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ツキアカリ — 夜に迷うと、灯がいる

作者: 白織
掲載日:2026/04/18

お久しぶりです。


ふと夜に、書きたくなって。

短いお話を書きました。


少しだけ、心が軽くなるような話です。

眠れない夜にでも、読んでもらえたら嬉しいです。


 ――夜に迷うことがある。


 理由はよくわからない。

 ただ、眠れない夜、気がつくと家を抜け出して歩いてしまっている。

 だからかもしれない。

 あの夜に、あの部屋にたどり着いたのは。



***



 入り口をくぐった覚えもないのに、僕は気がつくと長い廊下の真ん中に立っていた。


 病院のような廊下だ。

 等間隔に並んだドアと手すり。

 耳の詰まるような静寂と無機質な清潔さ。


 それらを蛍光灯の灯りが、薄ぼんやり照らしている。


 不思議と疑問や恐怖はなかった。

 ただぼんやりと、しんと静まり返った廊下に立ち尽くしていた。


 ふと、風を感じた。

 顔を上げると、いくつも並んだ病室のドアのひとつが、少しだけ開いていた。ドアの隙間から、微かな灯りが漏れている。


 その灯りに惹かれるように、僕は部屋を覗き込んだ。

 窓際のベッドに誰かが座っていた。


 長い髪の女の子。真っ白な部屋の中で、少しだけ欠けた月を見上げている。

 ふと、女の子が振り返った。

 そのきれいな瞳が、僕を見つめる。



「こんばんは」



 驚いた様子もなく、女の子は静かに笑った。

 僕はドアの前に立ち尽くしたまま、言葉を探した。

 とりあえず笑って誤魔化そうとして。

 ……なぜか、できなかった。


 夜の病院。

 知らない女の子。

 不思議と、焦りはなかった。


 女の子はそんな僕をじっと見つめると、首をかしげて、


「迷ったの?」


 と、訊いてくる。

 僕は少しだけ考えて、


「……たぶん」


 と曖昧に答えた。

 すると、女の子は少し困ったように眉を下げると、


「……そっか」


 それだけ言って、また少し笑った。

 その笑みにつられて、つい頬が緩んでしまった。女の子はそんな僕に満足げに頷くと、ちらりと窓の外を見て言った。


「外、寒かった?」

「えと、少し肌寒いくらいかな」

「そうなんだ。ありがとう。ここにいると、外のことはわからないからね」


 女の子はうれしそうに笑う。

 よく笑う子だ。

 まぶしくて、少し目を細める。

 僕は少しだけ迷って、口を開いた。


「……キミは、ここに入院しているのかな?」

「入院?」


 女の子はきょとんとした顔をする。

 それから、おもむろに腕組みをすると、眉根を寄せて考え込んでしまう。


「うーん。どう言ったらいいのかな」


 唸りながら月を見上げて、女の子はふっと肩の力を抜いた。


「いちおう、入院、になるのかな?」


 そう言って振り返りながら、どこか自信なさげに苦笑した。

 どこかおかしなその答えに、僕も苦笑を浮かべてしまう。


「ただね、ずっとここにいるんだ」


 それだけはほんとう、と女の子は静かに笑った。

 その言葉が妙に耳に残った。


 その笑みに、思わず何かを言わなければならないような気がして口を開けば、


「ずっと?」


 気がつけば、彼女の言葉を繰り返すばかり。

 そんな僕に、女の子は笑みを深めると、


「うん。ずっとだよ」


 と、頷いた。

 どういう意味だろうかと僕が眉根を寄せていると、女の子は付け足すように口にする。


「ここにはね、キミみたいな人が来るんだ」

「……僕みたいな?」

「うん。夜に、ちょっと迷っちゃった人」


 そう言って、女の子は頷いた。


「いろんなことを抱えて、悩んでいるとね、夜に迷っちゃうの」


 少しだけ間を置いて、


「そうやって迷っちゃった人が、ときどきここに来るんだ」


 指先をくるくると回しながら、


「困っちゃうよね」


 と、女の子は眉を下げた。


「そうしたら、少しだけ話をするの」

「話?」

「うん。なんてことない、くだらない話とかね」


 くすりと笑って、女の子はいたずらっぽく目を細めた。


「そうやって、ほんのちょっとだけ心を軽くしてもらうの」


 女の子はまっすぐに僕を見た。


「そしたらね――もう大丈夫」


 そう言って、やさしげな微笑を浮かべると、そっと欠けた月を見上げた。


「……それが、キミの役目なの?」

「ふふ、そんな大げさなものじゃないよ」


 女の子はくすっと笑うと、かぶりを振った。


「……うーん、なんだろ。強いて言うなら、暇つぶし?」


 少し考えてから、女の子は言った。


