子爵令嬢ウェンディの羨望と懺悔
前作『自動退場の悪役令嬢』
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先にこちらをご覧ください。
「まあ、すごいわ! そうだ、その能力役立ててみない?」
初めて私を認めてくれたのは、家族でもなく、乳母でもなく、貴女でした。
――――サニア様。
幼いウェンディは、母たるマンス子爵夫人に連れられ、縁戚の伯爵家主催のお茶会へ参加するべく馬車に乗せられていた。
「いいわね。お前は目を伏せ、耳を塞ぎ、口を開いてはなりません」
「はい、お母さま……」
マンス子爵夫人はウェンディに目も合わさず、きつく言い聞かせる。まだ十になったばかりのウェンディは、母の威圧的な態度に縮こまることしかできない。
そのままどれだけ馬車に揺られていただろうか。気付けば目的の伯爵家に到着したのか、母が忌々しそうにウェンディを馬車から降ろす。
伯爵家の執事に迎え入れられ、マンス子爵夫人は表面上にこやかにもてなしを受ける。ウェンディは、慣れぬ伯爵家とこれから始まる茶会に不安を隠しきれず母の顔を見上げるが、手を引くどころか振り返ってもくれない。諦めて、まるで母の陰のようについて歩くほかなかった。
茶会の会場となる伯爵家の庭園は、子爵家の庭園と比べて大層立派なものだった。
参加者が全員集まったのか、茶会は華やかに始まった。
貴族の子供たちも多くこのお茶会に参加しており、大人たちと離れてそれぞれ楽しそうに遊んでいた。主催者の伯爵夫人は、ウェンディに他の子供たちと遊ぶよう勧めてくれたが、礼儀がなっていない、粗相をするといって母がそれを許さなかった。
(いいなあ、わたしも遊びたいなあ……)
ウェンディは母の目を盗んでは、庭園で遊ぶ同年代の子供たちを眺める。駆けまわる令息たちに、輪になっておしゃべりを楽しむ令嬢たち。その中でも一際目立つ令嬢に、ついウェンディは目を奪われてしまう。
年は自分と同じか、向こうのほうが一つか二つ上だろうか。髪、ドレス、装飾品は今まで見たことのないほど素晴らしい一級品だった。しかしそれ以上に、朗らかなその笑顔にとてつもなく惹かれた。子爵家の中では、そんな風に笑う人も、笑いかけてくれる人もいなかったから。
そうやってちらちらと令嬢を見ていたら、なんと目があってしまった。ウェンディは慌てて視線を足元に戻す。とりあえず、母は言いつけを破っていたことに気づかなかったようだ。一安心しつつも、視線に気づかれてしまった以上、盗み見るのはもうやめようと落胆する。
「ねえ」
だから気づかなかったのだ。その令嬢がすぐ横に来ていたことに。
ウェンディは話しかけられたことに驚き、勢いよく声のほうに振り向く。
「ふふ。驚かせちゃったわね。よかったら私とお話してくださらない?」
先ほど見つめていた笑顔がすぐ目の前にあることにびっくりして、ウェンディはすぐに返事ができなかった。その代わりに返事をしたのは母だった。
「ディル公爵家のサニア様とお見受けいたします。申し訳ありませんが、この子はまだ礼儀を覚えている最中なのです。到底サニア様のお話し相手を務められるような子ではないのです」
「わたくしは気にしませんわ。それに、礼儀のことならばわたくしも教えて差し上げます。それなら、わたくしは話し相手ができて、この子は礼儀を身につけられる。一石二鳥でしょう?」
ですが……と、なおも断りを入れようとする子爵夫人を無視して、その令嬢はウェンディの手を引いて走り出す。
「はあ、はあ。ここまで来ればいいかしら」
全速力で庭園の端まで走り抜けた二人は、 ひっそりと佇む東屋に腰を下ろす。息を整えながら、ウェンディは頭の中で状況を整理しようと元々出来の悪い頭を精一杯働かせる。
最初に口火を切ったのはサニアだった。
「自己紹介が遅れましたわ。わたくし、サニア・ウィークス・ディルと申しますの。あなたのお名前を伺ってもよろしいかしら?」
サニアは屈託なくウェンディに笑いかける。ウェンディも名乗ろうとしたところで、母の言いつけを思い出す。
『お前は目を伏せ、耳を塞ぎ、口を開いてはなりません』
