樹海の闘い(2)
「もう、すぐそこやな。」
翡翠は、ところどころ銃弾や砲弾によって抉られた樹木が多くなってきた風景を見ながら呟いた。
乱立する樹木の幹を避け、無数に垂れ下がる大蛇の胴回り程もある蔦を払い、小柄な自分の背丈を覆い隠す程の草を掻き分けて進むと、視界が急に開け、突然ソレは現れた。
満月の蒼い光に照らされたピースフロンティア終焉の崖は、いくつもの亡骸がポイ捨てされた煙草や紙屑のように転がり、乾いたドス黒い血が大量に岩肌と土を迷彩柄のように染めていた。
その中を翡翠は周囲を窺いながら、死体の隙間を縫うように歩みを進める。
しばらく進んだ翡翠は、一体の死体の前に身を屈めた。
その死体は、機械化がほぼ施されていない新兵らしき小柄な黒人の女性兵士で、身体にほとんど損傷がなく、眉間を打ち抜かれていた。
翡翠はその死体から戦闘服を丁寧に脱がすと、その下に身に着けていた上下一体式のラバースーツのようなパワードスーツを剥き出しにした。
その前面のファスナーに手をかけると、静かにソレを引き下ろす。
開かれたファスナーからは、下着を身に着けていない黒い肌が露出し、成長途中の幼い未発達の胸がこぼれた。
「ウチより・・・年下っぽいな・・・」
パワードスーツを脱がした翡翠は、アンダーヘアも生え揃っていない素っ裸の女性兵士を見つめながら呟いた。
敵兵ではあったが、私怨があったわけではない。こんな自分よりも年下の少女が夢半ばにしてこんな死に方をしている事に、同情せずにはいられなかった。そもそもこの少女に夢があったかは、定かではないが・・・。
翡翠は、パワードスーツを小脇に抱えると立ち上がり、再び進み始めた。
そのうち、奇妙な事に気づいた。
「仲間の死体が・・・ない?」
無限とも思える兵士の死体の中に、ピースフロンティアの死体が一体も見つけられないのだ。
黒く乾燥した血の中には、月明かりに照らされ輝くオリハルコン粒子を含むものが幾つもあり、それらには明らかに致死量の出血を表すものも多数あった。
なのに、ピースフロンティアだけの死体が無い。
「回収された?どこに?ニーズヘッグ?ウチ等を廃棄処分したのに?マンティコア?自兵は放ったらかしにして?」
翡翠は1人で自問しながら周囲を見渡す。
満月を望む崖の先端に近い位置にある岩に、3人の人影が集まっているのが見えた。
翡翠は、死体を踏まないように注意しながらその岩に向かって走った。
あまりに多くの死体を目の当たりにしたせいか、翡翠の精神は鬱になったかのように沈んでいる。
「アンバー、コーラル、ガーネット!!」
声が届く範囲まで近づいた翡翠は、岩に座る仲間の名前を呼んだ。
早く仲間と合流して、この沈んだ気持ちを少しでも浮き上がらせたかった。
しかし、声に振り返り、翡翠の顔を見たガーネットの口から予想だにしていない言葉が飛び出した。
「なんや、翡翠。いくら仲間の死体が見当たらないからって、そのニヤケ面は不謹慎やぞ。」
ガーネットのこの言葉は、翡翠を凍りつかせるのに充分過ぎた。
この時の翡翠の精神状態は、とても笑みなど浮かべるはずがなかったからだ。
翡翠は咄嗟に顔を手で覆う。
「ん?どないした、翡翠?」
ガーネットが怪訝そうに翡翠を見つめる。
その言葉は、翡翠自信の激しく脈打つ心音に邪魔されて、耳に届いていなかった。
翡翠の全身の皮膚に汗が吹き出し、顔に吹き出した汗がつたい流れ、顎の先端から滴り落ちる。
全身が痺れたような感覚になり、思うように動かせない。
胸が締め付けられるように痛み、息が出来ない。
明らかにパニック状態を示す症状だ。
それもそのはず、あの水溜まりに映し出された卑猥な笑みを浮かべた自身の顔。あれは幻覚だと自分自身に言い聞かせ、自分自身を納得させた。なのに自分の精神を安定させていた自己暗示は脆くも崩れ去ったのだ。第三者の言葉によって…。
「おい、翡翠!!!!」
目の前で発せられているはずのガーネットの大声が遠くに聞こえる気がした。
今にも酸欠で倒れそうになった時、両肩を力強く掴まれた。
