ハチ公前のスラッガー - 濃尾
ハチ公前のスラッガー - 濃尾
歩行者用信号機は赤。私の打順だ。
心臓の鼓動が耳元で響き、戦太鼓のように全身を震わせる。
黒縁メガネのフレームに汗が伝い、レンズの端で光が揺れる。
しかし私の心の中は、時間が止まったかのような静寂に包まれていた。
ポケットの中でスマホが短く、鋭く振動した。
見知らぬ番号からのメッセージ。
画面に浮かぶ文字は、まるでこの瞬間を予言していたかのようだ。
「お前の運命が決まる、進め。」
一瞬、頭に血が上る。誰の仕業か、予測はついている。
あの声、あの匂い、あの気配――全てが脳裏に浮かぶ。
「…アタリマエダノクラッカー…。」私は小さく呟き、唇の端に苦い笑みを浮かべた。
足を踏み出す。信号はまだ赤だが、ルールなんて今夜の渋谷には存在しない。
深夜の渋谷。普段の喧騒は幻だったかのように消え、代わりに異様な静けさが街を支配している。
スクランブル交差点の周辺には規制線が張られ、その向こうには人だかりが広がっている。この瞬間を待ちわびていたかのような群衆だ。遠くで車のクラクションが鳴り、渋滞の列が蠢く。
それは、この交差点を巨大なコロシアムに変える観客のざわめきだった。
スーツのネクタイを締め直す手が、ほんの一瞬、震えた。
緊張ではない。期待だ。
この瞬間を、私は待ち望んでいた。
人だかりの中から、鋭い声が飛び出す。「おい!あいつだ!」その声に呼応するように、群衆のざわめきが波のように広がっていく。スマートフォンのカメラを構える者、メモ帳を握りしめ何かを書き留めようとする者、そしてただじっと、食い入るように私を見つめる者。誰もが、これから起きる「何か」を待ち構えている。あたかもこの交差点が、運命の舞台に選ばれたかのように。
私はハチ公前の歩行者用信号機の下で立ち止まる。冷たいコンクリートの上に立つ黒い革靴の感触。
視線を上げると、交差点の中央に立つ男と目が合った。
男はニヒルに嗤うかのような相貌で、私を睨みつけてくる。
名も知れぬその男――いや、この街では誰もが彼を「助っ人GAIJIN」と呼ぶ。
背中に龍虎の刺繍が施された青いスカジャンを羽織り、口の端にくわえた煙草の先が赤く光る。
その姿は、渋谷のネオンの下でまるで異世界から現れた戦士のように浮かび上がる。
男の周囲には、彼の存在が空気を歪めるかのような異様なオーラが漂っていた。
スカジャンの刺繍の龍虎の隅のロゴに目がとまった。
やはりそうか。先ほどのスマホのメッセージを思い出す。
この腐れ縁もこれきりだ。
群衆のざわめきが一瞬遠のき、私とそいつの間には真空地帯のような静寂が広がった。
信号機はまだ赤。
私の手が、無意識にバットの柄を握りしめる。その固い感触が心地よい。
深く息を吐き、肺の奥に溜まった重い空気を押し出す。
視線を男に固定したまま、私は一歩踏み出した。深く一礼。
「ねえ、GAIJINさん。」私は彼を見つめ、微笑みを浮かべる。
「貴方が何者だろうと、この街で私をハメるのは難しいと思いますよ?」
男の唇がわずかに動く。「ソレハユイゴンデスカ?」その声は低く、渋谷の闇に溶け込むような響きだった。
日本語なのに、どこか異国の香りが漂う。
男の目が、獲物を値踏みするように私を捉える。
その視線に、背筋がゾクリと震えた。
だが、怯むわけにはいかない。
ここは私の街だ。
信号が青になった。その瞬間、GAIJINの体が柳の枝のようにしなり、空気を切り裂くような勢いでビーンボール、危険球を放つ。
ボールは私の頭部を狙い、まるで意志を持ったかのように唸りを上げて飛んでくる。反射的に体を沈め、間一髪で躱した。
ボールは背後のコンクリートに叩きつけられ、乾いた音を立てて高く跳ね
た。
渋谷の交差点は一瞬にして戦場と化した。
群衆の咆哮が空気を震わせ、この瞬間を祝福するかのように響き合う。
だが、規制線の内側には誰も踏み込まない。武装した警官でさえ、ただ事態を見守るだけだ。
この交差点は、今、私とGAIJINの戦場なのだ。
観客たちの興奮が、空気をさらに熱くする。
私は膝を払いながら、低く呟いた。「…やりますねぇ…。」視線を上げ、男を睨みつける。
「…しかし、ここがどちらのホームグラウンドか、解っちゃいませんね…。ここは『私の庭』だ!」
GAIJINの唇が再び歪む。不敵な笑み。
第二球が放たれる。今度は胴部を狙った危険球。だが、私はすでにその軌道を読んでいた。一歩後退のステップを刻み、バットを振り抜いた。
打球音が夜の渋谷に響き、ボールは鋭い弾道で男の側頭部にめり込んだ。
ボールが地面に落ちる音と、GAIJINが膝をつく音がほぼ同時だった。
男の体がゆっくりと崩れ落ちる。
煙草がアスファルトに転がり、赤い火が消える。
群衆のつんざくような歓声が、交差点を揺らす。
私はバットを肩に担ぎ、スクランブル交差点をゆっくりと一周した。
足取りは重く、確実に。
スマホが再び振動する。画面には、またあの知らない番号からのメッセージ。
「オマエガコンナニツヨイノモ…」
私は画面を見下ろし、唇の端に笑みを浮かべた。
終わりだ。これきりだ。
「…アタリマエダノクラッカー…。」小さく呟き、歩みを止める。
ネオンの光が私の影を長く伸ばし、渋谷の夜に溶け込んでいく。
完
夢を見ました。
大きなスクランブル交差点でサラリーマンスーツの私が「助っ人ガイジン」にビーンボールを投げられていました。
あまりに支離滅裂なので小説化は諦めていました。
しかし数行書いたメモは残したままでした。
それを小説にしました。