第2話:廃都に眠る絶望の影
深い霧が立ち込める『忘却の廃都』。かつては王国の学術都市として栄えたその場所は、今や崩れ落ちた石造りの建物と、不気味に蠢く黒い茨に覆い尽くされていた。
空は厚い雲に覆われ、太陽の光さえも届かない。この街全体が、巨大な『呪い』の揺り籠と化しているのだ。
「うわぁ……。ここ、ピコの言った通り、空気が重いですね」
エルは口元を白い布で覆いながら、慎重に瓦礫の山を乗り越えていく。彼の足元を照らすのは、自身の指先から放たれる淡い聖光だけだった。
「当たり前だよ、エル。ここには先代勇者が封印を試みて、結局果たせなかった『断罪の聖大剣』が眠っているんだから。その怨念が、街一つを飲み込んじゃったのよ」
エルの肩の上で、妖精ピコが周囲を警戒しながら羽を震わせる。
「先代勇者様でも、封印できなかった……」
「そう。あの人は強かったけど、力でねじ伏せるタイプだったからね。呪いっていうのは、力で叩けば叩くほど、その反動で強くなっちゃうものなの。エルみたいに『受け入れて浄化する』なんて、普通は考えもしないわよ」
ピコの言葉に、エルは自分の右手の甲に刻まれた『聖刻』をそっとなぞった。
エルの師である老司祭は言っていた。「呪具とは、かつて世界を救うために振るわれた英雄たちの誇りが、絶望に染まった姿なのだ」と。それを打ち砕くのではなく、再び誇りを取り戻させる。それがエルの使命だった。
その時だった。
「――誰!? 動かないで」
冷徹で、それでいて鈴を転がすような澄んだ声が、背後からエルを射抜いた。
エルが反射的に振り返ると、そこには崩れた時計塔の影から姿を現した一人の女性が立っていた。
藍色の長い髪を後ろで一つにまとめ、深い紺色の魔術師装束に身を包んだ美女。背中には見事な装飾が施された弓を背負っている。その瞳には、深い哀しみと、寄せ付けないほどの鋭い警戒心が宿っていた。
「あなたは……人間、ですか?」
エルが戸惑いながらも尋ねると、女性はエルの幼い姿を見て、わずかに眉をひそめた。
「……子供? なぜこんな死の街に。ここは、命を捨てに来るような場所ではないわ」
「僕はエルと言います。呪具を浄化するために来ました。あなたは?」
「エル……。私はエレナ。ただの、過去を捨てられない亡霊よ」
エレナと名乗った彼女は、エルの足元まで歩み寄ると、その小さな体を値踏みするように見つめた。
「その服、聖職者のものね。でも、ここにある呪いは、あなたの祈り程度でどうにかなる代物ではないわ。帰りなさい。死に急ぐには、あなたはまだ若すぎる」
「エレナ、久しぶりだね。相変わらず固苦しいこと言ってるんだから」
エルの肩からピコがひょいと顔を出すと、エレナの瞳が大きく見開かれた。
「ピコ……!? あなた、生きていたのね。勇者様が斃れたあの戦いから、姿を消したきりだと思っていたけれど」
「あはは、ちょっと眠りについてただけだよ。それよりエレナ、この子はただの子供じゃないわよ。私の選んだ、新しい『救世主』なんだから」
「救世主、ですって……?」
エレナは信じられないといった様子で、再びエルを凝視した。
彼女の亡き夫――先代勇者は、筋肉隆々の巨漢で、太陽のように笑う男だった。目の前にいるのは、あまりに儚げで、今にも霧に溶けてしまいそうなほど愛らしい少年だ。
「エレナさんは、先代勇者様のお知り合いなんですね」
エルが優しく微笑むと、エレナは一瞬だけ表情を崩し、視線を逸らした。
「……私の夫だった人よ。彼はここで、あの剣を封印しようとして……。私は、彼が最期に何を見て、何を遺そうとしたのかを知るために、この十年間、ずっとこの廃都を彷徨っているの」
十年間。その時間の重さに、エルは胸が締め付けられるような思いがした。
彼女はこの呪われた霧の中で、たった一人で夫の影を追い続けてきたのだ。
「エレナさん。僕と一緒に来ませんか?」
「何を……。正気なの? 私は、あの剣が憎いのよ。夫を狂わせ、命を奪ったあの呪具が。それを浄化するなんて、私には信じられない」
「憎いからこそ、決着をつけなければいけません。エレナさんの時間が止まったままなのは、あの剣がまだ泣いているからだと思うんです」
「……剣が、泣いている?」
エレナが自嘲気味に笑った、その時。
廃都の地響きと共に、街の中心部から巨大な黒い奔流が噴き出した。
『アアアア……、裏切リモノメ……。ワタシヲ、一人ニスルナ……ッ!』
地を這うような怨嗟の声。それと同時に、霧の中から数多の魔物たちが姿を現した。呪具の放つ瘴気に当てられ、理性を失った亡者たちだ。
「来るわ! 下がっていて、エル!」
エレナが瞬時に弓を構え、魔力で形成された光の矢を放つ。
矢は正確に魔物の頭部を貫くが、次から次へと溢れ出す数に、彼女の顔に焦りが浮かぶ。
「エレナさん、援護します! ――光の理よ、不浄を排し、秩序を示せ!」
エルが両手を広げると、彼の周囲に巨大な魔法陣が展開された。
それは単なる攻撃魔法ではない。魔物の動きを鈍らせ、エレナの矢に聖なる属性を付与する、高度な支援魔術だった。
「これは……! 矢の威力が上がっている……!?」
「今です! エレナさん、道を切り開いてください!」
少年と未亡人。奇妙な組み合わせの二人は、押し寄せる魔物の群れを潜り抜け、呪いの震源地――かつての王城の玉座の間へと走り出した。
そこに待っていたのは、地面に深く突き刺さり、ドロドロとした黒い粘液を溢れさせている、一振りの巨大な剣だった。
その剣の柄には、苦悶の表情を浮かべる少女の顔のような装飾が刻まれており、不気味な脈動を繰り返している。
「あれが……『断罪の聖大剣』……」
エルは、その禍々しい気配を前にしても、一歩も退かなかった。
むしろ、その瞳には深い同情の色が浮かんでいる。
「待ってて、今助けるから」
エルは聖刻の輝く右手を、迷うことなくその漆黒の刃へと伸ばした。




