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捨てられた伯爵令嬢、今や世界が羨む誇りの花

作者: 百鬼清風

 燭台に照らされた舞踏会場は、色とりどりのドレスと宝石のきらめきに包まれていた。

 伯爵家の令嬢である私――エリス・ヴァレンティナは、この夜の主役であるはずだった。婚約者であり、この国の第二王子ユリウス殿下に伴われ、社交界へ正式にお披露目される舞踏会。誰もが私を祝福し、羨望の視線を向ける……はずだった。


 だが、現実は無情に裏切った。


「エリス。今日この場で、君との婚約を破棄させてもらう」


 王子の低くよく通る声が、会場のざわめきを一瞬で静めた。

 音楽が途切れ、舞踏のステップを踏んでいた貴族たちの足も止まる。視線が一斉に私へと注がれた。


「……え?」


 思わず声が漏れた。耳を疑った。婚約破棄――? それは、冗談でも口にしてはならない言葉。


「殿下、どういう……」


「僕は真実の愛を見つけたのだ」


 ユリウスは朗々と語り、堂々と手を差し伸べた。その先に立っていたのは、見覚えのない少女。

 栗色の髪を三つ編みにまとめた、簡素なドレスの娘。貴族の華やかな輪に混じると、あまりに場違いなその姿。


「彼女はリリア。平民の娘だ。だが純粋で心優しく、僕にとって唯一無二の存在。だからこそ、貴族的義務に縛られた形だけの婚約など、今この場で断ち切る!」


 会場がどよめきに包まれた。

 「平民の娘?」――驚愕と嘲笑、好奇の入り混じった声。

 私の耳には、ひそひそと囁く声が突き刺さる。


「見捨てられたのね」

「やっぱり、王子は形式だけだったんだわ」

「お気の毒に……」


 血の気が引いていく。足元が崩れるような感覚。

 私は幼いころから貴族令嬢として、王子の婚約者として、立ち居振る舞いを磨き、家の誇りを背負ってきた。そのすべてが――笑いものにされた。


「殿下……私の、努力は……?」


「悪いが、愛の前では無意味だ」


 冷酷な宣告。

 世界が音を失った。


 涙は出なかった。あまりに突然で、感情が追いつかない。胸の奥にぽっかり穴があき、ただ茫然と立ち尽くす。

 周囲の視線は冷たく、誰ひとり救いの手を差し伸べてはくれない。


 そのとき――


「……実に下らないな」


 重々しく、それでいて力強い声が会場に響いた。

 振り返ると、背の高い異国の青年が立っていた。

 深紅の軍装風の礼服、金の刺繍に飾られた肩章。鋭い青の瞳が、王子を真っ直ぐに射抜く。


「き、君は……隣国ラグランジュの王太子、アレクシス殿下!?」


 ざわつく会場。外交の場に招かれていた隣国の王太子が、いつの間にかこちらを見つめていたのだ。


 アレクシス殿下はゆるやかに歩み出ると、ためらうことなく私の前に進み出て、片膝をついた。

 燭光に照らされたその姿は、絵画のように荘厳で美しい。


「あなたの婚約を破棄したというのなら、代わりに私が求婚しよう」


「……え?」


 信じられなかった。耳を疑ったのは二度目だ。

 会場に再びどよめきが走る。


「馬鹿な! アレクシス殿下、今何を――」


「真実の愛を語るのなら、彼女を選ぶのが当然だろう?」


 アレクシス殿下の声は揺るがず、堂々と響き渡る。

 人々は息を呑み、呆然と見守るしかなかった。


 彼の手が、そっと差し出される。

 私はその場に釘付けになった。


 どうして――?

 なぜ、この隣国の王太子が、私に?


