまった。

 そんな私の気持ちを察するように、

「唯は笠原先生のこと信頼しているから、自分の気持ちをそのままぶつけたんでしょ。おそらく笠原先生は、いずれ唯がああいうこと言ってくるのがわかっていたんじゃないかしら。先生も唯を高等部の選手と同じくらい認めているから叱ったのよ。授業中とか、普段は優しい先生が部員にだけ厳しいのは、部員のことを信用している証拠なのよ。」

 バスが駅に着いた

 夕海先輩とは、改札で別々になる。

「笠原先生に認められたのよ、本当に強い部員として。だから明日からも頑張るのよ。」

 夕海先輩は笑って手を振って、反対側の階段を上がっていった。

 完全に打ちのめされた。

 今日一日、笠原先生、夕海先輩、果歩先輩、美早・・・誰の言葉を思い出しても涙が溢れてくる。

 電車の中で呆然としていた私を心配して、目の前のおじさんが席を譲ってくれた。


「ただいま。」

 帰宅すると、

「大丈夫、唯?」

 ママが心配そうに駆け寄ってきた。

「何が?」

「笠原先生からお電話いただいて、『テストの点数が悪かったので、今日少し叱りました。それと、今日だけ稽古後の自主練習に参加させますので、最終バスの時間になります』なんて言うものだから・・・テストって何の科目? 何点だったの? 自主練って高等部だけじゃなかったの? もしかして、罰としてきついことされたの?」

 カレーの香りが漂う玄関先で、心配性のままはオロオロしている。

 パパはまだ帰ってきていないようなのでホッとした。

 ママは何でもすぐパパに話しちゃうから。

 早とちりされても困るし。

「大丈夫よ。テストは次頑張るから。着替えてくるね。」

 何事もなかったようにそっけなく答えて、素早く自分の部屋に入る。

 制服を着替える前にまた涙が溢れてきて、そのままベッドに倒れこんだ。

 突っ伏したまま枕に顔をうずめて、泣いた。

 号泣状態だっだが、こうすれば、きっとママにも聞こえないはずだ。

 部員だけでなく、ママも含めてみんなの優しさが未熟な私の心を刺すようで痛かった。

 今日一日で何回泣いたのだろう

 何リットルの涙を流したの?

 小学生のときからコドモっぽくない私は、いつも冷めていたはず。

 頭が完全にパニック状態だ。

 でも、もう泣かない。

 これで最後にする。

 明日から、夕海先輩のように強く、優しい先輩になって、メチャクチャ頑張って、4人で梅村学園に勝って県大会へ行くんだ。




 第6幕 いざ、決戦!―4人の快進撃―



           1


 私が笠原先生から叱られたあの日から、何かが変わった。

 まず、美早が猛然と稽古に打ち込んでいる。

 この気迫は尋常じゃない。

 もともと一生懸命やってはいたが、高校生よりも鬼気迫る気合いで頑張っているのだ。

 理由を尋ねたら、「唯先輩に負けたくないから」ときっぱり答えた。

 私が果歩先輩に勝ったことは中等部としては嬉しいけど、自分はまだ絶対勝てないから悔しいとも言っている。

 当然、私も負けるわけには行かない。

 ある意味、最近の稽古は美早の気迫に引っ張られているように感じていたので、主将として、先輩としてもっともっとやらなければならなくなった。

 もうひとつの変化は、大会を1ヵ月後に控えて、ついに里香が面をつけることを許されたのだ。

 彼女も私と同様、学年にたった1人しかいない不安を抱えているので、私と美早、あおいの3人がかりで基本的なことを教えた。

 ちょっと前までの私なら、少しでも稽古できないと「強くなれない」と不安になったが、今はみんなで里香を支えることがチームとして強くなれることだとわかっている。

 里香自身もきっと心強いはずだ。

 私と美早があおいや先輩たちに色々教えてもらっていたのは、たった1年前のことなのだ。

 あの時の自分が蘇る。

 だから、里香の気持ちがよくわかるんだ。

 中等部の練習試合などは相変わらず予定されていないが、もうそこに大したこだわりはない。

 笠原先生に一生懸命掛かることで精一杯だし、それで強くなれると信じているから。


 大会を2週間後に控えたある日曜日の午後、本校で高等部の練習試合が行われた。

 夏のインターハイ予選では男子部、女子部とも県大会を制することができず、穂波先輩をはじめ、3年生の先輩たちは引退してしまった。

 夕海先輩も、校内の補習を受けるようになり、毎日は来なくなった。

 なので、今は新チームとしてスタートしている。

 他校でもおそらくそうだろうが、夏休み前のこの時期は新チームによる基本稽古が中心で、練習試合は珍しい。

 先月末に配布された予定表にも載っていなかったので、急遽決まったらしい。

 相手は何度も練習試合をしたことのある隣の地区の県立高校。

 中等部の稽古が先に終わり、午前中で解散となったのと入れ違いに、高等部の先輩たちが登校してきた。

 男子中等部の部員たちはすぐに下校用のバスに乗って帰っていったが、私たち女子4人はひそかに企んでいた。

「高等部の練習試合を見学させてください」

 笠原先生に直訴すると、週末の課題が終わっているかを確認された後、許可された。

 やった!

 確信犯で、あらかじめ持ってきておいたお弁当を食べて午後に備える。

 やがて、相手校がやってきた。

 文武両道の伝統校で、新チームにもかかわらず男女で約30名と部員数も多い。

 でも、実力的には、我が校の先輩たちの方が少し強いかな。

 他の私立高校にありがちなスポーツ推薦の入試がウチの高校にはない。

 だから、県優勝の果歩先輩ですら、勉強して一般入試で入学してきた。

 それでも男女とも県の上位に進出しているのは、笠原先生の指導に従った稽古を積んでいるからに他ならない。

 だって、中学で全国大会を狙えるあの梅村学園ですら、高校の大会ではウチの学校に叶わないんだもの。


 練習試合は男子から始まり、初戦は3対1で勝った。

 先鋒、中堅、副将で勝ったものの、大将の大久保先輩があっという間に二本負け。

 相手の大将は相当強い!

 次の女子は1対0でギリギリの勝利。

 中堅の果歩先輩以外は全員引き分ける展開だった。

 二回り目は、男子は4対1で圧勝だったが、やはり大将戦は副主将の福地先輩が二本負け。

 そして女子は2対2でまさかの引き分け!

 先鋒、次鋒を相手に取られ、中堅も引き分けて絶体絶命の中、副将の青山幸恵先輩が何とか繋ぎ、大将の果歩先輩が二本勝ちしてやっとの引き分け。 

 内容も負けに等しいと、笠原先生が女子だけを集めて喝を入れていた。

 すると、「中等部、ちょっと来い!」と呼ばれ、4人が集合した。

「お前たち試合に出るか?」

 期待していた言葉だ。

「ハイッ!」

 4人声をそろえて元気よく答えた。

 見学といいつつ、私たちはちゃっかり高校生と一緒にアップをし、そのまま胴、垂も外していなかった。

 そう、試合に出る気満々でスタンバイしていたのだ。

 笠原先生は私たちの気持ちを察してくれたのか、相手校の監督に中学生であることを説明した上で、私たちを試合に出してくれた(里香は応援)。

「思い切って行くよ!」

「オー!」

 高等部の先輩たちに背中を押されて、私たち4人は大きな声を出した。

 先鋒のあおいは積極的に技を出す展開で試合を進めた。

 副審の旗が一本上がるくらいの惜しい技もありながらも、時間間際に一本取られて負けてしまった。  

 しかし、流れをこっちに向いている。

 相手校にしてみたら、前評判を全く聞かない無名の中学生に粘られているのだ。

 次鋒の美早も、ものすごい気合で相手を圧倒し、勝利に近い引き分け。

 そして、私はあおい、美早、里香の声援を受けながら、面二本で快勝した!

