晴れの日もあれば雨の日も
数百年前の素朴な農村部での話――。
雨が少ない年だった。
楓は家の前の雨地蔵に、その日も手を合わせていた。
地蔵の前に供物の野菜がうず高く積まれている。村人が雨乞い祈願で供えていったもので、楓の家でその御下がりを頂いていたから家の中は野菜で溢れていた。
この二月、雨がまったく降らない。田畑が渇き、地にヒビが入り出していた。
村人は畑仕事のあとに雨地蔵に供物をささげて拝み、ついでに楓に雨が降らない苦情を言って帰る。その声に怒声が混じるようになっていた。
(雨が降らないのは私のせいではないのに……)
楓はそう思った。しかし望んだわけではなかったが、楓が雨乞い祈祷師ということに村ではなっていて、苦情も聞かなければならない。
地蔵は古くからここに祭られていたものではない。
楓が小さい頃に大雨があり、家の前の道が崩れ、崩れた土の中から地蔵が出現した。放っておくわけにも行かず、楓の父が地蔵のための小屋を作り、そこに安置した。地蔵はよほど古い物のようで角がすり減って表情もさだかではなく、どういう意味の地蔵か村の誰にもわからなかった。
「あのお地蔵様は、雨降り地蔵というわけではないと思いますけど」
楓はことあるごとに父にそう言った。しかし大雨がきっかけで地上に出現したから、いつの間にか雨地蔵ということに村ではなっていて、村人は日照りが続くとお供え物をして雨乞いの祈りを捧げた。
家の外で物音がした。
また村人が雨の降らない苦情を言いに来たのかと思い、楓はうんざりした。
(あれは……?)
窓から外を覗くと、夕焼けの中に男性らしい人影が地蔵に手を合わせている。誰かわからなかったが、楓もその人と祈るために外に出た。勝手に拝んで帰ってくれたらいいのだが、わざと物音を立てて自分を呼んだのかもしれず、無視はできない。
近づくと見知らぬ青年だった。地蔵の前で目を瞑り手を合わせる青年の顔を、楓は首をひねって覗くようにして見た。
(畑の手伝いに来ている人かしら)
他村の若者が畑の手伝いに来ているのかと楓は思った。
楓も青年の隣にしゃがんで手を合わせ、祈りを捧げる。日照りで作物が枯れ始めている。小川から田畑に水を引くのも重労働だが、その小川の水さえも急に痩せはじめていた。
しばらく祈って目を開けると、青年はまだ目を閉じて地蔵に手を合わせている。髷が天を向くように高い位置で結ばれていて、芯の強そうな顔つきをしていた。
青年の祈りが終わるまで瞳を伏せて控えてると、やがてその祈りを終えた青年が口を開いた。
「雨はいつ降りますか?」
意外と少年のような甲高い声だ。
「……もうすぐだと思いますよ」
楓はいつも村人に答えるような当たり障りのない回答をした。しかし、いつ雨が降るかなど、神仏ではない楓にわかるはずがない。
「もうすぐとは?」
「え……?」
青年は翳のある瞳を物憂げに持ち上げて地蔵の方に向け、そしてその視線を楓に向けた。鋭い視線に見えない刃物で刺されたような気がした。
「……そのような視線を人に向けるものではありません」
止まりそうな勢いの声でそう言うと、
「違うんです」
と言って青年はうろたえた。
「すみません。少し考え事をしていたもので」
「考え事を?」
「ええ、こちらの話です。あなたを責めたわけではないんです。あなたが楓さんですね」
「私のことを……」
「はい。噂は色々と」
青年は照れ臭そうに頭を掻いて笑った。目が線だけとなってひどく隙のある笑顔で、その愛嬌のある顔に楓は安心した。
「あの、あなたはどこの方で」
「隣村で厄介になっている直登という者です」
「直登さん」
「はい。よろしくお願いします。ところで、雨はいつごろ降りますかね?」
「え……。も、もうすぐです。私にはわかります。神仏もそのように申しています。畑仕事などに精を出して、雨を迎え入れるような気持ちで待つことが大切です」
「迎え入れるつもりで」
「はい……」