弱々しく顔を上げると、そこには真剣な眼差しで自分を見つめるアンバーがいた。その肩越しに、心配そうに見つめるコーラルの顔も見える。
「翡翠、肺が空になるまで息を吐いて、ゆっくり吸え。」
翡翠は弱々しい眼でアンバーを見つめると、言われた通りに息をする。
それを繰り返すうち、身体と精神の不調が、ゆっくりと回復して自律神経が正常に機能を取り戻した。
「ごめん、アンバー、もう大丈夫や。」
不調の原因の一端を知っているかのように真剣な眼差しで見つめるアンバーに翡翠は言うと、肩に置かれた手をそっと外した。
「ちょっと、大丈夫なん?翡翠。」
コーラルが立ち上がろとする翡翠に肩を貸す。
「大丈夫やって。ちょっと疲れてるみたいや。」
翡翠は、自分の意思で笑顔を作る。
その顔を見て、コーラルもガーネットもようやく安心した様子だった。
その中で、アンバーだけは真剣な表情を崩さず、翡翠を見続けている。
それに気づいた翡翠は、ばつが悪そうに顔をそむけると、ガーネットの背中の出血に話を反らした。
「ガーネットこそ、どないしてん?その背中の傷は。」
ああ、これ?っと、ガーネットが背中の傷を首を回して見ようとする。
「ちょっと子持ちの熊さん夫婦に出くわしてな、挨拶したらぶっ飛ばされた。」
そう言って、ガーネットは笑う。
「ガルダベアか?ブリーフィングで充分気を付けるよう言われたやん!!」
「そうやったっけ?」
ガーネットは、とぼける。
「あんた、オリハルコンセンサー、下手やもんな。」
コーラルがバカにしたように茶化した。
「あんなんは女子供の得意分野や。豪快な俺みたいな男には必要ない!!」
ガーネットが腕を組んでふんぞり返る。
「で、その豪快な男様は、傷つきながらもガルダベアを倒したん?」
翡翠がニヤニヤしながら訊く。
「俺は、罪のない動物は殺さん!!お前とはちゃうんや。」
ガーネットはキメ顔をして、翡翠の顔を指差す。
「ウチも殺さんっちゅうねん!!熊ちゃん大好きやっちゅうねん!!ガルダベアの金色の首回りのたてがみに顔埋めて、モフモフしたいっちゅうねん!!!!」
翡翠は自分に向けられたガーネットの指を払うと、ガーネットの顔を指差して続ける。
「だいたいやな、この時期のガルダベアが狂暴なんは、育児の為の防衛本能や!!人間が熊ちゃんのテリトリーに入らんかったら無害なんやで!!気ぃ抜いて、熊ちゃんのテリトリーに入ったアンタがアホなんや!!!」
キーキーと捲し立てる翡翠の頭を撫でて、コーラルがなだめる。
そのやり取りを見て、アンバーにようやく笑みが溢れた。
「結局、マンティコアの残兵に出くわしたんは、アンバーだけか。」
翡翠の頭を撫でながら、コーラルがアンバーの顔を見る。
「なんや、アンバー、マンティコア兵に出くわしたんか?半機械化兵か?倒したんか?」
翡翠の興味は一気にアンバーに向く。
「本人曰く、完全機械化兵のテストモデルらしい。なんとか、ギリギリ倒したわ。」
翡翠の勢いにたじろぎながら、アンバーは答える。
「完全機械化兵やて?」
翡翠は、まるで夢物語を聞かされた子供のように目を輝かせる。
「なんで、嬉しそうやねん。」
そんな翡翠に、ガーネットがすかさず突っ込んだ。
「ギリギリ・・・って言う割には、掠り傷程度よね?」
コーラルのその言葉は、アンバーを除く全員の脳裏に聖域でのアンバーを思い浮かばせた。
カイザータイプを、圧倒的な戦闘力と超人的な運動能力で蹂躙してみせたアンバーを。
「たまたま、上手いこといっただけや。」
アンバーは顔の前で手を振る。
「それより・・・」
アンバーは話題を変えるように立ち上がると、辺りを見渡して言う。
「皆、当然気付いてると思うけど、仲間の死体が一個もない。これ、どう思う?」
「マンティコア兵のは、めっちゃあんのにな。」
翡翠もアンバーと同じように、辺りを見渡す。
「粒子の混じった致死量の血痕が多数あることから、仲間はほぼ、全滅したと考えていいと思う。」
アンバーは翡翠に返す。
「ピースフロンティアの死体だけ回収した?」
ガーネットが手で口を押さえ、考える素振りをする。そのまま少し間をあけ、続ける。
「だとしたらや、回収したのはニーズヘッグか?それとも、マンティコアか?」