 副将の石田ありさ先輩が引き分けたものの、大将の果歩先輩が鮮やかな小手と胴を決め、2対1で勝った。

 試合内容もよかったとまわりの先輩たちが私たち中等部をほめてくれた。

 こうして、私たちは少しずつ自信をつけていった。




           2


 練習試合で勝つことが出来たので、私はその日の夜、久しぶりに笠原先輩に会いに行くことにした。

 そう、タイムトラベルで。

 この前までは、技を教えてくれない笠原先生にイラついていたのと、厳しく叱られたりしていたので会いに行けなかった。

 でも、わだかまりも溶け、もしかしたら今日の勝利でほめてもらえるかもしれない。

 朝方の寝起きのときにそのチャンスはやってくるのだが、すぐに時間切れになってしまうので、夜寝るときに強く願った。

 何となく、かなう気がしていた。

 そして、一番お気に入りのパジャマにした。

 別にこれを見せるわけじゃないのに、とりあえず。

 ベッドに入って目を閉じてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。

 私は笠原先生の大学の剣道場にいた。

「唯、ファイト!」

 夕海先輩、穂波先輩、果歩先輩らと並んで、美早、あおいらが応援してくれている。

 他大学との練習試合みたいだ。

 剣道のことで頭が一杯になると、このように剣道の夢を見ることが多い。

 私は今、強豪を相手に攻めまくっている。

 気迫で相手を圧倒し、戦意喪失するまで打ちまくる。

 そして、最大のチャンスが見えたとき、

「今だ!」

 相手の面をめがけて、渾身の一打を放つと、3人の審判の旗が同時にきれいに上がった。

 試合を終えると、監督のところへアドバイスを求めに走る。

 現実の世界なら笠原先生だが、今日は笠原先輩だ。

「お願いします!」

 イケメンの笠原先輩からは、意外な言葉が返ってきた。

「勢いだけだな。打つ前の攻めが全然出来ていない! 相手をなめてかかると、いずれしっぺ返しを食らうぞ。勝てたのは偶然だ。もっとちゃんと稽古しろ!」

 何で? 私、完璧に勝ったのに・・・

 夢だとわかっていても、泣きたくなった。


 場面がワープして、いつものチャペルが見える丘の上の芝生に座っていた。

 隣に寝転がっているのは、ネイビーのポロシャツにホワイトジーンズの、笠原先輩だ。

 まわりには、美早も夕海先輩も尾上もいない。

 ちょっと(いや、かなり)不安だが、2人っきりだ!

 もしかしたら、デートに見えるかな?

 しかし、さっき怒った先輩は現実世界の先生のように厳しかったから、嬉しいよりも怖いが上回っている。

「唯」

 青空を見たまま、笠原先輩が口を開く。

「ハイ」

「何で勝ったのに怒られたんだろうって顔してるぞ。」

 見透かされている。

 私は感情が顔に出やすい。

「おごり高ぶっちゃダメだぞ。果歩に勝ったときはもっと気迫もあったし、一瞬のスキを捕らえようと必死だったのに、今日は何も考えずにただ技を出すだけだったぞ。今のままだと、梅村学園には勝てないぞ。」

 脳天を貫かれる思いがした。

 確かに私はイイ気になっていた。

 果歩先輩に勝って、高校生の練習試合でも勝ったことで、自分が強くなったと思い上がっていた。

 だから、笠原先輩にきっとほめてもらえると思っていたのだ。

 でも、欠点を指摘してもらえた方がよっぽどありがたい。

「稽古で泣いて、試合で笑う」

 これは鉄則だ。

「笠原先輩、ありがとうございます。」

 素直に言えた。

「頑張れよ。」

 頭をポンと叩いてくれた。

 顔から火が出そうになった。




           3


 2週間後の土曜日、ついに地区大会の日が来た。

 昨夜は興奮して、珍しく寝つけなかったから少し寝不足だけど、明らかに気合がそれを上回っている。

 この地区からは2校が県大会に出場できるので、今日の大会は最低でも決勝まで進出しなければならない。

 最近はタイムトラベルとは別に、毎晩剣道の夢を普通に見る。

 そして、全て勝っている。

 シュミレーションは万全だ。

「おはようございます」

 会場に着くと、美早、あおい、里香はもう待っていてくれていた。

「おはよー」

 まだ集合時間まで20分もある。

 気になるオーダーは、先鋒が私、次鋒がいなくて、中堅が里香、副将は美早、そして大将があおいだ。一昨日の稽古終了後、笠原先生が高等部も含めたみんなの前で発表した。

 そして、「中等部だけが戦うんじゃなくて、ここにいる全員の大会だということをもっと意識するように。」と続けた。

 大会は夏休みに入って、最初の土曜日に開催される。

 高等部は夏期講習で登校なので、私たち中等部だけで戦わなければならないと思っていたから、先生の言葉と高校生の「ハイ」という返事が嬉しかった。

 会場入ってトーナメント表を見ると、準決勝で第一シードの梅村学園とあたる。

 つまり、県大会に行くには、梅村学園を倒さなければならないのだ。

 個人戦もあるため、梅村学園や新川中、天代中はそれぞれ30人前後がエントリーしており、会場はアップをする中学生で溢れている。

 私たち女子はたった4人だが、笠原先生がついている。

 先生の指示通り、私を固定して他3人が時計と逆周りに交代しながらアップを続けた。

 早々にアップを切り上げていた1回戦の相手校が、私たちが4人だと知って、「ラッキー」と叫んだ。

 言いたい者には言わせておけばいい。

 試合が終わった時に笑うのはこっちだ。

 次鋒は不戦敗で2本負けが決定しているから、先鋒の私が2本勝ちして、初めて五分になる。だから先鋒は主将のお前だと言われていた。

 いよいよ1回戦。

 極度の緊張感が私を包んだが、それよりもこの大会がデビュー戦になる顔面蒼白の里香を元気付けなければならない。

 彼女の心理は、私たち以上の不安で一杯なはずだ。

「勝つよ、今日は!」

 えっ! 振り返ると、そこには夕海先輩がいた。

「先輩、どうして?」

 夏期講習のはずなのに・・・

「大丈夫よ、ちゃんと笠原先生の許可を得ているから。」

 私の緊張が一気にほぐれた。

 円陣を組んで、夕海先輩の言葉をそのままいただいた。

「勝つよ、今日は!」

「オー!」

 先鋒の役割は、チームに勢いをつけること。

 5対5ならば引き分けも許されるが、4対5なので、最低でも私は勝たなければならない。

 でも、相手を呑むのはよいが、ナメてはいけない。

 この前教えられたことを頭の中で繰り返して、開始線に立った。

 (剣道は足で打つ)

