第4話:(前編)廃都に響く心の鼓動
廃都の玉座の間に、静寂が戻る。
先ほどまでの禍々しい瘴気は嘘のように消え去り、崩れた天井の隙間から差し込む月光が、白銀の床を清らかに照らしていた。
その光の中心で、エルは荒い息をつきながら膝をついていた。
右手の甲の『聖刻』が熱を持ち、ドクドクと脈打っている。限界以上の呪いをその身に肩代わりした代償だ。視界がチカチカと火花を散らし、意識が遠のきかける。
「……ちょ、ちょっと! 大丈夫なの、アンタ!?」
焦ったような高い声と共に、柔らかな温もりがエルの体を支えた。
実体化したばかりのルミナだ。彼女は慣れない人間の足取りでおぼつかなく駆け寄り、エルの細い肩を抱き寄せた。
「……あはは、少しだけ……疲れました。でも、ルミナさんが無事でよかったです」
「バカじゃないの!? 自分の心配をしなさいよ! あんな呪い、普通なら一瞬で魂が消し飛ぶのよ!?」
ルミナは怒鳴りながらも、その赤い瞳を潤ませてエルの顔を覗き込む。彼女の手は小刻みに震えていた。
数十年、あるいはそれ以上の時を、ただ「忌み嫌われる道具」として過ごしてきた彼女にとって、自分のために命を懸けてくれたこの少年は、あまりに眩しく、そして危うい存在に映っていた。
そんな二人を、数メートル離れた場所から見つめる影があった。
先代勇者の未亡人、エレナだ。
彼女は手にした弓を降ろすこともできず、幽霊でも見るかのような眼差しでルミナを凝視していた。
「……信じられない。信じたくないわ」
エレナの声は、低く、湿り気を帯びていた。
彼女の脳裏には、十年前の光景が焼き付いている。最愛の夫が、あの大剣を封印しようとして逆に呪われ、発狂し、最後には崩れ落ちるように息絶えたあの瞬間。彼女にとって、あの大剣は「夫を奪った憎き殺人鬼」そのものだった。
「エレナ……さん?」
エルの呼びかけに、エレナはビクリと肩を揺らした。彼女は一歩、また一歩と、エルたちに歩み寄る。その足取りは重く、拒絶に満ちている。
「なぜ……なぜ、笑っていられるの? その子が」
エレナの指先が、ルミナを指して震える。
「その剣は、私の夫を殺したのよ。彼の魂をズタズタに引き裂いて、未来も、私との約束も、全部奪い去った……。それなのに、呪いが解けたらそんなに可愛い女の子の姿になるなんて。……そんなの、あんまりじゃない」
エレナの独白は、次第に嗚咽に近いものへと変わっていく。
「私の十年間は何だったの!? 憎んで、憎んで、復讐だけを糧にこの廃都を彷徨ってきた私の心は、どうすればいいの!? あなたがその手を差し伸べて、その子を『救った』せいで……私の憎しみが行き場を失ってしまったわ!」
彼女の吐露は正論だった。
救済とは、時に残酷な上書きだ。被害者にとって、加害者が反省し、救われることは、過去の苦しみを否定されることにも繋がりかねない。
「……エレナさん」
エルはルミナの腕を借りて、ふらつきながらも立ち上がった。
ルミナはエレナの殺気に怯え、エルの背中に隠れるようにして彼の服の裾をギュッと握りしめる。その姿は、かつて世界を震撼させた呪具とは程遠い、ただの臆病な少女のものだった。
「……離して。汚らわしい……その手で、彼に触れないで!」
エレナが叫び、思わず弓を構え直す。だが、エルはその銃口ならぬ矢先の前へと歩み出た。
「エレナさん。……悲しませてしまって、ごめんなさい」
エルは静かに頭を下げた。
「でも、先代勇者様が最後に願ったのは、復讐ではなかったはずです。ピコから聞きました。勇者様は、この剣の中に眠る『良心』に気づいていたからこそ、破壊ではなく封印を選んだのだと」
「……っ、そんなの、あなたの勝手な想像よ!」
「想像かもしれません。でも、僕には聞こえたんです。浄化している間、この剣の奥底で、誰よりも傷ついて泣いていた彼女の声を。……彼女もまた、誰かを傷つけるたびに、自分の心を削っていたんです」
エルの瞳には、一切の濁りがない。
その真っ直ぐな光に当てられ、エレナは射る力を失い、弓を床に落とした。カラン、と乾いた音が玉座の間に響く。
「……ずるいわよ。そんな子供みたいな顔で、聖者のようなことを言わないで」
エレナは顔を覆い、その場に崩れ落ちた。
憎しみの拠り所を失い、空っぽになった彼女の心に、エルの優しさが容赦なく浸透していく。それは彼女にとって、死よりも辛い「許し」の始まりだった。
その時。
エルの袖を掴んでいたルミナが、突然「あ、あう……っ」と短く声を漏らし、その場に蹲った。
「ルミナさん!? どうしたんですか?」
「わ、分からない……。アンタが少し離れただけで、胸のあたりが、すごく……寒いの。怖いのよ……。また、あの真っ暗な闇の中に引きずり戻されるみたいで……!」
ルミナの体から、不安定な魔力の火花が散る。
エルの『聖刻』によって浄化され、魂を繋がれた副反応だった。彼女は今や、エルの光がなければ存在を維持することさえ困難な、依存の極地にある存在と化していた。
「……ずっと、そばにいます。約束です」
エルがルミナの小さな手を握り締めると、彼女の震えは嘘のように収まった。
だが、その光景を見つめるエレナの瞳には、新たな、そして言い知れぬ複雑な感情が宿り始めていた。それはかつての夫へ向けた愛着か、あるいは、目の前の少年に向けられた歪な執着か。
沈黙を切り裂いたのは、地底から響く不気味な駆動音だった。
「……何、この音?」
ピコが顔を上げる。
玉座の裏、隠された地下通路の扉がゆっくりと開き、青白い光を放つ機械仕掛けの巨像たちが、音もなく姿を現した。
「廃都の防衛機構……『センチネル』!? 呪具の主が消えたことで、街そのものが外敵を排除しようとしてるんだわ!」
ピコの声に、エルは即座に表情を引き締める。
だが、ルミナは恐怖から立ち上がることができず、エレナもまた心の整理がつかぬまま呆然としている。
「エル、逃げなさい! 今のあなたに、これ以上の戦闘は……!」
「いいえ。……ここが、僕たちの新しい始まりの場所です。誰も置いて行ったりしません」
エルはルミナの手を引き、迫りくる鋼鉄の軍団を見据えた。