楓はそういう嘘をつくのに慣れている。
(雨なんか、待っていればやがて降るもの)
そう思っている。
一年を通して雨が降らず、作物が採れずに餓死者が出た。そういう言い伝えがどこの村にもあるが、そんなことがめったにあるものではない。楓は村人を安心させるために、そんな嘘を日照りのたびに言っている。だから、楓が神仏と対話できるようなことに村ではなってしまっていた。
(どうせ雨は降るのだ)
内心、そう思って村人に嘘をつく。嘘をつくことにに楓自身も耐え、雨が降ると、もう嘘をつかなくてもいい……と、村人とは別の意味で胸をなでおろした。
「私もそう思います。すぐに雨は降りますね」
青年はそう言って帰っていった。
家に帰るとその様子を父が見ていたようで、
「今のは隣村の祈祷師だ。わしが呼んだ」
と言った。
「祈祷師? 雨乞いの……?」
「名前は……」
「直登さん?」
「そう言ったかな。流れ者らしいが今は隣村に住み、畑の手伝や行商人のようなことをしているらしい。どこかで修業をしたとかで、雨を降らせる法力を持っている」
「まあ、法力を」
「近い内に雨を降らせてくれるだろう」
「どうせなら、今日あたりに降らせてくらたらいいのに」
楓はちょっと笑ってしまった。神仏の存在は信じているが、人に雨を降らせる力があるとは思えない。自分がそのいい例だ。
「もしも雨が降らないときのためにな」
父はそう言った。雨が降らなくて村人は困っている。村のために腕利きの祈祷師を父が呼んだようだが、雨が降らなければ自分たちが村人から糾弾されるから、その怒りの矛先を分散させようと他の雨乞い祈祷師を呼んだのかもしれない。おそらく後者だろうと楓は思った。
それから数日が過ぎ、楓は夕餉の支度を忘れて隣家の童女と日暮れまで遊んでいた。
「子供じゃないんだぞ」
畑から帰ってきた父にそう叱られたが、お手玉に熱中していたところを邪魔されたのが気に入らない。楓は不機嫌になった。ちょうど三つのお手玉を放り投げて空中で回転させるコツを掴んだところだ。
「せっかくすごいことができるようになったのに」
「そうか……」
父はそれ以上言わなかった。昔から父と娘の二人暮らしで、楓に家の仕事をあれこれさせてきたから引け目がある。
童女を家に帰し、楓は遅ればせながら夕餉の支度をした。楓が出戻りで家に帰ってから三月になる。家に帰ってきてから、楓は近所の子供と遊ぶことに熱中していて、たまには畑仕事を手伝うこともあるが、さして大きな田畑でもなく父だけで働き手は足りている。出戻りで肩身が狭いこともあり、家でごろごろするような日々を楓は送っていた。世を拗ねているように父には見えた。
「もう、野菜は断ってくれませんか」
楓は家の中に溢れるようにある供物の野菜を見てうんざりした。父と二人暮らしだから野菜などたいして消費しない。余った野菜は壺に漬けて漬物にしているが、結局は近所に配って返すことになるから、楓は漬物職人みたいになっていた。
「まあそう言うな。それにこの漬物は評判がいい」
夕餉の支度をする楓の脇に父が手を伸ばしてつまみ食いをする。その手をぴしっと楓が打擲した。
「父上、はしたない真似はやめてください」
「うむ……」
父は苦笑いをした。百姓の家で父上というのも変だが、「父上」と呼ばれるのも悪くない。士農工商がまだ曖昧な時代だから、農が士になり得ることもある。父の自慢は若い頃に何度か戦に出たことで、その頬には大きな刀傷があった。
がんっ
と、とつぜん扉になにか当たる音がして、なにごとかと身構えていると、外から、
「いつ雨が降るんだ!」
という誰かの声が聞こえた。地蔵を罵るわけにもいかず、楓たちに向けられた罵声のようだった。
村人が家の中に乗り込んでくるのではないかと恐れたが、もう声は聞こえない。楓が恐る恐る外の様子を見にいくと、気が済んで去ったのか誰もいない。割れたカブが地面に転がり、これを扉に投げつけたらしい。