 素振りやすり足から始めた初心者の頃から言われていたことだ。

 遠い間合いから足を使って一気に攻め、面の二本勝ちで流れを持ってきた。

 次鋒が不戦敗。

 中堅の里香が不安そうに開始線に向かって歩き出す。

「落ち着いていくよ。」

「里香ファイト!」

「思い切っていくよ。」

 私たち3人からの声援がとぶ。

 しかし健闘空しく、あっという間に二本負けを喫する。

 私も美早もデビュー戦はあっさり負けている。

「ナイスファイト。」

 里香の健闘を称えた。

 しかし、もう後がない。

 引き分けも許されない場面だ。

 副将の美早は、ガッツで戦うタイプ。

 相手はやけに身長の高い子だったが、頭ひとつ上にある面を見事に捉えた。

 二本目は小手を決めて五分に持ち込み、勝負は大将のあおいに託された。

 あおいは私たちの中で唯一、小学校の頃から剣道をやってきた子だ。

 まだ2年生だとしてもキャリアは十分。

 中盤にお手本のような出ばな小手を決めて、そのまま一本勝ちで1回戦を突破した。




           4


 2回戦の相手は、作戦を立ててきた。

 先鋒の私に対して、あからさまな引き分け狙いで来たのだ。

 すぐくっついてきて、一向に技を出そうとしない。

 間合いが切れて私が攻めようとしても、その時はコートぎりぎりまで下がって逃げ回るという卑怯な戦法だ。

 以前の私なら、頭に血が上って強引に打って出ただろうけど、この前夢の中で笠原先輩に一瞬のスキを捉えるように言われているから冷静だった。

 中盤、相手が面をよけようとして手元を上げたところを小手に切ったら、一本になった。

「何で手元を上げるんだ、指示通り動け!」

 相手の監督が怒鳴っている。

 試合が中断したら、必ず監督席を見るように言われているので笠原先生の方を見たら、何も言わずにうなづいていた。

 とっても安心感がある。

 こんな時に怒鳴られたら、落ち込んでしまうよ。

 二本目になっても、相手は逃げ回る。

 ここで焦ると、そのスキをつかれる。

 色々工夫してみたが、そのまま時間切れになってしまった。

 相手の戦い方は納得できないが、あとはみんなに任せた。

 里香の相手だけは最初から攻めまくってきて、またあえなく二本負け。

 初心者の里香に対する相手の態度に憤慨した闘志満々の美早を見て、少し不安になった。

 気合が空回りしなければよいが・・・

 そんな雰囲気を吹き消すように、

「美早、一本勝ちでいいよ。私、絶対に大将戦で勝つから。」

 普段穏やかなあおいから、強気の発言が出た。

「オッケー。じゃあ気楽に戦ってくるよ。」

 美早の肩の力が抜けるのが、傍目に見ていてわかった。

 ナイスあおい!

 副将は私の時と同じく逃げ回る相手だったが、美早は落ち着いて戦い、鍔競り合いから見事な引き胴を決めて一本勝ちを収めた。

「あおい、任せたよ!」

 私たちの期待を一身に背負ったあおいは、怒鳴りまくる相手の監督の声も全く聞こえないのか冷静に対応し、出ばな面で先取した。

 逃げ回っていた相手が今度は怒涛のごとく攻めてくる。

 しかし、完全に心が乱れている。

 そして、審判の「やめ」がかかって試合が中断するたびに、監督席を見ては完全に萎縮している。

 結局そのまま時間が来て、3対2の逆転勝利だった。


 梅村学園、新川中、天代中とならび、私たちはベスト4に残った。

 ここから県大会に行けるのは2校だ。

 緊張感がMAXになり、お昼のお弁当が喉を通らない。

「ムリして食べなくてもいいよ。でも、水分だけはとっておこうね。」

 夕海先輩がいてくれて、ホントよかった。

 4人ともあまり食べなかったので、他の学校が昼食を摂っている中、いち早くアップを開始した。

 昼休みにアップする学校はなかったが、気合だけは負けないという私たちの表現だ。

 笠原先生もすぐに近くまで来てくれて、見守ってくれている。

 それを見ていた梅村学園の先生が、

「お前ら、何のん気に飯食っているんだ! 早くアップしろ!」

 と叫んだ。

 一通り終えて面を取ると、すぐに集合した。

 先生は特に里香の頑張りをほめた。

「負けてもいいから、闘志を出して積極的に前へ出なさい。今はそれでいいからな。」

 どういう意味か図りかねていたら、

「ウチは5対0で勝つことはあり得ないのだから、負ける者がいて当然だ。それをフォローするのがチームワークで、一人ひとりが集中して戦い、チームワークがよければ1、2回戦のように勝てるぞ。」

 笠原先生が穏やかな表情で言うと、説得力がある。

 そうだ、午前中の里香の負けは、私たち3人でちゃんとカバーできたんだ。

 でも、里香がいなかったら、新人戦のように勝てなかったはず。

 里香の頑張りが、私たちを勝たせてくれているんだ。

 そう考えたら気持ちが楽になった。




           5


 準決勝が始まる直前、梅村学園のオーダー表に赤い文字が貼られた。

 選手変更だ。

 ここまで、選手層の厚さを見せつけるように、本来なら大将で出る主将の大川さん、先鋒の長瀬さん抜きで勝ちあがってきた。

 特に大川さんは、昨年のこの大会、そして新人戦と個人戦で二連覇を果たし、県大会でもべスト8に進出している強豪選手だ。

 身長も大きくて、高校生と比較しても全く見劣りしない。

 また、長瀬さんも小柄ながら新人戦では個人準優勝で、大川さんと一緒に県大会に出場している。

 なので、この2人が準決勝から出てくるのは想定内だった。

 しかし、貼られたオーダー表を近くで見ると、大川さんが先鋒で長瀬さんが大将だ。

「逆じゃない?」

 私たちがちょっと動揺すると、笠原先生は

「いや、作戦だろう。しかし、かえってチャンスが広がったぞ。いいか唯、大川はタイプとしては果歩に近い。でも、果歩の方が数十倍強いのはわかるよな。果歩と戦うつもりでいけば大丈夫だ。一本でいい。相手はお前の出ばなを面で狙ってくるから、自分から仕掛けて相手を引き出して、返し胴を狙いなさい。相手のイライラがピークにくる中盤過ぎだぞ。一瞬の勝負だから集中力を絶対に切るなよ。」

 とアドバイスしてくれた。

「ハイ!」

 笠原先生が中等部にここまで細かい指示をするのはもちろん初めてだ。

 でも、不思議とすんなり自分の中に入ってきた。

 そして、百パーセント、その言葉の意味が理解できていた

 そうだ、私は果歩先輩に稽古をつけてもらっているんだ。

 大川さんなんて、怖くない。

 果歩先輩と戦った際、笠原先生と稽古しているから大丈夫・・・と思った時より遥かに楽な気持ちだ。

 (あの日の試合は、もしかしたらこの時のためだったのか・・・)

