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ぼくの夢

 十一月初旬、週の始まり月曜日、朝八時三十分。快晴な空も時折吹く風が肌をかすめ体感温度を下げる。

 埼玉県東部を首都圏に向かって走る、東武鉄道スカイツリーライン半蔵門線直通運転準急電車の車中にぼくは座っている。シルバーボディに紫色のラインを引いた片面四ドアの通勤型電車は、高層マンションが立ち並び近代化が進む北越谷の町並みに溶け込む新製車両だ。ここ北越谷駅も全線高架化となり二面四線の島式ホームは都会的な作りだ。ピーク時を過ぎたとはいえ、通勤通学の人はまだまだ多い。北越谷駅は始発駅ともなっている。いつもこの駅から決まった始発電車に乗り込みいつもの席に座る。後ろから二両目。車両のちょうど中央位置。七人掛けの真ん中。ここが一番落ち着く。席の端に座る人が多いけれど、そこでは落ち着かない。人の出入りが多く、好きな本に集中できないからだ。朝の通勤電車はぼくにとって格好の読書の場だ。始発電車だから、狙ってホームに並んでいれば、確実に座れる。乗り込む人たちは見慣れた人が多い。ぼくと同じ考えでこの電車を選ぶ人たちだろう。すぐに席は埋まった。

 自分の前の席の左端に座るのはいつもの女の子だ。年は二十歳前後か。ショートの髪に赤い眼鏡。紺色のシャツの上に羽織るライトグレーのパーカにデニムのジーンズ。細身の体がかわいく見せる。パーカの袖のピンクが印象的だ。週に一度は同じパーカを着ている。お気に入りみたいだ。ラフな感じが自分好みで少々気になっている。話しかけてみたいが、ぼくにはそんな勇気はない。そんな気持ちが悟られないように意識して彼女に顔も向けられない。たぶんずっと声をかけることはできないだろう。声をかけて変質者だと思われたらこの電車に乗れなくなる。だからなんの行動も起こさない。それが自然だ。

 扉が閉まり、電車は動きだした。ぼくが通勤するIMAという会社は東京都千代田区の地下鉄神保町駅からすぐの所にある。神保町は大型書店から古書店、出版社や出版問屋が立ち並ぶ本の町だ。東京メトロ半蔵門線が東武鉄道に乗り入れ直通運転が行なわれるため、北越谷から神保町まで一本につながっている。この電車に座っていれば神保町まで連れて行ってくれる。当然、北越谷より北から乗車してくる人はいないから、混雑はなく、落ち着いて本が読める。

 本を読んでいると気持ちが落ち着く。仕事のことを忘れて、本の世界に入り込める時間が楽しい。本は自分に新しい世界を教えてくれる。ぼくにはない考えや希望、想像を超える事件や冒険。そんな物語のなかに飛び込むとき、ぼくの心が豊かになっていく感じがする。ぼくも人に伝える何かを本にしたい。そんな気持ちが今の夢となった。自分は作家になりたい。

 北越谷駅発とはいえ、都心に近づくにつれ、人も多くなってきた。都心に向かう人たちばかりだから、乗り込む人はいても下りる人はほとんどいない。吊り輪につかまっている人が後ろから押され、座っているぼくの目の視界を圧迫する。びっくりして本から目線を外し、前のおじさんの顔を見上げれば、顔を赤くして必死にこらえている姿が見える。座っているのが申し訳ないとも思いながら、それでも席を立つことができない。立つことは結構勇気がいる。足腰の悪そうなおじいさん、おばあさんなら良いが、まだまだ働き盛りのおじさんサラリーマンに席を譲るのは、逆に老人扱いするなと怒られそうだし、押されて苦しいのは目の前の人だけじゃない。見回せば、みんな吊り輪を両手で握り、圧力に耐えている。対面に座る人たちも前に立つ人たちに圧迫され窮屈そうだ。気が付くと左端の席に座っていた赤い眼鏡の女の子がいない。席を譲っている様子もないし、いつの間にか電車を降りている。どこでいつも降りているのか、本に集中しているからその駅を知らない。それもまた神秘的でいいかと思い、目の前のおじさんを意識しながらもまた本に集中した。

 混雑の中、電車は無事神保町駅まで到着した。駅の改札を抜け地上に出ると、そこは靖国通りと白山通りが交差する神保町交差点だ。中層ビル群が林立する交差点は交通量が多く、ここから見る風景は落ち着いた本の町という印象は薄い。白山通りを皇居に向かい一本目の道を左に曲がったところにぼくの勤める会社がある。六階建てのオフィスビルの三階と四階にフロアーを借りる、株式会社IMAという美術会社だ。IMAとはインダストリアル&インテリア・モデリング・アートの略だと聞いた。IMAは社員十五名の小さな会社で、主に広告に使われる撮影用美術やテレビ局に納める小道具の制作を行なう。ぼくの所属する開発部は下田平部長を含め八名のスタッフでチームを組んでいる。部長と言っても部をまとめるだけではなく、実務もこなすため八名全員が作業スタッフだ。部の下には課も係もないため、部長が全ての指揮を執っている。酒好きのために顔も丸く、お腹の出が目立ち始めた中年おやじだ。現役二十五年だけあって造形力はさすがだ。キャラクターの立体造形をいとも簡単にこなす。テレビに映るアナウンサーテーブルの上によく飾ってある政治家や芸能人のマスコット人形がそれだ。ディフォルメのかけ方がうまく、よく似ていると評判だ。ぼくにはとてもまね出来ない。造形力においては尊敬できる上司だ。

 ぼくは今年で入社三年目だ。先週は架空のヒーローの変身グッズとして携帯電話型の光るモックを作らせてもらった。我ながら良く出来たと思っている。日頃口数の少ない部長にも褒められた。今日は朝からスケジュール調整が入っている。先週金曜日の夜、部長が広告代理店に呼ばれ明後日納品予定の制作物の打ち合わせに行っている。その報告だ。

 四階には社長室、総務経理室が西側奥にあり、南側には大会議室。その手前に各個人のデスクが並んでいる。南側よりに営業スタッフ、北側に開発スタッフだ。その開発スタッフの東の壁に、本棚にかこまれた六人掛けのテーブルがある。テーブルの上には新聞や雑誌が山積みにされている。ここが開発チームの会議テーブルだ。そこに部長から集まるように指示を受けている。呼ばれたスタッフは二年先輩の近藤さんと同期入社の中島さんだ。近藤さんはぼくに技術指導をしてくれる。糸のこや棒ヤスリの使いかたから、3D-CADのプログラムまで教えてくれた。クライアントから依頼される造形物はさまざまだ。木工から削りだして作るミニチュア家具から、3DデータからRP出力する車まで、その仕様によって造形方法も異なってくる。造形方法までクライアントから指示を受けることはない。制作物に合わせてより良い造形方法をこちらで考えて提案する。そして、造形方法をクライアントから許可をもらい制作に移る。ぼくはまだ、3D-CADを任された造形をしたことがない。先輩たちが作る3Dにはまだまだレベルの差がありすぎる。今度はなにを作らせてもらえるのか楽しみだ。

 部長は、三人が会議席に着くのを待って、急ぎ足でやってきた。部長はいつもあわただしい。二つ三つの仕事を同時に動かしているので時間的に余裕がないのだろう。席に着くなり、一度大きく深呼吸をしてリズムを落ち着かせ明るい笑顔を作りながら話を始めた。

「先週はご苦労さん。無事納品も終わってクライアントも大変よろこんでくれた。次の機会もまた同じスタッフにお願いしたいと高評価だった。ありがとう」

 部長から感謝の言葉をもらった。つい顔がゆるんでしまう。部長から言われると嬉しいものだ。やったかいがあるというか、自分の自信にもつながる。仕事をやった充実感がここにある。

「ところで次だ」

 部長は顔を引き締め、場をしきり直した。

「先週とは別のクライアントだが、広告代理店から製薬会社のポスターに使う美術発注があった」

 そう言うと、イメージとなるラフスケッチをテーブルの上に広げた。A4サイズのコピー用紙にえんぴつで落書きをしたような絵が描かれている。部長の絵だ。特徴的なタッチですぐ分かる。先週打ち合わせをしながらクライアントの前で描いたものだろう。イラストを中心に補足の言葉が細かく書きつづられている。

「見たとおりだが、分かるか?」

 部長は三人の顔を覗きながら返事を待っているようすだ。

 ぼくも他の二人も部長の目線に応えるように軽くうなずいた。しかし、三人とも目が泳いでいた。正直、大ラフの絵と乱文の文面では説明を受けなければよく分からない。それでも下っ端の性か、部長の指示書を理解しているようなそぶりを見せる。部長はそんな三人を見て、苦笑いを浮かべながら話した。

「たぶん説明しないと分からないと思うが――」

 伝わっていないことは分かっていたようだ。ぼくは鼻の横を指でかきながら、苦笑いを浮かべた。

 部長は説明を続けた。

「製薬会社のエコ活動をPRするポスターの制作だ。中央に椅子に座った地球を置く。地球と椅子の間で地球にマフラーを巻き、地球の上にニット帽をかぶせる。地球がかぜをひいているイメージだ。地球の体温が高くなっている演出をして、地球温暖化を想像させる。ただ、そんな中でも地球は青い海を蓄え、緑の森を増やしていく。自然環境を必死で守ろうとしている地球の姿を立体化したい。キャッチフレーズは、地球の健康はみんなの健康だ」

