第7話:虚空を往く『生ける鎧』
渓谷の風が止んだのは、束の間の静寂に過ぎなかった。
断崖の頂から、太陽を遮るほどの巨大な翼が広げられる。それは、長年この渓谷の『拒絶の重圧』を糧に成長してきた魔獣――嵐冠鳥だった。
「キィィィアアアアアッ!!」
鼓膜を震わせる咆哮と共に、魔鳥が急降下してくる。その翼が巻き起こす衝撃波は、石造りの地面を容易く粉砕した。
「来るわ! エル、下がって!」
エレナが叫び、瞬時に三本の光矢を番えて放つ。しかし、魔鳥の周囲に渦巻く暴風の障壁が、矢を無慈悲に弾き飛ばした。
「嘘っ、私の魔法矢が通じないなんて……!」
「……主様……。……下がって。……私が、壁」
エルの背中に隠れていたミスティが、音もなく前に進み出た。
白銀の重厚な鎧がガシャンと鳴り、彼女はエルの前に立ちはだかる。その手には武器こそないが、彼女の全身から溢れ出す魔力が、目に見えるほどの密度で空間を固定し始めた。
魔鳥の鋭い爪が、ミスティの胸当てに叩きつけられる。
凄まじい金属音が響き、火花が散った。だが、ミスティは一歩も退かない。それどころか、彼女を直撃した衝撃のすべてが、足元の地面へと逃がされ、周囲の岩盤がクレーター状に陥没した。
「……いたくない。……主様を、傷つけさせない……」
バイザーの奥で、ミスティの灰色の瞳が静かに燃える。
彼女の呪い【拒絶の重圧】は、今やエルを守るための「絶対的な拒絶」へと昇華されていた。
「すごい……。あれだけの衝撃を無傷で……!」
ルミナが感嘆の声を漏らす。だが、魔鳥もさるもの。物理攻撃が効かないと悟るや、空高く舞い上がり、無数の「真空の刃」を雨のように降らせてきた。
「マズイわよ、エル! あの広範囲攻撃じゃ、ミスティ一人じゃ防ぎきれない!」
ピコが焦った声を上げる。
確かに、一点の防御は完璧でも、面での攻撃には限界がある。ミスティの鎧が激しい火花を上げ、彼女の細い肩が僅かに震え始めた。
「……ルミナさん、ミスティさん。二人の力を、僕に貸してください」
エルが二人の間に割って入り、左右の手をそれぞれに伸ばした。
左手はミスティの白銀の肩当てに。右手は、実体化していたルミナの手を強く握りしめる。
「え、ちょっとエル!? 二人同時なんて、魔力が持たないわよ!」
「……主様……。……危ない……。私だけで、いい……」
「いいえ。……君たちを『道具』としてではなく、僕の『一部』として信じています。だから、応えてください!」
エルの右手の『聖刻』が、これまでにないほど眩く、白熱した光を放った。
全身の血管が浮き上がり、エルの鼻から再び血が垂れる。だが、その瞳に宿る意志は、嵐さえもねじ伏せるほどに強固だった。
「――【執行相】、全武装展開!」
瞬間、光の奔流が三人を包み込んだ。
ルミナの体が光に溶け、エルの右手に重厚な『断罪の聖大剣』として収まる。
そして同時に、ミスティの白銀の鎧が分離し、エルの小さな体を包み込むように再構成されていく。
光が収まった時、そこには一人の「小さな英雄」が立っていた。
エルの全身を、ミスティの意志が宿る白銀のプレートアーマーが守り、その右手にはルミナの魂が宿る大剣が握られている。背中からは、エルの魔力と二人の少女の想いが結実した、四枚の光輝く翼が広がっていた。
「……これが、僕たちの……本当の姿です」
エルの声に、二つの想いが重なる。
『――やってやろうじゃない、エル! 私を思いっきり振り抜きなさい!』
『……主様……。……私は、あなたの肌。……誰にも、触れさせない……』
エルが地面を蹴った。
重力を操作するミスティの力により、エルの体は羽毛のように軽く、かつ流星のような加速で空へと翔ける。
魔鳥が慌てて真空波を放つが、エルの全身を覆うミスティの鎧が、それらを紙屑のように弾き飛ばす。
射程距離に入った瞬間、エルは大剣を大きく振りかぶった。
「――光の理よ。悪意を断ち、沈黙の壁を以て、安らぎを刻め!」
一閃。
ルミナの攻撃力と、ミスティが溜め込んだ「重圧」のエネルギーが合一した、巨大な光の刃が虚空を裂いた。
魔鳥の叫びすら許さず、その巨体は聖なる光に飲み込まれ、粒子となって渓谷の底へと消えていった。
静寂が戻る。
エルは翼を閉じ、ゆっくりとエレナの待つ地上へと降り立った。
「はぁ……はぁ……っ」
着地と同時に、武装が解除される。
ルミナとミスティが実体化して現れるが、三人とも魔力を使い果たし、重なるようにして地面に倒れ込んだ。
「エル様!」
エレナが駆け寄り、エルの上半身を抱き起こす。
「……大丈夫、です……。少し、眠いだけ……ですから……」
エルの意識が遠のく中、左右からそれぞれの感触が押し寄せてきた。
「ちょっと、エルの左側は私のよ!」
ルミナがエルの左腕に抱きつく。
「……右側……落ち着く……。シャットダウン……」
ミスティは兜のバイザーを下ろし、エルの右側にピタリと密着して動かなくなった。
「もう……。本当に、目が離せないわね、この子たちは」
エレナは呆れ半分、安堵半分で、三人の「子供たち」を見守るのだった。
しかし、その様子を遠くから見つめる青い瞳があった。
渓谷の崖の上に立つセレスは、手元の古文書に新たな文字が刻まれるのを見届けていた。
「……武器と防具が揃った。けれど、それは同時に『呪い』を貯める器が完成したことを意味する」
彼女の呟きは、再び吹き始めた渓谷の風に消えた。
「次は、過去を清算する時が来るわ……エレナ。あなたの隠した痛みが、エルを試すことになるでしょう」