 試合が始まると、笠原先生が言った通り、大川さんは強引に攻め崩してきて、明らかに出ばな面を狙っている。

 その攻めも、かなり荒いのでチャンスはあったが、中盤を過ぎるまで打ちたい気持ちをセーブし、我慢した。

 私のこと、簡単に倒せると思っていたのか、鍔競り合いになるとあからさまにイラついた表情が面越しに見えた。

 そこから強引に出してくる引き技も、軽くかわせる。

「長引けば長引くほどこちらが有利になる」

 という笠原先生の言葉をかみ締めながら、冷静に対応した。

 もうすぐ、唯一の機会が訪れるはず。

 その時は来た。

 ほんの数センチ、竹刀の先を相手側に入れ込みながら面を打つそぶりを見せると、待ってましたとばかりに大川さんが面を打ちに来たのだ。

 その面をぎりぎりまで引き付け、一拍子で返し胴を放つと、竹刀が胴に当たる乾いた音が響き、3人の審判が白の旗を上げた。

 沸き立つ自陣と、どよめく会場。

 この前の果歩先輩との部内試合が甦った。

 一瞬何が起こったかわからなかったという表情の大川さんは完全に心のバランスを崩し、そのあとの攻めはもうそれほど強力ではなくなった。

 しかし、さすがに新人戦チャンピオン。

 だからといってスキができるわけでもなく、私も攻めあぐねてそのまま試合終了のホイッスルが響いた。

 一本勝ちだ。

「続くよー」

 次鋒の不戦敗のあとに登場した里香も一生懸命相手に立ち向かうが、すぐに面を打たれる。

 しかし、その後は有効打突を奪われずに、試合は後半にもつれ込む。

 初心者で、面をつけてまだ半月の里香の健闘に、いつしか会場の一般客から「ガンバレ!」と声援が飛ぶようになった。

 すると後半、強引に面を放つ相手の竹刀を返して、何と里香が胴を打った。

「パン」という音がなり、やや軽かったが一人の審判が旗を上げた。

「おおっ!」

 会場がざわめいたが、2人の審判は旗を振ったので一本にはならなかった。 

 流れが一気にこっちへ向いた。

 しかし、相手は強引な体当たりで、里香を場外へ押し出す。

 その弾みで倒された里香が場外反則を取られた。

「大丈夫、里香?」

 私たちの声にうなづきながら右足をやや引きずるように開始線に戻ったが、苦痛の表情を浮かべている。

 試合再開後、踏ん張りがきかずに再びライン際に押し込まれた里香に対して、相手は今度も鍔競り合いから不自然に押し出した。

 痛めた足の踏ん張りがきかず、その反動でまたもや里香が倒れる。

 反則だ。

 ムリな押し出しは反則のはず。

 審判が協議した結果、押し出した側ではなく押し出された里香の場外反則となり、反則二回によって、相手に一本が与えられて二本負けとなった。

 観客席からもブーイングに近いざわめきが起こる。

「よくやった、里香。」

 負けて泣きながら帰ってきた里香を、笠原先生がほめた。

「大丈夫よ、里香。私、勝ってくるからね。」

 美早が力強くそう言った。

 レギュラーに3年生がズラリと揃う梅村学園だが、副将だけは唯一の2年生。

 もちろん、来年の主将候補だ。

 それだけに、美早はライバル心を燃やしていた。

 もっとも、相手はそれを全くわかっていないようだが。

 ここまでの対戦は、私の一本勝ち、不戦敗(記録上は二本負け)、里香の二本負けで、本数では1対4と圧倒的な差がついている。

 しかし、勝負は勝者数だ。

 勝者数でいえば、まだ1対2で十分逆転のチャンスはある。

 ただ、もし美早が引き分けてしまえば、勝負はそこで決してしまう。

 例え大将のあおいが二本勝ちしても、勝者数が2対2の同数なので本数勝負になり、4対3で負けてしまうからだ。

 だから最悪でも美早は勝たなければならない。

 幸い、準決勝からの試合時間は正規の3分に加え、勝負が決しない場合は2分間の延長戦がある。

 相手が引分け狙いできても、チャンスは必ず来るのだ。

 笠原先生が美早に何か耳打ちしている。

 授かった作戦通りにいけば、必ず勝てる。

 私が両手を組み合わせて祈るようなしぐさをすると、隣の里香も真似してる。

 試合が始まると、相手は逃げるどころかどんどん間合いをつめて攻撃してきた。

 逆に美早は打つことが全くできず、防戦一方だ。

「美早、ファイトー。」

 さすが、梅村学園の2年生レギュラー。

 スキがなく、強い。

 攻撃は最大の防御。

 もしかしたら、取らせないための作戦かもしれない。

 美早のガッツ、集中力にかけるしかない。

 私たちにできるのは、チームとしての応援だ。

「里香、しっかり応援するよ!」

 3回戦で敗退してしまった男子も、依田クンを中心に「オレたちの分まで頼む」って言いながら後ろで見守ってくれている。

 ガンバレ、美早。

 やがてホイッスルが鳴る。延長だ。

 大きく肩で息をしたものの、笠原先生の方を見た美早の目は死んでいない。

「大丈夫、行けるよ!」

 延長戦に入っても、相手は攻撃の手を緩めない。

 しかし、疲れが出たのか、相手が一瞬息を呑んだ。

「今だ!」

 私がそう思うのと同時に、美早は相手の竹刀を上から押さえるように間合いに入り、豪快な面を決めた。

「面あり!」

 審判の声が聞こえないほど、会場が盛り上がる。

 延長戦は一本勝負なので、勝負は大将戦に持ち込まれた。

 精根尽き果てた美早はプレッシャーから解放されたからか、畳に座ると泣き崩れた。

「ナイスファイト!」

 満面の笑みで美早に言葉をかけたあおいが、入れちがいに開始線へ歩き出した。

「使えねえなあ。初心者相手にクソ根性のない試合しやがって。お前なんて二度と出さないぞ!」

 うなだれている副将の前で、梅村学園の監督が叫んでいる。

「どうして、ウチは頭数はいるのに使える駒が少ないんだ!」

 試合を終えて畳に座っている他のメンバーたちにも怒りが飛び火した。

 その姿を間近に見ていた長瀬さんがガチガチに緊張している様子が、私から見てもハッキリわかる。

 一方、あおいは余裕の表情だ。

(きっと勝てる!)

 私は確信した。

「美早、まだ終わってないよ。声出していくよ!」

 里香の向こう側に座っている美早に喝を入れた。

「あおい、ファイトー!」

 美早が泣きながら叫ぶ。

 すると開始早々、猛然と飛び込んできた長瀬さんの面に対して、あおいが左斜め後方に足を捌くと、その面が空を切った。

 その瞬間に全く防御できない面をあおいが確実に打つ。

「面あり!」

 中学生としては高度な技、面抜き面が決まった。

 本やDVDで見たことはあるが、私にはとても打てない技だ。

 スゴイ、あおい。

 ステージ上にいる本部のエライ先生たちも驚いたように何かを話している。

 ひとまず、これで逆転だ。

 梅村学園のまさかの劣勢に、場内は最高潮に盛り上がる。

「相手は逃げるから、確実に追い込め!」

 向こうは監督も焦っている。

 今までの試合運びを見ていてわからないのかしら。

 私たちは一本取っても絶対に逃げないのに。

 それが、笠原先生の教えだから。

 後がなくて固まっている長瀬さんに対して、あおいは二本目開始早々にスッと間合いをつめて、鮮やかな面を決めた。

 瞬殺だった。

 私たちは梅村学園に勝ったのだ!

