可愛いよ
「どういうつもり? お金ないなら、こんなの材料買うのやめたら?」
新宿から家に帰ったら、部屋中にバターのにおいが充満していた。
「山崎が喜ぶかと思って」
「アップルパイなんか食べるわけない!」
トースターで焼かれているアップルパイを睨みつける。
「いらない」
脱いだばかりの靴を履きなおした。
「どこ行くの」
「どこでもいいでしょ」
「山崎」
「姫華って呼んでっていったよね」
だいちゃんは息をのんだ。
「そんなこともできないの?」
最悪。アップルパイのにおいが部屋の服についたらどうしてくれるの。
「少しは食べたら」
「いらない」
「昨日から、なにも食べてないだろ」
「いいの」
「倒れたら」
「うるさい。平気」
SNSには綺麗で可愛い女の子がたくさんいる。みんな折れそうに細くて華奢だった。前はみんなブスにみえた女の子たちが、いまはみんな私よりも可愛くみえる。
元から太りやすい体質だから、少し食べただけでも太る。ダイエットの停滞期を打破する一打欲しさに、一日一回キャベツとささみを食べる生活をしてみると、みるみるうちに体重が落ちていった。でも、この二週間は体重が減らない。
一日一度も食事はいらない。
毎日食事をするのは太っている人の習慣。
細くて可愛い美女はみんな「SNSで」そういっている。
最近はフォロワーの伸びも悪い。ダウンタイムが終わったら顔出しするといっていたけれど、やっぱり顔出しするのは怖くて口元から下の写真を投稿したのが悪手だった。本当は加工詐欺で、くちから上は可愛くないという噂がひろまってしまった。
体重が四十キロになったら、今度こそ顔出しする。百五十五センチしかないから、本当は三十キロ台に……。
「いい加減にしろ!」
突然、だいちゃんが声を張り上げた。
「整形してからおかしいよ、姫華」
「はぁ?」
「整形なんか応援しなきゃよかった」
「……だいちゃんは横で寝てるだけだったよね」
「そんなこと」
「整形したあとの痛み知ってる? 寝ることもできないくらい痛いの。唾液も飲みこめないから、血液混じりのツバをくちからダラダラこぼしてた。痛みで眠れないし動けない私が夜中泣いてたとき、だいちゃんはいびきかいて寝てたよね」
「……毎日仕事で」
「仕事っていっても、コンビニのバイトでしょ」
棚卸しとレジ打ち。学生バイトでもできる。
目を見張っただいちゃんは、寂しそうにいった。
「山崎だけはわかってくれてると思ってた。俺と同じ仕事してる山崎は」
「姫華って呼べっていってんだろ!」
手に持っていたサプリを床に投げつけた。だいちゃんは相変わらず冴えない顔で、それがひどく腹立たしい。
だいちゃんをみていると、昔の私をみているみたいで。
だいちゃんは昔の私みたいで。
あの子はもういないのに。しんだのに。
「山崎って呼ばないでよ! その子はもうしんだの。いないの」
「……山崎は山崎だろ」
「姫華って、名前を呼ぶことすらできないの!」
ヒールを履いて玄関から飛び出す。部屋着にヒール。ひどく不格好な姿で駆けだした。
地元は嫌い。生まれ育った場所から、三十分しか離れていない家も嫌い。だいちゃんと私の給料に見合った場所は、チェーンの大型商業施設だけが娯楽施設みたいな場所。横長の建物に、映画館もゲームセンターもレストランも服屋もスーパーも入ってる。
スウェットにハイヒールの私を、何人もの人がみてきた。都内なら、新宿なら、こんな視線は向けられない。新宿には、ここに住んでいる人の何倍もの人がいる。
人、人、人、どこをみても人。
あれだけ人がいたら、変な人もおかしな人もいる。美人もブスも、痩せている人も太っている人もいる。
無関心が怖かったはずだった。ブスの私を遠巻きにしたり、避けたり、空気扱いしてくる人が怖かった。
なのに、なぜか。
新宿の無関心は居心地がいい。だれも私をブスといわない。顔を二度見される理由は、私が美人だから。ブスだから二度見されていたころとは、私をみる人の目が違う。
「お姉さん、どうしたの?」
昼下がりの駅前は閑散としていた。土曜日のお昼だというのに、新宿駅前の十分の一の人もいない。