食事の支度ができて二人は食べ始めたが、先ほどのことがあるから二人とも何も言わない。暗い食卓になった。
「あのとき、あんな衣装を借りてくるから」
楓はそう言って無理に笑った。
「ああ、あれは愛くるしかったな……」
父は昔を思い出して遠い目をした。
地蔵が発見された楓がまだ幼い時、父が近所の神社から子供用の巫女装束を借りてきて楓に着せた。楓はわけもわからずその衣装をまとって地蔵の前でお祈りをしたが、その姿が凛として涼し気だった。巫女装束を着たのはその時だけだったが、それから楓が雨乞いの責任を負うようなことになってしまった。
「私が巫女のわけがないじゃないですか。誰が信じますか、そんな嘘八百」
「村人はお前を信仰している」
「そんなわけありません。もともとは父上がついた嘘だから責任を取ってください」
「まあいいじゃないか。日照りになれば供物の野菜も貰える」
「漬物屋じゃないんだから……」
楓は眉をひそめた。
だが口に入れた漬物は、我が手の物ながら思いのほか美味しい。楓は物事に凝るたちで、あれこれ頭を捻って工夫していたから嬉しくなり、おもわず口元が緩んだ。
「嬉しそうだな」
「漬物がうまくいったので。父上、この茄子の漬物が特に出来がいいですよ」
にっと楓は上機嫌に笑った。その笑顔を見て、この数日、言いそびれていたことを父は言おうとした。考えすぎてどの機会に言えばいいかわからなくなっていた。
「実はな……」
「はい」
「お前に縁談がある」
楓の箸が止まった。しかし動揺がばれると恥ずかしいと思い、無表情に食事の続きをはじめる。父もなにも言わない。食器が触れる音だけが響いていた。
「また嫁に行くのですか……?」
しばらくして、楓は表情を消して言った。
楓は今年、二十一歳になる。ほんの半年間、他村に嫁いでいたが、三月前に離縁してもらって戻ってきた。夫が粗野なためもあったが、姑とも上手くいかない。知らない土地で馴染めない夫や姑、たまにその一族。それらにこき使われてすり減るような日々に悲観して、「死のう……」と思ったが、
(死ぬくらいなら実家に帰ればいい)
と思い直して戻ってきた。
もう男にも苦労にも飽きた。実家に帰ってからは開き直るようにして、近所の童女とままごとや双六などをして遊んで暮らしてきた。幸い、父も村の者も以前のように優しかったから救われている。それなのに、また縁談だという……。
「まあ、お前の気持ちはわかっている。無理をしなくてもいい」
ただ、今度は父も懲りたのか嫁に出すのではなく、某家の三男を婿に迎え入れるとかで、三男とはいえ、よくこんな家に婿にくる気になったな……と楓は思った。耕す田畑など猫の額ほどしかない。冬には行商人か内職をしなければならなく、苦労をするために婿に来るようなものだった。
「お前は人気があるんだぞ」
と、父は美貌を褒めてくれたが、
「見た目など……」
と言って楓は取り合わなかった。そんなものはすぐに衰える。見た目で惹かれた者は、それがなくなれば容易に飽きて自分を捨てるだろう。
「引く手あまた」
とまで父は言ってくれたが、出戻りの女がそんなに人気があるわけがない。父の陽気な嘘に乗るまいと楓は思った。
次の日の朝、楓が顔を洗うために井戸に出ると、いつかの雨乞い祈祷師の青年が地蔵の前で手を合わせていた。
(あれは……)
青年の名前がなかなか出てこない。名前を考えながら歩いて、偶然、忍び足をするかたちで青年の背後まで来てしまった。そこで名前を思い出し、つい、その背中に唾がかかる勢いで言ってしまった。
「直登さん!」
「うわっ!」
直登は飛び上がって驚いた。
「い、いきなりなんですか」
「ごめんなさい。おどかすつもりじゃなかったんですけど」
楓は驚く直登を尻目に懐からお手玉を出す。それを空中に放り投げては受け取り、また放り投げた。唐突だったが、三つのお手玉がくるくる回転して踊るように動く様に直登は見とれた。楓が突然遊び出したというより、昨日できるようになったこの技を、無邪気に誰かに見て欲しかっただけのようだ。