「ニーズヘッグは膨大な金と時間をかけた計画のウチらを、いとも簡単に切り捨てたんやで?」
ガーネットの言葉に翡翠が感情的になる。
「膨大な金と時間をかけたからこそ、死体だけでも回収したかったんちゃうか?死体からでも膨大なデータはとれるやろ…」
ガーネットが冷静に返す。
「ピースフロンティアのデータなら、マンティコアはもちろん、ギーヴルもケートスも欲しがるやろ。」
2人のやり取りを腕を組んで見ていたアンバーは、ここで口を挟んだ。
この言葉に、ガーネットと翡翠が黙りこむ。
確かにその通りだ。軍事大国が膨大な資金と時間を費やした国家プロジェクトのデータなら、同じように軍事を売りにする国なら喉から手が出る程欲しいはず。それが、死体であっても。そしてそれが例え、世界中の批難の的になるような、非人道的なプロジェクトであったとしても。それを欲しがる国はケートス、ギーヴル、マンティコアに止まらないだろう。大規模テロ組織や武力組織、過激派宗教団体に至るまで、武力や暴力を目的の手段とする輩なら誰でも手を伸ばすお宝だ。
「まあ、それでも、状況から考えて、マンティコアかニーズヘッグってのが妥当やろな。」
アンバーが、やりきれない表情で呟く。
「推測であれこれ言うても、結論は出えへんで。」
コーラルはそう言うと、マンティコアの女性兵士から剥ぎ取った、ラバースーツのようなパワードスーツを小さな岩に引っ掛け、おもむろに服を脱ぎ始める。
コンバットブーツを脱ぎ、防弾・防刃の
ベスト、迷彩服、迷彩パンツと順に脱ぎ、次々と小岩に投げ掛けていく。そして、あっと言うに白い下着だけの姿になる。
満月の蒼い月明かりに照らされたコーラルの下着だけの身体は、月明かりを蒼白く貼り付け、反射させ、まるで美術品の彫刻のように均整のとれた美しい曲線を露にした。
これには、昔からコーラルの裸を見馴れているアンバーやガーネットさえ、思わず視線を釘付けにされてしまっていた。神がかり的で神秘的な光景を目の当たりにしたように。
「何、見てんてん。」
コーラルの言葉に我に返った2人は、何も言えずに視線を游がせる。
「翡翠まで・・・あんた、まさか、そっちの気があるんとちゃうやろね?」
コーラルの言葉で翡翠の顔が耳まで瞬間的に真っ赤に染まった。
翡翠自身気付かぬうちに、他の2人同様、月明かりを浴びたコーラルの幻想的で美しい肢体に心を奪われ、見とれてしまっていた。
「ち、ちゃうわっ!!」
翡翠は慌てて言い顔を背けると、真っ赤に染まった顔を冷ますように両手で煽ぐ。
「やっぱ、きついなぁ・・・。でも、まあ、許容範囲か。」
コーラルはパワードスーツ前面中央のジッパーを引き上げると、両手で胸を抑えて苦しそうに言う。
「翡翠、あんたも奪ったスーツ、着てみいよ。胸んトコにゆとり有り過ぎると、動きにくいで?」
この言葉を聞いた翡翠に微かに笑みが浮かんだのをアンバーとガーネットは見逃さなかった。
今回は翡翠自身も自覚出来た。
翡翠は、身体の中心・・・子宮辺りにむず痒い違和感を感じた。
その違和感は次第に大きくなり、なんだか気持ち良くさえ思えてきた。
翡翠の浮かべた微かな笑みが、次第に卑猥な笑みへと変化して行く。
「おいおい、何で、乳の大きさヒトツで、そんな啀み合うんや?単なる脂肪の塊やんけ、そんなもん。」
翡翠の瞳の奥に人知れず微かな琥珀色が浮かぶと同時に、ガーネットがピリっとした空気を読んでないかのような調子の声で割って入った。
アンバーが樹海に入った直後にガーネットに尋ねた言葉だった。
ガーネットは確か自分のこの問いに的確な答えをくれたはずだったのに・・・と、アンバーは小首を傾げる。
「べ、別に啀み合ってなんかないわ!!乳が大きないからって、別に僻んでなんかないもん!!」
翡翠がムキになって言い返す。
この翡翠を見て、アンバーは何故ガーネットがこの言葉を発したのか、なんとなく理解した。
やはり、彼は鋭い・・・。
「脂肪の塊ってなんなんよ!!男はその脂肪の塊に夢中になるんやん!!!!ちっやいより大きい方がええに決まってるやん!!!!なあ、アンバー?」
