徒桜〈一〉三月二十日
エデレス王国より遠く、東の小さな島国。その名をアカツキの国。妖の王に支配されたその国で、人間が結成したいくつかの武士団は再び人の世を取り戻さんと日々戦い続けている。
月明かりに照らされる桜の木の下で長い黒髪の娘が散りゆく花弁を見ていた。
「眠れないのですか、祢寧姫」
まるで他の者に見られていないか気にするような素振りをしたのち、屋敷の方から降りて桜の木の方へ向かってきた青年が囁くように尋ねた。
その顔は、トキのものであるが、浮かべる表情は優しく、しかし凛としていて雰囲気はまるで違う。
「……暁孝」
「まだ夜は寒いですから、早くお休みになったほうが良い」
それに祢寧姫と呼ばれた彼女は眉を寄せて少し不満げに答える。
「私の好きにさせてください。それに、あなたはもう私の従者ではないのだから、そうかしこまる必要もないでしょう」
「……俺はあなたの従者だ」
「いいえ。私とあなたは対等です。この鷹山武士団の武将として、そこに違いはありません」
暁孝は祢寧姫の隣に並ぶ。それを彼女は何も言わずに見ていた。
「将としては失格でしょうが……俺はあなた以外のために術を振るいたいと思ったことはありません。そして、それは一族の役目だからというわけでもない。それこそ、俺の好きなようにさせてください」
それを聞いて彼女は目を伏せた。長いまつ毛が少し湿る。
「……悔しいのです。私が都から逃げたせいで永信の妹君は……」
「あなたのせいではない。あなたを連れ出したのは俺だ。そもそも、そうなったのも妖の王と一門を止められなかった俺の責任です。俺にもっと力があれば……」
「それは、あなたの責任ではないでしょう」
一際大きな風が吹き、桜の花弁が舞う。
「でも、それ以上に……私の正体を知られたら、もうここには、なんて……この期に及んでまだ自分のことしか考えられない自分に嫌気がさしました」
暁孝が祢寧姫の肩に触れようとして動かした手をどこにも触れることなくゆっくりと下ろした。
彼にはすすり泣く姫が泣き止むまでの間近くに立っていることしかできなかった。
触れることは許されない。
秘める想いを打ち明けることも。
従者であること以外に姫の側にいられる理由が見つからなかったから。
盛りもこえ、あとは散るばかりの桜がふたりを見守っている。
徒桜。
それは、散り行く花。はかないもののたとえ。姫と従者の物語。