 三人は頷いた。部長は話しを続ける。

「したがって造形のポイントは三つ。まず地球そのものを作る。次に地球が乗る椅子を制作する。後は地球にまとうマフラーとニット帽だ」

 部長は三人の目をうかがいながら、また資料に目を戻して話しを続けた。

「……なので、制作を三人にわける。近藤はマフラーとニット帽を担当。外注の鈴木さんと組んで作ってくれ。椅子は中島。木工で作ってほしい。デザインは任せるが、あまり特徴的なデザインにしなくていい。今回の主役は地球だ」

 部長は手に持つえんぴつの尻で地球の絵をたたくと、えんぴつの動きを止めてぼくに目線を合わせた。

「地球は田中、おまえが作れ」

 流れとしては、そうなるなと、自分でも思っていた。

 部長はえんぴつで地球の外形線をなぞりながら指示を続けた。

「直径は五十センチ。市販の発砲球を買ってきてそれを加工しろ。表面はモデリングペーストを塗って固め、大陸はポリパテで作るのが作りやすいと思う。あまり細かい表現は無理だからディフォルメしていい。みんなの頭の中にある地球のイメージが伝わればそれでいい。正面に日本列島が来るようにレイアウトするから、それを意識して作って欲しい。写真は正面からのワンカットだから見えない裏の大陸は作らなくていい。ハワイやグアムは省略する」

 指示は続く。

「色は陸地に茶と緑。海は青一色でいい。陸地の色合いはバランスを取ってくれ。任せる。あまり細かく塗り分けなくていいが、環境保護がテーマだから、なるべく緑が目立つようにしてくれ。それと、オホーツク海あたりが額になるから、赤くブラシを入れて熱が出ているように表現して欲しい」

 部長はさらに続ける。

「撮影は明後日だ。スタジオをおさえているので日程をずらすことは出来ない。また明日十四時、クライアントが直接現場を見に来る。クライアントも当日現物を見るのでは不安があるのも分かる。その時間には完成させなくていいから対応してくれ」

 そこまで言うと、目線をぼくに向け、確認を求めた。

「いいか?」

 ぼくは、部長が指示する内容を急いで書きこんでいるメモの手を止め、大きくうなずき、「はいっ」と応えた。

 部長はぼくから目線を外すことなく、「よしっ」と口にすると立ち上がり、早速作業にかかるように三人を煽った。

 近藤さんは外注の鈴木さんにさっそく電話して本人からアポを取り、すぐに鈴木さん宅へと向かった。ぼくと中島さんは三階の工作室へ降りていった。途中、部長に呼び止められ、材料買い出しの費用をぼくに手渡した。経理から借りた仮払い金だ。ぼくはそれを受け取ると、先に三階工作室の作業場確保に向かった。

 作業室は各自の席が用意されているわけではない。各作業エリアは独立している。南側には塗装室が設置してある。コンプレッサー二台とスプレーガン、ピースガンともそれぞれ十丁あり、吹きつけ塗装を行える。塗装室を壁で仕切った手前の部屋は塗料保管室で、そこでまた壁で仕切られる。塗料保管室の手前が工作室、フロアーのほぼ中央位置だ。ダブルベットほどの面積がある木製の作業テーブルが二卓、間を取ってレイアウトされている。工作室の西側壁面には旋盤、フライス盤、ボール盤、バンドソーなどの工作機械が並んでいる。東側壁面にはRP機が二台並ぶ。RPとはラピッドプロトタイピングの略でこの機械を使って3Dデータから立体物を造形する。プログラムは四階のPCで行い、データをLANケーブルで転送すれば加工が始まる。一台は材料を削りだして造形する切削加工マシン。もう一台は材料の粒を積み上げて立体化する出力マシンだ。北側は一面がガラス扉で、そこからベランダに出られるため、物が置かれることなく解放されている。たばこを吸う人はベランダに出て吸っている。三階で唯一吸える場所だ。室内は全て禁煙になっている。

 作業テーブルにはすでに別のチームが、別のクライアントの仕事を進めている。長島チームだ。たしか今週末納品のディオラマだ。一メートル四方のベースに町並みが広がっている。二千分の一スケール位か、中央に三十センチ位のシンボルとも言えるテレビ塔がそびえている。周りを囲むビル群や道路、鉄道がリアルを引き立てる。制作は一ヶ月かかっている。今はその仕上げ段階にあり最後の追い込みだ。長島チームは三名で動いている。長島さんは勤続十年の中堅だ。長島さんにもいろいろ技術を教わった。ヒートカッターの使い方やナイフ、サンドペーパの使い方も最初に教えてくれたのは長島さんだ。

 ぼくは長島さんに軽く頭をさげて挨拶をした。

「となりの席借りますね」

 長島さんは作業の手を止めることなく、顔だけ振り向いてぼくと中島さんに目線を送った。

「製薬会社のか? 部長から話は聞いている。タイトだけどがんばれ」

 その声に返事を返すように「はい」と応えたが、遠慮ぎみのぼくの声を中島さんの「はい!」がかき消した。

 ぼくはその声にびっくりして中島さんの顔をのぞき込んだら、中島さんは笑顔で見つめ返してきた。ぼくは、またびっくりして、瞬間に目線を外し軽く動揺した。じっとしていられない。早速材料を買いに行こう。

 一応、長島さんに声を掛けた。

「これから材料を購入してきますけど、何かありますか?」

 必要なものがあれば一緒に買ってきますけどと言うつもりが、口から出なかった。

 長島さんは目線も振らずに「別に大丈夫だ」と、一言だけ言って作業に集中していた。

 ぼくは、わかりましたの意味で頭を下げ、中島さんに「じゃあ、いってきます」と伝えてその場を離れた。

 中島さんは小さく手を振りながら返事してくれた。

「いってらっしゃい!」


 会社を出たら、神保町交差点に向かわず、まっすぐ進むとすずらん通りに入っていく。靖国通りの一本裏手に並走するこの通りは、神保町の昔のメイン通りだ。ちょうど今の時間は通行止め時間帯のため車の進入はなく歩行者天国だ。道の両側には老舗の書店や古書店、専門書店が並び、古美術品店や画材屋が軒を連ねる。何軒かおきに、歴史を重ねて今も営業を続ける食堂や喫茶店が並んでいる。中には大型チェーンのファミリーレストランやコーヒーショップに居酒屋も間を埋めるように立ち並ぶが、けして通りのもつ雰囲気を壊さない。この商店街はどこかホッとできるやさしさに溢れている。

 歩きながら書店の中をのぞき込むと、つい、ふらっと立ち寄りたくなる。そんな衝動を振り払いながら、通りをゆっくり抜けていく。すずらん通り出口は靖国通り駒河台下交差点だ。目指す模型材料店は、交差点を渡りJRお茶の水駅の手前の交差点を右に入ったところだ。だから通りの右側の歩道を歩いたほうがいい。ここから五分位のところだ。駒河台下交差点の左には、本の百貨店と言える地上八階の大型書店があり、右にはアイドル本やアニメ、漫画が充実している地上五階建の有名書店が建っている。両店ともよく利用させてもらっている。ここにくれば大抵の本は揃っている。

 赤信号の間振り向いて書店を見上げていると、周りの人が一斉に歩き始めた。交差点に目を向ければ青信号になっている。慌てて人の流れに合わせて歩き出した。交差点を抜け、お茶の水方面へ登っていく。ここからはもう書店はなくなり、通りの左にはすぐに明治大学駒河台キャンパスが広がる。さらに進み、駅近くになると多くの楽器店が並ぶ繁華街へとつながっている。お茶の水駅前交差点を右に曲がると模型材料店はもうすぐだ。

 店に着いた。ここは主にグラフィックの絵画材料や建築模型材料を取り扱う店だ。ここで、今度の仕事に必要な材料は全てそろえられる。

 まず、直径五百ミリの発泡スチロール球が必要だ。ただ、五百ミリの球体としての販売はなく、半球二個を購入して球体にするしかない。発泡スチロールはすぐに傷つきやすい。棚に見つけた発泡球はすでに多少の傷が入っている。素材の性質上、仕方がないと割り切るのが暗黙の了解だ。クレームを付ける対象ではない。実際、この上にモデリングペーストを盛りつけるので問題もない。モデリングペーストは大理石の粉とアクリル樹脂の粉からできたパテ状の下地剤だ。水性製品だから発泡スチロールを溶かすこともない。乾いてしまえばその上に油性塗料で彩色できる。モデリングペーストの次はそれ用の刷毛と筆だ。塗料は会社にある。スチのりも会社にあった。買い物はこれだけでいいはずだ。