ガーネットの鋭さに感心しているところに急にコーラルに話を振られたアンバーは少なからず狼狽する。
それを悟られないよう、なんとか取り繕って顔を斜め上へ向け、考える素振りをすると、
「確かに、無いより有る方がええな。でも、乳輪と乳首の大きさは、小さい方がいい。乳房はコーラル、乳輪と乳首は翡翠ってのが好みやな。」
と、人差し指を立てて、キッパリと言い切った。
会心の返答を導きだしたと自慢気な表情を浮かべるアンバーとは反対に、3人の表情は不自然に固まっていた。
アンバーの理解出来ないことに、場の空気は完全に凍りついていた。
熱帯雨林気候特有の、湿度が肌に絡みつくような不快感であるはずの、この場所の空気が、この場所だけの空気が、凍えるほど冷えきっていた。
その凍りついた空気を、ガーネットの大笑い声が溶かし動かした。
振り向くと、ガーネットが腹を抱えて笑い転げている。
「こいつ、マニアックやぁ~、それも、相当コアなマニアやぁ~。」
ガーネットはヒーヒー言いながら、苦しそうに笑い転げ続ける。
女性陣はというと、ガーネットとは対照的に、汚物を見るような嫌悪感丸出しの視線を投げかけてきていた。
今更ながら、自分の失言に気付いたアンバーは、いままでの人生で経験した事のない程の恥ずかしさを感じ、顔が尋常じゃないほど赤く染まった。それこそ、顔から湯気が出そうな勢いだ。
「あー、おもろかった。さぁ、盗るもの盗ったし、帰ろうや。」
ひとしきり笑い転げて満足したガーネットはそう言って敵から奪った武器の入ったバックパックを背負うと、樹海の中に消えて行った。
「この変態!!」
ガーネットを呆然と見送ったアンバーの横を、ガーネットと同じように大きなバックパックを背負ったコーラルが言葉を吐き捨て通り過ぎる。
「マジ、引くわ・・・」
続いて翡翠も嫌悪感丸出しの口調で言うと、樹海に消えてしまった。
かくして、ピースフロンティア終焉の崖の上には、呆然と立ち尽くすアンバーだけが残された。
そんなアンバーの右耳に差し込まれていた通信機が、呼び出し音を発する。
アンバーは義務的に通信をオンにする。
『ナイスジョークやったで、アンバー。翡翠も落ち着いたやろ。』
通信者はガーネットだった。
「やっぱ、気付いてたんか?」
『なんとなくおかしいなぁ…って程度にはな。翡翠のやつ、疲れてるだけやったらええけどな。』
ほんと、オリハルコン粒子の使い方は下手なクセに、直感的な部分は鋭いヤツだ・・・と感心してしまう。
『正直・・・』
アンバーが感心していると、少し間をあけて、ガーネットが話始めた。
『聖域でカイザータイプを相手にしてる時のアンバー・・・あれと同じ感じを翡翠から感じたんや。』
この言葉にアンバーはドキリとした。
アンバーも先程の翡翠に、ガーネットの感じたものと同じものを感じていたからだ。
『なぁ、アンバー。あの時のお前は、あれは、なんやったんや?』
ガーネットの質問に、息が詰まる。
的確な答えなど答えられるわけがない。自分自身、理解不能なのだから。
ただ、先程のマンティコア兵を相手にした時に、聖域での時と同じ状態になった事は、言うべきではないと思った。
「よう解らん。あん時は必死やったから・・・。翡翠も道中、仲間の死体を見たみたいやから、情緒不安定になっとっただけとちゃうか?」
アンバーは、自分自身にそうであって欲しいという希望的観測を言い聞かせるように言った。
『・・・。そやったらええけどな。』
そう言い残して、ガーネットからの通信は切れた。
本当にそうであって欲しい。自分も、翡翠も。ただ必死だったが故に出た、火事場のくそ力的なものだったと。
アンバーは軽く空を仰いで、樹海に戻っていった。
空には、蒼く美しい光を放つ満月が静かに輝いていた。アンバーの不安を掻き立てるかのように。
翡翠は、なんとなく来た道をただ戻るのも面白くないと思って、違う導線を通って戻ることにした。
これも気分的なものだと思うが、戦場痕もこれ以上見たくなかったのか、記憶にある場所は避けるように歩き進んだ。
