ツキアカリ — 夜に迷うと、灯がいる
お久しぶりです。
ふと夜に、書きたくなって。
短いお話を書きました。
少しだけ、心が軽くなるような話です。
眠れない夜にでも、読んでもらえたら嬉しいです。
――夜に迷うことがある。
理由はよくわからない。
ただ、眠れない夜、気がつくと家を抜け出して歩いてしまっている。
だからかもしれない。
あの夜に、あの部屋にたどり着いたのは。
***
入り口をくぐった覚えもないのに、僕は気がつくと長い廊下の真ん中に立っていた。
病院のような廊下だ。
等間隔に並んだドアと手すり。
耳の詰まるような静寂と無機質な清潔さ。
それらを蛍光灯の灯りが、薄ぼんやり照らしている。
不思議と疑問や恐怖はなかった。
ただぼんやりと、しんと静まり返った廊下に立ち尽くしていた。
ふと、風を感じた。
顔を上げると、いくつも並んだ病室のドアのひとつが、少しだけ開いていた。ドアの隙間から、微かな灯りが漏れている。
その灯りに惹かれるように、僕は部屋を覗き込んだ。
窓際のベッドに誰かが座っていた。
長い髪の女の子。真っ白な部屋の中で、少しだけ欠けた月を見上げている。
ふと、女の子が振り返った。
そのきれいな瞳が、僕を見つめる。
「こんばんは」
驚いた様子もなく、女の子は静かに笑った。
僕はドアの前に立ち尽くしたまま、言葉を探した。
とりあえず笑って誤魔化そうとして。
……なぜか、できなかった。
夜の病院。
知らない女の子。
不思議と、焦りはなかった。
女の子はそんな僕をじっと見つめると、首をかしげて、
「迷ったの?」
と、訊いてくる。
僕は少しだけ考えて、
「……たぶん」
と曖昧に答えた。
すると、女の子は少し困ったように眉を下げると、
「……そっか」
それだけ言って、また少し笑った。
その笑みにつられて、つい頬が緩んでしまった。女の子はそんな僕に満足げに頷くと、ちらりと窓の外を見て言った。
「外、寒かった?」
「えと、少し肌寒いくらいかな」
「そうなんだ。ありがとう。ここにいると、外のことはわからないからね」
女の子はうれしそうに笑う。
よく笑う子だ。
まぶしくて、少し目を細める。
僕は少しだけ迷って、口を開いた。
「……キミは、ここに入院しているのかな?」
「入院?」
女の子はきょとんとした顔をする。
それから、おもむろに腕組みをすると、眉根を寄せて考え込んでしまう。
「うーん。どう言ったらいいのかな」
唸りながら月を見上げて、女の子はふっと肩の力を抜いた。
「いちおう、入院、になるのかな?」
そう言って振り返りながら、どこか自信なさげに苦笑した。
どこかおかしなその答えに、僕も苦笑を浮かべてしまう。
「ただね、ずっとここにいるんだ」
それだけはほんとう、と女の子は静かに笑った。
その言葉が妙に耳に残った。
その笑みに、思わず何かを言わなければならないような気がして口を開けば、
「ずっと?」
気がつけば、彼女の言葉を繰り返すばかり。
そんな僕に、女の子は笑みを深めると、
「うん。ずっとだよ」
と、頷いた。
どういう意味だろうかと僕が眉根を寄せていると、女の子は付け足すように口にする。
「ここにはね、キミみたいな人が来るんだ」
「……僕みたいな?」
「うん。夜に、ちょっと迷っちゃった人」
そう言って、女の子は頷いた。
「いろんなことを抱えて、悩んでいるとね、夜に迷っちゃうの」
少しだけ間を置いて、
「そうやって迷っちゃった人が、ときどきここに来るんだ」
指先をくるくると回しながら、
「困っちゃうよね」
と、女の子は眉を下げた。
「そうしたら、少しだけ話をするの」
「話?」
「うん。なんてことない、くだらない話とかね」
くすりと笑って、女の子はいたずらっぽく目を細めた。
「そうやって、ほんのちょっとだけ心を軽くしてもらうの」
女の子はまっすぐに僕を見た。
「そしたらね――もう大丈夫」
そう言って、やさしげな微笑を浮かべると、そっと欠けた月を見上げた。
「……それが、キミの役目なの?」
「ふふ、そんな大げさなものじゃないよ」
女の子はくすっと笑うと、かぶりを振った。
「……うーん、なんだろ。強いて言うなら、暇つぶし?」
少し考えてから、女の子は言った。
「でも、迷い込んじゃった人をそのまま追い返すのも、かわいそうでしょ?」