 屈辱の淵に沈んでいた心に、まるで炎のような熱が宿るのを感じた。

 絶望の闇を照らす、救いの光。

 だが同時に、これは新たな嵐の始まりでもあるのだと、直感していた。


 会場の視線が、私に注がれる。

 答えを求める視線。

 私は震える唇を結び、差し出されたその手を――


 静まり返った舞踏会場に、アレクシス殿下の低く澄んだ声が響いた。

 「真実の愛を語るなら、この女性をこそ選ぶ」


 その宣言は、まるで雷鳴のように人々の心を打った。

 貴族たちの間にどよめきが広がり、あちらこちらでざわめきが起こる。


「ラグランジュの王太子が……!?」

「まさか、伯爵令嬢を……!」

「国際問題になるぞ……!」


 誰もが口々に囁き合い、視線は私に突き刺さる。


 私は、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 さっきまで“笑い者”だった私に、突如として差し伸べられた救いの手。

 屈辱のどん底に沈んだ心を、一瞬で掬い上げるような言葉。


 だが、理解が追いつかない。

 なぜ、彼が――隣国の王太子が、私を庇うのだろう?


「ア、アレクシス殿下! 軽率なお言葉では……!」


 青ざめた顔で叫んだのは、この国の国王陛下だった。

 舞踏会を主催する立場である陛下は、外交的混乱を恐れ、必死に言葉を選ぶ。


「これは我が国の内輪の問題。殿下のお立場で口を挟まれるのは――」


「いいや、違う」


 アレクシス殿下の声は鋼のように硬く、揺るがなかった。

 「内輪の問題」――そう言い切って私を踏みにじろうとする王子やこの国の貴族たちを、彼は真正面から否定したのだ。


「人前で婚約者を辱め、誇りを踏みにじる。そんな男が“真実の愛”を語るとは滑稽だ。

 もし本当に愛を知る者がいるとすれば、それは彼女――屈辱に耐え、誇りを捨てぬ、この女性だ」


 ――その言葉に、胸が震えた。

 屈辱から救われる安堵。

 だが同時に、困惑と戸惑いが押し寄せる。


 なぜ私が?

 アレクシス殿下は私を知っているのだろうか?

 ただの外交的な芝居? それとも――


「殿下!」


 ユリウス王子が叫んだ。

 憤りと動揺が入り混じった声で、アレクシス殿下を睨みつける。


「彼女は……僕が見限った女だ! 僕が愛するのはリリアただひとり!」


 王子の腕の中で、平民の娘リリアが怯えたように身を縮める。

 だがアレクシス殿下は一顧だにせず、私の前に片膝をつき続けていた。


「エリス・ヴァレンティナ嬢」


 名前を呼ばれ、息を呑む。

 その青い瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。


「私はあなたを辱めるこの場の空気が許せない。

 もし望むなら、私の国へ来てほしい。あなたを妃として迎えたい」


 ――世界が止まった。

 舞踏会に集う貴族も、音楽家も、従者も。

 すべてが呆然と固まり、ただ彼の言葉だけが鮮烈に響き渡る。


 私の胸の奥で、屈辱がじわじわと溶けていく。

 救われたという安堵。

 けれど、すぐに困惑が押し寄せる。


(どうして……どうしてこんなことに? 私は今まで笑い者だった。誰も味方してくれなかったのに……)