「すごいですね」
直登は感心して、自分もやってみようとお手玉を借りて空中に放り投げてみた。しかし、うまく行かずにお手玉は地面に転がった。
「あ、すみません」
「無理ね。私は四つだってできるのよ」
楓がそう言うと、直登は大げさに表情を崩して驚いてくれた。
「やがて五つでもできるようになります」
楓は調子に乗って出来もしないことを言った。それを聞いて、直登の顔はいよいよ歪んで楓の期待に応えた。
「うふふ、もっと練習しますね」
貸して、と言って直登の手からお手玉を受け取り、楓はまた三つのお手玉を空中に放っては受け取り、受け取っては放った。その鮮やかな手並みを、直登は少年のような蒼く光る瞳で見ていた。
「鮮やかですね」
「うんと練習しましたもん」
楓は最後にお手玉を一段と高く空中に放り投げて受け取り、
「父から聞きました。直登さんは隣村で雨乞い祈祷師をやっているんですってね」
「はい。日照りがあれば村々をまわって雨乞いの祈祷をします。ですが、日照りなどめったにありません。いつもは畑の手伝いや城下で振り売りなどをしています」
「そうなんですね」
楓は直登の耳元に唇を寄せた。
「あの……。雨なんか、祈っても降りませんよね?」
直登は鼻から息を吹き出して笑い、
「ぜんぜん……」
と言った。
「まあ……」
「私は流れ者で、これでも諸国を旅して祈祷の修業を一応はしました。祈祷をするときに名乗る名前もあります」
「どんな……?」
「駿河姫野堂の修験者にて遠州房海天」
「ぷっ……」
と、聞いた瞬間、楓は吹き出してしまった。
「あんまりです」
「だって、海天なんて大げさな」
「このくらい大げさな方がいいんです。祈祷に真実味が増すので」
「海天様」
「人をからかうものじゃありません」
楓は「祈れば雨が降る」と形だけでも直登が言うと思ったから痛快だった。話が合いそうだ。
「このお地蔵様は、この道の脇に埋められていたんですよ」
「埋められていた?」
「誰もその理由がわからないんですけどね」
楓は、自分が村でなぜ巫女のような立場でいるのかという説明を直登にした。楓は巫女として、直登のように形を作る修業さえしていない。父にわけもわからず担ぎ出されて習ったこともない舞を演じさせられているようなもので、そんな嘘にうんざりしている。そういうことを会ったばかりの直登に訴えた。今まで誰にもそんな告白をしたことがなかったから、言ってみて楓自身が驚いた。
「そんなことがあったんですね……」
楓の様子が最初に会ったときとは随分違う。はしゃぐように笑う楓に直登は違和感を覚えた。
「なにかあったのですか?」
そう聞くと楓は急に涙ぐみ、
「縁談なんです」
と言った。行きたいわけがない。今度は婿だから向こうから来るらしいが、年老いた父のことを思うと断るのも忍びない。
「くだらない人生なのよ」
楓は訴えるように直登に言った。直登には気の毒だが、こういう場面に居合わせた不幸を呪ってほしい。誰かに胸の内を聞いて欲しかった。
「楓さんは……なんというか、若いのに出戻りなんですね。縁談はいいことじゃないですか。人はいつでもやり直せます」
真剣に言ってくれた直登には悪いが、聞いたふうなことを……と、楓はちょっと笑止だった。
「直登さんはいくつ?」
「歳ですか? 今年で十九です」
「まだまだこれからですね。私はね、もう男とか世間とか、そういう苦労には飽きました。この先は、できれば毎日遊んで暮らしていたいんです」
「お手玉とかね」
おどけて言う直登に、楓はお手玉をぶつけた。
「痛いなあ」
「文句を言うと、またぶつけますよ」
拾ったお手玉をぶつける真似をすると、大げさに直登は首を竦めた。いちいち仕草に愛嬌がある。弟がいたらこんな感じで楽しかったのかな……と楓は思った。