 店内を見渡しながら確認をしていると携帯電話が鳴った。ポケットから取り出し着信を確認すると会社からだ。すぐに発信ボタンを押した。

「あっ田中さん? 中島です」

 同じチームの中島さんからだった。

「はい、田中です。どうしました?」

「ごめんなさい。今どこ? 材料屋さん?」

「そうです」

「よかった。木工パテを買ってもらっていいですか? 椅子の設計していたらちょっと問題があるのが分かって必要になったのよ」

「えっ? 問題ですか?」

「うん。電話では説明しにくいわ。大丈夫、田中さんの仕事には影響しないから」

 どんな問題なのか気になったが、今考えても仕方がない。

「分かりました。木工パテですね。買っていきます」

「ごめんね。助かる」

 そう言って、電話は切れた。

 どんな問題かは分からないけど、作業がすんなり進むことのほうが難しい。それほど大きな問題じゃないことを祈りながら、今は自分の作業に集中することにした。必要は材料は手に入れた。頼まれた材料も忘れてはいない。よし、早く買って帰ろう。領収書を忘れるな。


「戻りました」

 会社の三階に戻り、購入した材料を作業テーブルの上に置いた。

「おつかれさま」

 中島さんが近づいてくる。

 ぼくはすぐに買い物袋に手を入れて、オーダーのあった木工パテを取り出した。

「これでいいんですよね」

 そう言うと中島さんはうなずいた。

「うん、ありがとう」

 答えながらぼくに缶コーヒーを差し出した。

「これ飲んで。今買ってきたばかりだから」

 ぼくは自然に手を伸ばし、その缶コーヒーを受け取った。

「いいんですか?」

 そう言いながらもすでに手に持つ缶の口を開けている。

 中島さんは笑顔で小さく首を縦に振り、テーブルの上に置いた木工パテを手に取った。

「買い物頼んだんだから、そのお礼」

 お礼と言われてちょっと恐縮した。

「別に仕事だからいいですよ」

 その言葉に中島さんの口が不機嫌になった。なにか気にさわることを言ったかなと思い、先の言葉が出てこなくなった。

「先に精算を済ませてきます」

 そう言って、不思議と気まずくなったその場の空気から逃げるように離れ、四階の経理部へ向かった。


 精算を終えて三階へ戻ると、中島さんは早速バンドソーを使って木材の切り出しを進めていた。バンドソーとは電動のこぎりのことだ。切っているのは桐の一枚板。きっと、座面に使う板だろう。ぼくは中島さんの切断作業が終わるのを待って声をかけた。

「中島さんが電話で言っていた問題ってなんですか?」

 背中を向けていた中島さんは、ぼくの声を聞いて振り向いた。

「そうなのよ、ちょっと問題があって」

 そう言って作業テーブルに近づきテーブルの上に広げたラフ図面を指さした。たぶん、ぼくが買い物に行っている間に中島さん描いた図面だ。

「椅子の設計をしてたんだけど、椅子の座面が地球の直径より大きいのってバランスがおかしいでしょ? だから座面の大きさを四十センチにしようと思ったんだけど、四十センチで座面を作ると、地球を乗せたとき背もたれに地球が当たっちゃうのよ」

 中島さんは椅子の側面図に地球の円をラフに描き込んだ。地球の直径は五十センチ設定だから、たしかに当たる。

「なので、座面の奥から地球の円に沿ってS字にカーブした背もたれにすることにした」

 ぼくは、地球の裏側は撮影に写らないから地球側を切り落とすことを提案しようと考えたが、それで撮影すると背もたれが地球に食い込んでいるように見えそうだと考えて口にはしなかった。

 中島さんは話しを続けた。

「それで背もたれを挟む両側の板をS字に切らなければいけないんだけど、社内にある板は今二十五ミリが最大なの。でも両側の板が二十五ミリじゃ薄いでしょ。だから五十ミリに設計したの。それで、板を貼り合わせたところの溝をきれいに埋めたくて木工パテをお願いしたの」

 ぼくは中島さんの設計に納得した。

「そうなんだ。たしかにそうですね。気づいてよかった。二人が気付かずそれぞれ自分の造形だけ考えていたら、後で大変なことになってましたね」

「でしょ」

 中島さんはなんとなく誇らしげな笑みを浮かべ、また切断作業を再開した。

 ぼくも作業を開始しよう。

 まずは二つの半球ドームを接着して球体にするところからだ。発泡スチロールを接着するのはスチのりが一番だ。スチのりとは、発泡スチロール用の接着のりのことだ。塗装保管室の接着剤棚にあるスチのりを取り出し、早速接着を行なった。この作業が終わる頃には十二時を回る。昼食の間に接着剤が乾けば、午後からすぐに次の作業にかかれるだろう。時間のない作業だから効率よく進めよう。


 昼食を取り十三時を回った。接着剤も乾き、十分な強度が保たれている。次の行程はモデリングペーストでの表面コートだ。発泡面は爪で押せばへこんでしまうほど柔らかい。モデリングペーストを塗れば固くできる。新品のモデリングペーストは刷毛伸びが良い。接着した溝を埋めるように押しつけながら半球分を塗り終えた。ここでいったん乾かさないと、残り反面を塗るときに持つところがない。

 地球を転がさないように、静かにビニールシートの上に置き、彩色用の調色に作業を切り替える。

 塗料保管室に色を取りに行く。色は基本色が揃っている。赤青黄色に緑やオレンジだ。その他に透明カラーのクリアー赤青黄桃緑があり、白黒も当然ある。これらを混合させて必要な色を調色する。

 調色用のガラスビンを取り出した。海は青だ。しかし、ただの青じゃない。少量の黄色に白をくわえて明るくする。深い海は赤も混ぜて紫よりの青にするが、今回の海は一色にまとめる指示だ。色に濃淡は付けられない。

 青の調色が終わったころにはモデリングペーストが乾いていた。発泡球の作業に戻り、塗れていない残り半分にモデリングペーストを塗りつけ全球面をコートした。

 また、乾燥を待たなければならない。調色台に戻り陸地の黄色と緑色の調色を始める。新しくビンを取り出し、黄色と白を入れ若干の赤をくわえて砂漠の黄色を表現する。緑はクリアーの緑をベースに白と黄色をくわえ、色のようすを見ながら少量の青を足した。今回の三色はイメージで作れるから比較的に作りやすい。指定のカラーチップが出てくると、その指定の色にぴたり合わせるのに神経を使う。調色後乾燥すると色が変色したり、吹きつけ濃度で色が違って見えたりして、その都度微修正に時間をとられてしまいからだ。だから、イメージを伝えるための調色のほうが、デザイナーとしての提案が出来るので楽しい。その分責任も重くなるが、そこにストレスは感じない。創意工夫をするのがデザイナーなら、ぼくはデザイナーでありたい。デザインも小説も創作することは一緒だ。なにかを生み出す仕事は楽しい。

 調色が終わったころには発泡球の表面はモデリングペーストでコーティングされていた。次は大陸をポリパテで作る番だが、その前にモデリングペースで出来たでこぼこをサンドペーパーで削って表面を平らにならす必要がある。ただ力任せに削ると表面膜を削りすぎて発泡面をへこませてしまうから注意が必要だ。慎重に、しかし大胆にヤスリをはこぶ。しだいにでこぼこも無くなり球面に仕上がる。

「こんなもんだろう」

 ここで少し休憩を取った。

 中島さんの作業はS字板の切り出しが終わり、四脚の足を作り始めていた。円柱の木工から四本分を切っている。シンプルな椅子という指定だったので円柱を使ったのだろう。単純な設計だが貧素には見えない。問題は背もたれだろう。地球の球面が当たらないようにしなければならない。ぼくは中島さんの様子をうかがった。

「どんな感じですか?」

 中島さんは四本の円柱を並べて長さが揃っているかテーブルの上で確認しながら答えた。

「うん、順調。パーツの切り出しは今日中に終わらせます」

 中島さんは目線を図面に向けた。次にS字板で挟む背もたれ板の切り出しだろう。図面では幅五十ミリの板を五枚切ることになっている。ぼくは中島さんが見る図面をいっしょに見て気が付いたところがあった。

「あの中島さん。座面なんだけど。平らなままじゃ地球が転がっちゃいませんか?」

「えっ?」中島さんはぼくに目線を上げた。ぼくは座面と地球が接するところ指で叩きながら要望を出した。

「座面の真ん中にくぼみ付けてもらえませんか?」

 中島さんは目線を図面に戻して、ぼくが指す所を確認しながら言った。

「くぼみ?」

 ぼくはうなずいた。「そう、くぼみ」

 中島さんの口が開くまでに少々時間がかかった。

「――できるけど……、何Φ(ファイ)位? 深さは?」

「深さは二ミリあればいいと思います。直径は……」

 ぼくは、イメージで大きさを想像してみたが、適当なことは言えないと思った。もしその大きさが間違いだったらやり直しさせてしまうことになる。

「ちょっと調べてきます。ぼくはこれから白地図をプリントしに四階に上がりますからすぐに知らせます」

「うん、わかった。その間に背板の切り出ししてる」

「じゃあ、三十分位かかりますよね。白地図持って降りてくるとき、一緒に寸法持ってきます」

「はいっ」

 中島さんの返事を聞いて、四階の自分のデスクに向かった。

 パソコンのプラウザを立ち上げ、白地図画像を検索した。その中から舟形多円錐図法の画面をクリック。画像保存して画像加工アプリケーションで開き直径五百ミリのサイズになるように拡大する。北極点と南極点の距離を円周の半分にすればいいわけだから五百×円周率÷二で七八五.四ミリにすればいい。拡大するために地球のドットが荒くなるが、線の位置さえ分かればいいのでそのままプリントアウトする。

