第13話:小さな魔導師と呪いの鎖
白濁した霧が、エルの視界を完全に遮断しようと渦巻く。
エルの前を阻むのは、森中の怨念が凝縮して形を成した『過去の怪物』。それはかつてこの森で果てた無数の冒険者たちの、未練と絶望が継ぎ接ぎにされた異形の巨像だった。
「お兄ちゃん、もういいよぉ! 誰も助けられないんだもん! みんな、過去の方が好きなんだもん!」
ベルが泣きじゃくりながら、巨大な魔導書を宙に浮かせる。彼女の首にかけられた銀の首飾りが、不吉な赤黒い光を放ち、周囲の霧をさらに濃く、冷たく変えていく。
「……ベルさん。君は、誰も助けられなかった自分を、一番許せないんですね」
エルは重い足取りを一歩、また一歩と進める。
怪物が振り下ろす、巨大な腕――それは数多の亡霊たちの腕が絡み合ったものだ。エルはそれを避ける体力さえ残っていなかったが、右手の聖刻が激しく脈動し、不可視の障壁を展開して衝撃を受け止める。
「ガ、アアア……ッ!」
衝撃がエルの全身を突き抜け、口の端から鮮血が溢れる。
「エル様! おやめなさい! そのままでは、あなたの魂まで摩耗してしまうわ!」
霧の向こうで、亡霊の夫に縋り付いていたエレナが、一瞬だけ正気に戻って叫ぶ。だが、彼女の体は依然として死者の残り香に絡め取られ、動くことができない。
「……大丈夫です、エレナさん。……ベルさん。君がこの首飾りに封じ込めたのは、死者の最期の言葉だけじゃない。……君自身の、『生きたかった』という願いも、一緒に閉じ込めてしまったんだ」
エルの言葉に、ベルの動きが止まった。
彼女の灰色の瞳が大きく見開かれ、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。
「……うるさい。お兄ちゃんに、何がわかるの……? ベルは、一番年下だったんだよ? みんなが『ベルだけは逃げろ』って言って、笑って死んでいったんだよ!? ベルだけが、みんなの死ぬところを全部見て、全部覚えてなきゃいけなかったんだよ!」
ベルの叫びは、千年の時を超えた慟哭だった。
天才魔導師と呼ばれた少女は、仲間たちの最期の言葉を銀の首飾りに記録し続けた。だが、最後の最後、自分一人が残された時、その「記憶の重さ」に耐えきれず、自らも呪具の一部と化してしまったのだ。
「独りぼっちは、嫌……。忘れられるのは、もっと嫌……! だったら、世界中をベルの思い出で塗り潰しちゃえばいいんだもん!」
怪物が吠え、エルの障壁を粉砕しようと猛攻を加える。
エルの右腕はすでに感覚を失い、どす黒い紋様が肩口まで広がっていた。
「……いいですよ。全部、僕に預けてください」
エルは不意に、防御を解いた。
無防備に晒された少年の体を、怪物の巨大な拳が直撃する――かと思われた瞬間。
エルは光の翼を羽ばたかせ、怪物の中を突き抜けるようにして、その中心で震えるベルの元へと飛び込んだ。
「――【葬送相】、最大解放。……全ての未練を、僕の『光』に書き換えろ!」
エルはベルの小さな体を、全力で抱きしめた。
冷たい霧。氷のような少女の肌。そして、首飾りから流れ込んでくる、数え切れないほどの死者の絶叫。
それらすべてを、エルは自分の『聖刻』を通して、一点の曇りもない慈愛の光へと変換していく。
「あ、あああ……っ! 熱い……お兄ちゃん、熱いよ……! ベルの中が、白くなっちゃう……!」
「怖くないですよ。……君が覚えている『みんな』は、僕も一緒に覚えています。君一人に、重荷は背負わせない」
エルの全身から、太陽のような眩い奔流が溢れ出した。
森を覆っていた紫色の霧が、一瞬にして黄金の粒子へと霧散していく。
エレナを惑わしていた亡霊の騎士も、ルミナやミスティを苦しめていた過去の幻影も、エルの光に照らされて、安らかな微笑みを浮かべながら消えていった。
「……お、兄ちゃん……」
ベルの首飾りが砕け、彼女の魂を縛っていた重い鎖が解ける。
実体化したベルは、ぶかぶかのローブの中で、エルの胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。それは呪いの咆哮ではなく、ようやく「独り」から解放された、人間の少女の泣き声だった。
「……よしよし。もう、大丈夫ですよ、ベル」
エルは意識が朦朧とする中で、彼女の柔らかい髪を何度も撫でた。
霧が晴れた迷いの森には、十年ぶりに本物の木漏れ日が差し込んでいた。
そこには、呆然と立ち尽くすエレナと、自由を取り戻したルミナ、ミスティの姿がある。
だが、エルはそのまま、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「エル様!!」
エレナが駆け寄る。
エルの右腕は、もはや聖刻騎士の紋様ではなく、呪いの刻印そのもののように黒く変色し、微かな煙を上げていた。
「お兄ちゃん! 起きて、お兄ちゃん!! ベル、もう悪いことしないから! 独りにしないでぇ!!」
ベルがエルの胸を叩いて叫ぶが、エルの瞳は固く閉ざされたままだった。
その光景を、一本の巨木の影から見つめる青い瞳。
「……三つ目の浄化。けれど、代償はあまりに大きい」
セレスは悲しげに目を伏せ、手元の古文書を強く握りしめた。
「……エレナ。次は、あなたの番よ。あなたが彼に『本当の救済』を与えられるかどうか……」
森の奥から、さらなる『世界の危機』の足音が、静かに、だが確実に近づいていた。