母のあの恐ろしい眼差しを思い出して、ウェンディは途端に何も言えなくなってしまう。サニアは、突然うつむいて唇を震わせるウェンディの様子を見て、急かすことなくゆっくり待つことにした。
そのままどれくらいの時間がたったのか、ウェンディには数分にも数時間にも感じられる。恐る恐る視線をあげると、穏やかにほほ笑むサニアがいた。
「ゆっくりで構いませんのよ。元々、わたくしが無理やり連れてきてしまいましたしね」
話したくないなら、私の話を聞いてくださるだけで十分ですの。
サニアの言葉を聞いて、ウェンディは思わず首を横にぶんぶんと振る。
「ち、違うのです……。あ、えと、そうじゃなくって……」
「ふふ、まず名前を教えてくださる?」
「ウェンディ・マンスです……」
「まあ、素敵な名前ね! ウェンディと呼んでもいいかしら?」
サニアの笑顔につられるように、ウェンディも少しだけ微笑む。
それから二人は、好きなもの、お気に入りの菓子、流行りの物語など他愛のない話で盛り上がる。
ふと会話が途切れたとき、ウェンディは思い切って疑問を口にする。
「あの、サニア様、どうして私にお声をかけてくださったのですか……?」
「だってあなた、羨ましそうにこっちをちらちら見てるんだもの」
気付かれていたことに、ウェンディは羞恥で顔を伏せてしまう。サニアはそんな様子のウェンディを見て、いたずらっ子のように微笑む。
「そんなに羨ましそうにこっちを見てるのに、一向に来てくれないんですもの。だから、もしかしたら自分からは来れないのかと思って、わたくしから行ってしまいましたわ」
さて、もうそろそろ戻ったほうがいいですわね。
東屋に来てしまってからずいぶん経つ。サニアはウェンディの反応を確認することなく、戻るべく歩き出す。ウェンディもサニアを追いかけて、二人は名残惜しむようにゆっくりと並んで歩く。
「ねえウェンディ、またわたくしとお話してね。絶対よ?」
すぐに”はい”と答えられない自分が恨めしかったが、サニアのその言葉にウェンディの胸の奥が温かくなる。
そして事件が起きたのは、貴婦人たちが集う庭園に戻った直後だった。令嬢たちが、落ち着かない様子でいる。すぐに異変に気づいたサニアは、ウェンディを連れてすぐに令嬢たちの元へ向かう。
「ごきげんよう、どうかなさいましたの?」
「あ、サニア様……」
半泣きになっている令嬢が、サニアの存在に気づき礼をする。
「こんな状態で、申し訳ありません」
「構いませんわ。何があったのか、よければお話してくださる?」
実は、と令嬢は涙をハンカチでぬぐいながら語りだす。
「ブローチを、落としてしまったのです。気付いたら、なくなっていて、探しているのですが見つからなくって……」
「まあ……そうでしたの」
令嬢は再び顔を覆って泣き出してしまう。令嬢の周りには、友人たちが集まって声をかける。
「大丈夫よ、きっと見つかるわ」
「ええ、そうよ。だから元気を出して」
「それにそんなに高価なものじゃないんでしょう? サニア様に迷惑になってしまうわ、早く泣き止んで」
令嬢が友人たちに囲まれてしまったため、サニアはブローチの特徴を聞き出すタイミングを逃してしまう。令嬢とは茶会の初めに挨拶を交わしたが、さすがにブローチまで覚えていない。どうしたものか、とサニアが思案しているとウェンディが恐る恐る声をかける。
「あの、サニア様。ブローチって百合のモチーフのものですよね」
「ウェンディ、知ってるの?」
「あ、いえ、先ほど偶然お見掛けして……」
わたくしたちの方をずっと見ていたわけじゃないのに、すごく記憶力がいいのね。
サニアは感心しながら、ブローチの特徴をウェンディから聞き出す。
手のひら大で、銀細工の真珠があしらわれたもの。ブローチの中央にはクリスタルが三つ。
すでにブローチを捜索している令嬢たちに確認すると、ウェンディの言った特徴とぴたりとあてはまった。さらに、先ほどからこのあたり一帯を探しているが見つからないということ。
(ここまで探しているのに見つからないというのも、妙ですわね)
まさか誰かが。嫌な考えを振り払い、サニアもブローチを探し出す。