不思議とアンバーの失言と絡んでから、自分でも理解不能だった身体の中心から沸き上がってきたナニかは消えていた。
翡翠は立ち止まり、少し悩んでから、通信機の個人指定のチャンネルに合わせ、呼び出しボタンを押した。
『翡翠、どないした?』
呼び出しボタンを押してから一呼吸もする間もなく、アンバーの声が翡翠の左耳に差し込まれたイヤホンから流れた。
「アンバー、今、大丈夫?」
翡翠は、アンバーのレスポンスの速さに少し息が詰まったが、再び歩き出しながら訊いた。
『大丈夫っちゃぁ大丈夫やけど、大丈夫ちゃうっちゃぁ大丈夫とちゃうな。俺より背の高い雑草に絡まり気味や。』
確かに、翡翠の耳にはアンバーの声と共に、草を掻き分けるような雑音が混じって聞こえていた。
アンバーが雑草相手にてんやわんやになっている様子を想像した翡翠は、自然と顔が綻んだ。
『で、どないしたんや?』
アンバーの当たり前の質問に、翡翠の心が揺れた。
訊くか・・・訊くまいか・・・。
数秒、間を置いた翡翠は、口を真一文字に結び、意を決して言葉を発する。
「あんた、あの聖域での闘いの時、一体どないしたんや?」
翡翠の質問に、アンバーが緊張した様子が耳のイヤホンから伝わってきた気がした。
『・・・一体、どないした?翡翠?』
「いいから、答えて!!」
質問を質問で返したアンバーに対して、翡翠は語気を荒げた。イヤホンを通して、アンバーの緊張が強くなった気がした。
二人の間に数秒の静寂が流れる。イヤホンから草を掻き分ける雑音が消えている事から、アンバーは立ち止まっている事が推測できた。
「ごめん、急に大声出して・・・。答えて欲しいんや・・・。」
数秒が数十分にも感じられた静寂の中で、先に口を開いたのは翡翠の方だった。
耳にアンバーの小さな溜め息が聞こえ、再び草を掻き分ける雑音が聞こえ始めた。
『俺にも、よう分からんねん。なんか、訳分からん感情が身体ん中から浮かんで来て、空っぽになって、それに支配されてもうたみたいになって・・・意識ははっきりしよるのに、身体が勝手に動いたみたいな感じやった。』
アンバーは、その時の事を思い出すように、ゆっくりと、途切れ途切れに話した。
それは翡翠の求める答えではなかった。
アンバーも、自分の身の内に起こったこと、起こっていることの答えが見つけ出せていないのだ。
しかしそれでも、翡翠の心は少しだけ軽くなっていた。
原因不明の病に犯されたような自分と同じ同類がすぐ傍にいる。それが、少しだけ嬉しく思えたのだ。仲間を超えた絆のように。
翡翠はさっきまで気持ちと共に重くなっていた足取りが軽くなったような気がして、再び歩き出した。
戦場痕を避けながら村に向かう道中、翡翠はアンバーと夢中になって話した。アンバーの身に起こった変化、そして自分の身に起こりつつある変化について。
アンバーと議論を重ねるように仮説を交わらせあったが、どれも推論の域を出ないものであり、納得の出来る答えは見つからずじまいだ。それでも、こうやって自分に、そしてアンバーに起こっている事態について話し合えること自体、安心材料として充分なように思えた。
そしてそれは、アンバーも同じように思えた。イヤホンごしに聞こえるアンバーの声から、なんとなくそんな感じがした。
「なぁ、アンバー。あんた、施設に来る前の事、覚えとる?」
『施設って・・・ピースフロンティアプロジェクトの施設か?』
「うん・・・」
通信に間が空く。
翡翠の不意な質問に、アンバーの戸惑いが感じ取れた。それもそのはず、メンバーに過去に記憶を、施設に来る前の記憶を持っている者は皆無なはずなのだから。
『俺は・・・物心ついた時には施設にいた。多分、赤ん坊の頃に親に売られたか、誘拐でもされたんやろ・・・。』
答えは返ってこないと思っていた翡翠は、答えてくれたアンバーに対し、驚きながらも少し嬉しかった。
『悪いな。おもろいエピソードがなくて。』
アンバーがバツが悪そうに呟いた。
「やっぱり、アンバーも思い出してたんやね。」
翡翠は少し悲しげな笑みを浮かべて言った。
『薬が切れてしばらくしてからな。なんか突然、過去の記憶が鮮明に思い出されたんや。翡翠もか?』