携帯だけを持ってきた。財布もない。けど、携帯はあるから電車には乗れる。カードだってあるから、買い物もできる。ここには居たくない。新宿に……私の場所に行こうとしていた。
「お姉さん」
顔をのぞき込まれて、私に話しかけられていると気がついた。女優みたいな美人になってから、いろんな男が私に声をかけてきた。新宿の駅前に行けば十人は声をかけてくる。夜の店のスカウトも、ナンパも。ありとあらゆる男が声をかけてきた。
私をのぞき込んでいる男の人は、いままでみたなかで一番格好いい。短髪よりは長い前髪を分けて、かたちのいい額を出していた。
「なんかあった?」
土曜日なのにスーツを着ている。鍛えた身体の線がスーツで際立っていた。
「足痛くない?」
八センチのヒールにも、やっと慣れてきた。駆けたせいで数日前の靴擦れが痛む。血のにじんだ踵をみた男の人は「痛そう」と眉を寄せた。
「手当しないと。座れるところ行こう」
その人は、ふらふらと歩く私をエスコートしてくれた。歩きながら名前を聞いた。かいとさんというらしい。
ー昨日からの仕事が長引いたせいで、やっと帰ってきたところ
私の腰に腕をまわしながら、かいとさんは話してくれた。仕事は外資系の証券会社。向こうの時間にあわせるから、勤務時間はまちまち。学生時代はアメリカに留学もしていた。有名大学を卒業したあとは、得意な英語を生かしていまの仕事をしている。
絵に描いたようなエリート。
俳優さんみたいに整った見た目も魅力的。
困っている私に声をかけて助けてもくれた。
この人が、私の王子さまなのかもしれない。
かいとさんが連れてきてくれたのは、最寄り駅の裏にあるマンガ喫茶。だいちゃんは何度か通っていた。マンガを読まない私は、ここに来るのははじめてだった。
「マンガ読む?」
「かいとさんは読むんですか?」
「けっこー読むよ。日本のサブカルは人気だから、仕事のアイスブレイクにもなるし」
ほぅっと息をついてしまう。やっぱり、できる人は違うんだ。私欲でマンガを読んで、時間を浪費するだいちゃんとは違う。
二人で個室に入った。ドリンクバーで持ってきたカフェオレを飲みながら、かいとさんの仕事の話を聞いた。最近大きな契約が取れたこと、夏のボーナスが社内一だったこと、彼女と別れたばかりなこと。
「姫華ちゃんは彼氏いる?」
「……いません」
ごめんね、だいちゃん。でも、私たち合わないと思う。前の私はしんだの。いまの私は、だいちゃんには釣り合わないよ。
「そうなんだ」
かいとさんの目が細められる。視線の動きひとつ取っても映画のワンシーンみたい。
「なら、いい?」
大きな手が私の手を握るのを、どきどきしながらみていた。かいとさんの顔が近くなる。スウェットのなかに手が入ってきた。
「……え?」
呆然とした私をかいとさんは笑う。身じろぎをすると、手を握っていた手で両手を拘束された。
「やっ」
「へー、ムリヤリ系が好きなんだ」
優しかったかいとさんは、嫌がる私を床に押し倒した。舌なめずりをしながらスウェットのなかで手を動かす。涼しげな目が濁っていた。
「やめてください」
のどがふるえて声が出なかった。いつもの数倍は小さい声で懇願する。身体がガタガタふるえてきた。
「えー、いいじゃん」
「会ったばかりなのに」
「ほいほい個室についてきといて?」
近付いてきた顔は醜く微笑んだ。
「こうなるってわかるよね。つか、期待してたんじゃねえの。こんな顔してるなら、どうせヤりまくってんだろ。一回くらい俺とヤろ。きもちーよ」
ふるえる手でかいとさんを突き飛ばす。舌打ちをしたかいとさんがのしかかってくる。身体を蹴って逃げた。
「このアマ!」
とっさに怒鳴ったかいとさんを、通りがかりの店員が制止する。振り向かずに逃げた。ハイヒールで靴擦れが痛んでも走った。走って、走って、走って。駅前まできたとき、両目から涙があふれた。
知らなかった。あんな目にあったのは、はじめてだった。
前の私が男の人に声をかけられたのは、人生で一度きり。だいちゃんだけだった。だいちゃんはあんなことしなかった。はじめてのデートの日。ランチを食べてお茶をしたら、夕方には解散した。家に着いたと連絡すると、すぐに電話がかかってきた。何時間も話した。