まるで大したことじゃないみたいに、女の子は言った。
冗談のような調子だった。
でも、迷い込んだ人の話になると、灯は少しだけ笑みを深めた。
ただの暇つぶし。
気がつくと、さっきまでの力みが消えていた。
――迷い込んだ人。
それはきっと、僕のことだ。
「そんなところに立ってないで、こっちにおいでよ」
女の子に手招きされて、真っ白な部屋へと足を踏み入れる。
とたん、つんとした消毒液の匂いが鼻をついた。
部屋にひとつきりのベッドに近づくと、
「椅子はそれを使ってね。ふふん、いつ誰が来てもいいように、ずっと置いているんだ」
と、言われるままに、ベッドのそばに置かれていた丸椅子に腰かける。
目線が近くなって、にこにことした表情がより印象的に見えた。
「それじゃ、どんな話を……あっ」
と、女の子が小さく声を上げた。
なんだろうと、その声に僕は女の子を見た。
「そういえば、まだ自己紹介をしてなかったね」
こほん、とごまかすように息を整えて、女の子は僕を見て言った。
「わたし、灯っていうの」
僕がどんな字だろうと思っていると、それを察したように彼女は言う。
「灯台の灯りの灯。迷わないようにするやつだよ」
そう言って、宙に字を書いて見せると、灯はくすっと笑った。
――灯。
心の中で、そっと繰り返した。
「それで」
灯は少し首をかしげる。
「キミは、どうしてここに来たの?」
そう訊かれて、僕はいつものように愛想笑いを浮かべようとして、肩の力を抜いた。
どうしてか、そんなことをする必要はないような気がした。
「……情けない話なんだけどさ、ちょっと疲れちゃったんだよ」
ぽつりと、苦笑とともに本音がこぼれた。
いつもなら、そんなことは言わない。
でも、気がつくと自然に口にしてしまっていた。
「まぁ、疲れたって言っても別に大したことじゃないんだ」
誤魔化すように視線を逸らすと、少し欠けた月が、静かに浮かんでいる。
その月がちょっと憎らしくて、目をつむる。
「なんていうのかな。上手くやっているつもりなんだけど、どうにも上手くできなくて……もっと、上手くできたんじゃないかなって考えてたら、いつの間にかここにいたんだ」
素直に、あったことを口にする。
灯はそんな僕のことを静かに見つめると、
「そっか」
と、ただ頷いてくれた。
否定も肯定もしない、その受け取り方が心地よかった。
「はは、ごめんね。こんな抽象的な話しかできなくて。僕にも、どうしてなのかはよくわかってないんだ」
「ううん。謝らなくていいよ。迷いなんて、そんなものだから」
灯はそっと首を横にふる。
「ここにはさ、ときどき来るんだよ。キミみたいに迷いを抱えた人が。でも、ここへ来る人たちはみんな、何に迷っているのか、よくわからないって言うんだ」
だからさ、と。
「案外、自分が何に迷っているのか、ちゃんとわかってる人なんて少ないんだよ」
灯はまっすぐに僕の目を見る。
「だから、キミも気にしなくていいんだよ」
そう言って、灯は笑った。
「……そうかな?」
と、僕が問えば、
「そうだよ」
と、灯が得意げに胸を張って言う。
それがなんだかおかしくて、僕らはふたりで笑ってしまった。
落ち着いたのを見計らって、灯が「でもさ」と口を開いた。
「上手くできなかったって言っていたけどさ、キミは頑張ったんでしょ?」
「え?」
不意打ちの言葉に、僕は硬直してしまう。
「結果はよくなかったのかもしれないし、誰かに何か言われたのかもしれないけど。それでも、頑張ったんでしょ?」
そう言って、灯はにっと笑った。
「周りから見たら、ちょっと格好悪いかもしれないけどさ。……でも、そうやって足掻いたことって悪くないと思うんだよね」
どう言ったらいいのかな、と灯は口元に手をやって首をかしげる。
「月ってさ」
灯はちらりと窓の外を見る。
「欠けてても、ちゃんと明るいよね?」
「……え? あ、うん」
「きれいなまんまるじゃなくても、さ」
だから、と灯は僕を見る。
「そんなに気張らなくても、いいんじゃない?」
灯は、やさしく笑った。
その言葉のあと、沈黙が落ちた。
僕は灯の笑みを直視できなくて、目を逸らすように窓の外を見る。
少し欠けた月が、変わらずそこにはあった。
――欠けていてもいい、か。
小さく息を吐く。