 次に中島さんと約束した座面へこみの寸法だ。

 CADソフトを起動して2Dモードで新規ファイルを開いた。

 四百ミリの水平線を一本引き、線の中心点を拾って、下に二ミリの垂直線を引く。画面の適当なところに五百Φの円を描く。円の最下点をドラッグして二ミリの垂直線の下点にドロップする。水平線と円とが交わる二点が出来るから、二点間の距離をスケールで計れば寸法が表示される。

 六三.一一九ミリ。

 発泡球の表面にモデリングペーストを盛ったので少々大きくなっているから、六十五ミリとしていいだろう。

 地球の図面と座面の彫り込み直径の答えを持ってすぐに三階へ駆け下りた。

「中島さん、分かった。六十五Φ」

 背中を向けてバンドソーで作業中の中島さんに話しかけた。

 加工中の中島さんは振り返ることなく、声だけ返した。

「わかった。ありがとう」

 それだけ言うと作業に集中した。

 ぼくが追加加工をお願いしたことで仕事量を増やしてしまったことになる。座面を削らず、地球の底部を削ることも考えられるが、地球の球面を崩したら、撮影に支障が生じないとも限らない。中島さんもそのことは分かっているんだろう。地球を削っちゃえとは言ってこない。

「リューター使って削っちゃってよ」

 ぼくがそう言うと、なんの否定もせずにうなずいてくれた。

 設計にはない加工だが、やっておいて損はない。仕事を増やしてごめんなさいという気持ちと、お互いいいもの作ろうという気持ちで、作業をする中島さんの背中を見つめた。

 ぼくも自分の仕事に戻ろう。

 プリントした紙を地図線に沿ってカットする。紙の裏にスプレーのりを吹き付ける。球面の上に張り込んでいく。張り込まれて地図で球体は地球儀の形になった。

 今度は大陸の墨線の上にカッターを通して球面に傷を入れる。終わって紙をはがせば大陸の線が球面に刻み込まれている。この線をたよりにポリパテを盛りつけて陸地を造形すればいい。中心に日本を置く。アジアとオセアニアが撮影の中心にくるから、そのあたりからまず作り込んでいく。作るのは日本を中心に半球分でいいはずだが、裏へ回り込む部分も写り込むかも知れないから、万が一を考えて少し余計に陸地の造形をしておこう。


 それから数時間、大陸の造形に費やした。必要なところにポリパテを盛りつけ終わった頃には夜の九時を回っていた。見える範囲で地球に見える。山脈の凹凸感も再現したつもりだ。この後は彩色行程だが、今日はここまでか。そう思い、一息ついた。中島さんを見るとまだ作業を続けている。ぼくがお願いしたくぼみが表現されている。椅子の形は出来てきた。後は表面加工とニス処理くらいに思える。

 となりのテーブルの長島さんチームはまだまだ作業中だ。開発部のだれひとり、まだ帰宅していない。この業界はみんなそうらしい。必要なら深夜まで仕事が続く。終電などざらだ。そんな日は、一日十五時間労働していることになる。よく体が保つなと思うが、ぼくも同じような労働時間で作業することもある。納期に追われて緊張が続き、不思議と体は平気だ。

 一日の仕事の終わりは自己申告でいい。部長に今日の仕事を確認してもらい、今日はここまでにしよう。

「中島さん。ぼくは今日のところはここまでで終わろうと思うけど、中島さんはまだやっていきますか?」

 中島さんもそろそろ一段落すると思ったので、そう声をかけた。

「私も今日はここまでにする。後は仕上げだけだから明日中には終わるわ」

 そう言って中島さんは手を止めた。

「ぼくも後は色を塗るだけだから、明日中には終わります」

「うん、今日は終わりにしよ」

 中島さんは身に付けていたエプロンを外した。

 満足そうな中島さんの笑顔を見て、ぼくもうれしくなった。

「部長に報告してきます」

 部長の許可をもらい、今日の仕事は終わった。


 翌朝。

 いつもの電車のいつもの席に座った。

 読みかけの本を開く。

 チラッと向かいの椅子の左端に目を向けるといつもの赤い眼鏡の女の子が座っている。今日も元気みたいだ。モカ色のキルトジャケットが似合っている。手にはスマートフォン。メールのチェックをしているみたいだ。ここからだと画面は見えないが、うれしそんな笑顔でスクロールしている。彼氏からか? そう思うと画面が気になる。あれだけ可愛いければ彼氏もいるだろう。そんな考えが自分自身を気落ちさせる。ぼくなんて相手にされるわけがない。声をかけるなんて一生無理だ。ため息混じりの呼吸を残して本へと目線を落とした。

 いつもの時間に動き出す電車。

 いつもの時間に神保町の駅に着き、いつもの時間に会社の扉を開ける。

「おはようございます」

 だれに声をかけるわけでもなく挨拶してから、タイムカードに手を伸ばし打刻した。

 就業時間の十五分前。まだ、半数しか出社してきていないため部屋は静かだ。

 自分のロッカーに鞄を詰め、エプロンを取り出した後、ジャケットをハンガーにかけて、靴をスリッパに履き替えて閉める。

 すぐに三階へ降りていった。三階では長島チームの三人がすでに仕事を始めている。昨日ぼくより遅く帰ったはずなのに、今日はすでに作業が始まっている。かなりスケジュールが厳しいのだろう。今週金曜日が納品のはずだ。全体は造形で埋まっているが、細部の彫刻にこだわりがありそうだ。中央のテレビ塔もまだディテールが乏しい。この模型が主役だと思うが、これから手を加えるのだろうか。そうなるとたしかに時間が無いように思える。

 でも今は自分の仕事に集中しよう。今日はクライアントが途中経過を見に来るはずだ。時間は十四時。それまでに彩色のできるところは進めておこう。白い海に灰色の大陸ではイメージが伝わらない。

「おはよう!」

 声に気づいて振り向くとすぐ後ろに中島さんが来ていた。

「おはようございます」

 すかさず挨拶を返した。

 中島さんはエプロンを身につけた。エプロンの首掛けに挟んだ長い髪を、両手で掻き上げて、首掛けの外へ解放しながらぼくに話す。

「今日十四時に広告代理店さん来るって。さっき部長に確認してきた」

「えっ、部長いました?」

「いた。パソコンでテレビ塔の3D作ってる」

 四階の入り口からでは手前の席のモニターに隠れて部長の席がよく見えない。出勤時の挨拶のとき、返事が返ってこなかったからいないものと思っていた。

「テレビ塔って長島さんの仕事の?」

「そうでしょ」

 今あるテレビ塔は最終版ではないということか。どおりで作り込みが甘いと思った。今のモデルはスケールの確認用か。

 ぼくは、長島さんに振り向き聞いてみた。

「長島さん、おはようございます。テレビ塔のデータって部長が作っているんですか?」

 長島さんは振り向くこともなく、作業を進めながら話しを返してくる。

「ああ、おはよう。そうだ。データを部長にお願いした。明日出力しないと木曜日までに形にならない。こういうのは部長が一番早いからな。昨日の夜から始めたぞ」

 昨日の夜ということはぼくが帰るときに挨拶したあの時間からか。

 みんながんばっている。ぼくも今日でこの仕事を終わらせる。

 その場で一礼して、塗料保管室に昨日作った青の塗料を取りに行った。

「塗装室、使ってだいじょうぶですよね」ぼくは塗料保管室から顔を外に出し、三階のすべての人に聞こえるように話した。

 だいじょうぶだという声は聞こえたが、だめだという声は聞こえない。

「使わせてもらいます」

 手に青い塗料ビンを持ち隣の塗装室に入った。コンプレッサーのスイッチを入れるとカタカタと音を出し動き出した。コンプレッサーのタンク内に圧力が高まっていく。ビンのふたを開けてコンプレッサーにつながるスプレーガンのタンクに青の塗料を入れた後、シンナーを入れて撹拌し、濃度調整を行なう。ビンの中の塗料は粘度が高く吹き付けられない。試しに彩色台に置かれている端切れとなったいらないプラ板に吹きつけてみる。彩色台の奥はフィルターをはさみ、換気扇が回っている。吹き付けた時に舞う余分なシンナーは換気扇から室外の水槽へとはき出される。塗料が塗装室に舞い上がることはない。試し吹きを繰り返し、濃度調整を終える。

 地球を取りに作業テーブルに向かう。地球の裏側は撮影対象面にならないため好きな加工が可能だ。そこでパイプをさせる穴を開けた。そこに直径二十五ミリの塩ビパイプを差し込む。水道管としてよく使うものだ。地球の中は空洞だから表面を抜ければ奥まで差し込むのは簡単だ。奥に当たった感触のところで止める。穴とパイプの設置面をガムテープで固定する。これで、地球を支える持ち手が出来た。持ち手がないと球体の地球を全面塗装出来ないし、塗装後乾燥する間どこかに置いておくこともできない。

