第12話:鏡合わせの亡霊たち
深い霧が視界を白く塗り潰し、エルは足元の感覚さえも曖昧なまま、その場に立ち尽くしていた。
裾を握るベルの小さな手。その感触だけが、この狂った世界で唯一の現実であるかのように感じられる。
「お兄ちゃん、見える? あっちでルミナお姉ちゃんと、ミスティお姉ちゃんが泣いてるよ」
ベルが霧の向こう、闇が澱んでいる場所を指差した。
エルの『聖刻』が呼応するように波打ち、二人の少女の「内面」を映し出す。
そこには、鏡合わせのような絶望が広がっていた。
「……嫌。触らないで、汚い……!」
ルミナは、かつて自分が「呪具」として数多の戦士を狂わせ、命を奪ってきた記憶の濁流に飲まれていた。実体化した今の彼女を、死者たちの怨念が黒い手となって引きずり込もうとしている。
「私はもう、人殺しの道具じゃないわ! エルの……エルの剣なんだから……っ!」
一方で、ミスティは果てしない『拒絶』の檻の中にいた。
「……消えたい。……私は壁。……誰にも触れられず、誰の体温も知らず……鉄屑として、朽ちていくのがお似合い……」
彼女の鎧が内側から軋み、自身の重力で自らを押し潰そうとしている。エルの光に救われたはずの心が、ベルが撒き散らす「未練」の波動によって、再び孤独のどん底へと突き落とされていた。
「二人とも……! ベルさん、止めてください。彼女たちはもう、過去の道具じゃありません!」
エルがベルの肩を揺らすが、少女は悲しげに首を振った。
「だめだよ、お兄ちゃん。これはベルがやってるんじゃないもん。みんなの心の中にあった『本当の言葉』を、ベルの首飾りが響かせているだけ」
ベルはエルの胸に顔を埋め、甘えるようにその細い腰を抱きしめた。
「ねぇ、あっちを見て。エレナお姉ちゃんが一番幸せそうだよ?」
霧の先、エレナは崩れ落ちた大樹の根元で、膝をついていた。
彼女の目の前には、十年前の姿のままの、血の気のない顔をした騎士が立っている。
「……勇者様。ああ、勇者様……」
エレナは震える手を伸ばし、亡霊の頬に触れた。その指先が亡霊を通り抜け、霧に溶ける。それでも彼女は、狂おしいほどの愛を込めて微笑んでいた。
「行かないで……。もう、私を一人にしないで。あなたがいない世界は、あまりに寒すぎて……私は、もう……」
「エレナさん、それは幻です! 目を覚ましてください!」
エルの叫びは、霧の壁に跳ね返されて彼女には届かない。
亡霊の騎士が、音もなく口を開いた。
『……エレナ。……来い。……お前の場所は、ここだ。……死者の国で、永遠に……』
亡霊が、ゆっくりとエレナの首筋に手をかける。その手は、優しく抱きしめるためではなく、彼女の命を吸い取るための死の接吻だった。
「お兄ちゃん、放っておきなよ」
ベルがエルの顔を覗き込み、邪気のない瞳で笑う。
「エレナお姉ちゃんは、あの人と一緒にいたいんだよ。お兄ちゃんみたいな子供じゃなくて、あの『過去の英雄』が必要なの。……ベルもそうだよ? お兄ちゃんが、ベルの首飾りの中にずっといてくれたら、ベルはもう寂しくないもん」
ベルの首にかけられた銀の首飾りが、不気味な脈動を始めた。
エルの意識が急速に遠のいていく。ベルの「未練」が、エルの『聖刻』を侵食し、彼の記憶を書き換えようとしていた。
(……だめだ。ここで飲まれたら……誰も、救えない……)
エルの右手の聖刻が、これまでにないほど熱く、鋭い痛みを走らせた。
その痛みは、ベルの甘い誘惑を切り裂くための、自分自身への戒めだった。
「――【葬送相】……起動」
エルの瞳から光が消え、冷徹なまでの静謐さが宿る。
彼は自分にしがみつくベルの頭を、優しく、けれど強く引き剥がした。
「ベルさん。……寂しいのは、君ですね。死者の言葉を預かりすぎて、自分の心が分からなくなってしまった……。だから、誰かを道連れにしないと、自分の存在を証明できない」
「……っ、違う! ベルは、みんなのために……!」
「いいえ。……君は、救いたかったはずです。先代勇者様も、その仲間たちも。……でも、できなかった。その『後悔』が、今の呪いになっている」
エルはフラつく足取りで、エレナの方へと歩み出した。
「エレナさんを、死者の元へは行かせません。……過去を愛するのは、悪いことじゃない。でも、過去で死ぬのは、僕が許しません!」
エルの全身から、霧を焼き切るような青白い光が溢れ出す。
それは浄化の光であり、同時に、生者が生者として生きるための『拒絶』の光でもあった。
「お兄ちゃん、行っちゃだめ! 行ったら……ベル、また独りになっちゃう……!」
ベルが泣き叫びながら、魔導書を開く。
森中の霧が凝縮し、巨大な『過去の怪物(思い出の残骸)』となって、エルの行く手を阻んだ。
エルの『聖刻』が、真っ黒に変色していく。
限界は、すぐそこまで来ていた。