 まるで夢を見ているようだった。

 目の前の王太子の真意は何なのか――分からない。

 けれど、その手だけは真摯に差し伸べられている。


 答えを出せないまま、私は唇を震わせる。


「わ、私は……」


 視線を感じた。

 冷ややかな社交界の人々の視線。

 怒りに燃える王子の視線。

 そして――ただひとり、真っ直ぐに私を見つめる王太子の視線。


 屈辱から救われた心が、ほんの少しだけ熱を帯びる。

 けれどその熱は、まだ信じられぬ困惑とともに揺れていた。


 ――この瞬間、私の運命は大きく動き始めていた。


 舞踏会の夜が明けても、胸の奥に渦巻くざわめきは消えなかった。

 婚約破棄――それは表向き王家の決定とされ、私の耳に入る前に、もう社交界の噂となっていた。


「伯爵令嬢エリス、王子に捨てられたらしいわ」

「平民の娘に負けるなんて、滑稽だこと」

「気の毒……いいえ、当然の報いね」


 通りすがりの令嬢たちのささやきが、容赦なく私を刺す。

 どんなに背筋を伸ばしても、その囁きは耳に届いてしまう。

 私は“哀れな捨てられ令嬢”――それが新しい呼び名になっていた。


 家に戻ると、父母の表情は固く、弟妹たちも口を閉ざしていた。

 家のために結ばれたはずの縁談が潰れたことで、伯爵家は大きな痛手を負う。

 父はただ一言、「軽率だった」と呟いた。

 その言葉が私を責めるものか、自らを責めるものかは分からなかった。


 夜、ひとり寝室で天蓋を見上げる。

 怒り、悲しみ、羞恥――様々な感情が胸を占め、眠れない。

 ユリウス殿下の冷たい瞳、会場の笑い声、そして――隣国の王太子が差し伸べた手。


(……なぜ、あの方は私を庇ったの?)


 理解できない。

 夢のように差し出された救い。だが、それを信じてよいのか。

 私はただ、踏みにじられた誇りを抱えて立ち尽くしていた。


 そんな日々が続いたある夕刻、屋敷に来訪者があった。

 赤いマントを翻し、堂々とした足取りで現れた人物――アレクシス殿下だった。


「……! 殿下……」


 居間に集まった家族の前で、彼は隠すことなく言った。


「改めて申し上げる。私はエリス・ヴァレンティナ嬢を妃に迎えたい。どうかラグランジュへお越し願いたい」


 居合わせた使用人たちでさえ息を呑む。

 家族は驚き、困惑し、父は言葉を失った。


「殿下……なぜ娘を? 我が家はもう、王子からも見限られ、社交界での立場も……」


「だからこそだ」


 アレクシス殿下の青い瞳は揺るがない。


「彼女は辱められても気高く立ち続けた。その誇りは、私の国にこそ必要だ。

 私の意志は変わらない。これは政略ではなく、選び取った決断だ」


 父も母も言葉を失い、視線を私に向けた。

 「どうするのか」と問う目。

 弟妹の瞳には、不安と期待が入り混じっていた。


 心臓が高鳴る。

 私は深く息を吸い込み、震える唇を結んだ。


「……私は、このまま捨てられた令嬢として生きてはいけません。

 誇りを守るために、私は殿下と共に行きます」


 静かな決意の言葉。

 それを口にした瞬間、胸の奥に絡みついていた暗い靄が、少しずつ晴れていくのを感じた。


 母は涙ぐみ、父は無言で頷いた。

 アレクシス殿下は微笑み、ゆっくりと私の前に差し出した手を取った。


「ありがとう。あなたの勇気に応えよう。必ず守ると誓う」


 その言葉に、私は頷いた。

 踏みにじられた誇りを取り戻すために――私は国境を越える決意を固めたのだった。


 馬車の窓から見えた景色は、私が生まれ育った国とはまるで違っていた。

 石畳は広く整備され、並ぶ建物は白と赤を基調とした堂々たる造り。市場には各地から集められた品々が並び、香辛料や絹織物の匂いが漂ってくる。人々は活気に溢れ、兵士たちの巡回する姿も目に入った。