ウェンディにも手伝ってもらおうと振り返ると、彼女はじっと花壇を見つめていた。
「どうしたの?」
「さっきと、少し違うなと思いまして」
サニアが花壇を見ても、何が違うのかさっぱりわからない。
「さっきと変わらないと思うのだけど……」
ウェンディは迷うことなく花壇の奥に手を伸ばし、土を掘り返し始めた。手やドレスが多少汚れたものの、ハンカチに包まれたそれはでてきた。
「それ……!」
「はい、探していたブローチです」
すぐに令嬢に確認すると、間違いなく彼女のものであった。
「ありがとうございます! 誕生日にもらった大切なものだったんです!」
令嬢は、さっきまでの涙が嘘のように笑顔でウェンディに礼を述べる。周囲の友人たちも、口々によかったねと喜びを分かち合う。
花壇に隠されていたということは、おそらく誰かの悪質ないたずらだろう。しかし、この場をしばらく離れていたサニアとウェンディに犯人を探すすべはない。せめて再び被害にあわないようにと祈りながら、サニアはウェンディに向き直る。
「それにしても、よくわかったわね」
「はい、花壇の様子がさっきと違いましたので」
「ちょっとしか見ていないブローチの特徴も正確に覚えているし、花壇のちょっとした変化にも気づくなんてすごく記憶力がいいのね!」
「――――え?」
記憶力を褒められたのは、生まれて初めてだった。
ウェンディは生まれついて、見たもの、聞いたものをそっくり記憶することができた。だから部屋に髪の毛一本落ちただけで気付くし、会話をまるで録音したかのように再生することもできる。今より幼いころは無意識のうちに家族や侍女たちの会話を口にしてしまい、随分気味悪がられてしまった。
家族に決定的に嫌われてしまったのは、父の商談を一度破談にしてしまったあとだ。父が友人に話していた商談相手の悪口を、その商談相手の前でそっくりそのまま喋ってしまったのだ。
記憶力の良さが災いして、その時の父の怒り様は一言一句まで覚えている。そのときから、ウェンディは家族からまるで腫物を触るように距離を置かれてしまった。
――――――お前は目を伏せ、耳を塞ぎ、口を開いてはなりません。
それは、余計なことを覚えるな、そして記憶したものを口にするなという母の命令だった。それでも公の場に連れてくるのは、いずれはどこかに嫁がせて、子爵家から追い出したいからだろう。
「ねえ、どこまで記憶できるの?」
サニアは無邪気にウェンディに問いかける。
ウェンディはなんと答えるべきか戸惑う。もしかしたら、気味悪がられるかもしれない。でも、公爵令嬢相手に嘘などつくことはできなかった。
「その、一度見たものや、聞いたことは、基本的に忘れません……」
ああ、サニア様にも嫌われてしまうのかな……。
せっかく仲良くしてくれたのに、とウェンディは絶望的な気持ちになる。
しかし、ウェンディの杞憂とは裏腹に、サニアは興奮したようにウェンディに詰め寄る。
『まあ、すごいわ! そうだ、その能力役立ててみない?』
ウェンディの能力は腐敗しかけている貴族たちの不正を見破るのに必ず役に立つ――そう言って、サニアは王子やその側近候補たちと引き合わせた。ウェンディはすぐに彼らと馴染み、王子の理想に共感した。何よりも、婚約者として王子を支えるサニアを支えていきたいと思った。
いつしか、ウェンディにとって、サニアは憧れの人となっていった。
数年後、サニア達とともに王立学院への入学を果たしたウェンディは、努力に努力を重ねて学業を修めていった。お世辞にも賢いとは言い難い自分では、授業についていくのも精一杯だったが、それが敬愛するサニアのためと思えば全然苦ではなかった。
たとえ家族に認めてもらえなくとも、サニア様は期待してくださっている。
サニア様のようにはなれなくとも、お側にいるのに相応しい淑女になりたい。
ウェンディは、その一心でひたすらに頑張っていた。
だから、最終学年に進級して少しあと、サニアの変化にショックを隠せなかった。
(いつも、やさしく笑いかけてくださったのに。どうして私を避けるのですか? ウェンディは何かサニア様にしてしまいましたか?)