それだけのことなのに、楽になった気がした。
「ねぇ、灯」
「どうしたの?」
「……ありがとう」
僕がそう言うと、灯はにんまりと笑みを浮かべた。
「それ、何に対するありがとう?」
「さぁ? なんだろう。僕にもわからないや」
「ふふ、そっか」
笑ってとぼけてみせると、灯も笑った。
これでいい、とふと思った。
「そろそろ、帰る時間だよ」
たわいもない話をしていると、ふと灯が言った。
「……そっか」
「うん」
短くそう言って、僕は席を立った。
「もう、大丈夫そう?」
灯が立ち上がった僕を見上げるように、やさしく微笑みながら言った。
僕は少しだけ考えて、
「……うん。きっと、なんとかなるよ」
と頷いて笑って見せた。
「……そろそろ、戻るよ」
「うん」
僕が言うと、灯は小さく頷いた。
それから、少しだけ笑って、
「ばいばい」
と、手を振った。
その仕草があまりにも気軽で、思わず苦笑してしまう。
まるで、またすぐにでも会えるみたいだった。
「そうだね……また」
そう言って、僕も軽く手を上げると、部屋の入口へと向かう。
入り口のドアに手をかけて、ふと振り返る。
灯は、まだそこにいる。
さっきと同じように、笑って軽く手を振ってくれている。その向こうで、欠けた月が静かに輝いていた。
僕は口の中で「また」と呟いて、部屋を出た。
* * *
あの夜から、いくつもの夜が過ぎた。
僕の日常は相変わらずで、劇的に何かが変わったわけじゃない。
上手くいかないことも変わらずあるし、愛想笑いは標準装備だ。
でも、前みたいに立ち止まることは、減った気がする。
――欠けていてもいい。
ふと、あの夜の灯の言葉が脳裏をよぎる。
夜道を歩きながら、何気なく空を見上げた。
欠けた月が、雲間に静かに浮かんでいた。
「……」
気がつくと、家路についていた足が止まっていた。
白い部屋。
静かな空気。
消毒液の匂い。
そして――
「……灯」
名前を口にして、苦笑がこぼれた。
会えるわけがない。
そう思いながら、
「……行ってみるかな」
なんて小さく呟くと、僕は足の向きを変えていた。
理由なんて、特になかった。
ただ――
もう一度、話したかった。
***
しばらく夜道をさまよって、気がつくと長い廊下の真ん中に立っていた。
入り口をくぐった覚えもないのに、文字通り〝気がつくと〟何の違和感もなくそこに立っている。
相変わらず不思議だったけど、不思議なまま受け入れている自分に、苦笑した。
前の夜をなぞるように、風を感じて顔を上げると病室のドアが開いていた。ドアの隙間からは、微かな明かりが漏れている。
その灯りに惹かれるように、僕はドアの前に歩み寄る。
ドアに手をかけて、深呼吸をひとつ。
期待に鼓動が速くなる。でも、驚かさないようにと必死に抑えながら、震える手でゆっくりとドアを開いた。
真っ白な部屋の中。
ゆっくりと開いていくドアの先に、ベッドに腰掛けた女の子の背中が見えてくる。
長い髪の女の子だ。
真っ白な部屋の中で、少しだけ欠けた月を見上げている。
ドアの開く音に、女の子が振り返った。
そのきれいな瞳が、僕を見て驚いたように見開かれた。
「……あ」
「……久しぶり」
僕が声をかけると、女の子――灯は呆然と僕を見て、
「……来たんだ」
と言って、うれしそうに表情をほころばせた。
その笑みに、つられて僕も頬が緩んでしまうのを感じた。そんな僕に、灯はしょうがないなぁ、とでもいうようにやさしく眉を下げて、
「また、迷ったの?」
と、問うてくる。
「……迷った」
ぶっきらぼうにそう言うと、灯はくすっと笑った。
「そうなの?」
「……そうだよ」
「そっか。ざんねん。また会いに来てくれたと思ったのになぁ」
見透かしたように、にやにやと笑う灯に恥ずかしくなって目を逸らす。
「まぁ、なんでもいいだろ、理由なんて」
そう言って、病室へと足を踏み入れて、灯のベッドのそばに置かれた椅子に腰かける。
「ふふ、そうだね」
と、そんな僕に灯は笑ってくれた。
「じゃあ、少し話そっか」
灯の少しはしゃいだ声に、僕も応える。
窓の外では、少し欠けた月が、変わらず静かに輝いていた。
ここまで読んでくれて、ありがとうございました。
このお話が、どこかの夜で
ほんの少しでも心を軽くできていたら、うれしいです。