 ――ここがラグランジュ。

 軍事と交易で大国として知られる隣国。今、私はその王宮へと向かっていた。


 アレクシス殿下の馬車に同乗しながら、鼓動が収まらなかった。

 「誇りを守るため」と決意したはずなのに、不安は尽きない。

 異国の宮廷、見知らぬ人々――彼らに受け入れられるのだろうか。


 馬車が王宮前の広場に到着すると、壮麗な城門がそびえ立っていた。

 金と黒の旗が風にはためき、兵士たちが整列して出迎える。

 その威容に圧倒され、私は思わず息を呑んだ。


「エリス。ようこそ、私の国へ」


 アレクシス殿下は微笑み、手を差し伸べてきた。

 その手に導かれ、私は石段を上がる。

 王宮の扉が開かれた瞬間、広間に居並ぶ貴族たちの視線が一斉に私に注がれた。


「……あれが」

「まさか、あの“捨てられた令嬢”を?」

「殿下の隣に立つとは……」


 ひそやかな囁き声が、鋭い刃のように刺さる。

 好奇と疑念、そして露骨な嫉妬。

 “突然現れた伯爵令嬢”に向けられる宮廷の空気は、冷ややかだった。


 私は思わず足を止めそうになった。だが、その背に温かな手が添えられる。

 「大丈夫だ」――アレクシス殿下が小さく囁く。

 彼の手の力強さに、再び一歩を踏み出すことができた。


 謁見の場で、殿下は堂々と声を響かせた。


「皆に告げる! この女性、エリス・ヴァレンティナは、私が未来の妃とする者だ」


 広間がざわめいた。

 「未来の妃」――それは公の場での宣言。

 政治的思惑や反発が生じると分かっていながら、彼は迷いなく言い切った。


 私はその隣で、胸が熱くなるのを感じていた。

 救われただけではなく、彼は私を選び取ったのだ――そう実感させる言葉だった。


 それでも、現実は甘くはなかった。

 宴の席で声をかけてくる貴婦人たちの視線は、探るようで鋭い。

 「どうやって殿下の心を射止めたのかしら?」

 「我らが国の令嬢ではなく、よそ者を妃にとは……」

 笑みの裏に潜む警戒と嫉妬は隠しきれない。


 その度に、アレクシス殿下は私の傍らに立ち、堂々と答えた。

 「彼女は誇り高き女性だ。私の国に必要なのは、身分や生まれではなく、その強さだ」


 ――私はまだ戸惑っていた。

 どうしてここまで溺愛されるのか、理解できない。

 だが、彼の言葉に守られるたび、心の奥の氷が少しずつ溶けていくのを感じた。


 ある夜、宮殿のバルコニーで並んで月を眺めていた時、私は思わず尋ねた。


「殿下……どうして、私をここまで……?」


 アレクシスは少し驚いたように私を見て、やがて穏やかに微笑んだ。


「理由が必要だろうか? 初めて見た時から、君の誇り高さに心を奪われた。それだけだ」


 真摯な青の瞳に見つめられ、言葉を失った。

 まだ信じ切れない自分がいる。

 けれど――この国で、彼の隣に立ち続けたいと、ほんの少しだけ思い始めていた。


 ラグランジュ王宮での日々が始まってから、しばらくが経った。

 表面上は穏やかに見えるものの、その裏では常に波が立っていた。


 アレクシス殿下が「未来の妃」として私を公に宣言したことで、宮廷の空気は揺れ動いた。

 生まれも地位も異国の伯爵令嬢――しかも「捨てられた」という屈辱的な過去を持つ私が、王太子妃の座に就こうとしているのだ。

 反発が起こらぬはずもない。


「ラグランジュの血を継ぐ令嬢を差し置いて、なぜ異国の娘を……」

「保守派は断じて受け入れぬだろう」

「外交上も波紋が広がるに違いない」


 耳に入る噂は決して穏やかではなかった。

 特に保守派の有力貴族たちは、私を「王国の伝統を汚す存在」として扱い、陰に陽に排斥しようとした。


 それでもアレクシス殿下は臆することなく、常に私を伴って公務に臨んだ。

 議場でも、宴でも、視線を集める場には必ず私を同席させ、堂々と紹介する。


「彼女は私の選んだ未来の妃だ。異論は認めない」