この事実は、プロジェクトの人間が何かしらの理由で薬によってメンバーの記憶を封じていた事を意味する。
「ウチな、那国の人間らしい。」
翡翠はアンバーの質問には答えず話し出した。たとえアンバーが答えてくれなくとも、翡翠は過去を語るつもりであった。
『那国・・・確か、遥か東洋に浮かぶ小国やな。』
「知ってるんや!!」
軍事大国であるニーズヘッグにとって、取るに足らない東洋の小国である那国の事を即答したアンバーに対し、翡翠は軽い驚きを覚える。
『ああ、施設の資料室で資料を見た記憶がある。確か・・・国際社会とあまり国交をもたず、閉鎖的な国やったかな?数少ない資料の記憶では確か、サムライと言われる軍隊がおり、カタナと言われる反った刀身のブレードで闘う。カタナは鉄製やのに、一流のサムライが振るうとダイヤモンドすら真っ二つにするとか・・・。あまりに突拍子もない、都市伝説みたいな内容が正式資料として保管させてたから、覚えてるわ。』
アンバーの口調からは、その資料内容を全く信じていない事が窺えた。
「ウチの両親、そのサムライやったらしい。」
翡翠はそんなアンバーに、少し照れくさそうに言った。
途端に、通信機の向こうのアンバーのテンションが上がった気配が伝わってくる。
「でも、親父、なんかポカやらかしたみたいでな、サムライの地位を追われたらしいわ。んで、那国におられんようなって、オカンとウチと・・・ニーズヘッグに来たらしい。まぁ、ウチが物心つく前の話やから、那国の事も、サムライの事も、記憶にないんやけどね。」
『・・・亡命か。』
那国とサムライの記憶が無いと言う言葉を聞いた途端、アンバーの上がったテンションが、凄い速さで下がるのを感じた。そして、それは口調からも若干だが感じ取れた。
分かり易い・・・翡翠は思う。
「亡命なんて、ええもんちゃうよ。那国を脱国して、ニーズヘッグに密入国したんや。」
『ふむ・・・』
アンバーは落ちたテンションでも真面目に聞いてくれるらしかった。
「どこの国でもそうやけど、国は密入国者に厳しい。まともな職なんてありつけるわけあれへん。ウチの一番古い記憶の頃には、貧民街でプレハブ小屋みたいな家に住んで、最底辺のその日暮らしをしてたわ。親父もオカンも、めっちゃ働いてた。それでも、家族みんな笑えて・・・幸せやったわ。・・・オカンが死ぬまでは。」
翡翠の言葉に固さが現れる。
それは、戦闘能力以外はまるで鈍感なアンバーにもきっと気付かれたであろう程、表立っていた。
「うちが9歳の時にな・・・オカンが死んだんや。・・・過労やった・・・。」
通信機からアンバーの戸惑いが聞こえた気がした。
アンバーが何か言おうと思っているが、何を言えば良いか分からない様が。
そう、かけられる言葉など有りはしないのだ。例え同じ境遇の人間が相手だったとしても、心情は人によって違うのだから。まして、アンバーは物心ついた時には施設にいたのだ。それはそれで、不幸な事なのだろうが・・・。
「オカンが死んで、親父は変わってもうた。」
戸惑うアンバーを余所に、翡翠は続ける。堰を切ったように。
「まるっきり働かず、酒ばっか呑んで、暴力振るって、実の9歳の娘、犯して・・・絵に描いたような転落っぷりやったわ。」
そう言って笑う翡翠の声からは、そこはかとなく深い哀しみが漂っていた。
アンバーは最早、言葉をかけることを諦め、聞くに徹することに決めたようだ。
「そのうち親父は、ウチに客をとらせるようになった・・・。ウチが親父とウチの生活を支えるようになったんや。ほぼ、親父の酒代で消えたけどな・・・。それにしても、変態オヤジの多い事、多い事。出るとこも出てへん幼女相手に、とっかえひっかえオッサンが群がるんやから。」
一陣の風が樹海を吹き抜け、樹々を揺らす。葉葉は擦れ合い、独特の声を上げた。翡翠の過去を、人生を、嘲笑うかのように・・・。
翡翠は、風に乱された前髪を掻き揚げる。
「もう・・・最悪やったわ。感情的には嫌で嫌でしょうがないのに、身体と神経は徐々に、回数を重ねるうちに、心とは正反対の反応をしよる。10歳になった頃には、絶頂って感覚を知ったわ・・・。」