「でも、迷い込んじゃった人をそのまま追い返すのも、かわいそうでしょ?」


 まるで大したことじゃないみたいに、女の子は言った。

 冗談のような調子だった。

 でも、迷い込んだ人の話になると、灯は少しだけ笑みを深めた。


 ただの暇つぶし。


 気がつくと、さっきまでの力みが消えていた。


 ――迷い込んだ人。


 それはきっと、僕のことだ。


「そんなところに立ってないで、こっちにおいでよ」


 女の子に手招きされて、真っ白な部屋へと足を踏み入れる。

 とたん、つんとした消毒液の匂いが鼻をついた。

 部屋にひとつきりのベッドに近づくと、


「椅子はそれを使ってね。ふふん、いつ誰が来てもいいように、ずっと置いているんだ」


 と、言われるままに、ベッドのそばに置かれていた丸椅子に腰かける。

 目線が近くなって、にこにことした表情がより印象的に見えた。


「それじゃ、どんな話を……あっ」


 と、女の子が小さく声を上げた。

 なんだろうと、その声に僕は女の子を見た。


「そういえば、まだ自己紹介をしてなかったね」


 こほん、とごまかすように息を整えて、女の子は僕を見て言った。



「わたし、灯っていうの」



 僕がどんな字だろうと思っていると、それを察したように彼女は言う。


「灯台の灯りの灯。迷わないようにするやつだよ」


 そう言って、宙に字を書いて見せると、灯はくすっと笑った。

 ――灯。

 心の中で、そっと繰り返した。


「それで」


 灯は少し首をかしげる。


「キミは、どうしてここに来たの?」


 そう訊かれて、僕はいつものように愛想笑いを浮かべようとして、肩の力を抜いた。

 どうしてか、そんなことをする必要はないような気がした。


「……情けない話なんだけどさ、ちょっと疲れちゃったんだよ」


 ぽつりと、苦笑とともに本音がこぼれた。

 いつもなら、そんなことは言わない。

 でも、気がつくと自然に口にしてしまっていた。


「まぁ、疲れたって言っても別に大したことじゃないんだ」


 誤魔化すように視線を逸らすと、少し欠けた月が、静かに浮かんでいる。

 その月がちょっと憎らしくて、目をつむる。


「なんていうのかな。上手くやっているつもりなんだけど、どうにも上手くできなくて……もっと、上手くできたんじゃないかなって考えてたら、いつの間にかここにいたんだ」


 素直に、あったことを口にする。

 灯はそんな僕のことを静かに見つめると、


「そっか」


 と、ただ頷いてくれた。

 否定も肯定もしない、その受け取り方が心地よかった。


「はは、ごめんね。こんな抽象的な話しかできなくて。僕にも、どうしてなのかはよくわかってないんだ」

「ううん。謝らなくていいよ。迷いなんて、そんなものだから」


 灯はそっと首を横にふる。


「ここにはさ、ときどき来るんだよ。キミみたいに迷いを抱えた人が。でも、ここへ来る人たちはみんな、何に迷っているのか、よくわからないって言うんだ」


 だからさ、と。


「案外、自分が何に迷っているのか、ちゃんとわかってる人なんて少ないんだよ」


 灯はまっすぐに僕の目を見る。


「だから、キミも気にしなくていいんだよ」


 そう言って、灯は笑った。


「……そうかな?」


 と、僕が問えば、


「そうだよ」


 と、灯が得意げに胸を張って言う。

 それがなんだかおかしくて、僕らはふたりで笑ってしまった。

 落ち着いたのを見計らって、灯が「でもさ」と口を開いた。


「上手くできなかったって言っていたけどさ、キミは頑張ったんでしょ?」

「え?」


 不意打ちの言葉に、僕は硬直してしまう。


「結果はよくなかったのかもしれないし、誰かに何か言われたのかもしれないけど。それでも、頑張ったんでしょ?」


 そう言って、灯はにっと笑った。


「周りから見たら、ちょっと格好悪いかもしれないけどさ。……でも、そうやって足掻いたことって悪くないと思うんだよね」


 どう言ったらいいのかな、と灯は口元に手をやって首をかしげる。


「月ってさ」


 灯はちらりと窓の外を見る。


「欠けてても、ちゃんと明るいよね?」

「……え? あ、うん」

「きれいなまんまるじゃなくても、さ」


 だから、と灯は僕を見る。


「そんなに気張らなくても、いいんじゃない?」


 灯は、やさしく笑った。

 その言葉のあと、沈黙が落ちた。

 僕は灯の笑みを直視できなくて、目を逸らすように窓の外を見る。

 少し欠けた月が、変わらずそこにはあった。


 ――欠けていてもいい、か。


 小さく息を吐く。

 それだけのことなのに、楽になった気がした。


「ねぇ、灯」