 塗装を開始した。

 海の部分にスプレーで着色していく。しだいに白かった海は、海らしい青に染まっていく。陸地との境はスプレーガンをピースガンに持ち替え、細かい線を引くように海岸線に合わせて吹き付けていく。海岸線の最後の仕上げは筆でレタッチするが今はそこまでやらない。その前に陸地の彩色を進めたほうが効率が良い。スプレーガンのエアーホースを外し別のスプレーガンにセット。セットしたスプレーガンのタンクに白塗料を入れて濃度調整する。陸地に色を吹き付ける前にグレイの表面を白くしておかないと茶色と緑の発色が悪くなる。

 陸地に白を吹き付ける。乾燥している間に茶と緑のビンを取りに行く。

 また、別のスプレーガンを用意して茶色と緑のそれぞれの色をスプレー濃度に調整する。

 そうしている間に白の塗装は乾いた。

 先に緑を吹き付け、次に茶色。緑と茶色の重なりはグラデーション表現でぼやかされる。海にはみ出した色は、その上に白を吹き付け青をのせて復元。緑の面積と茶色の面積を吹きながら確認し、バランスが悪ければ白を吹き付け面積調整。しだいに全体の彩色がまとまってきた。

 背中に人の気配を感じた。塗装室をのぞき込む中島さんがそこにいた。

「お昼よ」

 声をかけられると、塗装室から顔を出し、壁に掛かる時計に目をやった。時間は十二時十分を回っていた。

「ほんとだ。ありがとう」そう言ってぼくはマスクを外した。

「集中してたわね」塗装室から離れるように歩きながら中島さんは言った。ぼくは後を追うように塗装室から出た。

「二時までにだいたいのところまで完成させたいと思って」

 中島さんは歩きながら振り返った。

「だけど、ごはん食べておかないと、クライアントから質問受けたら、頭が回らなくて答えられないよ」

 そう言うと中島さんは部屋を出て四階へと駆け上がって行った。

 ぼくはエプロンをはずし、手についた塗料を落としに洗面所に行った。

 クライアントに見せられるところまでは終わった。後は評価を受けるだけだ。


 昼食後、二時を回るのは早かった。

 一度四階に来たクライアントの二人は部長と一緒に三階へ降りてきた。

「お世話になります」

 ぼくや中島さんの他、部屋にいるスタッフ一同、クライアントの二人に挨拶をした。一人は弊社クライアントの広告代理店の村瀬さん。もう一人は製薬会社広報担当の吉永さんだ。村瀬さんとは面識があるが、吉永さんとは初めてだ。造形物の確認の前に名刺交換をすませた。

 村瀬さんは部長の隣に立って話しかけた。

「椅子の上に地球を置いてもらっていいですか?」

 部長はぼくと中島さんに尋ねた。

「乾いているか?」

 塗料が乾いていなければ椅子に置いたとき地球の色が移ってしまう。でも彩色は食事前に終わらせた。それから色は加えていない。

「だいじょうぶです」

 ぼくがそう言うと中島さんも「はい」と答えた。

 部長はうなずいた。ぼくに指示を出す。

「地球を椅子の上に置いてみて」

 ぼくは椅子の正面に合わせて日本が前を向くように地球を乗せた。座面に作られたくぼみが地球の球面にフィットして安定する。やはりくぼみを付けておいてよかった。中島さんを見ると自慢そうにうなずいていた。

 部長が吉永さんと村瀬さんに話しかける。

「帽子とマフラーは別のところで制作しているので、今ここにはありません。今は椅子と地球の確認をお願いします」

 二人は了解と目で合図をし、吉永さんも村瀬さんの横に付いて正面から見つめた。二人の顔を笑顔だった。満足そうにうなずいて見える。

 吉永さんが、思い出したように鞄の中に入れてあったファイルから一枚のイラストを取り出した。それは、今回ポスターにするラフ稿だった。タイトルにキャッチフレーズを使い、下段に製薬会社を表記して、中央に椅子に座った地球を描いた絵だ。ラフ稿とはいえ、きれいに色が乗せてある。ぼくたちが作った造形とは椅子のデザインや地球の色づかいが違っているが、最初に絵を見たわけではないので合うはずがない。

 部長が絵について質問を切り出した。

「この絵はいつ描いたんですか?」

 吉永さんが答えた。

「昨日です。カメラさん用にイメージが伝わるようにと、うちのデザイナーに描いてもらったんです。もともと椅子の上に地球を乗せるアイデアを出したのはこのデザイナーでね。せっかくだから描いてもらったんです」

 部長はその話しに口を合わせた。

「最初にもらっていれば、椅子のイメージも合わせられたのにね」

 吉永さんは右手を横に振り、笑顔で答えた。

「いえいえ、あくまでこれはイメージですから。椅子のデザインが合わないのは当然ですよ。違っていても問題はありません。それにこの椅子。デザイン的に悪くないですよ。これでいいと思います」

 中島さんの顔はうれしそうに緩んでいた。

 部長も気を良くして、今度はぼくの造形に意識を向かせた。

「地球はどうですか? まだ仕上げにまでは至っていませんけど」

 たしかに陸と海との境界線はまだぼやけている。レタッチしていないから仕方がない。今は全体の雰囲気と色づかいを見て欲しい。

「全体としては良いと思います。色もこれで良いと思いますし、茶色と緑の比率もこれぐらいで良いですね」

 ぼくは少しほっとした。海の青さをもっと濃くしてくれとか、緑をもっと鮮やかにしてほしいとか言われたら大変だと思っていたからだ。

「しかし……」

 突然、吉永さんは否定の言葉を口にした。

 ぼくは緩んだ目を締め直した。なにか問題点があるのか。ぼくは聞こうと口を開き掛けたが、部長が代わりに質問した。

「なにか、気になる箇所がありますか?」

「ん~。この絵にもあるように、少し日本列島を大きく見せられないかな?」

「えっ」つい、ぼくの口から言葉が漏れた。日本の大きさは地図から正確に割り出した。小さいはずはない。

「いや、実際の日本の大きさはこれぐらいだと分かっているけど、やっぱり、日本企業のポスターだから、日本を目立つように大きく作りたいな」

 ぼくは痛いところを突かれたと思った。抵抗する言葉がでない。ただ、直すとしたらどう直そうかと考えた。中島さんも口を尖らせて困っている。

 部長は吉永さんに聞かずに村瀬さんに小声で話しかけた。

「日本を大きくするみたいな話ってしてましたっけ?」

 小声でもみんなに聞こえている。その質問に答えたのは吉永さんだった。

「いえいえ、日本を大きくしたいと思ったのは私の考えです。今この絵とモデルを比較してそう思ったんです」

 部長はうなった。ぼくもうなりたかったが、立場上失礼にあたると思いこらえていた。しかし、絵を見るとぼくにも分かる。日本を大きく描いてデフォルメした地球の線がかわいい。リアルなバランスの線よりキャラクター感が出ている。

 しばらく五人の間から言葉が消えた。

 部長はなにかを考えながら一指し指で自分の頭を叩き、ぼくに目線を送り、答えを求めた。

「どうだ、できるか」

 日本を大きく作り直せるかということだ。時間的に厳しいと思った。直すとなれば、日本列島を一旦平らにしてパテを盛り直す必要がある。大陸のバランスをとるために樺太と朝鮮半島を直す必要もある。撮影は明日の十四時からだから、納品は十三時発のはずだ。彩色の乾燥時間を考えると、明日の朝からの彩色はできない。今日中に全行程を終わらせる必要がある。

「はい、大丈夫です」

 ぼくはそう答えた。普通に考えると終わるわけがない。しかし、期待されている造形を時間までに終われせることがぼくの仕事だし、信用だと思った。終わるかどうかじゃない。終わらせなければならない。そんな気持ちが答えさせた。

 中島さんは心配そうにぼくを見つめた。部長も心配そうな目を一瞬投げかけたが、すぐに笑みに変わりうなずいた。

 吉永さんは大きくうなずき、ぼくに期待の声をかけた。

「よろしくお願いします」

 ぼくはその期待に答えてもう一度返事をした。

「はいっ」

 吉永さんは笑顔でイラストを指さしながらぼくに話しかけた。

「明日搬入には同行されますよね? これを描いたうちのデザイナー紹介しますよ。神内っていって赤い眼鏡の女の子です。去年入った華奢な子ですけど、しっかりした考え方を持っていて、最近ではいろいろなアイデアを提案してもらっています」

 ぼくは、ありがとうございますと一礼をした。

 その後すぐに吉永さんと村瀬さんは、明日楽しみにしています、と一言残して帰って行った。

「ほんとに大丈夫?」

 中島さんが心配そうに話しかける。

 大丈夫もなにもやるしかない。でも中島さんに心配させてしまうのも良いことではない。

「大丈夫ですよ。中島さんは自分の仕事に集中して下さい。ぼくも必ず終わらせますから」

 中島さんはがんばってねと言葉を残し、自分の作業に戻った。中島さんは椅子の表面の仕上げとニス塗りで終わりのはずだ。クライアントが午後からくるから午前中にニスは塗れなかった。朝から塗っても十四時までには乾かない。

 現在十五時。ぼくの仕事を進めよう。モデリングペーストやポリパテ、塗装はどんなに急いでいても乾燥時間が早まることはない。一つ一つの作業を早めるしか時間短縮の手段がない。いかに効率よく進めるかだけだ。