 その毅然とした態度に救われる一方で、私は自分の無力を痛感していた。

 ただ傍らに立つだけでは、批判の矢面に立たされる殿下を守ることもできない。

 “溺愛される人形”ではなく、自分の意思で立たなければ――。


 そう思い始めた私は、宮廷の慣習や歴史を必死に学び始めた。

 図書室にこもり、ラグランジュの政治体制や交易路、軍事制度について書かれた書物を読み漁る。

 分からない部分は学者を招き、時には侍女に助けを借り、必死に理解しようとした。


「……お嬢様、もう夜明けです」

「大丈夫。今は一刻も無駄にできないの」


 眠い目をこすりながらも書きつける私を、侍女たちは呆れつつも見守ってくれた。


 やがて、殿下に同行する場で少しずつ意見を口にするようになった。


 ある日、交易都市からの使者が謁見に訪れた時のこと。

 輸入される香辛料の価格が高騰し、商人たちが不満を訴えていた。

 殿下が説明を求められた際、私は思わず口を開いた。


「香辛料の流通は、港の整備が遅れていることが一因ではないでしょうか。

 新しい倉庫を建てるより、まず輸送路を整えた方が効率的かと」


 広間が一瞬静まり返った。

 “よそ者”が意見を述べたことに、多くの視線が突き刺さる。

 けれど殿下はすぐに頷き、笑みを浮かべた。


「その通りだ。エリスの意見はもっともだ」


 彼の言葉が後押しとなり、議場にいた何人かの貴族も同意を示した。

 その瞬間、わずかだが空気が変わったのを感じた。


 ――私はただ守られるだけではない。

 学び、考え、言葉を尽くすことで、この宮廷に自分の居場所を作ることができる。


 もちろん、反発が消えたわけではない。

 陰で「生意気だ」と囁く声も聞いた。

 だが私は怯まなかった。むしろ、それが芯を鍛える炎になった。


 夜、バルコニーで殿下に告げた。


「殿下……私は、人形のように守られるだけでは嫌なのです。

 共に歩むなら、私も力になりたい」


 アレクシス殿下は驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。


「……君は本当に強い。私が惹かれたのは、まさにその誇り高さだ」


 月明かりの下、彼の言葉が胸に染みた。

 私は確信した。

 もう二度と、誰かに踏みにじられるだけの存在ではない。

 この国で、自分の意志と誇りで立つのだ――。


 ラグランジュの王宮に暮らすようになって、ようやく日々の緊張が和らぎ始めた頃だった。

 私は宮廷での役割を少しずつ見つけ、反発を覚える者たちの間にも、わずかではあるが理解を示す声が生まれつつあった。

 ――だが、その安らぎは長くは続かなかった。


 ある日、殿下の執務室に届けられた報告書を、私は偶然目にした。

 そこには、信じ難い言葉が並んでいた。


「……“ユリウス王子、密かに動く”……?」


 彼――私を捨て去った元婚約者の名が、再び現れたのだ。

 報告によれば、ユリウス王子はこの国との結びつきを断ち切ろうと画策し、密使を送っているらしい。

 外交的な揺さぶり、交易路の妨害、さらには……私自身の暗殺計画までも。


 背筋が凍った。

 あの夜、私を公衆の面前で踏みにじっただけでは飽き足らず、今度は命を奪おうと?


 その夜、アレクシス殿下は私の前で報告を広げ、静かな声で言った。


「恐らく君を標的にするだろう。君を失えば、私が揺らぐと考えている」


 殿下の青い瞳は鋼のように硬かった。

 怒りを押し殺したその眼差しに、私の胸は熱くなる。


「殿下……ご迷惑をおかけしてしまうのですね」


「違う。迷惑などではない。君を守ることが、私の意志だ」


 その言葉は深く胸に刻まれた。


 だが、危機はすぐに訪れた。


 ある日の午後、王宮の庭園で侍女と共に散策していた時だった。

 茂みの影から閃光が走る。矢――!