「どうしたの?」

「……ありがとう」


 僕がそう言うと、灯はにんまりと笑みを浮かべた。


「それ、何に対するありがとう?」

「さぁ? なんだろう。僕にもわからないや」

「ふふ、そっか」


 笑ってとぼけてみせると、灯も笑った。

 これでいい、とふと思った。




「そろそろ、帰る時間だよ」


 たわいもない話をしていると、ふと灯が言った。


「……そっか」

「うん」


 短くそう言って、僕は席を立った。


「もう、大丈夫そう?」


 灯が立ち上がった僕を見上げるように、やさしく微笑みながら言った。

 僕は少しだけ考えて、


「……うん。きっと、なんとかなるよ」


 と頷いて笑って見せた。


「……そろそろ、戻るよ」

「うん」


 僕が言うと、灯は小さく頷いた。

 それから、少しだけ笑って、



「ばいばい」



 と、手を振った。

 その仕草があまりにも気軽で、思わず苦笑してしまう。

 まるで、またすぐにでも会えるみたいだった。


「そうだね……また」


 そう言って、僕も軽く手を上げると、部屋の入口へと向かう。

 入り口のドアに手をかけて、ふと振り返る。


 灯は、まだそこにいる。

 さっきと同じように、笑って軽く手を振ってくれている。その向こうで、欠けた月が静かに輝いていた。

 僕は口の中で「また」と呟いて、部屋を出た。



 * * *



 あの夜から、いくつもの夜が過ぎた。


 僕の日常は相変わらずで、劇的に何かが変わったわけじゃない。

 上手くいかないことも変わらずあるし、愛想笑いは標準装備だ。

 でも、前みたいに立ち止まることは、減った気がする。


 ――欠けていてもいい。


 ふと、あの夜の灯の言葉が脳裏をよぎる。

 夜道を歩きながら、何気なく空を見上げた。

 欠けた月が、雲間に静かに浮かんでいた。


「……」


 気がつくと、家路についていた足が止まっていた。


 白い部屋。

 静かな空気。

 消毒液の匂い。


 そして――



「……灯」



 名前を口にして、苦笑がこぼれた。


 会えるわけがない。

 そう思いながら、


「……行ってみるかな」


 なんて小さく呟くと、僕は足の向きを変えていた。

 理由なんて、特になかった。

 ただ――


 もう一度、話したかった。



***



 しばらく夜道をさまよって、気がつくと長い廊下の真ん中に立っていた。


 入り口をくぐった覚えもないのに、文字通り〝気がつくと〟何の違和感もなくそこに立っている。

相変わらず不思議だったけど、不思議なまま受け入れている自分に、苦笑した。


 前の夜をなぞるように、風を感じて顔を上げると病室のドアが開いていた。ドアの隙間からは、微かな明かりが漏れている。

 その灯りに惹かれるように、僕はドアの前に歩み寄る。

 ドアに手をかけて、深呼吸をひとつ。

 期待に鼓動が速くなる。でも、驚かさないようにと必死に抑えながら、震える手でゆっくりとドアを開いた。


 真っ白な部屋の中。

 ゆっくりと開いていくドアの先に、ベッドに腰掛けた女の子の背中が見えてくる。

 長い髪の女の子だ。

 真っ白な部屋の中で、少しだけ欠けた月を見上げている。

 ドアの開く音に、女の子が振り返った。

 そのきれいな瞳が、僕を見て驚いたように見開かれた。


「……あ」

「……久しぶり」


 僕が声をかけると、女の子――灯は呆然と僕を見て、


「……来たんだ」

 

 と言って、うれしそうに表情をほころばせた。

 その笑みに、つられて僕も頬が緩んでしまうのを感じた。そんな僕に、灯はしょうがないなぁ、とでもいうようにやさしく眉を下げて、


「また、迷ったの?」


 と、問うてくる。


「……迷った」


 ぶっきらぼうにそう言うと、灯はくすっと笑った。


「そうなの?」

「……そうだよ」

「そっか。ざんねん。また会いに来てくれたと思ったのになぁ」


 見透かしたように、にやにやと笑う灯に恥ずかしくなって目を逸らす。


「まぁ、なんでもいいだろ、理由なんて」


 そう言って、病室へと足を踏み入れて、灯のベッドのそばに置かれた椅子に腰かける。


「ふふ、そうだね」


 と、そんな僕に灯は笑ってくれた。



「じゃあ、少し話そっか」



 灯の少しはしゃいだ声に、僕も応える。

 窓の外では、少し欠けた月が、変わらず静かに輝いていた。

ここまで読んでくれて、ありがとうございました。


このお話が、どこかの夜で

ほんの少しでも心を軽くできていたら、うれしいです。

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