 大胆差が要求される。ぼくはカッターの刃を全開に出し、日本列島とその周辺の大陸をそぎ落とした。下地のモデリングペーストまで削りとり、発泡スチロールの地肌が向きだしとなった。せっかく作った造形だったが、今は無念な思いなど、なんの価値もない。

 むき出しとなった地にモデリングペーストを塗り込む。一度はがしたところに塗りこんでも段差が出てしまう。そのために、塗って乾かし削ってを繰り返し、最初に作ったモデリングペーストの層と平らになるまでに作業を重ねた。新規と補修では補修のほうが手間がかかる。平らな面に戻すまで一時間かかった。

 現在十六時。もらったイラストを参考に日本列島をえんぴつで地球の上に手書きした。

 バランスを取って樺太と朝鮮半島もえんぴつで線を加える。ロシア、中国の海岸線を書き入れ、日本海の線を一本につなぐ。モデリングペースト表面は本来の硬度にはほど遠く、慎重に加圧をしなければ、えんぴつで線を書き入れる前に芯先で削り取ってしまう。

 イメージはイラストに近づいた。ポリパテに作業を移す。

 モデリングペーストの乾きを気にしながらポリパテを大陸の形や日本の形に整える。

 十七時。日本列島造形。盛りつけ、削りだしを繰り返す。日本列島と樺太、朝鮮半島は別のタイミングでパテ盛りを行なう。日本列島のパテ乾燥中には、樺太や朝鮮半島のパテを削る。削った後また細部の形をパテ盛り修正する。盛りつけが終わるころには日本列島のパテが硬化するからそちらを削る。作業の手が止まらないようにしなければ時間に無駄が出来てしまう。ひととおり造形が終わったころには二十二時になっていた。

 中島さんの作業は終了したようだ。ニスが何度か塗られて表面に艶が出ている。ニスは乾燥するまでに時間がかかるから今日はこのまま作業テーブルに置いておくだろう。

 ぼくはこれから彩色だ。修正した箇所を白で下処理して、大陸と海をスプレーで塗り分けていく。日本は筆塗り処理。大陸と海の境界線も筆でシャープに描き込んでいく。境界線処理は地球全体に及ぶ。彩色はこだわればこだわるほど時間が必要だ。気が付くと時計の針は二十四時に近づいていた。

「大丈夫? 手伝おうか?」

 振り向いたら中島さんがいた。中島さんの声がやさしい。中島さんはとっくに作業を終了しているはず。こんな時間まで会社に居る必要はないはずだ。ぼくの作業を心配して気遣ってくれている。そう思うとうれしかった。でも、手伝ってもらいたくても地球はひとつしかないし、これを手分けして色を塗ることもできない。それに、そろそろ中島さんは終電のはず。

「大丈夫です。後は細部を処理して額に赤をスプレーするだけだから、一人でできます。それにもう終電でしょ。早く帰らないと乗り遅れますよ」

「……手伝えることがあれば、泊まってもいいよ」

 上目遣いで見つめる目がはずかしそうに瞬きをした。そう言ってくれるのはうれしい。でも、会社にぼくと二人っきりになってしまう。気を使わせちゃうだろうし、無理にお願いして体調を崩されたら申し訳ない。仮眠室があるわけでもないから体も休めない。女性を会社に止めさせるのが過酷だ。もともとぼくの仕事だ。手伝ってもらおうなんて考えちゃだめだ。

「泊まってまでつい合うことないですよ。明日は搬入なんだから、家でゆっくり休んで、体調整えて」

「うんっ、でも田中さんだって搬入行くでしょ。泊まったら自分の体調管理ができないじゃない。少しでも手伝えば、睡眠時間作れるでしょ」

「徹夜するほどの仕事じゃないですよ。終わればすぐ寝ます。」

「どこで寝るの?」

「椅子にすわっても、床に段ボール引いてでも、どこでも寝られますよ。でも中島さんは段ボールに横になって寝るなんてこと出来ないでしょ。泊まったら、本当に明日大変になっちゃうから、早く帰ってください」

「でも……」

 静寂の時間が流れた。中島さんはなにかを言い足そうと小さく口を開きながら息を吸い込んだ。

 そのとき出入り口の扉が勢いよく開いた。

「どうだ田中、終わりそうか!」

 扉を開けて入ってきたのは下田平部長だった。手に持ったコンビニのビニール袋をぼくに突き出した。

「夕飯、食べていないだろ。俺のおごりだ、食え!」

「あっ、ありがとうございます」

 突然でびっくりしたが、ぼくは、素直に手を伸ばした。袋の中を覗けば、暖めてある唐揚げ弁当と暖かいお茶、それに、冷えた三百五十ミリリットルの缶ビールが入っている。ビールに気づいたぼくを見て部長が話した。

「仕事が終わったら飲め。よく眠れる」

 笑顔でビールを勧めてくれるのは酒好きの部長らしい行為だ。ありがたく受け取った。

 部長はぼくのとなりに中島さんがいるのに驚いた。

「中島、まだいるのか。終電なくなるぞ。早く帰れ」

 その言葉に中島さんは素直に答えた。

「はい」

 部長はすぐに扉を開け、四階に向かう階段を駆け上がっていった。

 部長が突然会社に戻ってきたのに驚いた中島さんは、さっきなにか言いたいことがあったように思えたが、話すのはやめたのか、軽いため息を漏らした。

「じゃあ帰るね」

 その言葉を聞いて、体をまっすぐ中島さんに向けた。

「はい、遅くまで付合ってくれてありがとう」

 中島さんは首を横に振った。

「うんん、いいの。深夜だけどがんばってね」

 ぼくは軽く頭を下げた。

「おつかれさまでした」

「おつかれさま」

 そう言って背中を見せる中島さんの背中がどこか寂しそうだった。扉を開けて外へ出た。ゆっくり閉まる扉の外からぼくに手を振っている。ぼくも答えるように手を振った。しだいに扉は閉まり中島さんの姿は見えなくなった。

 深夜零時。ぼくは一人になった。

 いつも六人前後で作業している手狭に見えた空間が今は広く見える。音もなく、会話のない空間は、一人取り残され幽閉された気分になる。

 静かだ。

 突然RP出力マシンが動き出した。いつもの作業中なら動作音などほとんど気にならないが、今ほど静かだと耳に残る。とはいえ不快な音ではない。しばらくすれば気にならなくなるだろう。なにが出力されていうのか気になるが、実態が明らかにされるまで数時間かかる。一センチの造形物を積み上げるまで一時間かかるから、ものによっては一日かかる。

 手にしたビニール袋に目を向けた。

 せっかく部長から頂いた弁当だ。冷めてしまわないうちに食べよう。

 作業テーブルのきれいなところを選んで、ビニール袋から取り出した弁当とお茶を置いた。袋に残るビールを手に取った。一瞬今飲んでしまおうかとプルトップに指を掛けたが、やはり良くないと思い、指をもどした。ビールはシンク横の冷蔵庫に入れる。仕事が終わったら飲む。

 作業テーブルに戻り弁当の蓋を開けた。暖かい湯気を肌に感じる。今日は昼以来、食事をしていなかった。仕事に集中していて感じていなかったが、唐揚げの香りが鼻を刺激して、空腹だったことに気が付いた。

 部長が弁当をくれる。その行為が嬉しかった。弁当に箸を伸ばしながら部長の言葉を思い出した。

 ナンパの一つもできないやつに営業が務まるか! というものだ。社員と飲んだ酒の席で酔いに任せて口から出た言葉らしい。部長も酒を飲むと気が大きくなる。ナンパというのは一人の女性に対して、いかに自分の魅力を売り込むかだ。自分と付き合えば、こんな楽しいことや、あんな体験やらをご提供できますよ。共有して二人で幸せな時間を過ごしませんか、ということだ。営業は弊社の魅力を他社に認めてもらい、契約を取ってくることが仕事だ。つまり弊社商品の売り込みだ。なにがナンパと違う。女性を口説くナンパは、成功しなくてもそこで傷付くのは本人一人だけ。しかし、会社の営業は仕事が取れなければ、売り上げも伸びず、社員の給料も払えなくなる。つまり営業が社員全員の生活を握っている。ナンパのように一人だけ泣けばいいような問題じゃないんだ。営業はそれだけの責任を担っているんだ。