 侍女の悲鳴と同時に、私は地に伏せさせられた。

 覆いかぶさったのは、駆けつけた護衛兵。矢はその肩をかすめ、石畳に突き刺さった。


「襲撃だ!」


 衛兵たちの叫び声が響き渡る。

 私は震える手を必死に抑えながら、襲撃が現実だと理解した。

 狙われたのは間違いなく――私。


 混乱の中、真っ先に駆けつけてきたのはアレクシス殿下だった。

 剣を抜き放ち、鋭い眼光で周囲を睨む。


「エリス! 無事か!」


「……はい……殿下のおかげで……」


 殿下は震える私を抱きしめ、低く告げた。


「恐れるな。君を奪わせはしない」


 その腕の強さに、涙があふれそうになった。


 襲撃者は捕えられなかったが、背後にユリウス王子の影があるのは明白だった。

 外交的な圧力も同時に強まり、宮廷の一部からは「エリス嬢を遠ざけるべきだ」という声さえ上がった。


 ――だが、その時。

 私を支えたのは、これまで少しずつ築いてきた“味方”だった。


「エリス様はむしろ、この国のために必要なお方です」

「異国から来られた視点が、新しい風をもたらしているのです」


 交易都市の代表や、改革を望む若い貴族たちが私を擁護してくれたのだ。

 ほんのわずかな声かもしれない。けれど、その一つ一つが私を支えてくれた。


 私は決意した。恐怖に怯えるだけではなく、声を上げて立ち向かうのだと。


「殿下。私は逃げません。どんなに命を狙われても、ここに立ち続けます」


 アレクシス殿下は静かに私を見つめ、やがて深く頷いた。


「……強いな、君は。本当に誇らしい」


 その言葉と共に、殿下の手が私の手を固く握る。

 恐怖と不安に震える心が、不思議と温かく満たされていく。


 ――嵐の中にあっても、彼と共になら進んでいける。

 そう信じられるほどに、私たちの絆は深まっていた。


 季節は巡り、ラグランジュ王宮はかつてないほどの緊張に包まれていた。

 この日、隣国同士の代表が集う国際会議が開かれるのだ。

 交易路の調整、国境線の安全保障、そして――王太子妃問題。

 すべての視線が、私とアレクシス殿下に注がれていた。


 会議の会場は壮麗な円形広間。

 各国の王族や貴族たちが席に着き、静かなざわめきが満ちていた。

 私は殿下の隣に座り、深呼吸を繰り返す。

 冷ややかな視線もあれば、憐れむような視線もある。

 その中には――ユリウス殿下とリリアの姿もあった。


「……あの時の、王子……」


 彼らの目に浮かんでいるのは勝ち誇った光。

 “結局お前は場違いだ”と言わんばかりの嘲り。

 心臓が跳ね上がったが、私は背筋を伸ばした。

 あの夜から、私は何度も恥辱に耐え、学び、立ち上がってきたのだ。

 今日こそ、そのすべてを証明する時。


 議題が進む中、ある代表が声を上げた。


「しかし、ラグランジュ王太子が異国の、しかも一度捨てられた伯爵令嬢を妃に選ぶとは前代未聞。政略を軽視するおつもりか?」


 広間がざわつく。

 ユリウス殿下がすかさず言葉を継いだ。


「そうだ! 彼女は我が国で見限られた女。真実の愛を語るなら、私とリリアこそが証明してみせよう」


 リリアは小さく頷き、うつむいていた。

 その様子に、会場の一部が同情の視線を送る。

 だが私は、かつてのように怯えなかった。

 静かに立ち上がり、会場を見渡す。


「……確かに、私はかつて捨てられました」


 ざわめきが広がる。

 それでも私は続けた。


「けれど、その屈辱に沈んで終わることはしませんでした。

 私は学び、立ち続け、ラグランジュで自らの居場所を築こうと努めてきました。

 誇りを守るために」


 その言葉は、静かに、しかし確かに広間を震わせた。

 人々の視線が、驚きに変わっていくのを感じる。

 “捨てられた令嬢”ではなく――今ここで自らを語る存在として。


 沈黙を破ったのは、アレクシス殿下だった。

 彼は立ち上がり、私の手を取ると高らかに宣言した。


