第50話「観測者」
どこまでも続きそうな暗闇の中を潜り、グレアは驚きに固まった。
気付くと小さな書斎にいた。本棚に囲まれた部屋。天井には小さなシャンデリアがぶら下がり、机に広げた本に羽ペンで何かを書き込む女性がいる。
「……ごめんなさい、忙しくて」
腰まで伸びた銀髪。紫色の宝石のように美しい瞳がグレアを映して、優しそうに笑う。女性は本をぱたりと閉じて、戸惑って言葉の出ない彼女に「あなたがここへ来た理由は知っているわ」とペンを置く。
グレアは女性を見て、リヴェール孤児院にあった若い頃のソフィアの肖像画を思い出す。あまりにそっくりすぎて、驚きに目をぱちくりさせた。
「あ、あの、すみません。あなたは……」
「私はアルストロメリア。そう呼んでちょうだい」
「わかりました。ではアルストロメリアさん、ここは?」
「時空の狭間、と言えばいいのかしら。少し違うけど」
くすっと笑いながら、彼女は続ける。
「ここでは色々なものが管理されているわ。生きている人々の時間。人生、あるいは運命。私は、それらを観測して纏めるだけ。……まあ、この身も日が浅いから、極めて稀に関わることもあるけれど。たとえば今のあなたのようにね」
グレアはそこで気付き、じゃあ、と一歩詰めた。
「それって、運命を変えられるってこと? あるいは書き換えて違う未来にするとか、そういう手品みたいなことが出来ると考えても良いのかい?」
図々しいことだとは思った。しかし、もし可能であったなら自分の受けた不老不死の呪いをなかったことにできるかも、と期待せずにはいられなかった。返って来たのはやんわりと首を横に振る、慎ましい否定だった。
「言ったでしょう。私は観測者でしかない。でも過去へ行きたいというのなら止めはしないわ。後ろの扉から出て行けば、一年間だけあなたは自由になれる。ただし、それほど遠い昔までは飛ばしてくれないけれど」
振り返ってみると、確かに扉があった。今度は少し不安になる。自分が求めた時間へ辿り着けるのか分からないのだから当然だ。
「一年間は自由、って言ってくれたけど、逆を言えば一年は過去にいることになったりする……って考えたほうがいいのかな」
「ええ。申し訳ないけれど、そうなるわね」
書斎を出て行けば、そこから再びグレアは時間の流れに拘束される。本来は存在すべきでない異物が元の時間軸へ戻されるための期間だとアルストロメリアから説明を受けて、彼女は、なるほど、と納得した。
「ひとつ注意をしておくなら、あなたがどの程度の過去まで飛ばされるか、それは私の知るところじゃないの。まあ、でも、ローズの魔力から考えて、おおよそ一年前後と言ったところかしらね。指定はできないのよ、残念ながら」
一年前後。それほど前には飛ばされないと分かったら、逆に安堵できた。よほど昔に飛ばされない限りはローズと先に合流して、過去の自分が魔導書を開かないように伝えることが出来るから。
しかし、そんな彼女の思考を見透かすように、アルストロメリアは「小さな運命を変えるのはとても難しいわ」と告げた。
「……どういうことだい、それ?」
グレアはよく分からず、ドアノブに掛けた手を止めて振り返る。
「あなたがローズと会うことは止められない。そして、あなたが本を開くことも。人間は失敗をするものだから、変えられない運命もあるの」
グレアの手に力が不満に籠った。
「じゃあ、どうすれば過去を変えられるの?」
尋ねられたアルストロメリアは立ち上がってグレアの傍に歩み寄り、ドアノブに置かれた手に自分の手を重ねて、そっと回して扉を開く。
「あなたはもう分かっているはずよ。でも、本当にどうしたいかを決めあぐねている。だから、今は何も考えずに旅立ちなさい。あなたの終わらない物語のために。──行ってらっしゃい、グレア。久しぶりに会えて嬉しかったわ」
開いた扉の向こうは光に満ちている。背中を押されて、何を尋ね返すこともできないまま、彼女は最後にアルストロメリアの温かい表情を見た。柔らかくて、尊くて、いつだったかよく覚えている。実の母親以上に愛を注いでくれた人。たくさんの話を聞かせてくれた、夢の守り人。グレアが憧れた偉大な存在。
「……行ってきます、お元気で」
きっと二度と会うことはないだろう。なぜ彼女が違う名を持ち、誰も知らないような場所にいるのか。それを知ることさえも。ただ、心強さをもらえたのが嬉しくて、グレアはやはり、一歩前へ歩きだせた。