 4人で戦った初心者軍団があの梅村学園を倒すという快挙に、会場の拍手が鳴り止まなかった。

「やったー!」

 相互の礼をして会場から控え席に戻る際、誰からともなく抱き合って泣いた。

 県大会出場が決まった。

 試合後のミーティングで笠原先生は、

「みんなよく頑張った。全員がひとつになったから勝てたんだぞ。そして、一人ひとりが勝負どころを間違えなかったから、繋がったのだぞ。大川も長瀬も本来強い子だ。でも、大川は先鋒の経験が少なく、長瀬は逆に普段先鋒で大将の経験がない。個人戦と違って、団体戦はポジションによる役割があるのに、唯をつぶすためだけに大川を先鋒にした相手側のミスだ。サッカーでいえば、オウンゴールだ。だから、勝ったからといって、決しておごり高ぶらないこと。我々を死に物狂いにさせてくれた相手の健闘を称えることも忘れないように。そして、まだ終わりじゃないぞ。喜ぶのはいいが、決勝戦の準備をしなさい。」

 と言って、私たちを引き締めた。

 夕海先輩も、涙ぐみながら喜んでくれたが、

「先生のおっしゃる通りよ。油断しちゃダメ。新川中と天代中の試合を見ておかないと。」

 と気持ちを切り替えさせてくれた。

「そうだ、試合見に行くよ。」

 私はみんなを率いて、会場に戻った。




 最終幕 ラストトラベル―日本一を目指して・・・―



                     1


 あれから数年がたった。

 あのあと地区大会で団体優勝を飾った私たちだったが、県大会では残念ながら健闘空しく1回戦で敗れた。

 やはり、初心者軍団の4人で突破するには、県の壁は厚かった。

 ならば高等部でもう一度、このメンバーでと思った。

 そのときの私たちは、もう初心者ではない。

 だから、高等部での目標は県優勝だと思っていた。

 しかし、私が高等部にそのまま進学して3ヶ月後、夏の地区大会で梅村学園に負けて県大会出場を逃した女子中等部の美早とあおいが、1学期終了と同時に学校から去っていった。

 美早はお父さんの仕事の都合で関西の公立中学へ転校。

 そして、学年1位の成績だったあおいは、得意な英語を活かしたいといってイギリスの学校に留学してしまったのだ。

 2年生になった里香に加え、新入生が3人入部してきたので、4人の女子中等部は相変わらず頑張ってはいるが、正直ショックで私はしばらく落ち込んだ。

 最初のうちは、美早とあおいとはラインでよく連絡を取っていたが、2人が高校へ進学する頃に途絶えがちになり、そのうち音信不通になってしまった。

 それでも、私は現実を見つめて剣道に打ち込んだ。

 外部から入学してきた人たちを含めて、高等部でも仲間には恵まれた。

 おかげで、インターハイには出られなかったが、2年生の時に関東大会には出場できて、予選リーグを突破して準々決勝(ベスト8)まで勝ち上がることが出来たんだ。

 その時のメンバーは、私が先鋒で果歩先輩が大将だった。

 私たち2人が全勝し、男女合わせて創部史上最高の大躍進だった。

 果歩先輩はその直後の個人戦で県優勝を果たし、インターハイに出場。

 3回戦まで進出した。

 中等部も含めて部員全員で応援に行ったが、私は果歩先輩のアップの相手として会場で稽古もできた。

 それで来年は個人、団体ともインターハイに出場するんだという気持ちになれた。

 しかし、私が主将となった最後の県大会の団体戦は3回戦進出に終わった。

 インターハイどころか、関東大会出場も逃した。

 個人戦もベスト4の三位に入賞することが出来たものの、あと一つのところでインターハイ出場の目標は達成できなかった。

 泣きじゃくる私に、笠原先生が「よく頑張った」といって握手してくれた。

 引退の時には、「次に繋がる稽古に取り組みなさい」と言われた。

 笠原先生の指導は、基本変わらない。

 しかし、いつその指導を受けても、新鮮な発見があった。

 それは、私が成長しているということなのだろうか。

 剣道は、奥が深くてまだまだわからないことが多い。

 だからこそ、魅力があるのかもしれない。

 日本一を目指す大学へ進学した果歩先輩からの誘いもあったが、私は笠原先生の指導を引き続き受けたくて、先生の母校を進学先に選んだ。

 先生はOBコーチとして、時折大学生の指導もしているのだ。

 もしかしたら、憧れの笠原先輩に近づきたかったからなのかもしれない。

 いずれにしてもスポーツ推薦などがない大学なので、合格するために私は受験勉強に一生懸命取り組んだ。

 中等部に入学したときから塾や予備校には行かないと決めていたので、校内の講習をできるだけ受講し、図書室で自習する時間も増えた。

 時々気分転換に稽古にも参加した。

「部活動を一生懸命頑張ることが大切。そして、引退したらその頑張るパワーを全て受験勉強に費やすんだぞ。それが部活動を頑張った意味でもあるし、目標を持って努力するのは剣道も勉強も一緒だからな。」

 笠原先生のこんな言葉もよく思い出して、文武両道を貫くためひたすら勉強した。

 中学入学のときのパパとの約束、そう英語を頑張ることをずっと続けていたので、受験勉強では英語力が有利に働いた。

 中には、英検二級を持っていることで英語の試験が免除になる大学もあった。

 本末転倒かもしれないが、英語以外もしっかり受験勉強に集中することが、その先の剣道の修行になると考えて頑張った成果か、私はきちんと目標を達成して憧れの大学へ進学することができたんだ。

 中学から私立に通わせてもらっている私は、幸せ者だ。

 小学校のときに、パパとママがこの学校の見学に連れてきてくれなかったら、今の私は存在していないはず。

 パパとママには必ず恩返しをするからね。

 もちろん、笠原先生にも。

 その恩返しの瞬間が、今そこまで来ている。




                     2


 桜が満開に咲き乱れる季節、無事に笠原先生の母校の大学に入学できた。

 毎日、通勤・通学ラッシュにもまれて電車で通っているが、中学生や高校生を見るとコドモだなあと思う。

 制服を来ている人種って、とっても幼い。

 あれ? 中学のときに私、逆のこと言っていなかったっけ?

 私は、早速剣道部に入部した。

 どんなに辛く、厳しい稽古でも、必ず耐えて強くなってみせると意気込んでいたが、大学での稽古は高校までとは違い、短時間で集中して行う。

 監督の先生が手取り足取り教えるのではなく、稽古内容、期間、合宿地なども基本的には学生主体で決めていく。

 他の大学はどうか知らないけど、ウチの大学では数年に一度監督が交代する。

 基本的にはOB総会で選出されるらしいが、一般の会社員の先輩がなるパターンがほとんどなので、仕事の合間に来てくれるような感じだ。

 だから、今の監督も週末などを中心に、来てくれるのは週1回くらいかな。

 実業団選手だったこともあるらしく、もちろん強い。

 最初は高校までとの違いに違和感もあったが、練習試合の連絡、交渉も全て学生が行うことにだんだん慣れていった。

 公式大会ですら、関東学生剣道連盟という組織があり、各大学から派遣された学生で運営している。

 なので、4年生の先輩は、主将、副将、主務(マネージャー的役割)、学連(学生剣道連盟)担当、会計、渉外(外部団体との折衝)、渉内(OB連絡)などさまざまな役職を担当している。

