第11話:幻惑の入り口、迷いの森
断絶の渓谷を抜け、西へと進むこと数日。
一行の目の前に現れたのは、白く重苦しい霧に飲み込まれた巨大な樹海――『迷いの森』だった。
昼間だというのに太陽の光は届かず、立ち並ぶ古木は悶え苦しむ亡者のように枝を歪ませている。風ひとつ吹かない静寂の中に、時折、誰かの囁き声のような木の葉の擦れる音が混じっていた。
「……ここ、嫌い。……空気、澱んでる。……主様の光、消されそう」
エルの右側にぴったりと密着しているミスティが、白銀のバイザーをガシャンと閉じて警戒を強める。彼女の重力感知も、この森に満ちる濃密な魔力の霧によって撹乱されているようだった。
「ふんっ、ただの霧じゃない。これ、全部『未練』の塊よ。エル、変な声が聞こえても無視しなさいよ?」
エルの左腕をがっしりと抱え込むルミナが、強がりながらも周囲を睨みつける。彼女は剣の精霊として、この森に漂う尋常ではない「呪いの密度」を敏感に感じ取っていた。
「……ええ。皆さんも、僕から離れないでくださいね」
エルは聖刻を微かに輝かせ、足元を照らしながら進む。だが、その隣を歩くエレナの様子が、明らかに普通ではなかった。
エレナは青ざめた顔で、何かに怯えるように周囲を見渡している。彼女の手は弓を握るどころか、自分の肩を抱くように震えていた。
「エレナさん……大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「……ええ。ごめんなさい、エル様。ここは……私の故郷から、一番近い森なの。そして、あの方が最後に『あの首飾り』を回収しようとして、命を落とした場所でもあるわ……」
エレナの言葉に、エルの胸が痛む。
ここは彼女にとって、最愛の夫を奪われた呪わしい記憶の象徴なのだ。
「先代勇者様が……。それじゃあ、この森にあるのは……」
「そうだよ、エル」
エルの髪の中からピコが顔を出す。その瞳は、いつになく真剣だった。
「ここに眠るのは『遺言の銀首飾り』。かつて先代勇者のパーティーにいた、最年少の天才魔導師の遺品。彼女は……仲間が一人、また一人と倒れていく中で、その最期の言葉をすべて首飾りに封じ込めて、狂ってしまったんだ」
ピコの言葉が終わるか終わらないかのうちに、霧の向こうから、鈴を転がすような少女の声が響いてきた。
『――お兄ちゃん。……見つけた。やっと、会いに来てくれたんだね?』
「っ!? 誰ですか!」
エルが周囲を見渡すが、人影はない。
だが、その声は直接脳裏に響くように、甘く、そして酷く寂しげに繰り返される。
『ずっと、寂しかったんだよ。誰も、私のことを見てくれない。誰も、私の言葉を覚えてくれない。……ねぇ、お兄ちゃん。ベルを、独りにしないで?』
「……ベル? それが、君の名前なんですか?」
「エル、返事しちゃダメ! 霧に取り込まれるわ!」
ルミナが叫ぶが、一歩遅かった。
霧が急激に色を変え、どす黒い紫色の渦となって一行を包み込む。
視界が奪われ、繋いでいたはずの手の感触が、ふっと消えた。
「ルミナさん!? ミスティさん!?」
エルが叫ぶが、返ってくるのは不気味な反響音だけだ。
気づけば、エルの周囲には誰もいなかった。エレナも、ルミナも、ミスティも。ただ一人、白い霧の海に放り出されたような感覚。
――ガサリ。
背後で、枯れ葉を踏む音がした。
「……やっと、独りになれたね、お兄ちゃん」
振り返ると、そこには霧の中から現れた小さな人影があった。
プラチナブロンドのふわふわした髪。自分の体よりも遥かに大きな、ぶかぶかの賢者ローブを纏った幼い少女。
彼女は自分と同じくらいの大きさがある古びた魔導書を大切そうに抱え、潤んだ瞳でエルを見上げていた。
「君が……ベルさん?」
「うん。お兄ちゃん。……お兄ちゃんは、ベルを『浄化』しに来たんでしょ? ルミナお姉ちゃんや、ミスティお姉ちゃんみたいに……」
ベルと呼ばれた少女は、トボトボとエルに歩み寄り、その小さな手でエルの服の裾をギュッと握りしめた。
「ベルは、悪い子だよ? だって、みんなの『一番聞きたくない声』を集めて、バラバラにしちゃうんだもん。……ほら、聞こえるでしょ? エレナお姉ちゃんの、絶望の叫びが」
ベルが指差した霧の先。
そこには、地面に伏して泣き叫ぶエレナの姿があった。
彼女の目の前には、血塗れの大剣を杖代わりに立ち尽くす、顔のない騎士の亡霊が立っている。
「勇者様……! 嘘よ、私を置いていかないで! どうして……どうして私だけを遺したの!?」
エレナの悲鳴が森に響き渡る。
「……あれは、呪いが見せている幻です。エレナさんを助けないと!」
エルが駆けだそうとするが、ベルはその裾を離さない。
「だめだよ、お兄ちゃん。エレナお姉ちゃんは、あの『死者』を愛しているんだもん。ベルが首飾りに閉じ込めた、あの方の未練を……お姉ちゃんは欲しがっているんだよ?」
ベルはエルの腰にしがみつき、その顔を彼の胸に押し当てた。
「ねぇ、あんな悲しい大人のことは放っておいて、ベルと遊ぼうよ。……お兄ちゃんの中に、ベルの居場所……作ってくれるよね?」
幼い少女の姿を借りた、底なしの孤独。
エルの右手の聖刻が、これまでとは違う「冷たい痛み」を放ち始めた。