「釣りをしたことがありますか?」
唐突に楓は言った。釣りのような男の子がする遊びをしてみたかった。
次の日、直登が釣り竿を借りてきてくれて、楓は遊び仲間の童女らを連れて渓流まで出掛けた。釣果はどうでもよかったが、そんな無心さがよかったのか何匹も釣れて、それを河原で焼いて食べた。外に出るのも気持ちがいい。未来も現在も悲観していたが、見上げると、明日の希望を象徴するような澄んだ青空が広がっていた。
「今日はありがとう」
帰り道、直登に礼を言うと、直登はそれどころではない。三人ついてきた童女を代わる代わる背負ってやるのに忙しく、今、直登に背負われていた童女も、すぐに直登にまとわりついて自分の順番が来るのを待った。
「私の番はいつです?」
楓が冗談で言ってみたら、直登は「どうぞ」と言ってしゃがんだ。「重いですよ」と一応は言ってみたが、その言葉が終わるのと楓が直登の背中に飛びつくのが同時だった。直登はよろける仕草をした。しかし冗談だったのか馬のように逞しく歩いてゆく。鳴るように肩の肉が盛り上がっていた。
「お姉ちゃんばかりずるい」
と楓は童女らに非難されたが、このようなおもしろい機会などそうそうない。
(ずうずうしいかな?)
と思いながらも、直登が重さに音を上げるまで揺られていようと思った。
「疲れましたか? まだまだ乗っていますよ」
「いっそこのまま家まで行きますか?」
「まあ……。まだ随分あります。絶対に無理」
「いやいや」
(こんなに楽しいことがあるんだ)
楓はわくわくした。
出戻りの上に家は貧しい。ゆく道の先に希望などなにもなかった。楽しかったのは子供の時くらいで、出戻ってからはその記憶を追うように近所の童女らと遊んできた。どうなってもいい……という諦めのような気持ちでいた。だが、夜が開けたかと思うようなこんなに楽しい事が何の前触れもなく起こり得ることを知った。
「今日はありがとう」
楓は直登の背中に抱き付いて言った。
童女を送り家に着くと家の前に人だかりがある。村人に取り囲まれている父が居て、父の目尻から血が滲んでいた。誰かに殴られたようだ。
「父上、どうしました!?」
楓が駆け寄ると、
「お前たちこそどういうわけだ」
と、恐ろしい顔の村人が楓と直登に詰め寄ってきた。
村人も直登のことは聞いている。他村の者が雨乞い祈願に来ているはずが、村の雨乞い祈祷師の楓と二人で釣りにでかけて遊んでいた。
「お前たちが怠けているから、いつまでも雨が降らないのだ」
村人はそう言って楓たちを責めた。
(釣りにでかけたのを見られていた……)
悪いことなどしていない……。と楓は思ったが、村人の怒りを収めようとすぐに地蔵の前にしゃがみ手を合わせた。そうすればこの場は収まると思ったが、「いやらしい……」と耳を覆いたくなる罵声が聞こえてきた。
(違うのに……)
しかし、どういう弁解をしても無駄な気がして、楓は聞こえないふりをした。
直登も事態が飲み込めたようで、すぐに楓の隣に膝をついて両手を合わせた。直登は懐から何かを出してそれを地蔵の顔に塗る。土くれのようだ。そのあと、釣ってきた鮎を地蔵の前にうやうやしく掲げて供えた。
「私は駿河姫野堂の修験者で、遠州房海天と申します」
直登は振り返り、慇懃に村人に頭を下げた。村人も直登の厳格な動作に吊られるように頭を下げる。
直登は一同を見回し、
「皆様、神妙に。今日は神に奉納するための神魚を取ってまいりました。神魚を育んだ川の土もお地蔵様の顔に塗りました。これから祈りを捧げます」
「お地蔵の顔に泥を塗ると、雨が降るんですかい?」
村人の一人が怪訝そうに直登に聞いた。
「はい。実はこの土を雨地蔵様はお嫌いになります。顔に付いた土くれを落とすために天は雨を降らすのです。姫野堂に伝わる秘儀です」
半眼になって直登が言うと、村人は直登の威に飲まれたように頭を下げた。
あまりの迫力に、
(ほんとうに……?)