 すべて、自分たちで考えて行動しなければならないのが大学の剣道部なのだ。

 キリスト教主義の大学のため、安息日(日曜日)の活動は大会直前でない限り、なかなか施設使用許可が下りない。

 つまり、基本的に毎週日曜日の稽古が休みなので、アルバイトやレポート、出稽古などそれぞれ自分たちで考えて過ごしている。

 私もよく母校に帰り、稽古している。

 その際も、笠原先生にかかることは一度も欠かさない。


 大きな大会は、春の関東学生選手権(男女・個人戦)と秋の関東学生優勝大会(男女・団体戦)で、ともに上位に進出すると全日本大会へ出場できる。

 また、1、2年生のみが出場できる新人戦(男女・団体戦)もある。

 剣道部を強化部指定にしたり、体育学部のある大学ではないため、全日本へ出場するのは数年に一度程度だ。

 なので、全国的に有名な強豪大学とはいえないが、伝統があり稽古はしっかりやっている方だと思う。

 各地の県警や教員、または実業団などで卒業後も剣道を続けている先輩も多い。

 また、それ以外にも全日本学生オープン大会や東京都選手権、全日本基督教関係大学大会オールミッションなどがあり、全てにエントリーするわけではないが、ほぼ大会に向けて稽古を積み、調整していく。

 中学、高校までの部活動が学校教育の一環であるのに対して、大学の剣道部はあくまでも勝つための集団だ。

 ただし、勝つためには何をしてもよいということではなく、やはり正しい剣道で勝利を目指していることに変わりはない。

 将来の指導者を目指して、基本の積み重ねをしている人にとって見れば、大会はその一過程に過ぎないからだ。

 オフと呼ばれる期間もあり、夏は約1ヶ月、冬は約2ヶ月間も、大学での稽古はないから驚きだ。

 高校では年間数えるほどしか休みがなかったのに。

 しかし、そのオフ期間に母校の高校や剣友会、強い先輩は警察署などへの出稽古に行っているようだ。

 笠原先生は、大体月に一度くらい来てくれる。

 中高の大会後の月曜日の夜や、中間・期末考査期間などが多い。

 私たちの知らないところで、そんなふうに活動していたんだなあと改めて先生を尊敬してしまう。

 大学生に対しての笠原先生のお話は、中高生のときに聞いた以上に奥が深い。

 剣道の修行に終わりはないので、笠原先生自身も未だ修行を重ねているのだそうだ。

 だから、大学生との稽古は笠原先生自身にとって「指導」だけではなく「稽古」なのだと言っている。

 笠原先生の目標とは、かつての恩師を超えること。

 しかし、一生超えることはできないから、一生修行だということだ。


 登れない山はない。

 登るべき山が目の前にあるのは楽しいこと。


 部員はみんな「笠原先輩」と呼ぶが、私は相変わらず「笠原先生」だ。

 この壁は一生越えられないだろう。

 それが、ちょっと嬉しい。




                     3


 そして大学3年の初夏、今、私は日本武道館の試合場に立っている。

 20歳になってから初めての試合となる関東学生選手権でベスト8に入った私は、関東地区の代表として全日本女子学生選手権大会に出場できたのだ。

 幸運にも1年生のときから全ての大会に出場させてもらっているが、もちろん全日本選手権は初出場だ。

 大学としても女子の個人戦出場は10年ぶりなので、OBの先輩たちの期待も大きい。

 会場が日本武道館なので、多数の先輩たちが応援に来てくださっている。

 もちろん、その中には笠原先生もいる。

 しかも、監督が急な海外出張になり、今日の監督は笠原先生だ。

 さらに、後輩の中学、高校生がいっぱい応援にきてくれているのだ。

 頑張らないわけにはいかない。

 みんなの期待を一身に背負った私は、絶好調でトーナメントを駆け上がり、何と決勝戦へ進出していた。

 これに勝てば、日本一だ。

 自分の剣道をするために、敢えて対戦相手の試合は1試合も見てこなかったので、決勝戦の相手すらわからなかったが、私に一日中付いてくれている後輩に聞くと、「大阪の鈴木選手という2年生」らしい。

 関西学生選手権のベスト4だそうだ。

 誰でもいい。

 全力を尽くすだけだ。

「北川、ファイト!」

「頑張れ、北川!」

 どこか聞き覚えのある声が懐かしく感じる。

 先輩や仲間たちの応援を受け、最後の試合に向かう。

「唯!」

 笠原先生が声をかけてくれた。

 大学では苗字で呼ばれることの方が多いので、名前で呼ぶのは笠原先生だとわかってすぐ反応して振り向いた。

「相手が誰であっても、自分の剣道を貫くんだぞ。」

「ハイ。」

 平常心を保てということだと理解して、畳に座る。

(集中、集中、集中・・・)

 黙想しながら、頭の中で何度も繰り返す。

(自分の剣道、自分の剣道、自分の剣道・・・)

 笠原先生の声も頭に焼き付ける。


「ドーン!」

 大きな和太鼓の音が会場に鳴り響く。

 いよいよ、決勝戦の開始だ。

「始め!」

 主審の掛け声がかかると同時に、天井の照明が最高潮に明るくなる。

「オーッ」

 会場内のどよめきも、恒例だ。

 夢にまで見た決勝戦を私は戦っている。

 最初は遠間から剣先を触れさせながら相手の構えの様子や攻め方を(うかが)う。

 何故か、懐かしい感じがした。

(どこかで対戦したことあるかしら)

 近眼の私は、感覚で察知するタイプだ。

 裏声に近い相手の気合いも、なぜか心地よい。

 互いに打てないまま数十秒後、相手がサッと間合いを詰めてきて、どちらともなく鍔競り合いとなった。

(どんな表情か見てやろう)

 まだ試合が始まって間もないから、お互い疲れ切っていることはないが、中盤以降だと「疲れた顔は絶対にするな。それを見た相手が俄然元気になるからな」と笠原先生に中等部のときから言われているのだ。

 しかし、序盤であっても相手が萎縮していればこっちのものだ。

 面金越しに相手の表情を確認すると・・・!

(えっ! まさか・・・)

 こちらの気持ちを見透かすかのように、相手がニコッと笑った。

(何で・・・鈴木さんって・・・どうして)

 今、私が日本一をかけて戦っている相手は、紛れもなく美早だった。

「唯先輩、勝負よ。」

 美早は小さくそうつぶやくと、動揺している私の手元を崩して引き小手を放った。

 タイミング的にはやられたと思ったが、美早の竹刀は私の肘あたりを打っていたので有効打突にはならなかった。

 主審が私の肘を心配して、一度「止め」をかける。

「鈴木、もっとしっかり狙えや! 相手は棒立ちやでー!」

 関西弁の声援が相手席から飛ぶ。

「北川、油断するな。集中!」

 こちらの応援席からの声も聞こえる。

 応援席の少し後には、笠原先生が立って見守ってくれている。

 そうか、相手が美早ということを笠原先生は知っていたんだ。

 だから、「相手が誰であっても、自分の剣道を貫くんだぞ」って言ってくれたのだ。

 監督席に座る笠原先生からの指示を仰いでいた中等部・高等部時代のように見つめると、あの時と同じく大きくうなづいてくれた。

 これで落ち着いた。

 美早には絶対、負けない!

