第6話:吹き荒れる断絶の渓谷
宿場町の穏やかな陽だまりが、遠い昔の出来事のように感じられる。
エルたちが足を踏み入れた『断絶の渓谷』は、自然の理を無視したかのような暴風が吹き荒れる、まさに「世界の断絶」を象徴する場所だった。
「ひゃああっ!? ちょっと、スカートが……! エル、見ないでよ! 見たら承知しないんだからね!」
ルミナが真っ赤なワンピースの裾を必死に押さえつけながら叫ぶ。実体化した彼女の体は、風に煽られて今にも崖下へ吹き飛ばされそうだった。
「見ていませんよ、ルミナさん。それより、僕の近くに寄ってください」
エルは冷静に、だが顔色を少し青くしながら、右手の『聖刻』を輝かせた。
「――【守護相】、展開。……聖なる盾よ、荒れ狂う息吹を鎮め、安らぎの円環を成せ」
エルの周囲数メートルに、淡い琥珀色の半透明なドームが展開される。
一歩外側では岩をも削る烈風が唸りを上げているが、ドームの内側だけは春のそよ風のような静寂が保たれていた。
「ふぅ……。助かったわ、エル様。やはりあなたの魔力は、どこまでも慈悲深いのね」
エレナが乱れた藍色の髪を整えながら、エルの隣に歩み寄る。彼女は夫の形見である弓を握り締め、周囲の岩陰に潜む魔物の気配を鋭く探っていた。
「……でも、エル。この風、ただの自然現象じゃないわよ。呪具の放つ『拒絶』の意志が、大気をかき回して壁を作っているんだわ」
エルの肩で、妖精ピコが羽を縮めて警告する。
「拒絶、ですか。……誰にも触れられたくない、という悲鳴のように聞こえます」
エルは視線を渓谷の深部へと向けた。そこには、一際黒く、重苦しい魔力の渦が巻いている。
一行が渓谷の中腹まで差し掛かった時、突如として周囲の重力が変化した。
「……っ!? 何、これ……体が、重い……!」
ルミナが膝をつく。エレナもまた、目に見えない巨大な手に押し潰されるかのように、その場に蹲った。
「これです……。これが二つ目の呪具の力。……【拒絶の重圧】」
エルだけが、自身の魔力を足の裏に集中させ、震える足で立ち続けていた。
聖刻が熱を帯び、エルの皮膚を内側から焼くような激痛が走る。だが、彼は仲間を守る障壁を維持したまま、一歩、また一歩と重力の源へと進んでいく。
視界の先、断崖の突端に、それは立っていた。
漆黒の金属で構成された、一切の隙間もない重厚な全身鎧。
人の気配はない。だが、その鎧自体が深い溜息のような、重苦しい魔力の脈動を繰り返している。
「……あれが、ミスティさん」
エルの呟きに反応したのか、全身鎧――ミスティがゆっくりと頭を上げた。
フルフェイスのバイザー越しに、冷ややかな、それでいて酷く寂しげな視線がエルを貫く。
『……来ないで。……汚れる。……壊れる。私は、拒絶。私は、壁……』
鎧の中から響く声は、物理的な振動を伴ってエルの鼓動を圧迫した。
強烈な重力波が放たれ、エルの張っていた聖光の障壁にヒビが入る。
「エル、無理よ! 一旦引き返しましょう! この重圧は尋常じゃないわ!」
エレナが叫ぶが、エルは止まらない。
エルの鼻から、一筋の血が滴り落ちた。魔力の逆流だ。それでも、彼は微笑みを絶やさなかった。
「……君は、誰も傷つけたくないから、自分を壁にしたんですよね。……でも、壁の向こう側で、君自身が凍えているのが見えるんです」
エルは最後の一歩を踏み出し、漆黒の胸当てに、光り輝く右手を触れさせた。
ガシャン、と。
鋼鉄と聖刻が触れ合った瞬間、エルの意識はミスティの内面世界へと引きずり込まれた。
そこは、果てしなく続く重力の底。
鉄屑が降り積もる荒野の真ん中で、一人の少女が膝を抱えて座っていた。
銀色の短い髪。不健康なほど白い肌。そして、重厚な鎧のパーツが、彼女の豊かな肢体を締め付けるように装着されている。
鎧に覆われていた時は分からなかったが、実体化した彼女の素体は、驚くほどに肉感的で、女性らしい曲線を描いていた。薄いインナー越しに強調される胸元の膨らみと、対照的に細い腰。そのアンバランスな美しさは、彼女が「守るための盾」として完成されていることを示していた。
「……だれ……? 触らないで。私の重力は、あなたを潰してしまう……」
少女――ミスティが、灰色の瞳を揺らしてエルを見上げる。
「大丈夫ですよ。僕が君の重さを半分持ちます。だから、その鎧を……心のバイザーを、少しだけ開けてくれませんか?」
エルは重圧に押し潰されそうになりながらも、彼女の冷たい鋼の手を取り、自分の頬に寄せた。
「……あたたかい。……主様、なの……?」
ミスティの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
その涙が地面に触れる前に、渓谷を支配していた荒れ狂う風が、ピタリと止まった。
現実世界。
エルの前で、漆黒の鎧が音を立てて白銀へと色を変えていく。
そして、鎧の継ぎ目から溢れ出した光の中から、一人の少女が姿を現した。
首から下を頑強な白銀の鎧で固めているが、その下にあるのは、確かにリィンやルミナにも引けを取らない――いや、それ以上に成熟した、豊満な女性の体つきだった。
「……シャットダウン。……恥ずかしい。……隠して」
ミスティは実体化するなり、慌ててフルフェイスのバイザーを「ガシャン!」と閉じ、エルの背後に音もなく回り込んだ。そして、彼のマントの端をギュッと握り、自身の存在を消そうとする。
「ちょっと、そこの鉄クズ女! どさくさに紛れてエルの後ろに隠れないでよ!」
ようやく重力から解放されたルミナが、憤慨しながら詰め寄る。
「……うるさい、拡声器……。ここ、落ち着く。……主様の匂い、する……」
ミスティはバイザーの中からボソリと答え、さらにエルの背中に顔を押し付けた。
エルの背中に伝わる、鎧の硬さと――その奥にある、意外なほど柔らかい感触。
「あはは……。皆さん、まずは落ち着きましょう?」
エルは苦笑しながら、新しい仲間の「重み」を全身で受け止めるのだった。
だが、渓谷の主は、自分たちの巣を静められたことを良しとはしていなかった。
切り立った崖の上から、巨大な影が音もなく舞い降りる。