翡翠の声が震える。
『翡翠、もうええ・・・・。』
「聞いてやっ!!!!!」
アンバーがようやく絞り出した言葉は、翡翠の悲痛な声によって意味を失った。
「聞いて欲しいんや・・・。誰かに・・・アンバーに・・・。」
再び、風が吹き抜ける。
再び乱された前髪をそのままに、翡翠は震えながら立ち尽くした。
『・・・分かった。話せ。』
少し間を置いて、アンバーは覚悟を決めたかのような力強い言葉を返して来た。
翡翠の表情が少し解れる。そして、通信機のマイクの位置を少し修正して、再び語り始めた。
「ウチな、絶頂を知ったその瞬間、意識をなくしたみたいなんや。で、気がついたらな、ウチ、そん時の相手のオッサンの上で、一心不乱に腰振っとった。包丁で切り刻まれて、血まみれで死んでるオッサンの上でな。鏡見たら、ウチ、凄い卑猥な笑顔浮かべとったわ。・・・あん時の自分の顔、今でもハッキリ覚えとる。」
誰でも衝撃を受ける話。誰でも、生唾を飲まずにはいられない内容。しかし、アンバーからは動揺する事無く、いたって冷静な雰囲気が伝わって来た。戦闘モードに気持ちを切り替えたのかもしれないな・・・と、翡翠は思っていた。
「もちろん、ウチは警察行きやわな。」
翡翠が続ける。
「もちろん、親父もお縄頂戴や。このまま親父は服役、ウチは更正施設から児童保護施設を経て風俗嬢、そう思っとった。でも、違った。」
翡翠は、唇を噛む。
「急に親父が釈放されたんや。大金ってオマケまで掴んで。そして、ウチんトコには、ニーズヘッグの偉いさんが来た。そんで、言った。ウチには貴重な才能があるから、これから国の施設でその才能を伸ばすんだと・・・、誰もが羨む厚待遇で暮らせると・・・、ウチにはその資格があると。ウチは親父に売られたんや。親父はウチを売る代わりに無罪放免、大金まで手に入れて雲隠れや。でもウチは、まるで夢のようだった。心底、安心した。もう、あんな思いせんでええと。」
翡翠の身体から力みが取れる。
話したい事は話終わった。何を伝えたかったのか、自分でもわからないけれども・・・。
『夢の方が良かったんやないか?今の状況を考えると。』
アンバーが冷静な口調で話す。
翡翠は、即答はしない。目を伏せ、考える。そして、口を開く。
「いや、ピースフロンティアの皆に会えた。辛いこともあったけど、今の方がきっとマシやわ。」
翡翠は、笑った。
『そうか・・・』
アンバーも笑った気がした。
そこで翡翠は真顔に戻る。
「ここに来てからな、思い出すんや・・・、オッサンを殺した時の気分を。抱かれてもないのに・・・。ウチ、おかしなったんかなぁ・・・」
『疲れてるだけや!!』
翡翠の言葉の最後にかぶせるように、アンバーが強い口調で言った。
翡翠は突然の事に気圧される。
『国の裏切りや仲間の死、ここんとこの連戦、疲れへん方がどうかしてる。』
「そ・・・そやな。」
アンバーの反論させまいとするような口調に、翡翠はたじろぎながら言った。
『村長のじいさんなら、ひょっとしたら解るんかもな・・・』
アンバーがふいに言った。
え・・・?と急に部外者を持ち出したアンバーに、軽い嫉妬のような感情が浮かんだ。
「そ、そうかもな。」
軽い嫉妬を感じながらも、翡翠はその意見を否定は出来なかった。なぜなら、あの村長は、何か不思議な頼もしさを身に纏っていたから。元ザクセン・・・と言ったか、何でもユグドラシルとか言う星の歴史の詰まった世界樹と交信出来る巫女の護衛役だったとか。それならその巫女を通じ、豊富過ぎる知識を持ち合わせていても不思議ではないのだから。
『水・・・の音?翡翠、お前、今、何処や?』
複雑な思いで呆けながら歩いていた翡翠の耳腔に、アンバーの声が響いた。その声で我に返った翡翠は、自分の目の前の景色を見つめる。
「滝や・・・」
アンバーとの話に夢中になりながら戦場痕を避けて歩いた結果、翡翠はいつの間にか樹々生い茂る樹海の中を大蛇のように身をくねらせながらもその身から小さな蛇のような支流を無数に解き放つ大河の一部、落差数十メートルはあろうかと言う大滝な前に出ていた。