「始め!」

 試合が再開された。

 私が知っている美早の剣道は、中学2年の剣道歴1年の時なので、当然現在は段違いに上達している。

 しかし、私も美早と別れてから4年間、笠原先生の指導を受け続けているのだ。

 負けるわけがない。

 静かな立ち上がりから打って変わって、お互いバリバリに意識した気合の応酬が続く。

 以前よりガードが固くなった美早に、中途半端な技は通用しない。

 まずは、精神的にも動揺させることだ。

「突き!」

 高等部と大学時代に磨きをかけた渾身の諸手突きで、美早の体制を崩しにかかる。

 私がこの技を持っていることは、当然中学までの美早は知らない。

 惜しくも一本にはならなかったが、副審が1人旗を上げたため、場内が沸いた。

「面!」

 さらに、崩れたところを面に乗る。

 これも有効打突にはならなかったが、美早は膝から崩れ落ちた。

「止め!」

 一転して激しい展開に、場内から拍手が鳴った。

 倒れた美早に手を差し伸べると素早く起き上がり、「サンキュー」と言ってニコッと笑った。

 まだ、余裕がある。

 そうだ、美早はガッツの塊の子だった。

「始め!」

 今度は美早から間合いを詰めてくる。

 (あっ!)

 と思った瞬間、私の竹刀は裏から巻き上げられ、完全に手元を浮かされた。

「小手!」

 やられた。完全な一本だ。

 白い旗がサッと三本上がった。

 構えを崩されたところを、完璧に打たれた。

 相手側の応援席がはじけるような歓声に包まれる。

 美早も高校、大学で新しい技を身につけていた。

 昔から竹刀操作が得意だったところに、力強さが増している。

「まだ時間あるよ。返せる、返せる。」

 もちろん、私も決して諦めてはいない。

 美早が逃げ回らないことはわかっている。

 今は敵だけど、私たちは笠原剣道でこの世界に入ったのだから。

「二本目!」

 表から、裏から、美早は私の竹刀を巻き落とし、巻き上げようとしかけてくる。

 関東の学生があまりやらない攻めに、私は戸惑う。

「手の内をもっとやわらかくしろ!」

 自軍からのアドバイスが飛ぶ。

 わかっている。

 それより、どう攻めよう。

 どうする。

 何を狙ったらいい。

 自問自答しながら、自然体で構えた。

 頭で考えずに、瞬時の判断で動くことにした。

 巻き落とし、巻き上げには対しては構えを低くすることが有効だ。

 やや構えを下げて鍔元を攻めると、一瞬美早の構えが右小手を隠すように開いた。

「面!」

 その瞬間、体が動いて面に跳んだ。

「惜しいよ!」

 自軍も沸き立つ。

 私自身が何の技を出すか、その時になってみないとわからないのだから、美早にわかるはずはない。

 今度は美早に戸惑いの表情が見える。

 しかし、ともに有効打突を奪うことはできず、その後も技の攻防が続いた。

 美早は決して逃げることなく、どんどん攻撃を仕掛けてくる。

(楽しい・・・)

 剣道ってこんなに楽しかったのか!

 いや、相手が美早だから楽しいのかも。

 おそらく、美早も同じ思いじゃないかな。

 きっと、そうに違いない。

 この時間を永遠に終わらせないためには、私があと一本取らなければならない。

「北川、時間がないぞ、仕掛けろ!」

 赤い畳に座る主将、主務が声を張り上げる。

(大丈夫、絶対に一瞬のチャンスがある)

 例え残り一秒でも、私は絶対に集中力を切らない。

 近間の美早はかなり剣先が強いけど、遠間だと一瞬緩むときがある。

 そこを狙うべきとひらめいた。

 一瞬間合いを自分から切った時、美早の足が止まりほんの少し構えが開いた。

 その瞬間だ。

「突き!」

 この試合、二度目の突きを放つ。

 遠間なので、今度は片手突きだ。

 その剣先が、美早の喉元を捉えた。

「突きあり!」

 旗が三本上がり、主審が高らかに宣言した。

「勝負!」

 ざわめく場内に主審の声が響いた瞬間、ホイッスルが鳴った。

「おーっ!」

 終了時間一秒前の同点劇だった。

 笠原先生の方を見たら、いつもより小さくうなづいた。

 延長戦は時間を区切らず、勝負が決するまで行われる。

 ここからはサドンデスだ。

「延長、始め!」

 興奮冷めやらぬ場内に、延長戦を告げる主審の声がこだました。




                     4


「私、お父さんの仕事の関係で転校したあと、すぐに両親が離婚しちゃったんですよ。私はお母さんと一緒に過ごすことになったんですけど、もともとお母さんも大阪出身だから、そのまま隣の市にまた引っ越したんですよ。そのとき、名前が旧制の鈴木に変わったんです。すみません、ずっと伝えられなくて・・・」

 試合後に美早がここまでの経緯を話してくれた。

「急に二度も住所が変わった上に引越しのごたごたでスマホをなくしたりして、千葉の友達とも一度完全に連絡が途切れちゃったりして・・・でも、ある日フェイスブックであおいとつながったんですよ! 日本の友達じゃなくて、イギリスのあおいですよ。これってすごくないですか? あおいもイギリスでスマホを買い替えたときに登録がうまくできなかったらしくて、登録していたIDや携帯番号など全部失って困ってたみたいで・・・。唯先輩はフェイスブックやツイッターとかやってないですよね。学校に電話とかすればいいのかなとは思ったんですけど、何かできなくて・・・だから、ごめんなさい。」

 ちょろっと舌を出しながらこちらを窺うようにあやまる姿は、昔のままだ。

「そうだったの・・・美早もあおいもぜんぜん連絡取れなかったから、どうしたのかと思っていたのよ。よかったあ。あおいはどうしてる?」

 ホッとして、持ったままだったスポーツドリンクを一気に飲んだ。

「あおいもイギリスの大学で剣道頑張っているみたい。」

 そう言って、スマホの画面を見せてくれた。

 剣道着姿のあおいが色々な人種の人たちと楽しそうに微笑んでいる。

 白人、黒人、アジア人、金髪、チリチリ頭、レゲエみたいな人・・・みんなにこやかでとってもいい表情している。

 あおいはストレートの黒髪がすごく伸びていて、結構な美人になっていた。

「イギリス人だけじゃなくて、フランス、ドイツ、イタリア、中国、トルコ、ギリシャ・・・クラブには10カ国以上の留学生がいて楽しいらしいですよ。日本とは違って活動は週2回くらいしかできないみたいですけど、日本から来た有段者ってことであおいは大人気だって自分で言っていました。」

 中学生の頃から、あおいは英語スピーチコンテストとかに出場していたくらいだから、今ではペラペラなんだろうな。

 あおいとも、是非戦ってみたい。

「監督が日本人の偉い先生らしく、あおいはその先生についてロンドンやバーミンガムまで出稽古に行って頑張っているみたいですね。スクワッドとかいうオールイングランドの候補に入ったとか言っていたし。世界選手権狙っているみたいですよ。」

 画面を消すと、美早はちょっとキリっとした表情をした。

「世界選手権!? すごいわ、あおいは・・・」

 遠すぎる世界に、ハアーとため息をついた。

「何言ってるんですか。唯先輩も日本代表候補ですよ!」

「え、何で?」

 予想もしていなかった突拍子もない言葉にポカンとしていると、

「学生チャンピオンじゃないですか。きっと選手候補に入るはずですよ。ホント、おめでとうございます・・・」

 悔しさではなく、嬉しいんだという美早の目に涙があふれだした。


 延長戦のシーンはずっと脳裏に張り付いている。

 数分間の攻防の後、お互い同時に面に跳んだが一瞬私の方が早かったんだ。

 見た目は相打ちだったと思う。

 現に審判は2対1で旗が割れたんだもの。

 自分が勝ったという自信はあったが、美早と日本一をかけて戦えたのだから、正直もうどちらでもよかった。

 だから、主審が赤の旗を上げて、

「面あり。勝負あり。」

 というまで、どちらが勝ったかわかっていなかった。

 そして、試合後に畳の席から相互に目礼をした時、面越しに美早がニコッと微笑んで「おめでとう」っていってくれたのが見えた。

 近眼の私だから、見えたっていうのはもしかしたら単なる思い込みかもしれない。

 でも、確かに見えたんだ。

 これって心眼?