サニアは最初、ウェンディを避けるようになった。次に、幼馴染たちからも距離を置くようになった。次第に、差出人の分からない誹謗中傷が書かれた手紙が届くようになった。筆跡は汚いものだったが、幼馴染しか知り得ない内容から、すぐにサニアの差し金だと分かった。私物が紛失したり、ごみで汚されるようになったのは五通目の手紙が届いた後だ。
ウェンディは憧れの人からのいじめに、少しずつ憔悴していった。高い記憶力によって手紙の内容一言一句さえ忘れられず、夜も満足に寝られない。
「大丈夫か。随分と顔色が悪いぞ」
「フライ様……」
フライ王子はウェンディのあまりの憔悴ぶりに、サニアへの憤りを隠せない。
「安心しろ、僕が何とかする。だから、ウェンディはまず休むんだ」
身体を壊したら元も子もないだろう、という王子の言葉に促され、ウェンディは学校を一か月ばかり休むことにした。けれど、寝ても覚めても考えるのはサニアのことばかり。学院から離れることでいくらか体を休めることはできたが、やはり根本的に解決しなければ意味がない。
(直接、サニア様と話そう。もしも私が何か気に障るようなことをしたのなら、ちゃんと謝って……)
しかし、無情にもその決意は砕かれる。
「貴女みたいな下賤な者、視界に入れるにも値しないわ。消えて」
――――消えて。
その言葉が、ウェンディの頭から離れない。
お母さまのような、厳しい眼差しすら向けてもらえなかった。サニア様は、もう自分に関心などないように、視線すらくださらなかった。
その日から、ウェンディはまるで生ける屍のように学院生活を送っていた。今まではサニアのためと頑張っていたものが途端に頑張れなくなる。当然、授業についていけず大量に試験や課題を受けることとなり、それもウェンディの体力を奪う一因となっていた。
見かねた幼馴染や王子たちは何とかウェンディを励まそうと、評判の菓子を用意したり観劇に誘ったりしたが、どれも大した効果はなかった。
ウェンディの菓子に虫が盛られていたり、茶がわざと渋く淹れられるようになったのはこの頃からだった。
(私の何がいけなかったのですか。どうしたら、またお側に置いてくださるのですか)
毎日、サニアのことばかり考えていた。
そして卒業も迫ってきたある日、フライ王子から衝撃的な一言が告げられる。
「サニアとの婚約を破棄する。そして、代わりにウェンディ、君に僕と婚約をしてもらう」
ウェンディは、はじめ王子が何を言っているのか理解できなかった。
「え……。そんな、なぜですか?」
ようやく出てきたのは、その一言だった。
「サニアに見切りをつける。そして、君は長年僕たちと共に過ごし、僕の理想も分かってくれている。サニアの代わりが務まるとするならば、ウェンディしかいない」
そう説得され、ウェンディには頷くほかなかった。
サニア様が婚約破棄され、自分がその後釜に収まる。
(サニア様は、私のことどう思われるの……)
結局、ウェンディはサニアのことしか考えられなかった。
「王位第一継承者、フライがここに宣言する! ディル公爵家サニアとの婚約を破棄し、マンス子爵家ウェンディを婚約者とする!」
貴族の子女たちが一斉に集まる卒業祝賀パーティー。そこで、事前の計画通り婚約破棄と新たなる婚約が発表された。
サニアの言葉に、ウェンディは心が引き裂かれる思いだった。最後に勇気を振り絞った言葉も無情に切り捨てられ、溢れ出す涙を止めることができなかった。隣の王子が肩を支えてくれなければ、泣き崩れていただろう。
最後まで気高く、自分を振り返りもせずに去っていくサニアの後ろ姿に、ウェンディはようやく側にいられないという事実を無理やりにでも受け入れられた気がした。
サニアが謹慎をしていたその間に、婚約破棄の手続きと新しくウェンディとフライ王子の婚約が進められた。
――――ウェンディは婚約に関する些末なことに追われ、真実を知ったのはすべてが終わった後だった。
「……そんな、うそ……」
学院を卒業したため、婚姻に向けて居を王宮に移していたウェンディに知らせたのは伯爵子息のサルタだった。
「ほんとさ。ムーランに頼まれて、あいつの実家のパイプまで使って調べたんだ」
ウェンディに頭を殴られたような衝撃が走る。
「そんな、ご病気、だったなんて……」
どうして気づかなかったのだろう。一番お側にいたのに。
最終学年に進級してからのサニアの姿を、脳内で必死に再生する。
(ああ、なんで私……)
ドレスで体型は隠れ、扇で顔色も隠されてしまっていたけれど。確かに少しずつ細くなり、肌が蒼白くなっていくサニアが頭の中に浮かぶ。
「フライ王子もご存知だ。すでに、サニアに領地本邸での軟禁を命じたよ。まあ、実質的には領地での静養だね。ムーランもそれに同行している」
サルタはそれだけ告げると、ウェンディの居室を静かに去る。
あまりの衝撃に、自分の愚かさに、ウェンディは茫然自失するほかなかった。
独りきりの自室で、どれだけそうしていただろうか。そしてようやく、ウェンディは一つの結論に辿り着く。
(そうか、私は、所詮”憧れ”ていただけだったんだ)
そう、羨望の眼差しで見つめていただけ。サニア自身のことを見ようとしていたわけじゃなかった。憧れるばかりで、何一つサニアを理解しようとしなかった。
幼馴染たちから距離を置いたことも、わかりやすいいじめを行ったことも。サニアにはすべて理由があったのに。
――――自分はただ、どうしてとごねただけ。顧みてくれないことに嘆いただけだった。
その事実に気づいたとき、ウェンディには再び熱いものがこみ上げてくる。
けれど、今の自分に泣く資格などありはしない。
(……サニア様、申し訳、ございませんでした)
ウェンディは一晩中、自分の罪の懺悔とそれでもなお消えぬ羨望の感情を、聞く神もいないまま告白し続けた。
(もう一度だけ、お会いしたいです)
別視点『伯爵令息サルタの怠惰な舞台』
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