第42話「今は幸せ」
本当に些細だが、当人にとっては大きな出来事。旅への不安を抱き、臆病を隠しながら歩いてきたグレアも、短い期間で多くの出会いが彼女を強くした。特にマリオンの支えがあって、もともと穏やかで気の強い彼女らしさが舞い戻った。
なにより信頼の置ける親友が傍にいれば怖いものなどない。
「同意見だな。……で、どうするよ? メシまで少し時間あるぞ」
「ゆっくり過ごせばいいんじゃない。今から出歩くのもねえ」
今から出て行けば、確実に目移りして時間が掛かってしまうのが想像に容易い。我慢して、食事が済んでから散策がしたいと言うと、マリオンは納得したように「じゃあ」とグレアのトランクを指差す。
「お前がいつも大事そうに持ってる本、貸してくれよ」
「あ。興味が湧いたの?」
「読書なんて柄じゃないかもしれねえけどな」
くっくっ、と可笑しそうにしながら。
「オレはこれでも、わりと本は読んできたほうだ。そりゃあ世間様にいる『読書家』ってのを自称してる奴らにゃとても敵わないかもしれねえが」
「いやいや。読書家かどうかって言うより、読んでることが大事だよ」
トランクを開け、少しくたびれた自分の愛読書を手渡す。
「どんな物語も私たちに豊かな知識と愉快な経験をくれる。読んでいる数より、君が触れてどう感じたかのほうが重要なのさ」
「ふーん。なら大切に読ませてもらうとするかね」
受け取ってすぐベッドに横になって本を開く。何度もめくられたページは、文字が少し掠れているところもあるが、喚ないほどではない。じっと目で文字を追ううち、彼女はどんどん引き込まれていった。
横目に見ていたグレアが嬉しそうに魔導書の内容を再び頭に入れ始め、ゆっくり食事の時間までを過ごす。沈黙が流れ、ときどき風の音やページをめくる音だけが静かに響き、そうして数十分の時が経った頃に扉が叩かれる。
「お食事の用意が出来ました」
そんな言葉に、二人のお腹が示し合わせたように「ぐう」と鳴った。恥ずかしさもなく、大笑いをしながら「すぐ行く」と返事をして本を閉じ、片付けてから部屋を出ると、鼻腔をくすぐる料理の香りに満たされていた。
一階のテーブル席に狭しと並んだ料理は要望に合わせつつも、味に飽きないようにと何種類も用意され、垂涎の的だった。
「いやあ、美味しそうだね。来た甲斐がある」
「まったくだ。っつか、こんなに食材使っていいのかよ?」
シモネはふふっとした口もとを手で隠しながら。
「そりゃあ、高い料金を払ってもらってるのにサービスをケチるわけにはいかないでしょう。お客様も選ばせてもらってるので、これは当然のです」
カウンター席に腰掛けて彼は自慢げに胸を張った。
「このモンストンじゃあ、料理がまずいと、あっという間に店は潰れる。たとえ客を魔女の知り合いに絞っていても、味が最悪だと泊まる理由もないでしょう? だからケチケチせずに良い食材を、良い調理で、最高にして提供する。それが俺のやり方なんです。弟には、ちょっと使い過ぎなときもあると注意を受けたりもしますがね」
へへっ、と照れ笑いをして舌をぺろっと出す。お茶目な雰囲気のシモネの話に、二人は楽しくなって「ローズさんとは付き合いが長いの?」と尋ねる。彼は「ええ!」と喜んで話を始めた。
「俺たちが生まれた頃からですよ。ローズは優しくて、かっこよくて……俺たちもそうありたいと思って、この宿を始めたんです。見ての通り、宿泊客は選んでるし、メシは美味いところが多くて、こんなに静かな日もありますが」
シモネは、数年前まで弟と二人で馬車ひとつで旅をしたことを嬉々として話す。魔女ローズの旅路に憧れたが、想像よりもずっと大変で、上手くいかず、喧嘩を繰り返したこともあった。それでも今は楽しい思い出だと語った。
「どうしてやめちまったんだ? 楽しかったんだろ?」
「ハハハ……人間、なかなかどうしてうまく行かないもんです」
彼がズボンの裾を挙げてみせたとき、マリオンは尋ねたことを後悔する。彼の片足は義足で、膝から下がない、と言った。
「事故でね。運よく死にはしなかったんですが、こうして足が駄目になってしまって、旅を続けるのが難しい状態に。この宿は、そのときにローズが買ってくれたんです。療養に良い町だって、最初は暗い顔ばっかしてましたけど、今は幸せですよ」
立ち上がって、シモネはパンッと手を叩く。
「さあ、湿っぽい話はおしまい! 実は先日、ローズから良いお酒が届いたんです。よろしかったら飲みませんか、きっと気に入りますよ!」




