第3話:呪具の解放と浄化
「エル、やめなさい! その剣に触れてはダメ!」
エレナの叫びが玉座の間に木霊する。だが、エルの差し出した指先は、迷うことなく漆黒の刀身へと触れた。
触れた瞬間、世界が反転した。
視界が真っ黒に染まり、エルの脳内に数千人分もの断末魔が直接流れ込んでくる。それはかつてこの剣が切り裂いてきた敵の怨念であり、同時に、武器として使い潰されてきた剣自身の絶望だった。
『痛イ……。苦シイ……。モウ、誰モ信ジナイ……ッ!』
ドロドロとした黒い泥のような魔力が、エルの腕を伝って全身を侵食しようとする。普通の聖職者であれば、一瞬で精神が崩壊し、発狂して死に至るほどの毒。
だが、エルは苦悶に表情を歪めながらも、その手を離さなかった。
「……いいよ。君が抱えてきた痛み、全部僕に預けて」
エルの右手の甲に刻まれた『聖刻』が、爆発的な輝きを放つ。
それは「跳ね返す」光ではなく、「吸い込み、濾過する」ための光だった。
「――【葬送相】、展開」
エルの纏う雰囲気が一変した。
柔和だった少年の空気は消え、まるで死者に安らぎを与える葬送師のような、静謐で厳かな圧力が周囲を支配する。
エルの体を通じて、大剣にこびりついていた黒い粘液が、キラキラとした光の粒子へと変換され、天へと昇っていく。
「そんな……!? あの禍々しい呪いを、自分の体を通しているというの?」
エレナは弓を構えたまま、呆然と立ち尽くしていた。
かつて夫が、力ずくで封印しようとして跳ね除けられたあの呪いを、この小さな少年は「自分の痛み」として引き受けているのだ。
エルの全身から汗が噴き出し、鼻から一筋の血が流れる。
呪具の浄化とは、聖刻騎士の命を削る行為に他ならない。それでもエルは、剣の奥底で泣いている「彼女」の心に語りかけ続けた。
「独りぼっちで、怖かったね。……もう、大丈夫だよ」
最後の一滴まで闇を吸い尽くした瞬間、大剣が眩い金色の光に包まれた。
金属が砕けるような高い音が響き、漆黒の刀身が剥がれ落ちる。その中から現れたのは、折れそうなほど細い肩を震わせる、一人の少女だった。
燃えるような金髪。勝気そうな、けれど今は涙で濡れた赤い瞳。
彼女は実体化すると同時に、力なくエルの胸へと倒れ込んだ。
「……アンタ、バカなの? 私に触れたら、死ぬってわかってたでしょ……」
少女――ルミナの声は、かすれて震えていた。
エルは荒い息をつきながら、自分より少し背の高い彼女を、精一杯の力で抱き留める。
「……おはようございます。素敵な声ですね、ルミナさん」
「なっ……!? なんで私の名前を知ってるのよ……っ」
「浄化している間に、聞こえたんです。君の本当の名前が」
ルミナは顔を真っ赤にし、エルの胸元を小さな拳で弱々しく叩いた。
十数年、あるいは数十年。ただの「呪われた道具」として恐れられ、遠ざけられてきた自分を、一人の人間として、名前で呼んでくれた。その事実に、彼女の心にかけられていた最後の氷が溶けていく。
だが、感動の再会に浸る時間は与えられなかった。
主である大剣を奪われたことに激昂したのか、廃都に満ちていた残りの瘴気が凝縮し、巨大な多頭の蛇――ヒュドラのような魔物へと姿を変えて襲いかかってきたのだ。
「まだ終わっていないの!? エル、下がって!」
エレナが再び弓を引き絞るが、魔物の再生能力は尋常ではない。射抜かれた端から肉が盛り上がり、獲物であるエルへと牙を剥く。
「……ルミナさん。もう一度、力を貸してくれますか?」
エルが優しく問いかけると、ルミナはエルの胸から顔を上げ、凛とした表情で頷いた。
「勘違いしないでよね! アンタに助けられた貸しを、すぐに返したいだけなんだから!」
ルミナの体が再び光に溶け、エルの手の中に収まるほどの一振りの大剣へと姿を変える。
先ほどまでの禍々しさは微塵もない。白銀の刀身に金色の装飾が施された、気高く美しい『断罪の聖大剣』。
「――【執行相】、接続」
エルがその重厚な剣を片手で軽々と振り上げると、彼の背後に巨大な光の翼が展開された。
あどけない少年の姿をした戦神が、そこにはいた。
「光の理よ。断罪の刃に乗り、全ての不浄を断て!」
エルが踏み込み、一閃。
放たれた一撃は、魔物の巨体を一瞬で蒸発させ、廃都を覆っていた霧さえも一気に吹き飛ばした。
静寂が訪れる。
廃都の空には、十年ぶりに本物の月明かりが差し込んでいた。
「……信じられない」
エレナは力なく膝をついた。
あれほど憎み、恐れていた剣が、少年の手の中でこれほどまでに神々しく輝いている。
エルは大剣を地面に置くと、再び実体化したルミナの手を引いて、エレナの前へと歩み寄った。
「エレナさん。約束通り、彼女の涙を止めました」
ルミナは気まずそうに顔を逸らしながらも、エルに繋がれた手だけは、決して離そうとはしなかった。




