第43話「贅沢な悩み」
もてなしを受け、酒をたしなむ程度に済ませて食事を取る。また歓談を楽しんで、窓の外が少し暗くなってきた頃に、そろそろだろう、と切り上げた。
彼女たちものんびり過ごしたい気持ちはやまやまだったが、ローズから紹介されたダルマーニャ子爵からの依頼はなによりも優先される。シモネが子爵の邸宅まで案内をしましょうかと提案するも、二人はゆっくり歩きたいと返す。
「酒も飲んだし、メシも食った。運動がてらゆっくり行くよ」
「そうですか。では帰りをお待ちしております」
「ありがとう、シモネさん。楽しい話、また聞かせて」
「ええ、もちろん。美味しい料理も用意してますよ」
宿を出て、来る途中で見かけた大きな邸宅──シモネの弟にダルマーニャ子爵の持ち家だと紹介を受けた──を目指して、歩きだす。少しひんやりした風が、酒で温まった頬を優しく撫でた。
「ヴェルディブルグも冷えるよなあ。帝都に比べりゃマシだが」
「ベッドから出たくないよね。あと二時間くらい、とか思っちゃう」
「分かるなあ~っ! 窓が凍ってて開かないときは頭抱えたもんだ!」
マリオンが帝都を拠点に据えたのは、土地が広いのに安く、食べ歩くのが好きだったからだ。旅行に出ていないときは毎日のように外出して過ごしたが、最初の頃は土地勘もなく、初めて経験した冬の厳しさにガタガタ震えさせられた。
想像よりもずっと難しい暮らしの現実に直面して、もしかしたら間違っていたのではないかとさえ思ったときもある。だが、彼女はそれでも帝都で暮らすのは好きだった。人々の行き交う日常。誰も自分に興味を示さない世界。ただ異国からやってきたもの好きとしか覚えられない新天地は、当時まだ傷ついていた心を癒すのに十分な環境だったのだ。
「ヴェルディブルグに帰りたい、って思ったこともある?」
「ん~。あんまりねえかな。本当に、寒かったのがキツかったくらいでさ。慣れたら大したことなかった。当時は服も寒冷地に合わせてなかったしな」
ポケットに手を突っ込んで、肩をすくめる。
「あの頃は、がむしゃらだったから、何を考える余裕もなくてなあ。でもそのくせ、身体は正直ときたもんだから寒いだの腹が減っただの、そんなことばっかり言って、やかましくするんだ。そのうち色々と覚えてきてよォ」
暗い過去も、今はすっかり思い出だ。悲しいことばかりが続くわけではない、と生きていれば思い始めてくる。小さな良い出来事の積み重ねがマリオンを明るくして、ときどき旅行をして新しい空気を吸うのは、生き甲斐になった。
「お前は? 帝都に帰りたくなったか?」
「どうだろう。ホームシックには、多分ならないよ」
空を見上げて、ゆったり流れる雲を眺めた。
「……窮屈なんだ、何もかも。帝都じゃあ、どこへ行くのも、誰に会うのも楽しくなかったけど、今はとにかく自由だからね。お父様は残念そうだったが、家門は弟が継ぐのだから、私が立派な家に無理に嫁ぐ理由もないさ」
振り返れば短い間に慌ただしい毎日が繰り広げられ、不安や恐怖もあったが、今は隣に気軽な言葉を交わせる相手もいて、グレアには今が何より楽しい生き方を出来ていると思えた。
「贅沢な悩みだよね。帰りたいとか帰りたくないとか……」
「ま、贅沢ができるならそれに越したことはねえよ」
生意気になったりするのは良くないが、と付け加えて笑う。
「贅沢だなんて言ってられんのも贅沢さ、グレア。オレたちは恵まれてんだから、気になんかせず普通にやりたいように生きられるうちは、そうしてりゃいいんだ。誰だってそうしてる。わざわざ悩む必要なんかねえよ」
ふわあ、と大きなあくびをして、見えてきた邸宅を指差す。
「ほら、そうこうしてるうちに着いたぜ。アレだろ、子爵の家」
「通り過ぎたときは気にならなかったけど、大きいなぁ」
「お前んちはアレよりもっとデカかったんじゃねえの?」
「かもしれない。ま、その理由が『見栄は必要だから』って話だけど」
みすぼらしい見た目では寄ってくる者も寄ってこない。だから、ある程度の見栄として金を掛ける必要がある、と父親は語り、本当ならもっと手狭でもいいくらいだと毎日のように愚痴を零していたのを思い出して、くすっとする。
「ダルマーニャ子爵ってのはどんな人だろうね?」
「魔女の知り合いなんだ、よっぽど良い貴族様だろうぜ」
「かもしれないね。とにかく会ってみるとしようか」