と、楓は直登の顔を見た。すると、直登は村人に見えないように片目を閉じてなにかの合図を楓に送ってきた。この場を収めるための口から出まかせだったようだ。懐から出した土も、そのへんで拾い上げて懐に入れたものらしい。
「うっ……」
楓は胸を抱えてうずくまった。村人が何事かと見ると、楓は手を合わせて震えている。幸い、村人に笑っているのはばれなかったようだ。
その場は収まったが、それから楓は家に閉じ籠っておとなしく過ごすしかなかった。地蔵の前でお祈りを日に数回して、漬物を作るだけのつまらない毎日。直登はどこに行ったのか顔を出さなくなった。
「あの男は逃げたのか?」
と父が言ったがそうではない。楓は直登に雨乞いの秘術を漏らされていた。
――雨の降りそうな曇りの日を選び、盛大に祈りをささげるのだ。偶然、雨が降ったら儲けもの。
ということらしい。
(あほらし)
と思い、聞かなければよかった……と思った。もしかしたら、雨の降りそうな日に直登は姿を現すつもりかもしれない。
しばらく直登は村に来ない、と楓は思っていたが、それから数日後にひょっこり現れた。直登は山伏のような格好をしている。その日は朝から薄く曇り、空気が湿っていた。雨が降りそう……といえばそうにも思えたが、そういう日は十日にいっぺんくらいはあったから、今日がその中で特別な日なのか楓にはわからなかった。
直登はかがり火を二つ、地蔵の脇に置いて祈祷の準備を始める。楓はどう手伝っていいかわからず、村人と一緒にその様子を眺めているだけだった。雲が厚くなり少しずつ暗くなってきたように感じ、楓は直登の名誉のために雨が降ることを祈った。
直登の祈祷が始まった。
手で九字を切り、経文を読むような低い声でなにごとかをつぶやく。直登の傍らにあるかがり火からは煙が上がり、見物している村人の間を霞んでくゆむ。煙が出やすいように不完全燃焼する細工を焚き木にしているようで、そこから出る煙が雲を表しているのが楓にもわかった。
奇跡はすぐに起こった。
村人の頬に冷たいものが当たり、もしやと皆が天空を仰ぎ見ると、雨だった。
「おお、降ってきたぞ!」
「ありがたや!」
村人は口々に叫んだ。雨はそれから一昼夜半続き、こうして長かった日照りの日々もあっさりと終わりを遂げた。楓も直登も雨乞い祈祷師としての面目を保てた。
(どうして雨が降るのがわかったのかしら……?)