轟音と共に流れ落ちる大量の河水は、その途中でその一部を霧状に姿を変え、着水した河水の一部もまた同じように霧状に姿を変えた結果、辺り一面を白く染め、視界を悪くさせている。
霧状に姿を変えた河水が風に乗って、翡翠を包む。
翡翠の皮膚が水気を感じ、熱く火照った身体を、気持ちを急激にクールダウンさせた。
翡翠は眼を閉じ、脱力した自然体で、その樹海の恵みを身体一杯に受け入れる。
ゆっくり大きく息を吸うと、肺が水分をたっぷりと含んだ冷たい空気で満たされるのが実感出来た。
『翡翠、川沿いにいるなら気をつけや。ガーネットが熊に出くわしたんも川沿いやねんからな。』
翡翠の耳に、無粋とも思えるアンバーの声が響いた。
世界と一体になったような錯覚に捕われて癒されていた翡翠は、その声にムッとした顔になり頬を膨らます。
「わかって・・・」
そう言い始めた翡翠の背中を、まるでトラックに衝突されたような衝撃が襲った。
「きゃっ・・・」
翡翠は突然の衝撃に、彼女らしからぬ可愛らしい悲鳴を上げて突き飛ばされ、滝壺間近の水中に落ちた。
遥か上空から落下着水したことで生み出される複雑な水流に揉まれ、一瞬、上下左右の感覚が失われた。
・・・機械化兵か!?・・・
水流に揉まれも体勢を持ち直そうと抗いながら、翡翠は眼を凝らす。
その眼が満月が放つ蒼い光が差し込む水面を捕らえた瞬間、差し込む月光を遮るように丸太のような影が現れた。
その影は次の瞬間、信じられないスピードで水面を割り、正確に翡翠目掛けて襲いかかって来た。
翡翠は一つの水流を掴むと、その流れに乗って身をくねらせる。
翡翠の脇腹のすぐ脇を丸太のようなものが超速度で通り過ぎ、U字の軌道を描いて再び水上に姿を消す。
翡翠は数秒その流れに身を任せると、川底を蹴り水上に飛び出した。
川辺に降りた翡翠は、自分の襲われた方向を睨みつけた。そこにいる敵を視界が捕らえた瞬間、自分の愚かさを思い知る事になった。
油断・・・それが招いたモノだった。
この危険な樹海内において不覚にも自然が生み出す恩恵に心を奪われオリハルコンセンサーを消してしまった結果、自然が生み出した猛威に命を奪われるところだったのだ。
背中に背負ったカーボナード製のシザーブレードがなければ、背中の皮膚と共に内臓を抉り取られ、確実に命を落としていただろう。
翡翠が視線の先に捉えたものは、今まさに河から上がってくるガルダベアの姿だった。
川辺に上がったらガルダベアは、翡翠を見つけ立ち上がると、金色の飾り毛を逆立て、牙を剥き出しにして唸り威嚇する。
そのガルダベアは体長5メートルにもなろうかと言うビッグサイズで、万歳するかのように振り上げられた腕は、丸太どころの騒ぎではない。
翡翠が突然の衝撃にまだクラクラする頭を押さえながら視線を動かすと、自分を襲ったガルダベアの後方数メートルのところにもう一頭、体長3メートル程のガルダベアが四つん這いのまま威嚇の唸り声をあげていた。その足元には、三頭の子熊が母熊に隠れるようにまとわりついている。
どうやら、この親子のテリトリーにふらりと入ってしまったらしい。
オリハルコンセンサーを正常に働かせていれば、まず回避できた事態に、翡翠は再び呆けた自分を悔やんだ。
「さて、脱出しよか…」
何もリスクを犯しながら戦闘を行う必要も無い。いざこのサイズのガルダベア2頭を相手とするとならば、勝つ事が出来たとしてもこちらも到底無事では済まない。しかし逃げるとなれば、オリハルコン粒子で身体能力を強化した状態であれば、さほど難しくない。逃げるが勝ちだ。
そう思い、ガルダベアを視界に捕らえつつ踵を返すと同時に身体能力を上げるため翡翠は、体内のオリハルコン粒子の濃度を上げた。その時だった。
身体の中心を激しく突き上げられ、こねくりまわされるような快感が沸き上がり、囚われ、何が何だか理解する間もなくその快楽に自我が飲み込まれていく。
身体は汗ばみ細かく痙攣し、頬は火照り薄く紅ばむ。
ガルダベアに背を向けたまま首を回し振り返った卑猥で恍惚な笑みを浮かべた翡翠の眼には、琥珀色の輝きが満ち満ちていた。