「聞け! これは政略ではない。

 私はこの女性を心から愛している。

 誇り高く、誰よりも強く生きる彼女を、妃として、そして伴侶として選んだのだ!」


 その声は雷鳴のように広間を揺るがせた。

 ユリウス殿下の顔がみるみる赤くなり、周囲の貴族たちは息を呑む。

 誰もが驚き、言葉を失った。


 私は殿下の隣に立ち、胸を張った。

 かつて笑い者にされた私が、今は誇り高く彼の隣にいる。

 世界に向けて――これが私の答えなのだと示すように。


 広間の空気が変わるのを感じた。

 軽蔑と疑念の視線が、少しずつ尊敬と畏怖へと変わっていく。


 やがて一人の使節が静かに頭を垂れた。


「……ラグランジュ王太子と、その未来の妃に敬意を」


 続いて他国の代表も次々と頷く。

 逆転の瞬間だった。


 私は殿下の手を強く握り返した。

 彼の青い瞳が優しく細められ、私にだけ向けられる笑みを浮かべる。


 ――これはもう、誰にも揺るがせない。

 私たちが誓った真実の愛を、世界が認めたのだから。


 王宮の大広間は、金と白の装飾で輝き、無数の燭光が揺らめいていた。

 今日は、ラグランジュ王太子アレクシスと私――エリス・ヴァレンティナの正式な婚約を発表する日。

 各国からの使節や貴族たちが列席し、厳かな空気が広がっていた。


 私は純白のドレスに身を包み、深呼吸を繰り返していた。

 かつて「捨てられた哀れな令嬢」と嘲られた私が、今は大国の王太子の隣に立っている。

 胸の奥に去来するのは屈辱の記憶。けれどそれは、今や「幸福を噛みしめるための糧」となっていた。


 アレクシス殿下が堂々と壇上に立ち、力強く声を響かせた。


「皆に告げる。我が妃となるのは――エリス・ヴァレンティナだ」


 大広間にざわめきが走る。

 すでに彼が宣言したことではある。だが改めて、国家の場で公表されたことは揺るぎない事実となった。

 私はその隣に進み出て、会場を見渡した。


 嘲笑していた人々も、驚愕していた人々も、今は静かにこちらを見守っている。

 その視線を正面から受け止め、私は言葉を発した。


「私は、かつて婚約を破棄され、誇りを踏みにじられました。

 けれど、その屈辱があったからこそ、自分の意志で立ち続けることを学びました。

 そして殿下に出会い、共に歩む勇気を得たのです」


 声は震えていなかった。

 静かに、けれど確かに、心の底からの思いを語ることができた。


 アレクシス殿下は私の手を取り、観衆の前で高らかに言い放つ。


「政略も体面も関係ない。私は彼女を選んだ。

 そして、これからも選び続ける。たとえどんな困難があろうとも――私の誇りは、彼女と共にある」


 その瞳は揺るぎなく青く、真実を映していた。

 広間に感嘆の声が広がり、やがて大きな拍手が巻き起こる。


 ――その音に包まれながら、私は心に誓った。


(私もまた、何度でもあなたを選び続ける。誰に何を言われても、私の誇りは殿下と共にある)


 その誓いは、甘い幸福と共に胸に刻まれた。


 式の終わった後、静かな庭園で二人きりになった。

 夜空には無数の星が瞬き、月が柔らかく光を注ぐ。

 アレクシス殿下は私の手を握り、囁くように言った。


「エリス……これから先、きっと楽な道ばかりではないだろう。

 だが、私は何度でも君を選ぶ。君は?」


 私は微笑み、ためらわず答えた。


「もちろんです。私も何度でも、殿下を選びます」


 その言葉に、殿下は私をそっと抱き寄せた。

 温かな鼓動が伝わり、世界の喧騒が遠のいていく。


 ――かつての屈辱は、今や最高の幸福に変わった。

 あの日の涙も、痛みも、すべてがこの瞬間に繋がっていたのだ。


 互いを選び続ける誓いと共に。

 私たちの物語は、甘くも壮大に幕を閉じる。

よろしければ評価いただけると嬉しいです。

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