だいちゃんとは、はじめて会ったときから自然と話せた。もっと話していたかった。
ーこんなに話すなら、夜ご飯も一緒に食べればよかったね
名残惜しそうにいう私に、だいちゃんは咳払いをした。恥ずかしいのを紛らわせる癖だった。
ーはじめてのデートで夜まで引き留めたら、怖いかと思って
夕方には解散したのは、私を恋愛対象にはみていないからだと思っていた。三回目のデートの帰り道、ウブな彼は礼儀正しい告白をしてくれた。彼もまた、はじめてのデートで、はじめての告白で、はじめての恋人だった。
涙が止まらない。どうして、だいちゃんを醜いと思ったんだろう。見た目だけがいい男の人よりも、だいちゃんはずっと格好いい。
握りしめていた携帯でだいちゃんに通話をかけた。出てくれないかもしれないと思いながらかけた通話は、五秒も待たずに繋がった。
「だいちゃん」
涙で声が揺れる。鼻水を啜りながら謝った。
「ごめんね、だいちゃん。私、わたし、だいちゃんにひどいこといった。ひどいこともした。だいちゃん、ごめんね、ごめんね……」
事故にあってからの日々が頭をめぐる。一ヶ月の昏睡状態のときも、だいちゃんは毎日病院にきてくれたと聞いた。目が覚めたら、仕事の合間をぬって面会にきてくれた。私が寂しくないように、心細くないように。自分の寝る時間も惜しんで支えてくれた。
退院をしてからはもっと、自分を犠牲にして支えてくれた。四年間も働いていない私を、結婚もしていないのに養ってくれた。
「ごめんなさい」
美しい顔になったとき、新しい人生がはじまった気がした。ブスで根暗な弱虫はしんで、可愛くて明るい人気者の私が生まれた気がした。
私は私なのに。
面の皮一枚剥けば、前と同じ私がいるのに。
「ごめんなさい、だいちゃん」
許してくれないかもしれない。私がだいちゃんだったら、きっと許さないし許せない。
ーいま、アップルパイ焼いてた。パイシートじゃなくて春巻きの皮のやつだけど
「……アップルパイ?」
ー姫華が好きだから……って、もう好きじゃなかった。太るからつくるなっていわれたのに、またつくってた
自虐気味に笑う声がした。
ー姫華はもう、アップルパイ食べないのにな
「食べる」
涙で濡れた顔を両手でぬぐう。靴擦れで痛む足を踏み出した。
「だいちゃんのアップルパイ大好き。食べる。カレーも牛丼もグラタンも食べる。太ってもいい」
ー姫華?
「だいちゃんは私が前みたいに太ったら、嫌いになる? いまの……痩せてる可愛い私が好き?」
ため息のあとで、優しい声がした。
ー太っても痩せても、いまも前も。どんな姿でも、山崎は可愛いよ
可愛い。親にもいわれたことがなかった言葉。
「前も……?」
付き合う前も付き合ってからも、だいちゃんは私に可愛いとはいってこなかった。
「整形する前の私も、可愛いと思ってたの?」
咳払いが聞こえた。だいちゃんの癖。恥ずかしいのを紛らわせる癖。
ー可愛いと思ってた。可愛いから告白したし、プロポーズした
「でも、でも、私、わたしあんなにブスだったのに」
ため息をついただいちゃんは「俺は可愛いと思ってた」と笑った。
ーはやく帰ってきなよ
「……うん」
通話を切らずに走りだす。靴擦れが痛むのも気にならなかった。息を切らしてもだいちゃんと話しながら、玄関まで走った。
バターたっぷりのアップルパイの香りは、玄関の前までただよっていた。
だいちゃんの焼いたアップルパイはやっぱり美味しくて、一つ食べたら止まらなくなった。頬を膨らませてアップルパイを頬張る私を、だいちゃんは優しい目でみてくれていた。
「だいちゃん」
「うん?」
「私、これ食べたら仕事探すね」
「俺も転職する」
「転職しなくていいよ。だいちゃんがコンビニの仕事を気に入ってるの、知ってるから」
「でも、あの給料じゃ、姫華と結婚……できないだろ」
「そんなことない。私も働いたら生活できる」
だいちゃんが勢いよく顔を向けてくる。
「姫華」
「山崎でいいよ。だいちゃんこそ、私でいいの? だいちゃんなら、もっといい人が見つかる」
激しく首を振っただいちゃんは、私の両手をぎゅっと握った。