楓は種を知りたかった。聞いたらがっかりするかもしれないが、楓さえも、本当に直登が法力で雨を降らせたように見えた。
(そうであってもいい……)
聞かないでおこうと思ったが、数日後、家を訪れた直登にその種明かしをせがんだ。
「里を降りると漁師が暮らしています」
と直登は言った。
「漁師は船を出すんです。天気が悪ければ船は難破します。だから天気を気にします。どこの漁村にも天気に敏感な老人がいて、その中で特別に天気の当たる名人に聞いてきたんです」
「まあ……それだけ? その人に雨がいつ降るか尋ねただけなんですか?」
「それだけです。雨が降らなくても何度かそれを繰り返せば、やがて雨の日に当たります」
「よかった。あのとき雨が降って」
「あまり嬉しそうではないですが」
直登は小首をひねって楓の顔を覗き込んだ。
楓は寂しかった。これで直登とは今までと同じ素直な笑顔で会えなくなるかもしれない。実は今日、見合いがある。ほとんど婚礼の前儀式のようなもので、夫を迎えるとなれば、今後、直登と会ったとしても違う顔を見せなけらばならない。
なんでも言わなければ楓は気が済まない。
「私、これから見合いなんですよ」
と、楓は直登に教えた。
「はあ……」
直登の表情が強張った。その動揺を見て楓は満足した。少しは女として自分を見てくれていたようだ。
「この数日は本当に楽しかった。また日照りがあれば直登さんと会うこともあるでしょう。私は私で頑張ってみます。意外と新しい夫と上手くいくかもしれないですしね。今度……」
そう言って、楓は直登を見つめた。
「なんです?」
「日照りがあったら、あの祈祷を私にやらせてくれませんか? あれはかっこよかった」
楓はお腹を抱えて笑った。
「いいですけど、今度は雨が降るかわかりませんよ」
直登は苦笑いをした。
見合いの席は楓の自宅だった。
勝手口をがたがた開ける音がして、誰かと思えば直登がまだうろうろしていた。一度、家に上がったことがあるから勝手がわかっている。
「ちょっと、水をいいですか」
と言って、直登は土間にある水瓶の水を柄杓ですくって飲んだ。よほど喉が渇いているのか、直登はその動作を三回した。直登に何か言いたいことがあるのかと思い、
「どうしました?」
と楓が聞いても、そわそわしているだけで直登は何も言わない。
(もしかして)
楓は思った。
(見合いの相手が気になるのかしら……)
直登は頭を下げながら上がってきて、父と楓の前に正座した。その席は見合い相手のものだ。
楓は緊張した。見合いの相手が来たら追い返すつもりかもしれず、その前に父に対して赤面物のことを言い出しそうだ。しかし、見合い相手とその親族に恥をかかせる訳にはいかない。嬉しいとか嬉しくないとかの感情を越えて、ただ、
(遅い……)
と思った。
直登は置物のように沈黙し、どちらかといえば父の様子の方が変だった。
「なんですか?」
と楓が父に聞くと、
「なんというか、言いそびれた」
「言いそびれた?」
「彼が見合い相手だ」
バツが悪そうに首を傾げて父は言う。
(まさか……)
楓は一瞬、頭が真っ白になってふらついた。
「縁談が嫌な場合、お互い角が立たず断りやすくするために二人を事前に会わせたのだ」
父はそう言った。直登が楓を気に入らなければ直登は静かに消え、楓が直登を気に入らなければ見合いをしなかった。
「お前が直登君を気に入っているのはわかっていた。……で、いいのか?」
父は複雑な話ができない男で、楓に真っ直ぐに聞いた。もちろん、この男と夫婦になるか、という意味だ。
「私をからかっていたんですか?」
楓はそれには答えず、順序を正して抗議した。直登の様子を見ると、知らなかったのは自分だけのようだ。
「からかうなどと……」
父は狼狽して視線を泳がせておどおどし、直登はもじもじと座布団がわりの筵を意味もなくむしっている。その不器用な二人を、
(おもしろい出来事もこの世にはあるんだなあ……)
と思って楓は見ていた。
「はい」
と父に即答するのも何だかでとりあえず抗議してみただけで、誰であっても縁談は受けるつもりだった。
どこでどうなってこういう歯車になったのかわからない。直登は今のところ夢に描いた理想の相手だったが、そもそも家の前から地蔵が出現しなければ彼と出会うことがなかったのか、出戻りも運命の一部なのかと、ぼんやり霞む思考の中で思った。考えようによっては、あの土の中から出現したお地蔵様は、縁結びのご利益がある。そんなふうにも思える。
しかし、誰も種明かしをしてくれない。
窓の外の晴天の空を見て、
(今日は三人で釣りに出掛けられないかな?)
そんなことを楓は考えていた。