 私が負けても、同じようにしたと思う。

 だから、やっぱりきっとそうなんだ。

 素直に嬉しい。

 美早に勝って優勝するなんて、全くの想定外だったから。

「笠原先生!」

「よくやったな、唯。強くなったぞ。」

 そう言ってくれた笠原先生の目が真っ赤になっていて、涙が溢れそうだった。

 それを見た瞬間、私は号泣だ。

 ワンワン泣きながら頬を伝う涙を拭うこともせず、抱きつきたい気持ちをかろうじて抑えながらも先生が差しのべてくれた手をいつまでも離さなかった。

 気がつくと、まわりには夕海先輩、沙希先輩、穂波先輩、果歩先輩、里香、そして美早とあおいまでいる。

「どうして。みんなどうしてここにいるの?」

 戸惑う私に、笠原先生が

「唯、しっかりしろ!」

 と心配そうな顔をして言った。




                     5


「唯、しっかりしろ!」

 目を開けると、笠原先生がわずか20センチの距離で私を呼んでいた。

 手を握ってくれている上に、面を外してこんな近距離なんて・・・

 いやだあ、恥ずかしい。

 先生の黒い瞳に私が写っているのまで見える。

「大丈夫か?」

 えっ、何が?

「フラフラしないか? 手足はしびれていないか?」

 先生の低い声が心地よく響いている。

 辺りを見回すと、ここは試合場のようだ。

 これ、いつの話なの?

 私は美早に勝って優勝したはずなのに。

 笠原先生の手を握ったまま、私は呆然としている。

「唯先輩!」

 ビニール袋を持った美早も近くにいる。

 何でビニール袋なんて持っているのだろう。

 ちょっとおかしくなった。

 身体は何ともない。

 ようやく少しずつ現実が見えてきて、身体を起こしてみた。

「よかったあ。先輩、体当たりでもんどり打って倒れて過呼吸を起こして、気を失っていたんですよ。」

 それでビニール袋なのね。

 私の過呼吸は初めてではない。

 激しい稽古のときにしょっちゅう起こしている。

 限界点を見極められないから、自分自身でセーブできないのだ。

 ところで気を失っていたって、一体いつから?

 さすがにそこまではなったことがなかったので、笠原先生が心配してくれている。

 夕海先輩、里香、あおいも不安そうに見つめている。

 そのうしろで天代中の名札を付けた人が、申し訳なさそうに「すいません」って謝っている。

 私、まだ中学生なの?

 もしかしてさっきまでの話は、タイムトラベル?

 高校生になって、美早とあおいがいなくなって、関東大会に出場して、インターハイは行けなくて・・・

 全部、夢だったんだ。

 そして、笠原先生の母校の大学へ入って、憧れの笠原先輩の下で稽古を重ね、全日本女子選手権大会に出場して、美早と決勝戦を戦って・・・

 これは、眠って見た夢というよりも、強い願望の下で意識的につくられた夢だったのかもしれない。

 だって、笠原先生に見守られながら試合して、しかも美早に勝って日本一になれるなんて・・・!

 今すぐ、戻りたい。夢の世界へ。

 だけど、まだ試合中だったのね。

 将来の夢を先に実現させてしまったが、そこへ向かうステップになるべき中学の大会中に倒れてしまったなんて、何て情けない主将なの!

「大丈夫か、できるか?」

 笠原先生の言葉で掲示板を見ると、代表戦になっていた。

 そうだ、段々と思い出してきた。

 天代中との決勝戦。

 私が二本勝ちをして、次鋒が不戦敗(二本負け)。

 里香が頑張って一本負けの大健闘だったが、美早が何と引き分けの大誤算!

 崖っぷちの状態だったがあおいが延長戦の末一本勝ちで何とか追いつき、勝者数、取得本数とも同点だったため、勝負は代表戦に持ち込まれたのだった。

 笠原先生はメンバーを集めた場で、勝負強いあおいではなく私を代表戦の選手に指名した。

「主将の唯で勝負だ。それでいいな!」

「ハイ!」

 まっさきに答えたのはあおいだった。

 引き分けた責任を感じて涙ぐむ美早。

 同じく負けた悔しさで目を真っ赤に腫らした里香。

 いろいろな感情が交錯した3人の視線が私に突き刺さる。

 主将として任された以上、絶対に負けられない。

 最大限の気合をこめて勝負に挑んだ開始早々、面を狙って飛び込むと下から突き上げるような体当たりを受け、一瞬体が宙に浮いてそのまま背中から落ちたのだった。

 そこからの記憶がないのは、そこで半分気を失ったからだろう。


「4分経過です。」

 時計係の生徒が主審と笠原先生に伝えた。

 5分以内に試合が再開されないと、私は棄権扱いとなり負けとなる。

 そんなことになったら、ここまでみんなで頑張ってきたことが水の泡になってしまう。

「大丈夫です。できます!」

 私は自分自身に言い聞かせるように答えると手拭の端を噛み、頭に巻き始めた。

「唯先輩、絶対勝ちますよ!」

 後輩たちの声が火照った頭に心地よい。

 面をつけ終えると、一度屈伸をしてから開始線に向かって歩き出した。

 会場の観客からの拍手が鳴り響く。

「北川、ファイト!」

「頑張れ、北川!」

 さっき戦った梅村学園の大川さんや長瀬さんが声をかけてくれた。

 あっ、この声・・・!

 全日本選手権決勝で聞こえた、どこか懐かしい声は大川さんたちだったんだ。

「相手の心を打つような技、相手がもう一度この人と勝負したい、稽古したいと思うような技を出すことが大切だ。」

 笠原先生の教えがまたひとつ蘇ってきた。

「もし勝てたら、打たせてくれた相手に感謝だ。そして、逆に打たれて負けたとしても、素晴らしい技を見せてくれた相手に感謝だ。そういう気持ちで相手を尊重する態度を忘れなければ、次に同じ相手と対戦するときに、もっとレベルの高いところで戦えるのだぞ。」

 きっと大川さんたちとはまたいつか戦う日が来る。

 それは、高校の県大会かもしれないし、大学の全国大会かもしれない。

「唯先輩、ファイト!」

「唯、しっかり!」

 もちろん、美早、あおい、里香、夕海先輩らも応援してくれている。

 そして、開始線から改めて笠原先生の方を見たら、穏やかな表情を浮かべて大きくうなづいてくれた。

(勝てる)

 私も先生を見てうなづいた。






このストーリーはフィクションです。

登場する人物、学校などは実在するものではありません。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ・主人公の心情にリアリティーがあり、イメージしやすかったです。 ・純粋な気持ちになれました。 [気になる点] ・憧れの先生がイケメンで、欠点の描写が全くないのが少し残念です。こんな人が実在…
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