 一理あると思った。

 ナンパというと聞こえが悪いけど、出会いのための第一歩と考えるとナンパくらい出来なきゃな、と思った。未だに赤い眼鏡の女の子に声をかけられないけれど。

 弁当を食べ終えた。ビニール袋へ弁当ケースを入れ、縛ってゴミ箱へ。ペットボトルは分別ゴミへ。

 さて、続きをやるか。もう少しで終了だ。


 ざわざわする人の声が耳に聞こえる。

 瞼が重く、目を開けられない。

 作業テーブルから少し離れた床に座わり、コンクリートの壁に背をあてて寝むってしまったらしい。

 今何時なのだろうか。

 目に神経が戻ってくると、そこに七人の背中が見える。

 状況がつかめない中、「はあー」と一言声が漏れた。

 声に気付いた七人はぼくに振り向いた。

「出来たじゃないか」

 部長の声だった。

 開き切らない目を擦り、神経を集中すると七人の顔が見えてきた。

 下田平部長に長島さん。中島さんに近藤さん。長島さんチームの赤坂さんと牧場さんと足立さんだ。

「おはよう!」

「おつかれ!」

「ごくろうさん!」

 みんなの言葉を聞きながら、体が起きてきた。

 時計を見れば八時半。就業時間までにはまだ早い。ぼくのことを気にして早く来てくれたのか。そこまで気遣ってもらえるのは嬉しい。

「ここで寝てたらじゃまだ。終わったら作品は大事に梱包しておけ」

 と、部長があしらう。

「俺たちは作業があるからな。終わったらさっさとかたづけて整理しろ」

 長島さんの声だ。

 長島チームはディオラマ制作の大詰めだ。昨日もチーム全員ぼくが出社前に来ていた。別にぼくに気遣って早く来た分けじゃないんだ。淡い期待をした自分が恥ずかしくなった。

「すいません」

 力のない声で謝り、立ち上がろうとしたとき、右手に持ったビール缶に気が付いた。仕事が終わって飲んだビールだ。疲れていたからすぐに効いてしまった。

 扉を開け四階に向かう部長の背中に向けて「ありがとうございます」と右手を前へ突き出した。

 振り向いた部長は右手に握るビール缶を見て笑顔でうなずいた。

「一度、組んで写真を撮っておけ。一時にここを出るから、最終確認しておけ」

 部長は階段を駆け上がって行った。ぼくは、部長の姿が見えなくなる前に素早く答えた。

「はい、分かりました」

 後ろから明るい声が聞こえる。中島さんの声だ。

「合わせてみよっ」

 振り向くと中島さんと近藤さんの手には、それぞれが担当する椅子とマフラーとニット帽を手にしていた。

「分かりました」

 そう言って振り返えった後、一言付け加えた。

「その前に顔洗ってきます」

 寝起きの顔だからきっとひどい顔だろう。タオルと歯ブラシを取りに四階の自分のロッカーへと向かった。


 十三時を迎えた。

 地球をパッキンで優しく包み、大きさのあった段ボール箱へ梱包する。中島さんの椅子も傷つけないように段ボールに梱包した。マフラーとニット帽は紙袋に入れるだけで手軽だ。

 顔を洗って、歯を磨き、ひげも剃ってさっぱりした。もう疲れは残っていない。頭もシャキっと覚醒している。

 移動はタクシーだ。スタジオのある新宿まで渋滞がなければすぐに着く。

 荷物をトランクに乗せて、担当三人と部長の合計四人でスタジオへ向かった。

 なぜか、部長が運転席の横に座り、担当三人は後ろだ。ぼくは真ん中に座らされる。ドライブシャフトが通るトンネルのおかげで足下が狭い。三人座ると横も狭い。肩幅を狭くして小さく座っている。

「すぐに着くから」

 そう言って中島さんは狭い座席を楽しんでいる。ぼくはカーブを切ると肩がぶつかるから右カーブのときは左に倒れないように必死に腹筋に力を入れているのに、中島さんは左カーブの時、容赦なくぼくに肩をぶつけてくる。

「いたいですよ」

 そう言っても、

「すぐ着くから我慢」

 全然、じっとしていようという気持ちがない。

 タクシーは靖国通りを直走り、スタジオに近づいた。


 スタジオは倉庫を改造したような天上の高い空間。内面全てコンクリート打ちっ放しの壁で囲まれている。天上からは多くの照明機器がぶらさがり、キャットウォークが数本横切っている。照明下には白綿を引いた撮影台が用意させ、その上に細い金属パイプで組上げた四角いフレームがある。フレームを被うように光りが透過する白幕をかぶせてある。カメラが狙う正面は幕をかけずに広げてある。スタジオの中央に置かれた固定一眼レフカメラのレンズは被写体が置かれるであろう位置にピントを合わせている。カメラマン一人に助手が二人付いて調整を続けていた。

 カメラの後ろに長テーブルが用意され、多くのスタッフが各自の役割の仕事をこなしている。ノートパソコンを持ち込みスケジュール管理をしている人、何枚かの書類を広げ打ち合わせをしている人たち。奥には自由に飲食できそうな、お茶やお菓子がならんでいる。

 スタッフの中にミーティング中の吉永さんと村瀬さんを見つけた。

 村瀬さんはぼくたちに気が付いて手を上げた。村瀬さんは吉永さんに声をかけて席を立ち、ぼくたちを出迎えてくれた。

「どうも、ごくろうさまです」

 部長が頭を下げて挨拶に応える。

「お世話になります。今日はよろしくお願いいたします」

 ぼくと中島さんと近藤さんも挨拶し、段ボール箱を近くのテーブルの上に置かせてもらった。

 吉永さんの目が段ボール箱を追っている。

「わざわざ、お越し頂きすいません。それでどうですか。地球のほうは良くなりました?」

 早速来た。部長が指示する前にぼくは地球の入った段ボール箱を開けた。

「はい、直しました。確認お願いします」

 箱から取り出し、丁寧にパッキンをはがし始めた。スタジオにいる全てのスタッフの目がパッキンをはがされていく地球に集中する。ぼくは地球を持ち上げた。日本列島を吉永さんの正面に見えるように回した。もし、これで承認がもらえなければ急いで会社にもどり修正しなければならない。簡単な直しなら良いが、大幅な修正はすぐには治らない。もしそうなったら、今日の撮影が中止になる。用意して待っていたスタッフの仕事が無駄になる。村瀬さんは吉永さんに寄り添うように隣に立った。吉永さんは地球を厳しい目で見つめていた。村瀬さんは吉永さんを横に見て、静かに聞いた。

「どうですか?」

 しばらくの沈黙の後、吉永さんは大きくうなずいた。

「オーケーです。撮影に進みましょう」

 ぼくは安堵した。吉永さんはうなずいた後、満面な笑みを浮かべてくれた。

 スタジオが動き出した。

 各スタッフはそれぞれの役割に散っていく。

「早速、撮影台へのセッティングをお願いします」

 中島さんは椅子の梱包をはがし、撮影台の上に歩み寄った。

「こんな感じで大丈夫ですか?」

 椅子を撮影台に置き、カメラマンの方を振り向いた。中島さんは椅子に手を添えている。

 カメラマンは電子ビューファインダを見ながら指示を出す。

「もう少し、時計回り――、そこでいい。オッケー」

 中島さんはうなずいてそっと手を離した。

 次は地球の番。撮影台にゆっくり近づき、日本列島をカメラに向けてそっと椅子に座らせた。設置の瞬間、椅子の位置を動かさないように注意。

「どうですか?」

 カメラマンに聞く。

「もう少し上に回転。日本列島が上に行くように」

 カメラアングルがここからでは分からない。カメラマンの指示に合わせるしかない。

「ちょっと右に傾いた」

「向きすぎ。少しもどして」

「まだ上かな」

「左に向きすぎた」

 カメラマンの後ろには気になるスタッフが集まり、カメラの電子ビューファインダを覗きこんでいる。

 自分ではここだと思う位置をカメラマンは修正してくる。

 どこの位置が正しいのかよくわからない。焦りすら感じる。

 そのうちにカメラマンの声が止まった。

 カメラから手を離し、腕組みをして考えている。

 しばらくすると……。

「どうですか?」

 カメラマンは後ろを振り向き、吉永さんに答えを求めた。

「良いんじゃないですか」

 吉永さんの答えに村瀬さんも同意してうなずいている。

 カメラマンは腕組みをほどき、ぼくに声をかけた。

「オーケー、ごくろうさま」

 やっとかと思いほっとした。その場から離れ休憩しようと撮影台から足を外へ向けたとき、近藤さんに呼び止められた。

「ちょっと田中、撮影台の右に行け。マフラー掛けるから手伝え」

「ええ~~」思わず声にしてしまった。

 近藤さんは躊躇なくマフラーを地球の下回りに巻き始めた。

 ぼくは、地球が揺れるのを見て慌てて地球の頭を押さえた。

「せっかく地球の位置決めたんですから、動かさないでくださいよ」

「何、生意気言ってんだよ。田中がうまくやれば動かさないよ」

 近藤さんも緊張気味だ。眉間に皺が寄っている。

「も~~」とはいうものの、近藤さんを見て、逆にぼくの緊張は和らいだ。

「いいから、そっち持って」

 それから時間がかかった。地球の位置は変わることはなかったが、マフラーの流れやたわみ方に調整がかかり、ニット帽の位置もこだわりがある。かぶり直すたべに地球の位置が変わらないか心配で、近藤さんがニット帽を調整する中、必死で地球を押さえていた。

 セット終了。今度は照明さんの仕事だ。カメラを通して光りの当たり具合を調整する。光りが当たった裏面は影で暗くなる。影を消すために反対側から光りを当てる。光源が強すぎると色が飛んで立体感が乏しくなる。

 ぼくは中島さん近藤さんと一緒にカメラの後ろに回り、ビューファインダーを覗き込んだ。

 地球が美しく見える。日本列島を正面にして傾きはない。苦労してセッティングしただけのことはある。カメラマンの構図に間違いはない。ニット帽から落ちる影と地球にあたる光りが地球は熱を持っていると表現している。地球の影が椅子に落ちる。椅子との間の距離に立体感が見える。ぼくたちはビューファインダーを見ながら自然にうなずき合っていた。

 カメラの横のテーブルには昨日見せてもらったイラストがある。カメラマンに構図を説明するためのイラストだ。そう言えばこれを描いたデザイナーを紹介してくれると言っていたが、ここに来ているのだろうか。ビューファインダーから目を外し、スタジオ内を見渡してみた。たしか、赤い眼鏡の華奢な女の子。

 ……いない?

 見た限り、赤い眼鏡の女性はいない。気分を変えて違う色の眼鏡を掛けているのだろうか。眼鏡の女性なら何人かはいる。ビューファインダーを覗きこんでいる吉永さんにデザイナーのことを聞いてみた。

「そのイラストを描いたデザイナーさんはどちらの方ですか?」

 吉永さんはぼくの指さすイラストを見て申し訳なさそうに答えた。

「すいません。今日撮影に同席させようと思っていたのですが、急な仕事が入っちゃって、抜け出せなくなっちゃったんですよ。本当は今日、楽しみにしてたんですけどね」

「そうなんですか」ぼくもイラストを描いたデザイナーに会えるのを楽しみにしていたので残念だった。

「本人は会いたがっていましたけどね。イラストから立体を作れる人に」

 思い出したように、首からかけているコンパクトデジタルカメラに手を掛けた。

「そうだ、撮影が終わったらみんなの写真を一枚撮らせてください。地球のカットも何枚か撮って帰りますのでそのときに」

 その話しを聞いて、中島さん近藤さんが吉永さんに振り向いた。


 撮影が終わる頃には十七時を回っていた。

 村瀬さんが下田平部長に声を掛ける。

「おつかれさまでした。無事撮影が終わりました。助かりました」

 下田平部長は頭を下げた。

「こちらこそありがとうございます。でも私は造形についてはなにもしていません。作ったのはこいつらですから」

 部長はぼくたちを指さした。

 村瀬さんの目線がぼくたちに向く。

 ぼくたちは、深々と頭を下げた。

 村瀬さんは笑顔でぼくたちを見つめてくれた。

 吉永さんがカメラを片手に近づいてきた。

「写真撮りましょう。地球の前に立って。IMAのみなさんと、村瀬さんも入ってください」

 部長は照れくさく遠慮をしたが、村瀬さんに強制され地球の前に移動した。ぼくと中島さん近藤さんはこれも仕事の一つと思い素直に移動した。

「横に五人並ぶとファインダーに入り切らないな。すいませんけど若い人三人前に来てください」

 村瀬さんの指示に従い、ぼくら三人は前に並んだ。地球を作ったぼくが主役だと言われ真ん中に立った。

「撮りますよ。村瀬さん、下田平さん中腰になってください。前の三人は座ってください。立ったままだと後ろの地球が写りません」

 村瀬さんと部長は後ろを振り向いて地球の位置を確認していた。ぼくたちは膝を折り曲げ姿勢を低くする。

「前の三人、もうちょっと寄って」

 近藤さんも中島さんもぼくに寄って詰めてくる。行きのタクシーを思い出す。

 中島さんは必要以上に詰めてくる。

「そんなに詰めないでください。きついですよ」

「詰めてって言ってるんだから仕方がないでしょ」

 中島さんの答えに言い返そうと思ったがその前に吉永さんから声がかかった。

「はい、みなさんそこでいいですよ。撮りますよ。笑って――」


 撤収に入った。

 制作した地球は自分の会社に保管するといって吉永さんが持ち帰った。

 ぼくたち四人はまたタクシーに乗り、会社へともどる。

 中島さんは行きのタクシーと同じく横揺れを楽しんでいる。

 ぼくは仕事の一段落に緊張感が取れて疲れを感じてきたために、中島さんのはしゃぎに抵抗する力はなかった。

 会社に付いたときには十八時を回っていた。工作室では長島チームが作業中だ。テレビ塔以外はほぼ出来ているように見える。部長はもどった早々、出力マシンの状況を確認した。テレビ塔の3Dデータは昨日部長が終電直前に出力マシンに送り込んだものらしい。部長も昨日ぎりぎりまで仕事をしていたのだ。

 確認を終えた部長から声を掛けられた。

「今日はごくろうさん。無事撮影も終わり、クライアントも喜んでくれた」

 ぼくはうなずいた。部長はつづけた。

「今日は切りがいいから終わりにしろ。また明日だ」

 ぼくは、もう一度うなずいた。六時台に帰るのは珍しい。昨日は家に帰っていないから、その気配りか。今日は甘えさせてもらおう。しかし、今日も遅くまで長島チームは作業が続くと思うとここで帰るのは申し訳ないという気持ちにもなる。後ろめたい思いもありながら、みんなより先に失礼させてもらうことを挨拶して帰ろう。そう思ったときに、

「おい田中!」

 長島さんから声がかかった。自然に返事が口から漏れた。

「はい!」

 長島さんは顎でぼくを指しながら指示した。

「明日、田中がテレビ塔を彩色しろ。出力は今晩中に終わるから、明日の朝、サポートを除去して彩色だ。明日中に完成させろ」

 部長が確認していた出力物だ。テレビ塔の高さは三十センチあるはずだ。三十センチのデータは会社の出力機では一度に出力できないから、途中でカットして二ピース構成するはずだ。出力は二十時間以上かかる計算になる。テレビ塔は今回のディオラマの主役のはずだ。その主役の彩色を任されるのは光栄に思う。ぼくの技術を認めてもらったようで嬉しい。長島さんの仕事を手伝えるのは名誉だ。ただ、部長は明日のぼくの仕事をどう考えているのか。素直に返事してよいのか、部長に目で確認を取った。

 部長は軽くうなずいた。

 ぼくは、部長の指示を理解して長島さんに答えた。

「わかりました。やらせてもらいます」

 長島さんの目が厳しくなった。

「チェックするからな。だめだったら塗り直しさせるぞ」

 ぼくは真剣な目で長島さんの目に目線を合わせた。

「はい!」


 十八時半。今日は早く帰らせてもらった。でも、 あまり早く帰るのも生活のリズムが狂って拍子抜ける。家路を急ぐ必要はない。すずらん通りを歩いてみよう。たまには本屋に寄っていこう。新しい小説が出ているかも知れない。久しぶりにゆっくりとした時間が過ごせそうだ。


 次の日の朝。

 いつもと同じ時間が繰り替えされる。同じ時間に起きて、同じ時間に駅に向かい、同じ時間の電車に乗り込む。

 いつもの左角の席。そこにいつもの女の子の姿があるのが空気で分かる。

 今日も元気かな。

 目線だけを向けてみた。

 彼女と目が合った。ぼくのことを見ている。ぼくの心臓が一拍大きく鼓動した。思わず上体を起こし、顔を彼女に向けた。

 彼女はぼくに向かって笑顔で会釈した。

 つられてぼくも頭を下げた。

 えっ? なに?

 頭を下げたまま彼女への視線を外した。

 下を向いたまま考えた。

 なんで挨拶してくれたんだろう。なにか、気になることをしてしまったのか。いやらしい目で見ていたりしていたのか。

 でも、それなら笑顔を見せるはずがない。なんだろう、まったく心あたりがない。

 そおっと顔を上げて彼女に目線を向けてみた。

 彼女はいつも通りにまたスマートフォンを操作していた。ぼくを特に意識している様子もない。

 あんな笑顔で頭下げられたら、これから彼女を見るとき意識してしまいそうだ。声をかければ話してくれるのかな?

でも、やっぱり無理だ。ただの勘違いかも知れない。暴走して嫌われたくない。せっかく笑顔をくれたんだ。それだけでうれしい。


 また、いつもの時間に電車は動き出した。

 今日は長島さんの手伝いでディオラマの制作だ。明日が納期だから今晩も遅くまで仕事が続くだろう。時間で区切って妥協するようなことを長島さんはしない。こだわりが生まれるから時間が増える。でもそんな姿勢の長島さんを尊敬できる。この仕事も好きだ。自分の発想を具現化できるし、それをやらせてくれるこの会社も好きだ。

 でも、プライベートの時間が減って好きな読書は進まない。物語を考えても書筆する時間が作れない。時間は作るものだというが、睡眠時間を削って書いても日中の会社の仕事に影響が出てしまってはだめだ。今の生活を保障してくれているのは、今の会社だ。給料をもらっている以上、会社に貢献して利益を生まなければならない。睡眠不足で体調管理が出来ずに仕事に影響を出す訳にはいかない。体調は万全にしなければならない。生活資金の中心は会社の仕事だからだ。

 なんて、執筆しない自分を甘やかす体のいい言い訳か。ぼくの夢は作家になること。その夢はすてられない。でもお世話になっている会社には尽くさなければならない。

 ぼくは、本当は何を目指しているのか。考えていくと分からなくなっていく。でも、今はいろいろな経験を積みかさねるとき。経験の中から本当に進む道が見つかるだろう。今の生活がこれからの将来に無駄になることはない。

 ぼくにできることはなんでもやってみたい。

 技術を上げたい。それは、仕事の技術も文章力も。

 恋愛もしたいし……。

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